2013年7月号より
在学中に司法試験合格
就任からわずか2カ月しかたっていないのに、「黒田東彦」の名前と、少しこわもてのするその風貌は、多くの国民の記憶にしまいこまれた。これは過去の日銀総裁ではありえないことだった。
黒田氏は1944年に福岡県大牟田市に生まれた。父親も公務員で、幼少期に神戸に移り住み、東京教育大学(現筑波大学)付属駒場中学・高校を経て、東京大学へと進学した。
若い頃から読書が好きで、在学中に司法試験に合格するほど頭脳明晰だった。東大法学部での成績は2番、公務員試験も2番で突破した。
大蔵省(現財務省)では主税畑と国際畑が長い。30歳の時にはIMFに出向した経験もある。
大阪国税局長、国際金融局長などを経て、財務官に就任したのは54歳の時だった。これによって黒田氏は「通貨マフィア」(主要国の国際金融担当の事務方トップで構成されるインナーサークルの俗称)の仲間入りを果たす。
前任者は榊原英資氏。榊原氏は1995年の超円高時の財務官で、日米協調介入で円高にストップをかけたことから「ミスター円」の異名を取った。それに引き換え、財務官としての黒田氏の知名度は高くない。
しかし財務省を長く取材しているジャーナリストによると、評価は180度異なる。
「榊原さんは傍流中の傍流。本来、財務官になどなれる人ではなかった。それが当時の武村蔵相の強い推しがあって国際金融局長になり、財務官にまで上りつめた。一方の黒田さんは、国際畑の主流を歩いてきた人です。財務官になるべくしてなった。榊原さんとは格が違います。何より黒田さんは決断ができる人です」
黒田氏は1999年7月から2003年1月まで約3年半、財務官を務めたが、就任間もなく最初のピンチを迎えている。
就任時の為替相場は1ドル120円前後。それが11月には101円25銭まで急騰する。
その前年、日本長期信用銀行と日本債券信用銀行の2行が経営破綻するなど、日本の金融界は揺れ続けていた。97年の消費税率引き上げなどによって始まった不況も続いており、秋に発足した小渕内閣は大規模な財政出動による景気回復を目指した。
99年はその効果が表れ、株価は上昇、7月には1万8000円台を回復した。そのタイミングで起こった円高だけに、これが輸出産業にダメージを与えることを黒田氏は恐れた。そこで日銀は断続的介入を行うが、その一方で黒田氏はG20などを通じて円高是正を各国に対して呼びかけている。
その効果もあってか、その後は円安に転じ、2002年1月には1ドル135円20銭の安値をつけた。
さすがにこの円安局面では、他国から非難が集中した。日本は円安による景気回復を目指していると指摘されたのだ。その時、黒田財務官は1月23日付フィナンシャル・タイムズに寄稿し、次のように主張した。
《円の下落は政府の方針が背景にあるのではないかとの声をきくことがあるが、それは全く間違っている。日本政府がマクロ経済政策の道具として、弱い通貨を使用したことは一度もない。(中略)弱い円が不況を脱出するための最後の手段であるとの主張も時々なされる。いくつかのセクターは、弱い通貨により利益を得られるのは確かである。しかし、弱い円による経済全体への影響はそれほど単純なものではない》(黒田東彦著『通貨外交』より)
黒田総裁になってから日本銀行が採用した金融緩和策については、「意図的に円安を誘導するものだ」との批判が、韓国をはじめとした諸外国からなされている。
こうした指摘について黒田氏の回答は、「金融緩和はデフレ脱却を目的としたもので、円安誘導ではない」と一貫している。11年前とまったく同じといっていい。
アジア銀行総裁を8年間
結局、黒田氏が財務官を辞めた時の為替相場は1ドル120円前後。就任時と同じ水準である。100円以下の円高には一度もなることなく、3年半を無事に務め上げた。
財務省を退官して2年後、黒田氏はアジア銀行総裁に就任する。アジア銀行は1966年に設立されて以来、常に日本人が総裁に就いているが、黒田氏は第8代の総裁に就任。2005年2月からこの3月まで、8年1カ月にわたる在任期間は歴代総裁の中で最長で、黒田氏はアジア銀行の顔として世界に知られるようになった。
財務省在任中から、黒田氏はいまでいう「リフレ派」として知られていたという。アジア銀行総裁時から、日銀はインフレターゲットを設定すべきだと強く主張しており、その頃から次期総裁候補として名が挙がるようになった。それとともに黒田氏の日銀批判は強まっていき、昨年後半から今年にかけては、「デフレ脱却ができないのは日銀の責任」と繰り返し語っていた。
今年に入ると日銀総裁候補は、武藤敏郎・元財務次官、岩田規久男・学習院大学教授、そして黒田氏の3人にしぼられた。武藤氏は常識的すぎるし、岩田氏は過激すぎる。結局真ん中の黒田氏に落ち着いたが、安倍首相が指名にあたって強調したのが、「国際的な顔の広さ」だった。
金融緩和なくしてアベノミクスは成り立たない。しかし金融緩和によってもたらされる円安は、前述のように他国の批判にさらされる可能性がある。黒田氏なら、国際人脈を使って各国通価当局を説得してくれることを期待したのだ。
総裁就任後、4月にはG20があり、5月にはG7が開かれたが、円安に対する表立った批判は起きなかった。これは黒田効果といっていい。最高のスタートを黒田日銀は切っている。