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2013年5月号より

“設立60年を経ても宿る 中島飛行機のDNA

前身は中島飛行機

富士重工業が設立されたのは1953年7月。今年でちょうど60周年を迎えるが、実際の歴史はそれよりはるかに古い。富士重の源流は大正時代に発足し、かつて軍用機の生産を主力事業としていた巨大航空機メーカー、中島飛行機である。

技術レベルで欧米に後れ、部品の規格化や大量生産の技術も成熟していない状況でありながら、なお3万機もの軍用機を生産した中島飛行機は戦後、GHQ(連合軍総司令部)によって航空機の研究開発を一切禁じられ、富士産業と名を変えて民生品メーカーに。その富士産業も、GHQから財閥解体の指定を受け、創業者の中島知久平が没した翌年の1950年に、事業所単位で分社化され、散り散りになった。

中島飛行機の祖・中島知久平氏

戦争中、中島飛行機は欧米の強力な軍用機メーカーの製品になんとか対抗しようと、人件費の肥大を顧みず優秀な技術者を多数抱えていた。その技術者たちは戦後、航空機開発の仕事を完全に失った。工業技術は有していたため、バスのボディやスクーターを手がけるようになったが、それだけでは足りず、金属材料や機械工学のノウハウを流用して自転車や鍋釜なども作るありさまだった。財閥解体による分社化は、彼らの困窮に追い打ちをかける事態だった。

「そのような苦境にあって航空技術者たちの大半は離散してしまった。焼け野原のなかで毎日食べるのに精一杯で、自分の夢にこだわり続けられるような状況ではなかったんだね。僕は終戦翌年に日産に入ったんだけど、巨大企業集団の、それも民生分野に近い企業でさえ明日のこともわからないくらいだったしね。でも、その中であえて(中島飛行機系企業に)とどまった技術者たちがいた。まさにスバルの原点です」

こう語っていたのは富士重工業の7代目社長を務めた川合勇。主力モデル「レガシィ」の3代目モデルが発売された98年、すでに会長となっていた川合が発表会場を訪れた際の発言だ。

その年、救難飛行艇の開発をめぐり、防衛庁(当時)政務次官で中島知久平の孫にあたる中島洋次郎への贈賄容疑で逮捕され、表舞台から姿を消したが、富士重にとって川合は“中興の祖”と呼ぶにふさわしい人物である。

川合は東京帝国大学航空工学科を卒業後、日産に入社し、工場へのオートメーションの迅速な導入を成功させた。日産ディーゼル工業の社長として経営危機から立ち直らせたことでも知られる。

国内で年間777万台もの車が売れ、日本中の自動車メーカーが劇的な成長を果たしたバブル絶頂期においてただ1社、巨額の赤字を垂れ流していた富士重の社長に就任したのは90年のことだった。ユーザーに喜ばれる車づくりを掲げ、ファミリークラスの「インプレッサ」、SUVの「フォレスター」など、今日の富士重の屋台骨を支えるモデル群を生み出す原動力ともなった。

中島飛行機と、その系譜に連なる富士重には思い入れがあったという。東京帝大航空工学科在学中に学徒動員され、東京・荻窪にあった中島飛行機の研究開発拠点で、世界で最も軽量・コンパクトな軍用機用2000馬力エンジンと言われた「誉」型18気筒エンジンの性能向上の研究に携わっていたというつながりがあったからだ。

歴代社長
北  謙治 1953年7月 1956年7月
吉田 孝雄   63年5月
横田 信夫   70年5月
大原 栄一   78年10月
佐々木定道   85年6月
田島 敏弘   90年6月
川合  勇   96年6月
田中  毅   2001年6月
竹中 恭二   06年6月
森  郁夫   11年6月
吉永 泰之 2011年6月

「中島飛行機の技術者たちが戦後、ひどい状況にあっても耐え抜くことができたのは、技術力への自負があったからだと思う。戦争中に誉エンジンを作っていたとき、当時のエース級の技術者は言っていましたよ。航空工学はもう欧米をキャッチアップしている。日本に足りなかったのは高分子化学や精密な加工ができる工作機械、電気工学など、裾野の分野。この戦争ではアメリカの凄さを見せつけられているが、自分たちだってやれないことはないんだ、と」

富士重の歴史は、こう川合が述懐するとおり、航空機エンジニアの思いを裏付けるような流れを見せる。

財閥解体の憂き目に遭いながら、朝鮮戦争特需で戦後の恐慌が好転したのを機に、中島飛行機の分割会社の一部が再び結集に動く。52年にサンフランシスコ平和条約が締結され、日本の主権が回復。翌53年、それに呼応して群馬の富士工業、富士自動車工業、埼玉県の大宮富士工業、栃木の宇都宮車両、そして東京の東京富士産業の5社が、航空機メーカーとして富士重工業を設立した。55年、その富士重が出資5社を吸収する形で合併し、現在の姿となったのである。

スバルブランドの所以

富士重の初代社長は北謙治である。太平洋戦争当時、当時の日本興業銀行とともに中島飛行機を資金面で支えた戦時金融公庫の元理事だった。今日、人物像を知りうる評伝はほとんど残っていないが、「日本への郷土愛がことさら強い人物」(富士重工OB・物故者)であったらしい。

北の、富士重における足跡は大きい。自動車のブランドである「スバル」や、かつて製造していた軽飛行機「エアロスバル」など、プレアデス星団の日本名「昴(すばる)」を製品名にしようと発案したのは北であった。

富士重発足前から、富士自動車は乗用車市場に参入すべく、試作モデルの開発に着手していた。当時、自動車ではほとんど例のなかったフルモノコック方式(車体全体を一体で作る方式)のボディを採用するなど、いかにも元航空機メーカーらしい作りのモデルだった。先進性では中島飛行機系で後にプリンス自動車となり、日産に吸収合併された富士精密工業が作り出した純国産の市販車第1号「プリンスセダン」や、トヨタ自動車の源流である「トヨペット・クラウン」をもしのぐという、日本車の黎明期における記念碑的な存在である。

北は最初に作り上げたそのモデルに、ぜひ日本語の名前をつけたいと考えていたという。富士重は、自社および吸収前の5社の計6社がひとつになってできたもの。六連星(むつらぼし)と万葉集にも歌われた昴から取って、「スバル1500」と名付けたのだった。六連星はロゴ化され、今日ではコーポレートシンボルとして使われている。

2代目は56年に就任した吉田孝雄。吉田は1920年に開設された東京帝大航空工学科の第1期生として中島飛行機に入社し、海軍向けの軍用機の組み立てを行っていた小泉製作所長を務めた、プロパー人材である。

北社長時代のスバル1500は銀行の協力を得られず、プロトタイプのままお蔵入りになってしまっていた。吉田はそのリベンジを果たす。スバル1500に続いてモノコックボディ、アルミニウム部品やアクリルガラスなど航空機技術をふんだんに盛り込んだ名車「スバル360」を世に送り出したのである。

吉田社長時代には、源流ともいえる航空機部門でも大きな動きが相次いだ。防衛庁向けの中間練習機として発注された「T1」ジェット機が58年に初飛行。戦後初の純国産航空機だった。

また、国産旅客機構想にも参画。自身が航空工学者であった吉田は、ジェットプロップ方式の国産旅客機「YS-11」プロジェクトの前身である輸送機設計研究会の理事に就任。技術委員として富士重の技術者で戦時中に戦闘機「隼」の設計主任を務めた太田稔を送り込むなどして、航空機業界における富士重の存在感を拡大させた。60年には株式市場への上場も果たした。

興銀支配で迷走

しかしその後、富士重の経営はにわかに混迷を深めていく。63年、吉田に代わって社長に就任したのは、電電公社(現NTT)副総裁から転じた横田信夫。

もともと自動車業界とは縁遠い横田を富士重に送り込んだのは、富士重のメインバンクだった興銀の頭取、中山素平である。〝財界の鞍馬天狗〟の異名を取り、プリンス自動車と日産の合併を仕掛けたり、鉄鋼業界の振興を図ったりと、戦後日本の経済発展において重要な役割を果たしたことで知られる中山。だが、単一企業、単一業界の事情を差し置いて国家のグランドデザインを描くことを強く志向していたため、手法はしばしば強権的で、企業の社風などソフト面を軽視するきらいがあったのも事実だ。

果たしてこの人事も、富士重の業績を好転させることを目的としたものではなかった。中山の頭にあったのは富士重の発展ではなく、富士重を日産に吸収合併させることだった。日産に宇宙航空部門を持たせることで、芙蓉グループを、三菱重工業を擁する三菱グループと双璧の存在に押し上げようという野心を持っていたのである。

興銀出身の田島敏弘氏(6代目)

従業員の要望に耳を傾けてくれると、一部では評判のよかった横田だが、興銀にとっては傀儡にすぎなかった。中山はサポート役の名目で大原栄一を副社長として送り込む。大原は興銀の頭取の有力候補とも言われた優秀な人材ではあるが、自動車ビジネスに対するセンスという点では横田と大した違いはなかった。日産と富士重は68年に資本提携したが、それ以上の発展はなかった。

大原は70年に社長に就任し、78年まで続投した。15年にわたる興銀支配のなか、富士重は思うように業績を伸ばすことができなかった。トヨタ、日産に先駆けて前輪駆動型の小型車を作り上げたり、乗用四輪駆動車を世界で初めて市販するなど、商品開発では独自性の高さで注目を集めたが、生産台数では四輪車最後発のホンダに、あっという間に抜かれるありさまだった。

その興銀支配に楔を打ったのは、資本提携相手で、「興銀自動車部」と渾名されていた日産だった。78年に社長として送り込まれた佐々木定道は京都大学工学部卒業の技術屋で、日産の生産技術の進化を支えた人物。技術主導型の富士重との相性は悪くなかったが、会長に昇格した大原と折り合いをつけながらの経営は、決して順風と言えるものにはならなかった。

富士重再建を担った川合勇氏(7代目)

富士重を舞台とする興銀と日産の覇権争いが事実上終結したのは、興銀出身で佐々木の後任の田島敏弘社長のときであった。田島は83年、当時会長だった大原の肝煎りで副社長として入社、85年に社長となった。しかし長年の権力闘争で“技術ありて経営なし”という状況が続いていた影響は深刻で、85年のプラザ合意にともなう円高に対して手を打てず、ヒット商品を飛ばすこともできないまま業績が悪化。90年には6600億円の売上に対して390億円という巨額の営業赤字を計上。興銀は富士重の経営における発言権をほぼ喪失した。

その富士重を窮地から救う原動力となったのが、前述の日産出身の川合勇である。

日産時代は田島の前任の佐々木の部下として主に生産技術を担当。日産社長の座をめぐる久米豊との争いに敗れたが、慢性的な赤字に悩まされていた日産ディーゼルの社長となって経営を立ち直らせるなど、再建屋としての手腕を期待されての登板だった。

日産自動車との蜜月

幸いだったのは、川合が経営能力と、自動車への愛情を兼ね備えるという、富士重の社風に合う人材だったことだろう。

「川合さんは社長室に閉じこもるのではなく、会社やディーラーなど、あらゆる場所に姿を見せて陣頭指揮を取るタイプの社長でした。テストコースに来て試作車に乗る。そして『スイッチ類の隙間がこんなに広かったら、女性はどうする?爪が割れてしまうじゃないか』『もっと格好いいデザインにしろ』等々、いろいろと指摘していました。それまでスバルのエンジニアは、良い機械を作ることには一生懸命でしたが、ユーザーの方々が何を喜ぶかということについては無頓着でした。それを徹底的に叩き直されたんです」

当時、富士重のエンジニアは川合についての印象を、こう語っていた。

車づくりの方向が次第に変わり、ヒット商品が出はじめた。

今日、富士重の基幹車種となっている「レガシィ」は、初代モデルは田島社長時代に開発され、89年の発売以来、ワゴンブームもあって、そこそこの販売台数を記録していた。そこで川合が2代目モデルを飛躍させるために打った手は、メルセデス・ベンツなどのデザインを手がけてきた世界的デザイナー、オリヴィエ・ブレをデザイン部門のトップに据えるというものだった。

最後の日産出身社長となった田中毅氏(8代目)

日本メーカーで初めて外国人チーフデザイナーとなったブレは、2代目レガシィを欧州の高性能車のような均整の取れたデザインに仕立て、“車としては面白いがデザインが泥臭い”というスバル車のイメージを一新させることに成功した。

95年3月期決算で富士重は念願の赤字脱却を果たし、同じ日産出身の田中毅に96年にバトンタッチしてからも、川合は高齢の実力会長として君臨し続けた。しかしその後、日産の影響力は急速に失われていくことになる。


プロパー社長で選択と集中

日産自体が倒産までささやかれるほどの経営危機に陥り、99年にルノー傘下に入ったことは、両者の関係のありかたを決定づけた。日産の最高経営責任者となったカルロス・ゴーンは、日産が保有していた傘下企業の株を次々に放出。2000年には富士重の株を米ゼネラル・モーターズに売却し、提携は解消された。

38年ぶりのプロパー社長、竹中恭二氏(9代目)

しかもその2年前の1998年12月、防衛庁を舞台とする贈収賄事件で、会長になっていた川合が逮捕され、ひとり残った日産出身の田中社長も2001年に退任する。次に社長となったのは、研究開発部門を中心にキャリアを築いてきた竹中恭二。2代目の吉田退任から数えて38年ぶりのプロパー社長であった。

以来、竹中と同じく研究開発畑で、06年に社長就任した森郁夫、そして11年に就任した現社長の吉永泰之と、プロパー人材が社長を務め続けている。

中島飛行機解体以来、常に激動の渦中に置かれながら、飄々と生き続けてきた富士重。21世紀に入ってからも小規模メーカーゆえの経営の苦しさにしばしば危機が取り沙汰されてきたが、05年にトヨタが筆頭株主となって以降、次第に方向性が定まってきた。

そのなかで吉永は風力発電、塵芥収集車などの特装車部門などの売却を決断。自動車、産業機器、宇宙航空など収益性を見込める分野に事業を集約させた。今日、富士重は売上高、利益とも史上最高を更新する勢いを見せている。戦後、初めて明確な成長戦略が描けるようになったと言える。飛躍への挑戦は今、始まったばかりである。

(文中敬称略)

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