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2013年5月号より

“大株主は日産→GM→トヨタ 初の共同開発車で見せた強み

提携先の経営難が契機

昨年3月に行われた、「86」「BRZ」のラインオフ式。左が吉永泰之・富士重工社長、右が豊田章男・トヨタ自動車社長。

富士重工業(以下スバル)の資本提携の歴史は、1968年の日産自動車とのそれまで遡るが、それは、66年に日産がプリンス自動車工業を吸収合併したことがきっかけといえる。プリンス自動車は、旧中島飛行機系の富士精密工業とも合併した経緯があって、スバルとは距離が近かった。また、プリンス自動車も技術オリエンテッドな企業で、後に日産の代表的なクルマとなる「スカイライン」「グロリア」を製造してもいた。

日産と提携した後は、同社の「チェリー」「パルサー」「サニー」などの受託生産を行い、スバルは工場稼働率のアップを図っていたが、両社が設計共同化や部品共用化にまで踏み込むことはなかった。加えて、スバルはメインバンクの日本興業銀行(現・みずほコーポレート銀行)が4.0%、筆頭株主の日産でも4.2%の持ち株でしかなかったが、提携後のスバルの社長は興銀、日産出身者が“たすき掛け”で務める時代が続いていく。

スバルはある種、不思議なメーカーだ。90年前後のバブル期に、自動車メーカーで唯一の赤字に陥ってしまった一方、90年代後半、ほかの自動車メーカーが苦しんでいた時期に、15年ぶりとなる最高益を更新してもいる。そして99年、日産がルノーに救済を仰ぎ、資本提携したことでスバルとの30年以上にわたった資本関係は解消され、代わって筆頭株主(持ち株は20%)に米国のGM(ゼネラル・モーターズ)が登場した。

ちなみに、かつてはGMグループの一員だった、いすゞ自動車(現在は三菱商事、伊藤忠商事が大株主で、トヨタも5.8%を持つ4位株主)とは、80年代後半、合弁で米国工場を作ることで合意し、一時期はいすゞのSUV「ビッグホーン」をスバルの販売網で売っていた時期もあった(合弁は2002年末で解消)。

スバル取締役専務執行役員の馬渕晃氏は、GMとの提携期間についてこう述懐する。

右端は豊田章一郎・トヨタ名誉会長。

「GMは本当に干渉の少ない会社でしたね。当時、私は技術部門にいましたが、あまり細かいことをゴチャゴチャ言われたことはありません。良くも悪くも干渉がなくて、放りっぱなしという感じ。提携では、(GMグループだった欧州の)オペル社のミニバン『ザフィーラ』のOEMで『トラヴィック』を輸入販売したり、逆に(同じGMグループだったスウェーデンの)サーブにウチの『インプレッサ』を供給したりと、それなりの成果はあったと思います。ただ、それほど深い協業関係には至りませんでした」

このほか、GMインド向けにスバルが「フォレスター」を供給した時期もあったが、GMは経営不振が深刻化した05年、スバル株を手放さざるを得なくなる。放出株のうち、8.7%を引き受けたのがトヨタ自動車だった。

「提携したのは05年の秋でしたが、その年に新任の執行役員になったばかりの私を含む4人の役員が、提携の取りまとめをせよと、社長(竹中恭二氏。当時)から特命を受けました。トヨタさんは提携直後から、GMよりはるかに働きかけが積極的でしたね。『どうせ、すぐ深い仲になるのだから、すぐに始めましょう』と言われ、当社の技術者を100人近く先方に送りました。そのほとんどは、(トヨタの)『クラウン』の開発のお手伝いだったかと思います」(馬渕氏)

生産ラインの様子。

提携後、両社がともにWIN-WINになるビジネス、トヨタにはメリットがあるがスバルには特にメリットがないもの、その逆パターンなどを整理し、一覧表にしていったという。そして、WIN-WIN事業として真っ先に挙がったのが、スバルの米国工場であるSIAでトヨタの「カムリ」を受託生産することだった。スピード感があるトヨタの仕事の進め方は、スバルにとってもいい刺激になったようだ。

その後、08年4月に提携拡大が発表される。これまでのトヨタとスバルに加え、トヨタグループのダイハツ工業も加わった業務提携となった。FR(後輪駆動)のスポーツカーの共同開発や、ダイハツからスバルに軽自動車をOEM供給してスバルは軽市場から撤退し、併せて、トヨタがスバルへの出資比率を16.4%まで引き上げることが明らかになる。持分法適用にかからないこの出資比率について、馬渕氏はこう語る。

「ある意味、ちょっと中途半端な数字とも言えますね。比率は重くもあり軽くもある。(トヨタとの)付き合いで腕力や労力が要るなと思う場面もありますが、一方で自由にできる部分もあるので、あくまでケースバイケースだと思います」

トヨタ出身役員は現在2人おり、いまやスバル最大の稼ぎ頭になっている米国市場を除いた、全世界を担当する営業本部長、それに国内営業本部長をそれぞれ担っている。国内や米国では難しそうだが、たとえば欧州市場でのトヨタとスバルの営業的な協業ならば将来、あり得るかもしれない。

ダイハツを含む提携や出資比率の引き上げは、05年の提携以来、思ったほど提携成果が広がりを見せていなかったことにも起因しそうだ。たとえば、既存のスバル車のプラットフォーム(車台)を使った商品開発をトヨタに提案しても、なかなか話がまとまらない。トヨタはフルラインメーカーのため、スバルが提案する商品企画のクルマはすでにラインナップされていたということもある。もう1つは、スバルの技術力・開発力が高いという定評があったとはいえ、トヨタのエンジニアたちのプライドも高く、スバル側のオファーはなかなか受け入れてもらえないという事情もあった。

ただし、トヨタとしてもスバルとの提携において何かシンボルとなる形は欲しい。その結果が、両社ともに持っていなかったスポーツカーだった。いや、持っていないというよりは、スポーツカーのジャンルが衰退の一途だったため、両社に限らず空白域になっていた分野といってもいい。実際、過去を遡ると、トヨタならたとえば「スープラ」や「セリカ」「MR2」、スバルも「アルシオーネ」といったスポーツカーを擁していた時期がある(もっとも、トヨタのスポーツカーのエンジンのほとんどはヤマハ発動機製)。それが90年以降、売れ筋がミニバンやワゴン、SUVといったジャンルに取って代わり、スポーツカー市場は一気に萎んでしまった。

そして提携拡大翌年の09年、トヨタで豊田章男社長が誕生、自他ともに認めるクルマ好きの同氏の登板で、スポーツカーの共同開発の熱は俄然、トヨタでも盛り上がっていったと思われる。

1年前の12年3月16日、スバルの群馬製作所本工場(同県太田市)で、その共同開発車(トヨタ車名は「86」、スバル車名は「BRZ」)のラインオフ式が行われた。式典には、スバルの吉永泰之社長やトヨタの豊田章男社長のほか、章男氏の父親で、トヨタ名誉会長の豊田章一郎氏までが列席するという力の入れようで、章男氏のスピーチも次のように熱がこもっていた。

「提携以来、いつかお互いの強みを生かした共同開発車を共通の夢としてきました。超低重心のパッケージにこだわったFRスポーツ車の共同開発は、現場では大変な苦労があったと伺っています。ボクサー(スバルの水平対向エンジンの俗称)とトヨタのD4-Sという直噴エンジンの技術が融合した努力の結晶。これはトヨタとスバルでなければ実現できませんでした」

開発力・技術力に定評のあるスバルと、原価低減力や生産管理力で他社の追随を許さないトヨタ。理想的な組み合わせともいえる共同開発だが、当然、原価もお互いにオープンにしていくことになる。そこでは、社風も開発思想も異なるメーカー同士、そうとんとん拍子では折り合えるはずはない。

次はスポーツセダン開発?

しかも過去、トヨタはスバルとの車種別対決で勝てなかった経験が2度ある。1つは、スバルの看板車種である「レガシィツーリングワゴン」。ワゴンと言えばレガシィが代名詞だが、トヨタも同車への刺客として「カルディナ」をぶつけ、ハイパワーバージョンも投入したが迎撃されている。

もう1つはトヨタが先んじた。98年に投入したFRのスポーツセダン「アルテッツァ」がそれで、鳴り物入りで喧伝され、「和製BMW」的な期待を抱かせた。が、投入当初こそ話題を集めたものの、次第に人気は落ちてしまう。同じ98年、スバルでは3代目のレガシィが登場、ワゴンと同時に「B4」というスポーツセダンも売り出し、こちらは逆に、ファンの口コミなどによってジワジワと人気を高めていった。

腕まくりをしてアルテッツァを開発したトヨタと、自然体でレガシィB4を放ったスバルは、今回の86とBRZにも同じようなイメージがある。スバルの執行役員で商品企画本部長の増田年男氏が昨春、本誌の取材でこう語っていたのが印象的だ。

「人馬一体のクルマという表現は嫌いですね。そうではなく、さらりと軽いジャケットをまとうような、ヒラリヒラリと乗ってもらえるクルマを目指したのです。乗り味も、86はFRらしくドリフトするような味付けを志向したのに対し、BRZのほうは、路面をキチンと捉える味という点は譲れませんでした。なので、そこは86とは違います。これはよし悪しではなく両社の思想であり、それぞれにファンもいますから」

もっとも、共同開発車となると日本のみならず、世界規模で見ても実現したケースはないといってよく、その意味で86とBRZの誕生は画期的なことだった。

「当初は、(トヨタ側から)『こんなにコストが高いのでは話にならない』と言われました。確かに高かったと思いますし、いま現在も正直、水平対向エンジンというのはコスト高なんです。でも当然ですよね、一般的なFF(前輪駆動)車に比べると(水平対向エンジンは)部品点数も多いですから。それでも最近、やっと他社並みのコストでできる部分も出てきました」(馬渕氏)

さて、86とBRZの登場から1年、業界関係者の関心は、早くも次の共同開発車に移っている。スバル側の思いとしては、共同開発車のプラットフォームの90%が新設だったこともあり、このプラットフォームをベースにした新商品の展開ができたらと考えているようだ。可能性で言えば、たとえばトヨタからすれば、前述したアルテッツァの“リベンジ”ではないが、スポーツセダンは欲しいところだろう。

86、BRZともに、欧州での評価が非常に高いため、特に「レクサス」などの高級車をもってしても欧州での評価がイマイチだったトヨタにしてみれば、第2、第3の共同開発車は早く具体化したいところだ。ただし、トヨタは巨大組織ゆえ、部署ごとの利害関係も当然、スバルより複雑で、車種も数多い。一旦決まってしまえばスピード感を持って取り組む社風ながら、全社的なコンセンサスに達するまでには相当な時間が必要になりそうだ。

スバルはすでに軽市場からは撤退しており、トヨタグループのダイハツとの協業は、ダイハツからのOEM供給に限定されている。しかも、ダイハツの工場稼働率は高まっても、実際のOEM車販売となると、そんなに数が出るものではない。実際、スバルがダイハツから供給を受けている軽自動車の販売は、芳しいとはいえないのが実情だ。

軽市場でトップのダイハツだけに、クルマとしての出来はよくても、スバル車を買い求めに来る客層とは、そもそもクルマに対するこだわりや世界観が違うのだろう。たとえば、商業的には成功したとは言えなかったが、スバルの軽自動車で「R1」「R2」という、独創的な内外装のデザインが特徴のとんがった商品には、いまも根強いファンがいるが、こうした商品は、ダイハツのみならず、スズキやほかのメーカーを見渡しても存在しない。

スバル執行役員商品企画本部長の増田年男氏と「BRZ」。

では、かつてスバルが生産していた、「ジャスティ」といったリッターカークラスでの共同開発の可能性はないのだろうか。再び馬渕氏。

「当社では、商品をコモディティなものにはしないという、全社的な共通認識がありますから。軽自動車、あるいは(ジャスティのような)Bセグメント車も、競合が激しいジャンルで、当社のような規模のメーカーではなかなか戦えない点が1つ。

もう1つは、水平対向エンジンは大きいのでスモールカーにはなかなか載せられないし、プラットフォームを何百億円もかけて新設しなければいけません。

(「BMWミニ」のような)プレミアムBセグメントという考え方もあるでしょうが、メーカー側がプレミアムとか価格が高くてもいいと言い始めたら、コスト意識が希薄になってしまいます」

スバルは、冒頭で触れたように日産との長い提携期間を経て、一時的にはGMグループ入りしたが、日産、GMともに“子育て資金”にも窮して子供を手放してしまったに等しい。

一方で、05年に親代わりの立場になったトヨタは、日産やGMのようなことはあり得ない。トヨタが将来、スバルへの出資比率をさらに引き上げることがあるか否かは未知数だが、共同開発車を経て、トヨタもスバルの開発力に脱帽した部分は多いだろう。少なくとも、クルマ好きの豊田章男氏が社長在任中は、スバルとの提携関係が薄まるような局面は考えにくい。

馬渕氏は、技術系出身者としては初めて経営企画を担当し、吉永社長も経験した戦略本部長も兼務しており、社長の懐刀的存在だ。現在のスバルは、商品力によるプレゼンスだけでなく、馬渕氏のような、全社横断的に俯瞰できる役員がいることも1つの強みになっているといっていい。

(本誌編集長・河野圭祐)

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