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2015年4月号より

人事、商品戦略ともに見誤ったキリンの2つの「暗黒時代」|月刊BOSSxWizBiz

5年間の迷走の果て

昨年のビール類(ビール、発泡酒、第三のビール)の課税出荷数量は、前年比1.5%減となった。同市場はすでに10年連続のマイナスで、現行の統計が始まった1992年以降で過去最低を更新したが、とりわけキリンビールの凋落が浮き彫りになっている。

大手4社の出荷量を見ると、アサヒビールが前年比0.3%増で7年ぶりのプラスとなったのをはじめ、高級ビール「ザ・プレミアム・モルツ」が好調なサントリービールが同3.2%増と大きく伸ばし、同ジャンルの「ヱビス」を持つサッポロビールも同0.7%増と前年実績を超えた。この3社に対し、キリンだけが6.1%減の前年割れとなったのだ。つまり、キリンの落ち込み分の多くをライバル3社が取り込んだ格好だった。

こうした国内ビール類事業での存在感低下に加え、ブラジルキリンなど海外事業の不振が続き、昨年、キリンホールディングスは時価総額でアサヒグループホールディングスに抜かれ、初めて業界首位から転落した。14年12月期の売上高でもサントリーホールディングスに抜かれて2位に、同じく営業利益ではアサヒGHDとサントリーHDに抜かれて3位に後退。まさに、“キリン一人負け”の構図である。

こうした中、キリンHDは昨年の年末に体制を一新するトップ人事を発表した。持ち株会社であるキリンHDの三宅占二社長が代表権を持たない会長に退き、キリンHD社長には、事業会社のキリンビールと中間持ち株会社であるキリン社長の磯崎功典氏が、キリン社長を兼務したまま就任する。いずれもこの3月の株主総会後の取締役会で正式に決まる。

また、キリンビール社長には、営業子会社であるキリンビールマーケティングの布施孝之社長が同社社長を兼務したまま、今年1月1日付ですでに就任している。

昨年末のトップ交代の会見後、前述の三宅氏は記者団に対し、
「責任? 当然感じている。(トップ人事は)私一人で決めた。(歴代社長の)誰にも相談をしてはいない」と、いつもの淡々とした口調で語った。

ライバル社の首脳は、キリンについて次のように話している。

「三宅さんが全体(=持ち株会社)のトップにいる限り、キリンの浮上はないと踏んでいた。ライバル3社はみな同じ思いだったろう。事実、三宅さんの時代の5年間、キリンの迷走に助けられて我々は躍進できた。特に、“あの人事”によって社長候補が消え、三宅さんは続投せざるを得ず、キリンは傷口を広げたように思う」

“あの人事”については後述するが、三宅氏の社長就任は、サントリーHDとの経営統合交渉が破談した直後の10年3月だった。経営統合を推進していた加藤壹康社長(当時)が実質的に引責辞任し、副社長だった三宅氏が緊急登板したのだ。前年の09年はキリンがアサヒを抜いて、久しぶりにシェアトップに返り咲いていたわけで、三宅社長が誕生してから2位に後退し、シェアダウンの軌道を描いていった。

キリン幹部はこう言う。

「サントリーHDとの統合交渉に踏み切るなど、加藤さんは超ワンマンでした。そして強権を発動した。反発する者を排除し、圧力に耐えられず自ら辞めた幹部もいたほどです。この結果、加藤さんの周囲は“イエスマン”ばかりとなり、その最右翼が加藤さんと同じ営業出身の三宅さんだった。三宅さんは何の実績もないのに、加藤さんの後ろをついていっただけで社長になった人。サラリーマン個人としては見事でしたが、会社としてはやはり問題でした」

キリンは創立100周年の07年、「キリン・ザ・ゴールド」というビールを発売する。「一番搾り」「ラガー」に続く、ビールの3本目の柱という位置づけで、生ビールではなく、敢えて熱処理タイプとして商品化された。テレビCMにはオダギリジョーを起用するなど広告宣伝費も大掛かりに投入。100周年でもあり、アサヒの「スーパードライ」の追い落としを狙う戦略商品だった。

が、販売目標には遠く及ばず、この新商品は失敗に終わる。このとき、国内酒類事業のトップとして、戦略商品によるビール拡販作戦を指揮したのは三宅氏だったのだが、責任問題に発展することはなかった。

2人のエース追放した愚

キリン・ザ・ゴールドの失敗が見えた07年の7月、キリンは持ち株会社体制に移行した。キリンビール社長だった加藤氏が初代のキリンHD社長になったのに伴い、三宅氏はキリンビール社長に就き、逆に出世していったのだ。さらに三宅氏は、09年にキリンHD副社長となる。

昨年12月22日、キリンHDとキリンビールのトップ交代を発表(左から布施孝之・キリンビール新社長、磯崎功典・キリン社長、三宅占二・キリンHD社長)。

問題となった“あの人事”は、三宅氏が社長に就いて2年後の、12年春先に起こった。

加藤氏が相談役に退くのと同時に、キリンビール社長だった松沢幸一氏と、清涼飲料のキリンビバレッジ社長だった前田仁氏の2氏を、三宅氏は退任させてしまうのだ(相談役などの役職は用意されず、そのまま会社を去った)。2人はともに73年入社組で、いずれも09年にそれぞれの社長になっていた。

松沢氏は09年にシェアで首位奪還を果たし、東日本大震災の津波で被災した仙台工場を早期に復興させた立役者だった。前田氏はビールの「一番搾り」や発泡酒の「淡麗」、缶チューハイ「氷結」などのヒット商品の開発を指揮したことで知られる。

また、このときキリンビール社長に三宅氏が起用したのが、広報やホテル事業などを歩んできた磯崎氏だった。

2人の実力社長がいなくなり、70年入社の三宅氏と77年入社の磯崎氏との間に、“人”がいなくなってしまう。社内的な三宅氏の権力基盤は固まったものの、逆に長期政権とならざるを得なくなったわけだ。野球にたとえるなら、リリーフがいなくなり、投手交代ができなくなったのと同じだった。結果として、大量失点につながってしまった。

これに対し、ライバル社には緊急時にトップを担える“人”がいつも用意されていた。アサヒの場合なら、06年にアサヒビール飲料からアサヒ社長に転じた荻田伍氏、サッポロならば10年にサッポロビール社長に就任した寺坂史明氏である。

「功労者を解任するような、ああいう人事をやると、キリンはきっとおかしくなる」(当時のライバル社社長)という指摘もあった。いまも「実績のないトップが、実績を持つ人をその立場を利用して更迭する人事は、本当はやってはいけなかった」(業界事情通)という声が上がっている。

12年の人事の背景には、中間持ち株会社を導入したい三宅氏に対し、「必要なし」と唱えた松沢氏と前田氏が反発するなど、対立があったされる。

さらに前年の11年に、キリンHDはブラジルのビール2位メーカー、スキンカリオール(現在のブラジルキリン)を買収した。当初、スキン社の50.45%を保有する創業家と合意し、11年8月には2000億円で買収すると発表した。ところが、49.55%を保有する別の創業家が、「事前に相談がなかった」と異議を唱えて法廷闘争を始める。結局同年11月、キリンが残りの株のすべてを買い取ることで決着するが、買収金額が3000億円に跳ね上がるという事態を招く。「(キリンは不良案件を)つかまされたのではないか」と、三宅政権への批判が高まっていた矢先だった。

それから3年が経過。国内総合飲料を統括する目的で、13年1月に発足した中間持ち株会社のキリンだったが、今年から見直されていくことになった。キリンHDと一体運営する体制へと変更されるのだ。結局、中間持ち株会社は指揮命令系統を複雑にしただけだった。

ブラジル事業も足カセに

また、ブラジルキリンは赤字に陥り「至急、立て直していかなければならない」(磯崎氏)状態にある。ブラジルキリンは2位といってもシェアは15%前後。世界最大のビールメーカー、アンハイザー・ブッシュ・インベブ(ABインベブ)傘下のアンベブが、同国のビール市場で7割近くを占めているのだ。

加藤氏の時代にキリンは、豪州乳業トップのナショナルフーズ社を2940億円、豪ビール2位のライオンネイサン社を2300億円を投じて完全子会社化するなど、M&Aを駆使した海外展開を積極化させていた。

この路線を踏襲してのブラジル進出だったのだが、このままではかつてのヤオハンと同様に、日本企業のブラジルでの失敗事例となりそうだ。いずれにせよ、中間持ち株会社もブラジル進出も、いまや負の遺産となってしまっている。

一方、1985年にはシェア1割を切り(9.6%)、経営危機に直面していたアサヒは、87年に発売したスーパードライが大ヒット。その後、キリンを追い詰めて01年にアサヒはシェアトップに立つ。当時のキリンの敗因のひとつにも、やはりトップ人事があったといえる。

スーパードライが売れたため、キリンは89年にシェア50%を割ってしまう(48.8%)。さらに90年もシェアは49.7%と5割に届かなかった。

本来なら、90年3月に3期6年の任期を終えて退任するはずだった、当時の本山英世社長が、大台(50%)割れを憂いて1期2年続投してしまうのだ。これは、組織を重視する三菱グループの一員であるキリンで、前例のないことだった。「組織が強み」のキリンなのに、トップ人事の秩序が狂ってしまったのだ。それまでは営業出身者が社長を務めていたのだが、2年後の92年には、人事部出身の真鍋圭作社長が誕生している。

2010年3月、キリンHD社長は加藤壹康氏(左)から三宅占二氏へバトンタッチされた。

ところが、93年に総会屋への利益供与事件が発覚し、会長になっていた本山氏は引責辞任する。本来ビールのことをあまり知らない真鍋社長に権力が集中するなか、96年1月に、キリンは主力商品だった「ラガー」を熱処理ビールから生ビールに切り換えてしまう。味が変わり、往年のラガーファンはスーパードライへと流れていき、01年の逆転(48年ぶりの首位交代)へとつながっていったのである。

「90年3月に、営業出身の桑原通徳専務が予定通り社長になっていたら、ラガーの生化はなかった。痛恨のミスマーケティングだった」という指摘はキリンの中でも多い。現実に、人事、商品面とも敵失だったといえよう。ちなみに、キリン社内には92年からの4年間を「暗黒時代」と揶揄する向きがいる。だとすれば、10年からの5年間は「第2次暗黒時代」なのかもしれない。

それはともかく、ラガー生化直後の96年3月には、経営企画や経理出身の佐藤安弘氏が社長に就任。佐藤氏は複数の工場閉鎖を断行した。その後、01年には医薬部門出身の荒蒔康一郎社長が誕生。アサヒに逆転されることが確定的となった同年11月、荒蒔氏は「新キリン宣言」を発した。これは「敗北を素直に認め、アサヒではなく消費者を見よ」と社員に訴えた内容だった。特に、それまでのリベート(販売奨励金)による流通への押し込み営業を戒めていた。

にもかかわらず、09年を除いて現在まで、キリンはアサヒに勝てないばかりか、長期低落の状況にある。なぜなのか。

ようやく“夜明け”到来?

実はもう一つ、06年に入り水面下でトップ人事が静かに断行されようとしていた。荒蒔氏は、後継社長にスタッフ部門出身の役員を指名する。ところが、これが通らなかった。「(前任社長で会長職も退いていた)佐藤さんが認めなかったためです。(佐藤氏と)同じ経理部門の候補者だったのに。そして、佐藤さんが指名したのが誰あろう、営業出身の加藤さんだった。ほとんど知られていないが、実は変則的なトップ人事だったのです」(キリン関係者)

06年は“第三のビール戦争”が勃発する年であり、佐藤氏は攻撃的な布陣を組むため、本流の営業部門からトップを起用しようと考えたのかもしれない。とはいえ、「消費者を見よ」と訴えた荒蒔社長が、本来は社長の専管事項である、後継社長の指名ができなかった事態を招いたのだった。

「佐藤さんは90年代、会長も退いていた本山さんが頻繁に本社にやってくるのを、『あれはおかしい』と訴えた人。ところが、自分が退任して同じ立場となると、しょっちゅう会社に顔を出すようになった。発泡酒増税阻止で業界をまとめた、功労者であるのも間違いはないのだが…」(同)

キリンは、ガリバー企業だった期間が長かった。その間は、自分たちの計画がそのまま業界の計画だった。ところが、87年以降は違う。計画通りの結果を得られなくなるのだ。なのに、体質はガリバーだった頃のままで、自分たち中心の考え方も変わらない。それだけに、「消費者を見よ」の徹底が、実はキリンには求められてきた。キリンの本当の敵は、アサヒでもサントリーでも、アンハイザー・ブッシュ・インベブでもなく、キリン自身の中にあるのだから。

社長候補だった前述の桑原氏は、80年代前半の圧倒的シェアを誇った時代に、「このままではキリンは負ける。キリンは変わらなければならない」と、営業部門の部下たちに訴え続けていた。

90年代に入ると、店舗の価格決定権はセブン&アイHDやイオンなどの大手流通が握り、消費者は好みの商品をスーパーやコンビニの店頭で選ぶようになる。内向きで、社内調整が優先されるキリンの体質は、これまでの人事だけではなく、ラガーの生化やキリン・ザ・ゴールドの失敗など商品戦略にも表れてきた。

さて、磯崎氏は社長交代会見で「重要な局面を迎えている」と危機的な認識を表明した。新体制がこれから優先すべきなのは、変動要因の大きい海外事業ではなく、メインである国内の酒類・飲料事業の立て直しである。

飲料のキリンビバレッジ社長は、昨年3月に就任した佐藤章氏。佐藤氏とキリンビール社長の布施氏は82年入社の同期だ。佐藤氏は、かつての「生茶」「ファイア」「アミノサプリ」などのヒット商品を生み出しており、布施氏は小岩井乳業を再建させた。ともに実績を持ち、桑原氏の薫陶を受けたことでも共通している。

「若い2人の社長誕生により、キリンは暗黒時代を脱し、これから夜明けを迎えるはず」(キリン首脳)という声も上がるのだが、果たして……。

(経済ジャーナリスト・永井隆)

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