2015年5月号より
最悪の状態からの出発
埼玉県・三芳町上富緑――うっそうと茂った森の一角に石坂産業はある。大型のダンプカーの出入りはあるが、外からはオフホワイトその工場が産業廃棄物の処理プラントだということはわからない。しかし、いまから16年前の1999年、高濃度のダイオキシンが野菜から検出されたというテレビニュースをきっかけに、同じこの場所には監視小屋が建てられ、「石坂産業反対!」などと書かれた横断幕が貼られていた。その後、そのニュースは誤報だったと判明したが、その風評被害はこの周辺に途方もない爪痕を残した。そんな異様な状況のなかで「私に社長をやらせてください」と自ら父親に直談判し社長になったのが、石坂典子さんだった。
「できればこの会社を子どもに継いでほしいと思って、この会社をつくった」と、父の思いをはじめて聞いて、もうその場で即答ですよね。会社を継ぐのは自分しかいないと勝手に思い込んで、感情だけで、なんの躊躇もなく「社長をやらせてください」って言っていたんですよ。
石坂さんは20歳のときに、「会社を手伝え」という父・好男さんの言葉もあって、ネイルサロンの開業資金を貯める目的で入社。10年後、ダイオキシン騒動の渦中に、1年間の限定付きで“取締役社長”に就任する。このとき30歳、2児の母でもあった。
父は「女は嫁に行くもの」という考えの人だから、私を社長にすることは、最初から頭にはなかったと思います。「やってみろ」と言ってみたものの、実際には試しにやらせ、ダメならやめさればいいという感じだったんでしょうね。くじけずにやり通せるのかも含めて、自分で何ができるのか、1年間やれることをやってみなさいという感じでした。
子どものころの石坂さんにとって、好男さんは怖いだけの存在でしかなかった。高校卒業後は米国に短期留学。その後はひとり暮らしをしていたため、毎日父親と話すようになったのは会社に入ってからだった。そして、社長になってからは、「朝8時半からの15分の儀式」として業務報告を欠かさず行った。
その人の性格もあると思うのですが、父は縦割りで考えるタイプで、人の話を聞くのが苦手なんです。代表権は父が持っているので、何をやるにしても、父から決裁をもらわなくてはなりません。そこで毎朝、時間を決めてYESかNOかのジャッジをもらうようにしたんです。社長になった直後にやることといえば、ダイオキシン問題をどう乗り越えるかでした。そこで「脱・産廃屋」「産廃屋らしからぬ産廃屋」を目指すということで、父もこれは了解していました。
社長になって石坂さんが打ち出したのが、40億円の新プラントの建設と、社員の意識を変えるためのISOの取得だった。
逆風のなかでの新たな投資には、何の不安もありませんでした。「機敏な決断と実行力」という父の言葉が、常に私のなかにあったんですね。実際、反対運動のさなかに、15億円かけて新設した最新焼却炉の解体を決断した父の姿を目の当たりにしてましたから。出来て2年の、会社の心臓部であり売り上げの一番多い部分をカットしたんです。これはちょっとビビリましたよね。
また、ISOを取得しようとしたときは、社員がどんどん辞めていきました。しかも、社員のなかには私のいる目の前で父に「女の経営者は、イノベーションを起こせない」と言う人もいた。これには傷つきましたよ。それが父も信頼している社員でしたから。ほかにも父に手紙を出す社員もいました。ただ父は「新しいことをやるときに多少の血の洗い替えは仕方がない」と言ってくれました。
本当の危機
しかし、本当の危機は反対運動が収まってからだった。代表権の移行の前後、石坂さんと好男さんとの間では父娘だからこその葛藤があった。
私が社長になってからも、父は生涯現役と言っていました。そのときに「2代目社長なんて誰でもできる、要は3代目がしっかりしているかだ」というのが口癖でした。これを言われ続けると、やっぱり心が折れるんです。会社をよくしたいと頑張ってきても、自分が認められるフィールドはないんだと。そいう日が続いた30代の後半のある時期、ちょっとノイローゼのようになったんです。そんなときに突然、父が代表取締役を降りると言ったんです。
でも、代取を降りたあと、今度は父が苦労したようです。年齢も70歳前後でしたし、まだ自分流にやりたかったんですね。父にとっては、私を社長として育てていた10年間は楽しかったんだと思います。工場を作るのも、図面を見ながらああでもないこうでもない、「お前は馬鹿か」とやってるわけですからね。でも、私も社長業を10年もやっていれば、自分でできるようになっている。そうなると父は寂しい。任せたいけど娘だし、口は出したい。最後は私のやり方に文句を言うようになって「お前のやり方とは合わない」と捨てゼリフを吐き…。自分のなかで葛藤しているようで、言っていることがコロコロ変わるようになりました。
父の楽しみ、娘の理想
父は個人商店のようにやってるときが楽しかったんだと思うんです。それを続けたいと思っていたかもしれない。でも、私は会社を安定的に継続させたい。それには制度を整えて組織を強くしたいと思ってやってきた。最初は父もそれがよかれと思って、娘とやってきたけれど、会社が変わっていく寂しさを感じていたんじゃないかと思うんです。
そんな父を見ていて、父娘の本質を崩す必要はあるのかと思ったので「お父さんがやりたいなら降りるよ」と話したんです。すると「そんなことはできるわけがない」と怒って、「ずっと生きていられるわけないんだから、(自分が)降りる」と言われたときは少し寂しかったですね。
父親に接するにあたって、石坂さんが心がけているのは、「謙虚な心」で一歩譲ることだという。
後継者の私が考えなくてはいけないのは、「誰に食べさせてもらっているのか」ということだと思います。こうして生活しているのも、食べていけるのも、会社があるからで、その原点は創業者の父の代から続く顧客であり働いてくれる社員です。その人たちに生かされていると思えば、謙虚になれますよ。
もちろん、実際の仕事でAかBかとなったときは、自分の考えを強く主張します。でも最後は父が決めればいいと思っているんです。父がつくった会社なんですから。我慢とかという問題ではなく、そもそも誰に育ててもらったのか。そんな生意気な口をきけるのは誰のおかげか、そこなんだと思いますよ。