ビジネス誌「月刊BOSS」。記事やインタビューなど厳選してお届けします! 運営会社

経営戦記

「企業は人なり」――。大企業から中小企業まで、どんな企業であってもそれを動かしているのは人であり、意思決定するのは経営トップである。言葉を変えれば、どんな優良企業でも社長が変われば倒産するし、低迷企業も不死鳥のように蘇る。すなわち経営とは日々の戦いであり、経営者に求められるのは不断の努力と決断力だ。話題の企業の経営者はいったいどのような戦いを勝ち抜いてきたのか――

2013年6月号より

ゴルフで鍛えた決断力通販保険の“風雲児”
橋谷有造 アメリカンホーム保険社長兼CEO

橋谷有造 アメリカンホーム保険社長兼CEO

はしや・ゆうぞう 1965年東京生まれ。高校卒業後、米アズサパシフィックユニバーシティに留学。大学卒業後、商社勤務を経て、1992アメリカンホーム保険入社。営業開発課を皮切りに、コールセンター長、コールセンター統括部長、スポンサーマーケティング本部長、マーケティング担当ヴァイスプレジデントなどを経て、2010年4月19日社長に就任した。留学時代から始めたゴルフは玄人はだしで、ハンディキャップは0。

がんで入院・手術した人でも2年たてば入れる可能性のある新しいタイプの「がん保険」が話題を呼んでいるAIGグループのアメリカンホーム保険。同社を率いる橋谷有造社長兼CEOは、3年前、44歳で就任後、ドラスチックな施策を次々断行、業界の風雲児として知られている。

コールセンターの大改革

〔4月6日、お台場から日本一周駅伝がスタートした。アメリカンホームがサポートする「みんなのMAEMUKI駅伝」で、昨年に続いて2回目の開催だ。アメリカンホーム保険社長の橋谷有造氏もオープニングイベントに駆け付け、第1走者にタスキを手渡していた。(次の写真)〕

この駅伝は、がんを経験しても前向きに人生を歩む人のサポートをしたいと、昨年から始めたものです。昨年は4カ月かけて6000キロを1000人以上の方に走っていただき、非常に好評でした。今年はさらに規模を拡大して、半年間、8000キロをタスキでつないでいく予定です。昨年、私は走ることができなかったのですが、今年は走ることになっています。

〔そう語る橋谷氏は、2010年に44歳の若さでアメリカンホームの社長に就任した。1965年生まれ東京都出身。高校卒業後アメリカの大学に留学、卒業後も現地の日系商社に勤務した後、アメリカンホームに転じている〕

アメリカンホーム保険に入ったのは1992年1月1日のことです。入社したのはAIGグループのAIUですが、同日付でアメリカンホームへ出向となりました。

転職したのは、アメリカでの会社生活が3年近くになったことから、そろそろ日本に戻りたいと思ったためです。ところが会社に意向を伝えても、英語ができる人間があまりいなかったこともあって叶いそうになかった。そこで人材バンクをやっている知り合いに相談したところ、AIUを紹介されました。

同期入社は15人ほどでしたが、アメリカンホームへの出向は私1人。当時のアメリカンホームは、売り上げは40億円ほど(2012年度は830億円)。扱っている商品も傷害保険だけでした。ですからAIUの一支店的な位置づけだったかもしれません。でも結果的には私にとって、この出向は非常にラッキーでした。

配属されたのは営業開発課で、新規代理店の開発や、クレジット会社が毎月送る明細の中に当社の資料を同封してもらう交渉などが仕事でした。この部署には8年間いましたが、非常に自由に仕事をやらせてもらえたから、とても楽しかったことを覚えています。

〔転機を迎えたのは2000年のこと。通販保険会社にとって、コールセンターは生命線だが、この担当を言いつけられた。ここからの2年半で、橋谷氏はコールセンターの大改革に取り組んでいくのだが、これは非常につらい仕事だったという〕

当時のコールセンター業務は、外部の業者に委託していました。コールセンターで働く人たちも、すべて外部の会社が雇った人たちです。でもそれがあまり機能していなかった。たとえば広告がうまくいって問い合わせの電話が大量に入っても、電話を受けきれない。放棄率が非常に高くなっていました。オペレーションスキルのレベルが低かったんです。そこで、電話があまり鳴らないよう営業活動をセーブするという、本末転倒のことまでやっていました。

そのことについて社内で文句を言っていたら、当時の社長から「それではあなたにやってもらいます」と。

当然、使命はコールセンターの効率を上げることですが、外部に委託したままでは無理でした。というのも、効率化されれば彼らの売り上げはむしろ減ることになる。これでは本気になって協力してくれるはずがありません。

そこで赴任して2カ月後には、コールセンターの直営化に乗り出しました。その頃、沖縄にコールセンターを新設したので、そこは直営でやり、東京にあったコールセンターは縮小していきました。その結果、その年の暮れにはすべて直営に切り替えることができたのです。

でもこの作業は、私の会社人生の中でも最もつらいものでした。委託していた企業にも文句は言われましたが、それはなんとも思わなかった。だけど、オペレーターを務めてくださった人たちを結果的に切ることになる。彼らは外部の社員ですが、これまでアメリカンホームの窓口を一生懸命務めていただいていたわけです。その人たちの仕事を、私の政策によって奪ったわけですから、無茶苦茶つらかったですね。

マスマーケットを追うな

〔コールセンターの立て直しに成功した橋谷氏の次の任務は、スポンサーマーケティング本部副本部長兼法人営業部部長として、営業全般を立て直すことだった〕

コールセンターはきちんとしたのに、今度は営業が弱体化し、コールセンターの電話が鳴らなくなっていたのです。新商品がなかなか出ないとか、営業全体の考え方、リーダーシップの欠如などさまざまな理由はありましたが、何より組織として傷を舐め合うところがあって、にっちもさっちもいかなくなっていた。たとえば新商品がないなら営業から開発に強く言えばいいのに、「商品がなくても売ってくるのが営業だ」といった古い考え方が残っていたりしました。ですからそういう雰囲気をまず変える必要がありました。

テレビCMでもずいぶん工夫しました。それまでのCMは人口の多い東・名・阪で重点的に流していました。そこにかかるコストだけで全体の9割ほど使っていたはずです。

でもこの地域は、確かにマーケットは大きいですが、同時に競合するところも力を入れ、過当競争になっていました。過去の当社の失敗は、常に大きなマーケットを狙っていたことに起因することが多かった。そこで考えを180度変えてみました。地方でのCMを増やしたのです。

競合のいる1万人のマーケットで10人に売れるのと、競合のいない地方で100人のうち10人に売れたのでは、同じ10人でもそれにかかるコストがまったく異なります。それで地方重視に踏み切りました。

最初は不安でしたよ。一部地域で実験的に始めたところ、効果があることがわかった。でもそれを全面的に広げることを決断するには勇気が必要でした。

〔こうした施策が奏功して、アメリカンホームの営業成績は上向いていく〕

運もありますよ。その前から打っていた手が、私が就任した頃からうまく回り始めたし、新商品も出てきた。ただ、それも実力のうちと、当時の社長は言ってくれました。

〔08年、橋谷氏は執行役に就任。しかしリーマン・ショックの大波がアメリカンホームを直撃した。親会社のAIGが、経営危機に陥り、米政府から支援を受けるなど、その前途が危ぶまれた〕

一般の加入者の方は、アメリカンホームがAIGグループであるかどうかはあまり意識されていなかったと思います。でも代理店にしてみれば違います。今後どうなるかわからない会社の商品を積極的に売る気にはなりませんし、その影響はかなりありました。私どもとしては、もし仮に親会社が倒れたとしても、われわれは日本での保険事業を独立した経営環境で実施しているため大丈夫だということを論理的に説明し続けるしかありませんでした。いまではAIGは公的支援を完済してますけど。

全役員をシャッフル

〔その影響も冷めやらない10年4月、橋谷氏は社長に就任する。本人とっても予想外だったという〕

当社は12月決算ですから、まず4月のタイミングで社長交代があったことが驚きでした。それ以上にまさか自分が指名されるとは思わなかった。保険会社の社長というのは、私のようなやんちゃな感じの人間ではなく、どっしりと落ち着いた人がなるというイメージがありました。

ただ、当時の会社の体質に不満はありました。そこで社長になり、この体質をなんとかしたいと考えました。

何が不満だったかというと、すべてにおいて中途半端でなあなあだった。これは営業の責任者になった時も感じたことですが、せっかくポテンシャルを持った社員がいるのに、それが活かされていなかった。そこで私は社員全員に危機感を持ってもらうための手を打ちました。

〔それが、全役員の役職変更だった。すべての役員をシャッフルして、辞めてもらう人には辞めてもらい、残った人には新しい業務を担当してもらった。この時、橋谷氏は44歳。役員の中ではもっとも若かったのだから、恐らく抵抗も強かったに違いない〕

4月6日に行なわれた「MAEMUKI」のスタート式典。中央右側が橋谷氏。

不満もあったと思います。でも私が社長になった時に考えたのは、自分の最大の使命は、この会社をきちんとした会社に戻して、長期的に安定してお客さまに喜ばれる商品・サービスを提供し続けていく会社にすることだ、ということです。その志がまずあった。

ですから役員に対してもそのことを求めました。役員の志が低いと、それが社員にも伝染する。もし志を高く持てないのであれば、申し訳ないけれど辞めてほしいと、はっきりと言いました。

でもこれをやったおかげで社内は大きく変わりました。いくつになっても人間にはチャレンジが必要ですし、それによってその人の人生、そして会社自身が大きく変わります。たとえば35年間、保険業務だけをやってきた最年長役員にコンプライアンスを担当してもらうことにしました。本人は最初固辞していたけれど、やってもらったら、完璧に仕事をしてくれています。そういう例はいくらでもあります。

〔役員から始まった人事異動は、その後部門長にも広がっていき、以前は過半を占めていた50歳以上の部門長が、いまでは1人だけになったという。こうした思い切った人事が社内に緊張感を与えたのか、就任した10年には過去最低の利益だったものが、1年後には2.5倍に急伸した〕

企業は人です。人をいかに活かすかが肝要です。社員が頑張って収益が上がれば、それがそのまま社員に還元できるようにする。たとえば沖縄のコールセンターは、開設から10年がたって施設が老朽化し、冷房も効きにくくなっていた。でも収益が上がったこともあり、昨年1月、新しいビルに拠点を移し、規模を拡大しました。私が訪れると、社員はみな「ありがとうございます」と言ってくれる。でもこれは、社員みんなが勝ち取ったことです。自分たちが一生懸命働いて収益が上がれば、給料が上がるだけでなく働く環境もよくなる。それがまた社員のやる気を引き起こしてくれるのです。

ゴルフのハンディは0

〔もう一つ橋谷氏が取り組んでいるのが、コールセンターのさらなる戦力化だ。本来コールセンターは電話を受け、資料を送るのがその役割だったが、そこにコンサルティング機能を持たせることにした。電話をかけてきた顧客予備軍に、言われた資料を送るだけでなく、どういう保険がいいのか丁寧に相談に乗るという取り組みだった〕

私が社長になる前から取り組み始めたことですが、以前はオペレーターは何秒で問い合わせに答えなければいけないとかいう指標さえありました。時間がかかりすぎると注意される。でも、効率化して短時間に終わるのと、お客さまに納得してもらって契約してもらうのと、どっちが重要かといったら、もちろん後者のわけです。そこで時間のしばりをなくし、お客さまに納得していただくまで説明するようにしたのです。

最近では、そこから一歩進んで、1人のお客様に1人のオペレーターが対応する専任制に取り組んでいます。当社の場合、以前の成約率が18%だったのに、コンサルティング機能を取り入れたことで28%に改善しました。それが専任制になると36%と、以前の倍にまで伸ばしています。専任制のすごいところは解約がほとんど出ていないということです。お客様との信頼関係が強まり、お客様から絵葉書やお米をいただいたりするケースもあります。こうなるとオペレーターのやる気も一段と上がります。これを今年は全面的に拡大していきます。

〔橋谷氏が現在、掲げているのは、前期830億円の売り上げを16年度に1000億円の大台に到達させることだ〕

これは間違いなく達成します。おかげさまで、がんになった方でも手術・入院をされてから2年経過すれば入れる可能性のある「ガンになったことがある方も入りやすい みんなのほすピタる」といった新商品も好調です。AIGグループからも当社は高く評価されていて、さらなる投資を約束されています。

〔そんな橋谷氏の趣味はゴルフ。というより趣味の域を超え、ハンディは0。競技ゴルフにも参加し、アマチュア時代の石川遼と同じ大会に出場したこともあるらしい〕

留学先の体育の授業でゴルフを始め、初ラウンドは99で回りました。その後ゴルフ部に入って腕を磨いたのですが、社会人になってからは時間もなくてあまりできませんでした。

でも10年ほど前に一から始めることを決意し、競技ゴルフにも出場するようになりました。社長になって忙しくなり、いまはなかなか練習できませんが、いずれ競技ゴルフに復帰したいですね。

ゴルフと経営に共通するのは決断力です。ゴルフは一人でするスポーツですし、経営者も孤独です。その中で決断していかなければならないし、結果はすべて自分で引き受ける。その勇気を、ゴルフに学んだように思います。

(取材・構成=本誌主幹・関慎夫)

経営ノート | 社長・経営者・起業家の経営課題解決メディア

WizBiz代表・新谷哲の著書「社長の孤独力」(日本経済新聞出版社)

WizBiz代表・新谷哲の著書「社長の孤独力」(日本経済新聞出版社)

 

0円(無料)でビジネスマッチングができる!|WizBiz

WizBizセミナー/イベント情報

経営者占い