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経営者インタビュー

2016年8月号より

創業家から18年ぶりに交代 法務畑が長いモスの人情家
中村栄輔 モスフードサービス次期社長(現・常務取締役執行役員)

中村栄輔 モスフードサービス社長

なかむら・えいすけ 1958年6月13日生まれ。福岡県出身。82年中央大学法学部卒業。88年モスフードサービスに入社。95年法務部長、97年社長室長、2001年店舗開発本部長、05年執行役員営業企画本部長、08年執行役員、モスフードサービス関西社長、10年取締役執行役員開発本部長、12年国内モスバーガー事業営業本部長、14年常務取締役事業統括執行役員、16年6月28日社長に就任予定。
(2016年6月28日の株主総会にて就任)

この6月末、モスフードサービスで18年ぶりに社長が交代する。創業家の櫻田厚・会長兼社長が白羽の矢を立てたのは、学生時代に法曹界を目指していたこともあり、法務関係に明るい中村栄輔・常務取締役執行役員。櫻田氏と中村氏の新体制で、モスは新たな経営のステージに入る。

櫻田厚社長は、約18年ぶりの社長交代の理由についてこう語っていた。

「創業者(櫻田氏の叔父の慧氏。1997年に他界。厚氏は翌98年から社長に就任)は60歳で突然亡くなってしまい、私の中では大きなトラウマでした。人間、健康でいてもいつどうなるかわからない。だから後継者の路線だけは明確にしておくことが責務と考えてきました。

社長の人選にあたっては、私と同じようなタイプは社長にならないほうがいいなと。その点、(次期社長で常務取締役執行役員の)中村栄輔は法務畑が長く、現場を知らないで当社に入社していますので私とタイプが違う。今後、数年は私も専任の会長として、彼のネットワークづくり、あるいはステークホルダーにどう、自分をアピールしていくかという点はサポートしていきたい。

中村は理論武装に長け、左脳は私の数倍優れています。でも、フランチャイズビジネスは加盟店オーナーとのヒューマンビジネスですので、本部の社長は現場の痛みもきちんと理解し、オーナーに安心して働いてもらうことも大事。いわば右脳の部分も大切ですから、そこは私が手助けしていきたい」

では、次代を託された中村氏とはどんな人物なのか――。

土の香りと手作り感と

―― この6月28日の株主総会後、正式に社長に就任されたらまず、どんな課題に着手しますか。
国内部門が売り上げの8割を占めていますので、国内で今後も着実、堅実な成長がしっかり達成できるようにしたいですね。そのためには、何といっても加盟店オーナーの方々との信頼関係の一層の強化です。

新業態の「モスクラシック」千駄ヶ谷店。

特に日本は高齢社会ですので、遅れているオーナーの世代交代がしっかりやっていけるようにすることが大事。もう1点、これまでの単一的、画一的なビジネスパッケージから、立地、あるいは都市部と地方部などに分け、出店や店舗運営も少し工夫していくべきなんじゃないかなと考えています。実際、夜の時間帯にお酒をお出しするような実験店も出していますしね。

あとは新規事業です。「マザーリーフ」(紅茶専門店)や「あえん」(旬彩料理店)などがありますけど、そうした業態を加盟店にやっていただくところまではなかなかいってませんので、そこの強化。我々には450人を超える加盟店オーナーがいますので、手を挙げて「新規事業もやりたい」と言ってもらえるようなものを確立したいなと。

加えて、「モスファーム」を5ヵ所で展開していますけど、これを10まで増やそうと思います。野菜の安定供給はなかなか難しいことですから、これも1つの差異化になるのではないかと考えていまして、非耕作地の耕作地化というか、モスらしい土の香りや手作り感を、地域密着を超えて、その地域と一緒に生み出していきたいですね。

―― 昨秋以降、モスも含めてグルメバーガーが続々と出てきましたが、モスのDNAや最大の差別化についてはどう考えていますか。
美味しいと思っていただける点が一番、大切だと思っています。プラス、モスの食材に関しては安心で安全という信頼感ですね。医食同源と言いますが、健康にも気遣っている要素を組み合わせた商品を作りたいなと。そこが大切なモスのDNAですから。

TPОで「モスカフェ」(都心部を中心とした一等立地で展開。メニューにはご飯類やアルコールも)、あるいはハンバーガーを軽食でなくちゃんとした食事として楽しみたいということであれば「モスクラシック」(フルサービスのハンバーガーレストラン)という業態のお店もあります。

―― 会長専任になる櫻田さんとの役割分担はどうでしょうか。
櫻田は国際本部、つまり海外展開を管掌することになります。国内、および新規事業は私ですね。ただ、国内外でお互いにサポートし合うことは言うまでもありません。海外は国にすると6ヵ国、8地域で展開していますが、事業がうまく進んでいるなというところと、まだまだ足元を固めないといけないところとがありますから。着実に足元を固めているのは台湾ですね。おかげさまで台湾は今年、進出から25周年を迎えましたし。

ともあれ、向こう3年は足元を固める時期。私に課せられたミッションは、モスフードサービスの設立から44年が経とうとしている中で、これからもしっかり生き残っていくための仕組みなどを、どうやって作っていくかだと思っています。

―― モスの近未来像、イメージする企業集団や、あるべきコンセプトは。
「お店全体が善意に満ち溢れ、誰に接しても親切で、優しく明るく朗らかで、キビキビした行動、清潔な店と人柄」、そういう店でありたいという、創業者の思いが詰まった文章を基本方針でまとめてありまして、各部署の部屋の壁に貼ってあるほか、私の部屋にも掲げてあります。それを実現できる店がいい店、ということを定義づけしていますし、そういう店を1つでも増やしていく、そこに尽きると思います。

原点は創業者の基本方針

―― ここからは、中村さんのお人となりに関するところですが、まずご出身は福岡ですね。
生まれは福岡県の大木町で、久留米から少し外れた田舎の町なんですが、中学までは久留米の学校に通っていました。高校からは男子校の寮に入り、高校名は熊本マリスト学園というのですが、ここではサッカーばっかりやっていましたね。当時はその高校が県大会で優勝しまして、それがこそっとした小さな自慢なんですけど(笑)。なので、いまでも趣味といいますとサッカー観戦と、隠れた趣味では生け花の鑑賞もあります。実際、小さい頃に生け花を習っていました。

大学は東京に行きたいと思っていたので1年浪人し、中大法学部に入って司法試験を受けようかなと。大学の時も「白門キッカーズ」というサッカーの同好会に入って、そこでもまた、ディフェンダーとしてサッカーに明け暮れる日々でした。

―― 法曹界を目指したのは、就職活動と両睨みだったのでしょうか。
就職活動はしなかったですね。司法試験は最終的には最後の試験で受かることができませんでした。在学中から家庭教師などのアルバイトをして、卒業後はIBMのソフトを扱っている子会社で仕事をしながら司法試験の勉強です。

―― それが、なぜ一転してモスフードへの就職となったのでしょう。
1977年3月に、大学受験で浪人生活を送るために初めて東京に出てきて、当時出会ったのがモスの世田谷桜町店だったのです。食べたらとても美味しくて、こんなに美味しい商品を出す会社ってどんなところなんだろうっていう興味は、当時から持っていました。

ですから、学生時代もそのお店をよく使っていまして、お店の人に「受験生? 浪人? ちゃんと勉強してる?」とか、アットホームな感じでよく声をかけられました。モスに入ってから徐々に気付くんですけど、そうやってお客さんと自由に話したりコミュニケーションをとっていく、フランクでフレンドリーなのがモスのスタイルなんですよね。で、たまたま知り合いの人がモスフードサービスにいたので中途採用試験を受け、パスしたという次第です。

―― 入社したての頃、創業者の櫻田慧さんの話で何か印象に残っていることはありますか。
就職してすぐに社長の講話を聴き、感想のレポートを書いたんです。3点、講話に対する自分の意見を丁寧に書き、最後に少し違う視点のことも書きました。当時、私はまだ司法試験に少し未練がありまして、勤めながら試験は受けられるんじゃないかと考えていたのです。9時~18時までは人の2倍も3倍も集中して仕事をして、18時になったら堂々と仕事は上がって勉強したいなと思っていました。

1000円グルメバーガーも人気。

ただ、新人で入ってきたのに18時で上がるのかという、ある種の冷たい視線を感じましてね。その部分をチラっと書いたのですが、社長は「いいことじゃないか。ただし、集中して仕事していたら、いつの間にか19時や20時になってしまったというのが仕事だよ。頑張りなさい」と。思わず「頑張ります」と言いましたが、ちゃんと隅々まで新人のレポートを読んでくださったことがとても嬉しかった。それも、わざわざ社長が私のいた部署に来てくれて言われましたからね。ほかにも、たまたま法務という部署に所属していたおかげで、株主総会でも書記役を仰せつかったりと、いろんな意味で社長に接触する機会があって、慧眼に触れさせていただきました。

法務部門が一番長くて、最終的には8年ぐらいいましたか。一生懸命仕事して、結構早くに管理職にしてもらったんですね。当時、経営学ももっと学びたいと思い、法政大学大学院で夜間、学ぶことができました。ボーナスをすべて学費に充てるぐらいで勉強も大変でしたが、大学院を修了する年に偶然、社長室長に異動になり、創業者の傍らで仕事ができると意気揚々としていたんです。ところがその3カ月後、社長が急逝してしまいました。

創業者亡き後は、社内の力関係や役員間で意見の食い違いなどもありまして、「社長室長として責任を取り、辞めさせてください」と言いました。私の会社人生ではそれが一番、大きかったですね。最終的には慰留されて会社に残ると決めたのですが、それ以降、社員に理解を得られない時は、すべて自分が悪いと原因を自分に求めるようになりました。社内で稟議する文書もわかりやすくするとか、その視点で仕事をするようになったら、みんなが以前よりも協力してくれるようになったのです。

―― ほかに、これまでの転機、ターニングポイントの時期や仕事はありますか。
第4営業部の営業部長になった時期ですね。守備範囲は九州、沖縄、中国、四国ですが、実は私、店長経験がないんです。「店長経験のない営業部長って大丈夫?」とか陰口も聞こえてきたんですけど、当時のエリアリーダーとかスーパーバイザーがみんな協力してカバーしてくれたので、非常にやりやすかったですね。加盟店オーナーと一緒に話しこんで酒を飲み、価値観を共有することに努めました。

嬉しかったのは、エリア販促ということで、「九州エリア限定商品で、こういうことができないでしょうか?」といった提案が、加盟店オーナーからあったこと。「商品が残ってしまった場合はとにかく売りますから」とおっしゃってくださった。あるいはオーナーが店長たちを集めて、勉強会を開いてくれたり。これは楽しいし、この一体感がモスの強みでもあると思っています。

(聞き手=本誌編集委員・河野圭祐)

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