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来る10月1日、東海道新幹線は開業50周年を迎える。この50年で日本は大きく変わった。経済規模が約20倍になっただけでなく、仕事もレジャーも、行動範囲が格段に広がった。これも新幹線があったればこそ。日本の経済は新幹線に支えられている。そしていま、世界という新たな舞台が新幹線を待っている。こ れからは新幹線が日本のインフラ輸出の重要な柱となる。50年後には「SHINKANSEN」が世界共通語になっているかもしれない。新幹線の過去を検証し、未来の夢を追った。

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サラリーマンのボヤキ

東京オリンピック開幕目前の1964年10月1日、東海道新幹線が開業した。東京~大阪間を4時間で結ぶ夢の超特急は、日本の新たな時代の夜明けを象徴していた。

それから50年。東海道新幹線の乗客数の累計は55億人を突破。その後開業した山陽新幹線や東北新幹線など他の新幹線を含めると、年間約3億人が新幹線を利用している。もはや日本人の生活は、新幹線なくしては成り立たない。それに伴いライフスタイルも大きく変わった。

開業して間もない頃、新聞や雑誌には、次のようなサラリーマンのボヤキ節や、旅好きの嘆きが、よく載っていた。

「これまでだったら大阪出張は泊まりがけで、夜は羽を伸ばすことができたのに、日帰りしか認められなくなった。新地のネオンが恋しい」

「新幹線では、駅のホームにいる駅弁売りから駅弁を買う楽しみがなくなってしまった。速いばかりで旅の風情も何もあったものじゃない」

新幹線誕生までは東京~大阪間は在来線特急「こだま」で6時間30分を要した。それが3分の2以下に短縮され、さらに翌年には3時間10分を達成したのだから、仕事のやり方も変わるのは当然だった。東京~大阪間の人の移動は、新幹線前とは比べものにならないくらいに増え、大阪に本社がある企業のサラリーマンの中には週に2、3度往復するという「ツワモノ」も現れた。

「新幹線によって移動が楽になると思ったら、むしろ回数が増えてつらくなった」(新幹線開業時に30代だったサラリーマン)

このように個人レベルでは、新幹線に対する恨みつらみも多々あったが、企業にとっては、新幹線の恩恵は計り知れないものがある。いまになってみれば、新幹線のない経済活動などありえないというのが、多くの経営者の実感だろう。

セブン-イレブン・ジャパンでは、毎週火曜日、全国約1500人のフィールドカウンセラー(FC)を集めた会議を開く。FCとは、いわば店舗指導員のようなもので、毎週、本部で店舗の改善報告や商品管理などについて議論し、各FCは持ち帰って各加盟店に情報を下ろしていく。コンビニの中でも圧倒的な業績を誇るセブン-イレブンの強さの根源のひとつである。

しかし毎週、この会議を開くことができるのは、高速で正確な交通手段があってこそのこと。遠方なら飛行機になるが、本州勤務のFCの多くは新幹線を利用している。もし新幹線がなければこのような会議は開けないし、そうなると、上から下まで同じ情報を共有するセブン-イレブンの鉄の結束も保てない。新幹線があるからこそのセブン‐イレブンの強さだと言っていい。

ビジネスだけではない。レジャーの楽しみ方も新幹線の誕生によって大きく変わった。京都に桜や紅葉を見に行くことが極めて普通のことになったのも、新幹線が開業して以降のことだ。

あるいは新幹線開業と前後して、新婚旅行のメッカは熱海から宮崎へと移った。これは飛行機の普及もあるが、それだけではなく、熱海が東京からわずか1時間で行ける場所になってしまったため、新婚旅行という生涯一度の旅行の行先としては物足りなくなったことも理由のひとつとしてあげられる。

このような例は探せばいくらでも出てくるだろう。新幹線によって日本は確実に小さくなり、日本人の行動範囲は広がり、旅の楽しみ方が変わった。いまや飛行機も利用すれば、離島や山奥などはさておき、日本中のほとんどの場所に東京から2、3時間もあれば行くことができるようになった。これもすべて新幹線があったればこそ可能になったことだ。

定時運航率は95%

時間が短縮されただけではない。新幹線でもっと評価されてしかるべきなのは、安全かつ定時に運行されていることだ。

たとえば、東海道新幹線の1本あたりの遅延時間はわずか36秒。東北・上越新幹線などJR東日本が運航する新幹線では20秒程度(東海道新幹線のほうがダイヤが過密なので遅れが出やすい)、定時運行率(定時±1分)は95%にもなる。

これがどれだけすごいことかというと、フランスのTGVの定時運航率は91%。ただしフランスの場合、13分以内の遅れなら定時運行と見なされるため、日本とはレベルがまるで違う。もし日本でもフランス式を採用すれば、限りなく100%に近づくはずだ。だからこそ、大阪でアポイントがあっても、ギリギリまで東京で仕事を続けられる。

もうひとつの誇りである安全性については、50年間・無事故と、世界随一を誇る(別稿参照)。速度についてはヨーロッパの高速鉄道のほうがはるかに速い(営業運転ではフランスTGVの320キロが最高。試験車両ではTGVの574.8キロ)。しかしこの安全性と正確性があるかぎり、新幹線は世界に冠たる高速鉄道であることに変わりがない。

50年の時を経て、いまなお新幹線が世界の最先端高速鉄道であり続けるのは、いちばん最初の設計思想が優れていたためだ。

鉄道ファンにとっては「常識」だが、新幹線計画は戦前の「弾丸列車計画」が基になっている。日本は韓国を併合、さらに満州国も樹立したため、大陸向け輸送が急速に拡大した。その大半が、下関との釜山を結ぶ関釜連絡船を使ったので、東京~下関間の鉄道の拡充が求められていた。

そこで鉄道省では、1939年に弾丸列車計画が立案された。日本の鉄道はその大半が狭軌であり、今も同様だ。弾丸列車は、広軌(国際的には標準軌)にして高速の列車を走らせようというもで、40年代には一部区間の工事が始まった。

この計画は戦況の悪化と敗戦によって頓挫するが、戦後の復興で東海道本線の乗客・貨物が増え、飽和状態に近づいたことで、新幹線計画として動きだした。

「もはや戦後ではない」と経済白書が謳った1956年、当時の国鉄の十河信二総裁と島秀雄技師長は、新線計画の検討に入った。それが、広軌で、在来線や貨物列車は走らず踏切もない専用線に高速鉄道を走らせようというものだった。翌年には国鉄の一部門である鉄道技術研究所が、「東京~大阪間3時間への可能性」という発表を行い、メディアでも大きく報じられた。その結果、日本中に新幹線への期待が高まっていった。

1964年10月1日午前6時、東京駅から大阪に向かって発車する東海道新幹線始発列車。

着工から開業まで5年半

急速に復興が進んでいたとはいえ、当時の日本はまだまだ貧しかった。そうした状況下での新幹線建設には、多額の費用がかかることもあり、反対論も根強かった。それを支えていたのがモータリゼーションの普及である。いずれ日本でも移動や運輸の主役は自動車になる。鉄道は斜陽産業であり、巨額の投資は無駄だ、というものだった。中には新幹線を、万里の長城、戦艦大和と並ぶ「三大無用の長物」だと激しく批判した人もいたほどだ。

しかし、「東京~大阪3時間」の衝撃は、反対派を黙らせるのに十分だった。何より国民が、超特急に対する強い憧れを、この時から抱くようになったことで新幹線計画は一気に動き出し、58年12月に建設計画が承認され、翌年4月に着工した。

開業が、オリンピック開幕(10月10日)の直前だったことから、東海道新幹線はオリンピックに合わせてつくられたと思っている人は多い。しかし事実は違う。オリンピック開催が決定したのは、59年5月26日に当時の西ドイツ・ミュンヘンでのIOC総会においてだった。前述のように、この時すでに新幹線の工事は始まっていた。つまり新幹線は、「日本発展のために新たなる動脈をつくる」という強い思いが先にあり、あとで開催が決まったオリンピックに合わせて、工事を急いだというのが真相だ。

それにしても着工から開業まで、わずか5年半という期間は、いまから思えば信じられないスピードだ。これは他の新幹線と比べればよくわかる。

山陽新幹線こそ、東海道新幹線と同じ5年で開業にこぎつけているが(当初は新大阪~岡山間)、東北新幹線は71年に着工したが、大宮~盛岡間が開業したのは82年のことだった。上越新幹線も同様で、ともに11年を要した。また長野新幹線(高崎~長野)は、沿線距離はわずか117キロと短いものの、89年着工、97年開業と9年もかかっている。

JR東海が建設中のリニア新幹線にいたっては、開業は2027年と、いまから13年後である。リニアの場合、日本アルプスの横っ腹にトンネルを通すという大工事が必要なために致し方ないところはあるが、同じ東京~名古屋を結んでも、片や5年、片や14年である。あまりにも隔たりが大きい。

東海道新幹線の工事期間が短くてすんだのは、戦前の弾丸列車計画に基づいてすでに20%の土地を取得済みだったことや、一部のトンネルも完成していたことが幸いした。過去の遺産の活用によって、短期間に建設することができたのだ。

1964年10月1日午前6時、東海道新幹線の始発列車は、東京駅を出発、最高時速210キロで新大阪に向かって動き出した。新幹線時代が幕を開けた。

ちなみに初年度、東海道新幹線の乗客数は1100万人。翌年には3000万人、その翌年は4300万人と、うなぎ上りに増えていった。同時に日本の成長スピードも加速していく。73年には山陽新幹線との合算で年間乗客数1億人を突破。その後、東海道と山陽の数字を分けたことや第2次オイルショックによる景気悪化もあって、1億人を下回る次期が続いたが、バブル経済が本格化した87年に再び1億人を突破。その後はコンスタントに1億人を超え、昨年度の実績は1億5481万人と過去最高となった。

また、72年には山陽新幹線、82年には東北・上越新幹線が開業、さらに北陸(長野)、九州と続き、日本の新幹線の総延長は2300キロを超える。これは2009年に中国に抜かれたものの、いまでも世界2位である。

そしてこの新幹線の発達が日本経済の活性化につながったことは冒頭に記したとおりである。

インフラ整備のお手本

よく何かイベントがあったり新しい施設ができると経済効果がいくらかということが話題になる。たとえば、来年、新函館まで開業する北海道新幹線の場合、札幌まで延伸すれば毎年1000億円、北陸新幹線の金沢延伸で200億円、リニア新幹線なら9000億円の経済効果が期待できるとされている。

では東海道新幹線がどれだけの経済効果をもたらしたかというと、あまりにも大きすぎてわからないというのが正直なところだろう。というよりも、もし新幹線が存在しなかったら、日本の姿形はまったく別なものになったはずだ。たとえば、新幹線反対派が唱えた狭軌の在来線活用による輸送力増強策が実行されていたら、いまだ東京~大阪間は4時間以上かかり、移動の手段としては飛行機が主役になっていただろう。

それはそれで航空網の発達した新しい日本になっていたかもしれない。しかし飛行機は点と点しか結ばない。新幹線のようにその沿線が発展することはない。たとえば名古屋が今日のように発展したのは新幹線のおかげである。もし飛行機が主役になっていれば、名古屋はスルーされるだけだ。東海地方で独自の発展はしたかもしれないが、いまのような大都市にはなっていないし、もしかするとトヨタが世界一の自動車メーカーになることもなかったかもしれない。

それだけに、国家のインフラを整備する時には、長期的な視点と想像力、そして確固たる信念が必要になる。50年余前、国鉄の十河総裁、島技師長が信念を貫かなかったら、いまの日本はない。また、日本の産業発展史を研究し尽くしたうえで全国に高速鉄道網を敷設し続ける中国も、違う道を選んだかもしれない。

50年たっても、いまだ「新」幹線といい続けて違和感がないのは、それだけ新幹線の根底に流れる思想・哲学が、先進的でいまなお色褪せないためだ。新幹線こそ、国土創生の最大のお手本と言っていい。

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前稿で述べたように、新幹線のおかげで日本経済は大いなる発展を遂げた。また、新幹線の開通によって、観光客が大きく伸びた地区もある。工業団地や大学の誘致に成功した地区も多い。日本、特に地方は深刻な人口減少に悩んでおり、新幹線が問題解決の糸口になるのでは、と期待する人は多い。たとえば四国4県は、四国新幹線を実現しようと精力的に活動している。

しかし、光もあれば影もある。新幹線が通ったことが、逆に街の活力を奪うケースも珍しくない。

「ストロー効果」という言葉がある。交通機関が発達することによって、人口がストローで吸い取られるように、ある部分に集中、吸い取られたところはマイナスの経済効果が働くというものだ。

新幹線が通ったことによって人口減少が起きた地区は珍しくない(写真は東北新幹線)。

現在の東海道・山陽以外の新幹線は、いずれも田中角栄内閣の時代に、基本計画が策定されている。その田中の代名詞となったのが『日本列島改造論』だ。この著書の中で田中は、日本全国に9000キロ以上の新幹線を張り巡らせるとぶち上げた(現在は秋田・山形のミニ新幹線を足しても3000キロ弱)。

新潟県出身の田中は、人も会社もお金も東京に集中することは日本の活力を削ぐことにつながると考え、全国を新幹線で結べば、日本海側や東北地方なども地域のハンディを跳ね返すことができると考えた。

その田中の思いが詰まった東北・上越新幹線は1982年に開業した(当初は大宮~盛岡、大宮~新潟)。日本列島改造論が正しければ、新幹線開業によって、新潟や岩手、宮城は大いに栄えなければならない。また群馬や福島、栃木などの沿線都市も、発展が約束されていたはずだ。

現実はどうだったか。田中のお膝元の新潟県で検証してみよう。

上越新幹線が通った82年、新潟県の総人口は246万人だったが、昨年は235万人弱。10万人以上減ったことになる。

日本全体の人口が減っているのだから、多少の減少は仕方ないかもしれないが、問題は、自然動態(出生数から死亡数の差)が減っているだけでなく人口の流出が続いているのだ。

以前から流出はあったが、本来であれば新幹線開業によってプラスに転じなければならなかった。ところが1990年代に一時、流入超過となったが、2000年前後から流出が増え、その傾向は加速している。中でも10代、20代の転出が増えているのが頭の痛いところだ。

これをもっと細かく地域を区分すれば、ストロー効果で苦しむ地域はいくらでも見つけることができる。

例えば栃木県や群馬県には、新幹線利用を前提とした宅地開発が盛んに行われた。特にバブル経済で庶民が首都圏に一戸建てを持つことがほぼ不可能になったために、新幹線通勤なら持ち家も可能だと大規模な宅地開発を行った。

しかしすぐにバブルは崩壊、いまも地方の新幹線駅の周囲には広大な土地が放置されている。新幹線さえ通れば、人が集まってくると考えた結果がこれである。

北海道新幹線でも、当初は函館までの開業だが、これが札幌まで延伸した途端、函館が吸い取られるだけの都市になる可能性は高い。北陸新幹線も、金沢は観光客が増えるかもしれないが、富山は通り過ぎるだけになってもおかしくない。逆に人口流出が激しくなることも十分考えられる。

新幹線が通ったからといって、バラ色の未来が待っているばかりではない。

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リニアの経済効果は9千億円

前稿で見てきたように、新幹線が日本全国を結んだことによって、日本社会は大きく変わった。しかし新幹線が延伸するに伴い、日本は成熟社会化し、成長率は鈍化していった。

東海道新幹線が開通してからの5年間で日本のGDPは約90%伸びた。しかし山陽新幹線開通(1972年)からの5年間では約24%、東北新幹線(82年)では約20%にすぎない。東海道ベルト地帯を結んだ東海道新幹線と、地方都市を結んだ他の新幹線との違いがあるとはいえ、日本国内においてはすでに新幹線の経済効果は限定的なものになっている。

現在建設中の新幹線は、北海道新幹線、北陸新幹線、長崎新幹線の3線。新青森と札幌を結ぶ北海道新幹線は、そのうち新函館までが16年3月に開通、札幌までの全線開通は35年となる見通しだ。現在、長野まで開通している北陸新幹線は15年春に金沢まで開業、さらに敦賀にまで延伸する予定だ。長崎新幹線は昨年から工事が始まり、武雄~長崎間は22年にも開業するとみられている。長崎新幹線はいずれ久留米で九州新幹線に接続、北陸新幹線も新大阪まで延伸する見通しだが、しかし、それが開通すると、日本の新幹線計画はとりあえず完結する。このほかにも、本州と四国を結ぶ新幹線や、九州の東側を縦断する新幹線などの計画はあるが、採算性などを考えると、少なくともフル規格での実現はむずかしい。

そうなると、残る大規模プロジェクトといえば、JR東海が27年に東京~名古屋間開通を目指すリニア新幹線だ。最近、自民党が名古屋~大阪間も27年に同時開業するよう要請し、それに必要な資金を無利子で融資するとの方針を打ち出している。

その結論がどうなるかは現段階では不明だが、東京~名古屋間で5兆4300億円強、名古屋~大阪間で3兆6000億円、総額9兆300億円というビッグプロジェクトなだけに、日本経済に与えるインパクトは大きい。

2027年の開業を目指すリニア新幹線。経済効果は8700億円。

リニア新幹線開通による経済効果は、年間8700億円と試算されているが、それよりもむしろ、東京~名古屋間を40分、東京~大阪間でも67分で結ぶため、東、名、阪の3大経済圏が一体化することの意味のほうが大きいかもしれない。大阪から東京へと通勤することも、その逆も、その気になれば可能となる。“大阪に単身赴任”という言葉が死語になる日が来るかもしれない。長年の日本の課題の1つが東京の一極集中であり、だからこそ過去何度も遷都論議が巻き起こったが、東、名、阪が一体化すれば、その議論にも終止符が打たれることになる。

ビジネスマンのライフスタイルも大きく変わる可能性がある。これは、東海道新幹線が東京~大阪間を日帰り圏内にしたのと同じようなインパクトだ。

このようにリニア新幹線開業は、さまざまなイノベーションを日本にもたらすことになる。そして何より、時速500キロで商用運転を行うという、世界でどこも達成していないことを実現するという意味で、日本の技術力の結晶を世界に誇ると同時に、日本国民にも知らしめることができる。これもまた、東海道新幹線開通時の高揚感と同様だ。

ただし、リニア新幹線はあくまで東海道新幹線のバイパス機能でしかない。輸送量にしても、1編成あたりの定員は東海道新幹線の半分程度になりそうなのに加え、運転間隔も東海道新幹線のように3分間隔での運行は不可能だ。しかも日本の人口、特に地方人口が減り続けていることに加え、リニアがあくまでJR東海の単独事業であることを考えると、新幹線のように全国に延伸する可能性もほとんどゼロだ。そう考えると、リニアの日本経済に与える影響は東、名、阪については大きいが、それ以外の地区に波及する可能性は低いと言わざるを得ない。

新幹線はほぼ日本全国にその足を延ばした。リニア新幹線は、東、名、阪の限定的なもの。

そこで、JR各社や新幹線車両製造会社、そして総合電機メーカーが目を向けているのが海外市場だ。

圧倒的な安全性

日本は国土が狭いことで航空網が発達せず、戦前に日本全国に鉄道網が敷設されたこと、さらには道路整備がなかなか進まなかったこともあり、諸外国に比べ、貨客輸送の鉄道への依存度が高い。

欧米では、早くからフリーウェイやアウトバーンが国土を網のように結び、遠距離については航空網が整備された結果、鉄道は過去の遺物的な位置づけになりつつあった。オリエント急行など、特殊な遠距離列車を除けば、長距離移動列車は衰退していった。

ところが1990年代を迎えた頃から、鉄道は再び脚光を浴びるようになった。

ひとつには、フランスのTGVやドイツのICEといった高速鉄道が商業的な成功を収めたこと。さらには地球環境への意識の高まりだ。各交通機関ごとのエネルギー効率を比べると、旅客の場合、鉄道を1とすると、バスで1.5、乗用車で8.3、飛行機で7.6のエネルギーを消費する。このことからも、鉄道の環境負荷が小さいことがよくわかる。

CO2削減が世界にとって大きなテーマとなるに伴い、鉄道、特に長距離輸送を可能とする高速鉄道に注目が集まるのは当然だった。

現在、世界で高速鉄道が走っている国は、日本を筆頭に、フランス、ドイツなどのヨーロッパ諸国、さらには中国、韓国などのアジア勢を加えると13カ国に及ぶ。そして、高速鉄道を建設・計画しているのは、ベトナム、タイ、マレーシアなどのアジア、カナダ、アメリカ、ブラジルなどの北南米、さらにはモロッコやエジプトなどアフリカ諸国を含め22カ国にもなる。

ただし、高速鉄道のノウハウをもつ国は多くない。計画がある国が高速鉄道を敷設するには、すでに実績を有する国の支援を得なければならない。

そこに日本の新幹線の活路がある。鉄道事業というのは敷地の買収から始まり、建設、運航、保守管理など、非常に巨額の事業費が必要だ。例えば昨年、日立製作所はイギリスの高速鉄道事業の受注に成功したが、総事業費は30年間で8800億円にのぼる(当時の為替レート換算)。こうした案件を1つ獲得すれば、長期間にわたって収益をあげることができるのが鉄道事業の魅力である。

日本のシステムを輸出してつくられた台湾新幹線。

あるいは2007年に開業した台湾新幹線は、日本の新幹線システムを移植したものだが、総事業費は1兆6000億円にのぼった。このうち、車両・信号システムなどだけで約3300億円。これを三菱重工、東芝、川崎重工、商社からなる7社連合が受注している。また、路線や駅舎などの建設工事でも、日本企業がその大半を落札した。

間もなく、安倍政権による成長戦略が発表される。失われた20年によって、相対的に国力が低下した日本が再び世界の経済大国として羽ばたくには、競争力のある産業を世界に向けて輸出していく必要がある。すでに電化製品や自動車の一部は、円高や国内の人件費の高さなどが嫌われ海外移転が進んでいる。安倍政権誕生以来、円高が是正されたにもかかわらず輸出は増えず、経常赤字が続いているのはそのためだ。

その点、インフラ部門の輸出は、その多くが日本国内でつくられた製品・部品が使われるため、日本経済に与える影響は大きい。少し前までなら、インフラ輸出の代表が原子力発電所で、ベトナムとの商談などで成果を上げてきたが、東日本大震災による東京電力福島第一原発の事故は、日本の原発輸出の前途に影をさした。

そこで期待されるのが鉄道事業、中でも高速鉄道事業だ。

次稿でも触れるが、鉄道輸出にはフランスや中国などが最大のライバルとなる。こうした国との熾烈な競争を勝ち抜いて受注しなければならない。

日本の新幹線の最大の強みは、絶対的な安全性。50年間、一度も乗客死亡事故を起こしていない事実は鉄道事業として特筆されるべきことだ。ヨーロッパでは、過去に何度となく踏切事故を起こしているし、スペインでは昨年、死者79人となる脱線事故も起きている。また中国でも。高速鉄道が脱線して高架から落下、40人が亡くなった。

新幹線の場合は、他国の高速鉄道と違って高速鉄道専用線だけで運行されており、踏切もない。また制御システムも一元管理されているため、安全性は極めて高い。また10年前の中越地震での震度6の揺れに際しても、脱線こそしたものの死傷者は1人も出なかった。

その代わり、一から新しい路線を建設しなければならないため、事業費はどうしても高くつく。そのハンディを乗り越えて受注するには、国を挙げての支援が必要になる。

今年4月、「株式会社海外交通・都市開発事業支援機構法」が成立した。これは、インフラ輸出を支援する新会社の設立を定めたもので、年内にも設立される新会社は、政府が過半数の株式を保有し、東南アジアで計画される交通インフラ整備と都市開発を支援するもので、「これによって官民が一体となった交通システムの輸出が可能になる」(国交省幹部)という。

かつて日本政府は民間企業の営業活動には関与しないことにしていたが、とくにインフラ輸出の場合、それでは海外企業に勝てないことがはっきりしたため、方針を変更、積極的に関わることにした。後掲のインタビューに詳しいが、日立のイギリスでの事業にも、国を挙げての支援があったことを忘れてはならない。

技術は一流。しかし売り方が下手、というのは多くの日本の製品に共通する課題である。日本の存在感を世界にアピールするには、この弱点を克服しなければならない。その意味で官民一体となった営業活動は、評価できる。

アメリカのヒューストン~ダラス間、シンガポール~クアラルンプール(マレーシア)間などの高速鉄道の受注を目指して、各国の売り込みは激しくなる一方だ。日本の国を挙げての支援が実れば、そこから先の受注活動にもはずみがつくはずだ。

50年後、「シンカンセン」が世界共通語になるための試金石だ。

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これから世界に対して新幹線技術を売り込んでいくことは、日本の成長戦略に不可欠だが、高速鉄道の場合、1件あたりの事業規模が大きいだけに、その市場を狙っているのは日本だけではない。

その中でもフランスは最大のライバルと言っていい。フランスが誇る高速鉄道・TGVは、ヨーロッパに初めて誕生した高速鉄道であり、新幹線とともに、世界の高速鉄道の代名詞となっている。

ヨーロッパ初の高速鉄道・TGVの知名度は新幹線以上だ。

ただし新幹線とTGVとでは、その思想が根本から違う。次頁からのインタビューでも詳しく触れているが、新幹線は、純粋な高速鉄道専用線として開発された。一方TGVは、既存の路線網を活用したため、在来線も貨物列車も同じ軌道を走る。当然、制御システムは複雑になる。(ただし最近は専用線も多く建設されている)

実際、TGVは、過去に何度も踏切での自動車との衝突事故を起こしており、安全性は日本の新幹線に比べ落ちる。しかし、建設コストははるかに安く、しかも他国への直通運転も可能なため、いまではフランスを拠点にドイツ、ベルギー、オランダ、イタリア、スペインにTGVは乗り入れており、やがては東欧にまで延伸する計画さえある。

海外への輸出も日本以上に積極的で、すでにスペイン、韓国、アメリカに車両を輸出しているし、中国の高速鉄道の一部にも納入された。また、モロッコで2015年開業予定のアフリカ初の高速鉄道も、TGVのシステムと車両が採用されている。高速鉄道の輸出実績では、圧倒的立場にある。

もう1カ国。日本の新幹線輸出に立ちはだかるのが中国だ。

少し前、中国が高速鉄道の国際特許をアメリカで申請したことに対して、日本は激しく反発した。

中国では1990年代初めから高速鉄道の建設が始まったが、当時の中国は改革・開放路線が始まったばかりで、高速鉄道技術などないに等しかった。そこで中国は、海外から技術輸入することにした。応じたのは、フランス、ドイツ、そして日本の3カ国だった。

日本では、JR東日本と川崎重工業が、東北新幹線で使用されている車両と技術を輸出したのだが、この技術は中国にパクられ、さらには独自技術として特許申請されるにいたった。

当初の日本側の思惑では、車両輸出が基本のはずだったが、中国側は輸入するのはごく一部で、大半を中国国内でのノックダウン生産を要求。海外への新幹線輸出という実績がほしかった日本側はそれに応じたのだが、後の祭りである。日本側の善意は踏みにじられた。

中国は2000年代に入ってから国内の高速鉄道整備を本格化。日本を抜いて世界一の高速鉄道大国となった。3年前の脱線事故のように、その急激な拡大策ならではの悲劇も起きているが、依然、猛スピードで路線延伸は続いている。

そしてその勢いを駆って、国内のみならず海外にも打って出ようとしている。東南アジアやアフリカ諸国がそのターゲットだ。

中国の最大の強みは、国と企業が完全に一体化していることだ。インフラ輸出成約のためなら、開発援助どころか軍事援助まで、あらゆることを政府がバックアップする。

その圧倒的パワーといかに伍していくか、日本にも国家的戦略が必要だ。

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独自の高速鉄道システムを

―― 宿利さんが理事長を務める一般社団法人国際高速鉄道協会(IHRA)は、この4月に誕生したばかりですが、発足までの経緯とその狙いについて聞かせてください。
宿利 今年は日本に新幹線が誕生して50年という大きな節目の年に当たります。その一方で世界に目を転じると、新興国はもちろん、先進国でも多くの国で高速鉄道の計画が浮上しています。この計画において、日本の新幹線システムが検討され、さらに採用されることは、日本にとって非常に意義のあることと考えています。

宿利正史・国際高速鉄道協会理事長
しゅくり・まさふみ 1951年生まれ。74年東京大学法学部を卒業し運輸省(現国土交通省)入省。在インドネシア大使館一等書記官、運輸大臣秘書官、国交省総合政策局長、大臣官房長、国土交通審議官等を歴任後、2011年に事務次官に就任。12年退官。この4月、IHRA初代理事長に就任した。東海道新幹線開通時は中学1年生、初乗車は高校2年生。

日本の新幹線が開業以来50年間、一度も列車起因の死傷事故を起こしていないことは、日本で暮らしていると当たり前のことのように考えてしまいますが、実は画期的なことなのです。しかも全国の主要都市間を、高速、高頻度に大量かつ安全につないでいます。日本は世界に対し、多くのメリットを持つ新幹線システムをもっとアピールしていく必要があります。

なぜ、日本の新幹線が安全かというと、ヨーロッパの高速鉄道などと違って、在来線や貨物線から独立し、道路や在来線と平面交差しない、純粋な高速旅客専用鉄道であることと、速度を制御し絶対に衝突を防ぐATC(自動列車制御装置)の2つの仕組みが、日本の高速鉄道の根幹にあるからです。

この「Crash Avoidance(衝突回避)」の原則により、新幹線は50年間、安全に運行されてきた。このシステムを世界各国に訴え、国際標準化し、日本の新幹線の素晴らしさをより多くの人たちに知ってもらいたい。IHRAはそのために設立されました。

―― 新幹線のシステムを発信するわけですね。
宿利 そうです。同時に、日本の新幹線が誕生してから50年で、どれだけの実績をあげたのか。それによって日本がどのように変わったのかも伝えていく必要があると考えています。経済、社会、ライフスタイルなど、新幹線によって大きな変革がもたらされました。つまり、どのような高速鉄道を採用するかで、その国の未来が変わります。こういうことを伝えることで、新幹線に対する本質的な理解が得られると思います。

―― フランスなどのヨーロッパ諸国や中国も、高速鉄道には力を入れています。その中で日本の新幹線が選ばれるには何が必要でしょうか。
宿利 先ほど、日本の新幹線システムについて説明しましたが、このような考え方に基づいてつくられた高速鉄道は、現時点では、日本と台湾以外にありません。

ヨーロッパの場合、19世紀に鉄道が大きく発達したものの、20世紀に入ってから、自動車と航空にシフトした歴史があります。ところが20世紀後半に再び鉄道が見直され、高速化しようとなった時に、既存のネットワークを活用することになったのです。国境をまたいで鉄道網が整備されていたため、国際高速鉄道としても利用できましたし、既存鉄道の活用ですから、投資額も抑えることができる。

ただし、そこには在来線も走っていれば貨物列車も走っている。既存のシステムに高速鉄道のシステムを加えるわけですから、新幹線のように、システムを一元的に管理することもできません。より複雑なシステムを管理することになり、事故の可能性も高まります。現にヨーロッパ方式の高速鉄道では、何度か事故が起きています。

だからといって、ヨーロッパのシステムが劣っているというつもりはありません。歴史的経緯があっていまのような形になっているのです。

日本でも、かつて新幹線を建設する際、在来線を活用すべきとの議論もありました。しかし日本の場合、ほとんどの鉄道が狭軌のため、高速化がむずかしい。そこで将来の発展を考えたら、専用線を敷くべきだということになったのです。

ですから、高速鉄道を新たに採用しようという国は、その国情や地域特性に合わせて、最適なシステムを選べばいいと思います。そのためにもIHRAが、国際的標準としての新幹線システムを、世界に発信していこうというわけです。

整う政府の支援体制

―― インフラ輸出の際に問題になるのが、日本は政府があまりに関与してこなかったというものです。他国の場合なら、政府ぐるみで輸出を後押ししています。日本はよくも悪くも企業任せというところがあります。
宿利 確かに以前は、政府はODA案件は別として、個別の案件には関わってこなかった。民のことは民にとの姿勢を貫いてきました。でもここ数年で大きく変わりました。官民が連携し、オールジャパンで取り組むようになっていますし、首相以下閣僚も、日本の技術や経験をアピールするようになってきました。

たとえば日立製作所がイギリスで大規模な鉄道案件の受注に成功しましたが、私も国土交通省の立場で関わってきました。この時は、公的なファイナンスのスキームまで変えて、日立をバックアップしています。それまで国際協力銀行(JBIC)は先進国向けの投資金融をやっていなかったのですが、鉄道に関しては先進国向けもJBICの業務に追加したのです。このような支援体制が、以前とは比べものにならないほど整ってきました。

ですから、もちろん企業は企業として最大限努力する。そして政府は様々なツールを用意して支援する。我々IHRAは新幹線のシステムをよく知ってもらう。このような連携した取り組みによって、日本の新幹線システムが世界に広がっていけばいいと考えています。

―― IHRAは、東海、東日本、西日本、九州のJR4社によって結成されました。国鉄の分割・民営化後、ある意味ライバル関係にあった4社がタッグを組む意味は大きいのではないですか。
宿利 4社が同じ目標、同じ意識を持って活動することは非常に意義があることだと思います。

それと同時に、国鉄改革後、4社がそれぞれ切磋琢磨してきたことが、日本の新幹線をさらに進化させたことも忘れてはなりません。

東海道新幹線と九州新幹線では置かれた状況が大きく違います。輸送量はもちろん、新幹線の果たす役割にも違いがある。その中で、どうすれば自らの役割を果たせるか考えた結果、九州新幹線ならではのサービスなどが生まれたのです。つまり4社それぞれが、新幹線システムという根幹を共有しながら、独自性を発揮している。もし一つの組織体で、同じコンセプトで全国の新幹線をつくったとしたら、こうはうまくいかなかったと思います。

そしてこの多様性は、新幹線を世界にアピールする場合にも有利に働きます。システムは同じでも、国や地域の特性に合わせた高速鉄道を提案するノウハウが日本にはあるわけですから。

―― 今後の活動を教えてください。
宿利 様々な機会を通じて、新幹線システムを発信していきます。10月22日には東京で、「高速鉄道国際会議~飛躍する高速鉄道~」を開きます。

 これには世界各国の運輸関係者を含む300名が参加する予定で、日本の新幹線システムの発展の軌跡を振り返るとともに、高速鉄道を導入しようとしている国・地域の計画や課題について情報を共有します。

また、IHRAのホームページなどを通じても、わかりやすく、日本の高速鉄道システムについて発信していく予定です。

最初に、日本のシステムを海外に広めたいと言いましたが、日本国内でも、50年前に採用された、新幹線という極めて優れた先進的鉄道システムについて、よく知らない人が多いと思います。ぜひとも理解を深めていただきたいですね。

(聞き手=本誌編集長・関 慎夫)

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インタビュー

 

伊達美和子
森トラスト・ホテルズ&リゾーツ社長

だて・みわこ 1994年聖心女子大学文学部卒業。96年慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科修了。同年長銀総合研究所に入社。98年森トラストに転じ、2000年取締役に。03年常務、08年専務。11年6月に森観光トラスト(現・森トラストホテルズ&リゾーツ)社長に就任。父親は、森トラスト社長の森章氏。

2020年の東京五輪に向け、客室単価も稼働率も軒並み上昇中のホテル業界が、さらにヒートアップしてきた。今後も続々と外資系ホテルが日本への上陸を予定するほか、日本勢も名門、ホテルオークラ東京が、1000億円超の投資額で建て替えられることになったからだ。そんな中、年々存在感を増してきているのが森トラスト・ホテルズ&リゾーツ。同社の伊達美和子社長(森トラスト専務も兼務)に、多彩な独自戦略や経営方針などを聞いた。

パストラル再開発の行方

―― インバウンド(訪日外国人)がようやく1000万人を超え、6年後の東京五輪に向けて弾みがついてきました。受け皿となるホテル業界もホットな話題が続いています。
伊達 昨年は、訪日外国人が1000万人を超えた記念すべき年でした。今年はさらに、毎月20~30%上昇し、過去最高を更新しています。韓国のように外国籍添乗員(クルー)も含めれば、1400万~1500万人はさほど遠くない数字だと思っています。

五輪開催は、東京を魅力的にし、さらに開催後も「観光都市・東京」を定着させるための手段にしなければならないでしょう。そのため、東京の経済的魅力と都市的魅力の両方を維持しながら、海外向けの積極的なプロモーション戦略の継続が必要だと思います。

―― まず、昨年2月に社名を森観光トラストから森トラスト・ホテルズ&リゾーツに変更された、狙いや思いを改めて聞かせてください。
伊達 大きなきっかけは昨年、創業40周年の節目を迎えたことですね。旧社名は日本語でしたが、最近の当社の展開を考えますと、ホテルズ&リゾーツと呼んだほうがグローバルに対応していく上でも相応しいと考えました。

今年4月にはコートヤード・バイ・マリオット東京ステーションがオープン。

当社の歴史は、日本で初めてとなる法人会員制のラフォーレ倶楽部創業以降を第1ステージとして、第2ステージが日本の歴史あるホテルとの提携を深めた時期(軽井沢の万平ホテルへの資本・経営参加や関西のリーガロイヤルホテルグループとの資本・業務提携など)、第3ステージが国際ブランドのホテル展開の時期(コンラッド東京やシャングリ・ラホテル東京、ウェスティンホテル仙台など)、そして現在は、これまで得てきた運営ノウハウを融合し、戦略的チャレンジを行う第4ステージに入っています。既存施設もグローバルブランドに変えていくという思いも込めて社名を変えました。

―― 昨年12月に実施した、ホテルラフォーレ東京から東京マリオットホテルへのリブランド戦略は、かなり前から検討されていたのですか。
伊達 構想としては、汐留にコンラッド東京を誘致(05年)した約10年前からですね。それまではラグジュアリーな客室が少なく、東京の今後の国際競争力を考えて、宿泊主体型のラグジュアリーな施設が必要との観点で誘致した、先駆け的なホテルでした。誘致を進める中で、東京は今後、さらに外資系ホテルが増えるだろうと予測していました。事実、現在東京にある客室の9%が、36平方メートル以上のラグジュアリーな客室で、その内55%が外資系ホテルです。しかも、そのほとんどが2000年以降の進出で新しい。ラフォーレ東京の次の展開を考えると、競合と戦うためには外資系ブランドにすることが重要だろうと考えました。

―― ホテルが入るのかどうかわかりませんが、森トラストが07年に約2300億円で落札した、虎ノ門パストラルの跡地再開発の展望は。
伊達 あのエリアの課題は、六本木通りと桜田通りをつなぐ道路が足りず、特に桜田通りに抜ける道路が城山通り1本しかないことです。そういうインフラの問題が1つ。周辺の開発はどんどん進んで混雑し、最寄り駅となる神谷町駅のキャパシティも足りなくなってきてますから、そういう地下鉄との接続性をどう高めるかが2つめ。さらに3つめとして、駅前の広場的なスペースの不足も課題です。その3つの要素を、我々が手がける再開発の中でうまくソリューションしていくことが役割だと思いますね。

建物の構想につきましては当然、主力事業のオフィスビルが中心になります。これまで、たとえば京橋OMビルや京橋トラストタワーという2つのビルを作る過程で、エネルギー環境と防災面に優れた技術を盛り込みましたし、新しいビルでも高い技術を取り入れることになるでしょう。大街区と言われる虎ノ門、神谷町エリアに、防災ビルとしての価値あるビルができるわけです。

さらに、滞在機能は確実に入れようと考えています。その際、住宅の方向に特化するのか、あるいは最近、サービスアパートメントという形態も出てきていますが、そういう少しホテルに近い機能にするのか、そのあたりはこれからです。

―― サービスアパートメントは、三井不動産や三菱地所も本格的に手がけていくようです。
伊達 アジアのヘッドクオーターとしての東京において、サービスアパートメントのニーズは確実に増えていくと考えています。今後、日本の労働人口がさらに減少する中で、グローバル人材はもっと増やさねばいけません。

そして、そういう方々が住む場所は、より都心でオフィスに近く、それでいて住環境も整い、病院や高度な教育機関も近くにあることが必須条件になるでしょう。そういう受け皿を、我々が作っていければと。

特に、グローバル人材をターゲットにするのが重要で、どんな立てつけにするのがベターなのか、そこは我々の今後の企画力にかかってくると思います。

「全て外資系にはしない」

―― それにしても、コンラッド、ウェスティン、シャングリ・ラ、マリオットと、国際的なホテルを次々と誘致され、国内でも実に幅広い提携をされていて、ほかに似た企業がないという印象があります。
伊達 よく、「今後、全部外資系のホテルに変えるんですか」というご質問を受けるのですが、それは考えていません。外資系ホテルに変える価値のあるところはリブランド投資を視野に入れますが、全てに当てはまるわけではありません。

―― マリオットとの関係で言えば、プリンスホテルも提携(東京・高輪にあるザ・プリンスさくらタワー東京が自社ブランドを維持したままセールスやマーケティングでマリオットと連携)しました。
これまで、森トラストはリーガロイヤルホテルグループと提携し、3%弱ながらホテルオークラにも出資するなど、国内ホテルとの連携も活発です。マリオットとの関係を機に、プリンスホテルとも何らかのコラボレーションや連携の可能性は。
伊達 たとえば、当社は仙台でウェスティンを誘致しましたが、ウェスティンホテル東京のオーナーはまた違うわけですし。我々自身もヒルトン系とマリオット系にも関わっていることを考えると、あくまで個々の物件ごとの選択肢だと思います。

昨年12月にここ(東京・北品川の東京マリオットホテル)をオープンし、今年4月にコートヤード・バイ・マリオット東京ステーションができ、昨年9月にプリンスホテルさんが提携。さらにザ・リッツカールトン京都、大阪マリオット都ホテルも開業し、当社もコートヤード・バイ・マリオット新大阪ステーションをオープンさせる予定ですので、マリオットグループだけでも相当な勢いで日本展開してきています。

ですから “マリオットファミリー”として相乗効果がお互いに生まれてきているという意味では(プリンスホテルとも)情報交換はしますし、サービス面で連携していくこともあり得るかもしれません。

ホテルの「殻」を破る新事業

―― ここまでのホテル展開の原点はラフォーレ倶楽部ですが、このラフォーレというブランドへの思いはどうでしょう。
伊達 不動産賃貸という事業から、不動産を活用するという事業にも打って出たのがラフォーレなんですね。グループの最初のホテル事業という意味では、とても重要です。

もう1つ重要なのは、通常のホテルではなく会員制ホテルを作ったことにより、ラフォーレの仕組みそのものが、独自のチャネルとなったことです。その重要性は、ラフォーレ事業を通してすごく重みを感じており、たとえば今年4月、強羅(神奈川県・箱根町)にある「湯の棲」というホテルをリニューアルオープンさせましたが、ほとんどPRしなかったにもかかわらず、ほぼ満室に近い稼働率で推移しています。これは、やはりラフォーレ倶楽部のチャネルがあるからなんですね。

同じように、ここ(旧ホテルラフォーレ東京)をリブランドする時に、マリオットを提携先として選んだのも、やはりマリオットが抱える全世界4000万人の会員と、4000棟近いホテルチャネルの存在が大きかったわけです。欧米は当然としてアジアや中国など、マリオットは常に経済成長している国にいち早く展開し、チャネルを持っていますから。

その豊富なチャネルを生かして様々な国の方が日本に来ることが、リブランドの相乗効果が最も高いと判断し、マリオットと提携したわけです。ですから、ホテルビジネスを考える時の基礎の中には、ラフォーレの事業プロセスが常にあります。ラフォーレをマリオットにリブランドしたのも、ビジネスモデルの方法論は同じで、あくまで姿を変えているだけです。

―― ラフォーレも含めて、森トラスト・ホテルズ&リゾーツという企業の将来像はどう描きますか。
伊達 さきほど言いました当社の第4ステージの中で、ホテルブランドを超えて、様々なものを融合させて昇華させることが重要です。

リブランドした東京のホテルやリニューアルした強羅のホテルは両方とも大変好調で、4月は昨年比で倍の売り上げとなりました。新規ホテルも早い段階から高稼働でスタートしています。このような投資をしている傍ら、イノベーション事業部という部署も作りました。

森トラストというディベロッパーが、いわば大型トラックのように大きな動きをしているのに対して、もう少し違う、ソフト分野を担う部署としてイノベーション事業部を立ち上げました。ですからこの部署の可能性は多彩で、太陽光発電事業もあれば、アグリビジネス、予防医学に関するプログラムや施設の提案も行っています。

また、コートヤード・バイ・マリオットでは、外部から見える1階レストランの見せ方にも工夫を凝らしていますし、こうしたノウハウを生かしつつ、森トラストの賃貸ビル内で働く方々に提供する、社員食堂的なビジネスの展開についても検討を始めました。

要は、いままでやってきたホテルのホスピタリティ事業を少しずつ分解しながら、ホテル業という殻から抜け出すような活動に結びつけていこうと思っているところです。

(聞き手・本誌編集委員・河野圭祐)

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経営戦記

中井加明三 野村不動産ホールディングス社長

なかい・かめぞう 1950年生まれ。兵庫県出身。74年関西学院大学商学部卒。同年野村證券に入社。95年取締役入りし、99年常務。2011年6月に野村不動産ホールディングス社長、12年4月から野村不動産社長も。野村土地建物や埼玉開発の社長も兼務。

大手不動産会社の一角で近年、存在感を増してきた野村不動産。看板は、何といっても知名度の高い人気マンションブランドの「プラウド」だが、今後はビル賃貸や商業施設を含む複合再開発にも本格的に挑む。野村不動産ホールディングスと野村不動産社長を兼務する中井加明三氏が語る戦略とは――。

「製販一体」の先駆けモデル

〔財閥系をはじめ、大手不動産会社が手掛ける分譲マンションのブランドはあまたあるが、知名度で、野村不動産の「PROUD(プラウド)」は、頭一つ抜けているといっていい。しかも、プラウドを立ち上げたのは2002年で、実際の物件第1号が竣工したのが翌03年と、まだ12年の 歴史のブランドだ。短期間で認知度の高いブランドに育てることができた理由はどこにあるのか。野村不動産ホールディングス社長で野村不動産のトップも兼務する中井加明三氏に、まずはその点を語ってもらうと――〕

当社では、マンションの開発、設計、販売をすべて社内の一元管理で行っています。要は製販、それに管理部隊も一体となってプラウドというブランドを作ってきたのです。過去、当社は財務体質が弱かったですから、マンションの売れ残り在庫を抱えるわけにはいきません。土地を一度仕入れたら、売ってまた土地を買い、大きな資金を回していかないといけないですから。

極端に言えば、マンション開発をしたら2年後、あるいは2年半後の竣工時までに、マーケット価格で売れるものはすべて売るというのが至上命題。となると、しっかりしたマンションを作り、きちんとしたマーケティングもして、どれぐらいの価格だったら売れるのかを常に意識していないと、作れば作るほど損になってしまいかねません。そこで、仕入れ、設計・開発、販売から管理に至るまで、上下関係なく横串を通して、相互の部署と常に何がベストなのかを議論してきました。

〔野村不動産のそのこだわりは、換言すれば後発ディベロッパーゆえの“ハングリー精神”といってもいい〕

その通りで、ある意味では、野村不動産の財務上の弱点を逆手にとって、強みに転換させたビジネスモデルといえるでしょう。大手ディベロッパー上位3社に比べ財務体質で劣る我々としては、真正面から対抗しても勝てません。ですから、いかに自分たちの独自性を出すかをみんなが必死で考え、とにかく経営資源を住宅に集中しよう、この舞台でなら勝てるかもしれないと。プラウドの立ち上げから何年か経過して、これならやれるという自信がつきました。

〔マンション販売戸数ランキングで、昨年こそ三井不動産レジデンシャルに首位を譲ったものの、一昨年はトップだった野村不動産。野村の販売戸数は昨年が6517戸で、後に続く住友不動産や三菱地所レジデンスには差をつけている。これは、11年にスタートした郊外マンション主力のセカンドブランド、「OHANA(オハナ)」の販売増加分も効いているが、今後は7000戸前後で安定供給させていきたいという〕

ここ数年、当社のマンション販売戸数は4000戸から6000戸まで、毎年1000戸ずつ増えてきました。今期は7000戸を目指しているわけですが、うち、6000戸がマンションで1000戸は戸建て。マンションは1000戸がオハナ、もう1000戸が再開発案件で、残り4000戸がプラウドというイメージで開発しています。

7000戸を維持する過程でしっかりブランド力を保てれば、トップランナーの一社として十分にやっていけます。で、その間に当社がこれまで手薄で弱かったビル賃貸や商業施設、あるいはノンアセットビジネスをどう組み立てていくか。住宅事業以外のセグメントを、向こう2、3年でどこまで強化できるかが今後の重点的な経営課題ですね。

〔野村不動産は売上高では5番手ながら、営業利益(743億円)、純利益(268億円)などの収益面では前期(2014年3月期)、東急不動産HDを抜いて4位につけた〕

12年に中長期の経営戦略を策定しましたが、民主党政権末期で安倍政権誕生前という、一番景気が悪い状態の時に計画を作りました。なので、計画では16年3月期に650億円の営業利益をめざし、同時に自己資本比率30%と、この2つを大きな目標に掲げました。16年から19年にかけての第2フェーズで、思い切って投資していこうという考えだったのです。

それが2期前倒しで達成でき、自己資本比率も27%を超えるところまできました。土地もだいぶ前に仕入れたものがメインなので、粗利益率で21~22%確保できて、全部がいいサイクルに入っていったというわけです。

都心の再開発で追い上げる

〔好決算をベースに、今後は得意とするマンション開発・販売だけでなく、商業施設やオフィスも含めた複合再開発に本格的に乗り出す。東京五輪に向け、都心部はすでに大手ディベロッパーによる再開発計画が目白押しだが、野村不動産もその戦線に加わっていくことになる〕

新しいステージでの成長を語る中井加明三氏。

昨年、開発企画部を作りました。おかげさまで、住宅での再開発は当社はトップランナーの1社です。ただ、商業施設やオフィスもという複合再開発になると、かつてはその分野に手を伸ばすだけの資金余力がありませんでした。ゆえに住宅分野に集中していったと。

一等地のいい物件はほとんどが再開発物件ですが、当社には住宅分野で培ったノウハウがあり、財務体質も強化されてきましたので、大きな投資にも耐え得る状況になりました。そこで、今後は複合再開発にも思い切って打って出ます。都心で当社が持っている土地で言えば、秋葉原、六本木、赤坂、日本橋、浜松町などのエリアがあります。こうしたところにしっかりと根を下ろして、5年後、あるいは10年後を見据えて開発していきたいですね。

社内では当初、複合再開発の本格化には異論もありましたが昨年、やろうという判断を私がして開発企画部を作ったところ、いろいろな情報が集まりだしました。そこで今春、さらに開発企画本部に格上げし、70人ぐらいの部隊を編成したわけです。6年後に東京五輪があり、特区制度もできて、建物の容積率の緩和などフォローの風が吹いてきますから、当社も遅まきながら複合再開発分野にしっかりとコミットメントしていこうと思います。

〔同業他社にはない強みとして挙げられるのが、野村證券という証券最大手のグループという点だ。不動産の資産運用や資産管理では、野村信託銀行との連携やシナジーなども考えられる〕

野村證券は、ご案内のように富裕層に対して相当、しっかりしたパイプを持っています。そこで野村信託銀行という「器」を使って不動産を活用していただく過程で、当社グループの野村不動産アーバンネット、あるいは野村不動産のCRE(企業不動産の管理・運営に関する企業戦略)部門、こうしたところが富裕層のコンサルティングにきちんと対応していく。

“理系女子”を積極採用

〔中井氏は、元は野村證券出身。大阪の進学校として知られる北野高校を経て、関西学院大学商学部に進み、1974年に野村に入社した。高校時代はバレーボール部に所属し、強豪校の主力選手として活躍した〕

就活は、いろいろな会社説明会に行っていた友人から「野村證券は学閥も閨閥もないらしい。中井みたいな面白い奴は向いてるかもしれないぞ」と言われましてね。ただ、実際に入ってみると確かに学閥、閨閥はないけど、なんという人づかいの荒い、厳しい会社だなと(笑)。でも、それだけよく鍛えられました。

〔入社時の野村のトップは北裏喜一郎氏。同期入社は古賀信行氏(現・野村HD会長)、北尾吉孝氏(現・SBIHD社長)、安東俊夫氏(元日本証券業協会会長)といった多士済々ぶりだった〕

74年入社組は300人採っているんです。それまでは100人ぐらいでした。最初の配属は上野支店で、その時の支店長が酒巻英雄さん(後に野村證券社長)です。それから大阪営業部に行った後、労働組合で委員長をやり、さらに銀座支店、そして池袋支店長になりました。その後は人事・企画。だから私は事業法人担当は経験していません。同期で言えば、古賀さんが企画、北尾さんが事業法人、安東さんと私がリテールが長かったことになります。

〔前述したように、野村不動産は今後、複合再開発の分野にも注力し、将来、事業構成比上もバランスのとれたものになれば、財閥系ディベロッパーに伍す存在になる可能性も広がってくる〕

古巣の野村證券時代はリテール畑が長かった中井氏。

2012年に立てた10年間の中長期経営計画では、最終年の22年に営業利益で1000億円と考えました。住宅事業で3分の1、ビル賃貸や遊休不動産開発などで3分の1、ノンアセットの仲介・資産運用・住宅管理の事業で3分の1。そういう形でポートフォリオを組めれば、ボラタイル(変化の激しい)なマーケットに対して、比較的安定した収益を保てるだろうと。

この3分野でそれぞれ300億円ずつぐらい稼ぎ、残り100億円は新規事業で収益を上げたいと思っています。ただ、あくまでも従来のビジネスの延長線での新規ビジネスであることが大事。プラウドの延長線でオハナを作ったように、新しいビジネスとしてそれなりの核になるものをどう作っていくか。

その1つがシニアビジネスで、シニアマーケットに対してどういうふうに対応すべきか。海外展開やエネルギー関連でも何か新しいビジネスができないか考えています。

私が社長になってすぐにR&D費用の予算化をし、産学共同、あるいは大学の研究室で一緒に研究したりということを社内で奨励してきました。ややもすると、新規ビジネス企画室みたいな部署を作ってからやろうという話になりがちですが、それは絶対にダメですね。新規ビジネスのための部署を特別に立ち上げるのではなく、もっと日々のビジネスの中で新しい事業が生まれないと。

〔新規ビジネスのシーズ探し、あるいはM&Aの仲介という意味でも、幅広い対面企業を擁する野村證券のネットワーク力は活きてくる〕

過去、東芝不動産を買った時(08年に約1500億円で買収。現・NREG東芝不動産)の経緯にしても、間に野村證券が入っています。(東芝不動産の買収は)相当、思い切った投資でしたけど、いまでは(NREG東芝不動産が)100億円超の利益を着実に上げています。それが結果として、野村不動産のビル賃貸ビジネスを一歩、進めたわけです。上位不動産3社を追いかけるというよりは、自分たちの資金力や器を考えながら、独自性を持ったビジネスモデルを作っていきたいですね。それも、(他社から見て)脅威になるような独自性を持ちたい。

もう1点、当社では総合職の35%は理系の社員なんです。これは、住宅における新しい技術開発をしていく点でも強みになりますし、ほかの大手ディベロッパーよりも高い比率だと思います。採用の段階で私が言っているのは、「全体の採用人数の中で女性を3割、理系を3割、ベストは“リケジョ”」ということ。

〔確かに、腕力も要るマンション開発事業に対し、中古仲介やリフォーム、リノベーション、管理といったストック型ビジネスは、少子高齢社会の進展でますます加速していくし、開発以上に女性の視点や活用が重要になってくる分野といえる〕

日本はこれまで新築偏重だったので、100年もつような堅牢なマンションや戸建て住宅がなかったんですが、ここへきて、耐震工法上も非常に優秀な技法が生まれ、“100年住宅”ができ始めています。そうなると、中古のマーケットはますます増えていく。その流れでいけば、当社でも中古仲介のビジネスは次の大きな核になると見ています。22年までの中長期経営計画中に、100店舗1000人体制を実現させます。

〔では、野村不動産HDのグループ将来像はどう描いているのか〕

まず、野村不動産はディベロッパーとして住宅とビル賃貸を担い、仲介の中心は野村不動産アーバンネット。さらに野村不動産パートナーズで管理ビジネスをしっかりやり、野村不動産投資顧問で運用のご期待に応えていく。これらのパーツが、持ち株会社の下でしっかりと絡み合い、全体のシナジーを生んでいく。それぞれの事業で、当該分野のトップ企業に伍していけるだけのクオリティを持ち、また維持できれば、独自の地位が確保できると思います。

(構成・本誌編集委員・河野圭祐)

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企業の匠

栄養満点のアーモンド

アーモンドと聞いて、一番に「アーモンドチョコレート」を思い浮かべる人は多いのではないだろうか。近年、健康食品としてクローズアップされるようになったアーモンドだが、日本人が一般的に食するようになったのは戦後のこと。その先駆けとなったのがグリコの菓子だった。

「1粒で2度美味しい」をキャッチフレーズに、キャラメルにアーモンドの香ばしさ、美味しさを盛り込んだ「アーモンドグリコ」が発売されたのが1955年のこと。そしてアーモンド1粒がまるごと入った「アーモンドチョコレート」が57年に発売され、アーモンドの知名度は一気に高まっていった。

アーモンドの健康効果について語る古屋敷氏(左)と矢野氏。

「当時、1粒まるごと入れるには、機械を使った製造ではかなり難しかったようです。しかし、創業者の江崎利一のこだわりから、開発が進められていきました」(マーケティング本部健康事業・スポーツフーズマーケティング部・矢野達也氏)

アーモンド商品の代名詞となったグリコの「アーモンドチョコレート」の発売以降、他社も競って追随し、菓子業界にとってアーモンドはなくてはならない存在になっている。

そのアーモンドに、抗酸化力のあるポリフェノールが多く含まれていることを発見したのもグリコ。以降、嗜好品だけでなく健康に注目した商品開発も行うようになった。そして健康食品に特化した商品の第1号となったのが、今年4月に発売された飲むアーモンドの「アーモンド効果」だ。

「アーモンドには、老化を遅らせ、若さを保つ『若返りのビタミン』と言われるビタミンEが豊富に含まれています。美肌には欠かせない亜鉛も多く含まれていますので、メラニンの代謝を促し、できてしまったシミやそばかすも消す効果があります。こうしたことから、『飲むアーモンド』はシニア層、特に中高年の女性をターゲットにした商品になっています。

すでにこのターゲット層はアーモンドが健康や美容に効果があることを知っているのですが、堅くて食べられない、歯に挟まる、といった中高年特有の問題があって、敬遠されがちでした。その問題を解消する製品形態であれば摂りつづけられる。我々の知見で生まれたのが飲料だったのです」(矢野氏)

アーモンドのビタミンE含有量はゴマの約310倍、食物繊維はレタスの約9倍に達するという。しかし、その堅さから、しっかり噛み砕くのが難しい。せっかくアーモンドを食べても、噛み砕けないがゆえに栄養成分が摂取できない可能性もあるという。

「アーモンドの栄養は、細胞壁のなかにあるんです。よく噛み砕けばその栄養が摂れるんですが、噛めなければ十分に摂れません。また、成人女性が1日に必要とするビタミンEの目安は約8ミリグラムですが、これはアーモンド23粒にあたります。それだけ食べると、150キロカロリーくらいになりますので、おやつにしてはカロリーが高くなってしまうのです」(健康科学研究所チームリーダー・古屋敷隆氏)

これらの問題を解決するのも、飲料の形態だった。

アーモンドのペースト。

「グループ会社のグリコ乳業のチームと研究したのですが、最初は豆乳のように粉にして絞ることを検討しました。それでも風味はよいのですが、味が薄く、絞りかすのほうに食物繊維やビタミンEが多く残ってしまう。せっかくの有用成分が利用できず、ロスも大きい。その次に検討したのが、細かくすりつぶしてペーストにすることでした。細かく細胞壁もすりつぶすことで、栄養のロスがなくなります。高圧をかけながら乳化をして滑らかになりつつ栄養素はすべて使えるという製法です」(古屋敷氏)

下の写真がそのペースト。すりつぶしただけのアーモンド100%の状態だ。アーモンドは約55%が油成分でできているため、すりつぶすと油成分が出てきて液状の形になるのだという。これに水等を加え、味を整えたものが「アーモンド効果」となる。80キロカロリーにおさえつつ、23粒分のビタミンEが含まれている。ちなみに、家庭のミキサーでアーモンドを潰しても、このようなペーストにはならないのでご注意を。細胞レベルまですりつぶさなければ、液状にはできない。

牛乳代替市場を狙う

実際、この「アーモンド効果」を飲むと、食感は牛乳に近く、飲んだ後にアーモンドの香ばしさを感じることができる。しかし、乳成分は入っていないという。

「アーモンドは半分くらいが油成分ですが、牛乳も3~3.5%は油ですし、油と水を混ぜた飲み物として、味ではない部分で牛乳っぽく感じるのかもしれません。世界を見ると、ココナッツミルクやアーモンドミルクといった牛乳代替市場は広くあります。日本のこの市場は豆乳しかない。『飲むアーモンド』は乳成分が入っていないのですが、この牛乳代替市場に入っていきたいと考えています」(矢野氏)

アメリカでは、実はアーモンド飲料がすでに豆乳を超える人気になっている。健康的な自然食品としての存在感が高まっているのだ。しかし、単純に味を考えると、米国仕様の味では薄く、日本人には美味しくないものになっているという。日本人が好む味に仕上げなければ、日本市場に飲むアーモンドは根付かない。

「牛乳を入れれば、アーモンドオレとして美味しくできますが、そうしないことにこだわりました。牛乳ではないので、乳製品にアレルギーがある方でも飲むことができます」(矢野氏)
「アーモンド効果」はグリコ乳業のリソースを使って製造されているが、乳を使う会社で、乳を使わずに製品化するのはなかなか苦労もあったようだ。

アーモンドが日本に広まったのはグリコのお菓子から。

「アーモンドはローストすればするほど、その香ばしさが強くなります。しかし、お菓子ではないので、あまり香ばしさが強すぎてもよくない。今回は飲みやすさを重視して、最適なロースト度合いと粒数にたどり着くまで、何度も試作を繰り返しました」(古屋敷氏)

開発段階では豆乳を毎日飲んでいる消費者にモニター参加を依頼し、豆乳よりも臭みがない飲みやすい飲料として誕生させたのだという。

アーモンドは健康食品として世界中で認知され、これまであまり食べられてこなかったロシアや中国での需要が高まっている。アーモンドの世界生産は99%がアメリカということもあり、レアメタルのごとく世界中で獲り合いの様相になっている。ここ2年ほどは不作だったこともあって価格も高騰。世界需要の伸びから、売り手側も強気の姿勢を崩していない。

「原価が上がっているのは事実ですが、最初にアーモンドを日本に広めたのはグリコだという自負もあります。アーモンドと言えばグリコだと呼ばれつづけるよう、価格、商品開発に力を入れていきたいですね」(矢野氏)

アンチエイジングの健康食品として脚光を浴びるアーモンド。グリコの飲むアーモンドをぜひ一度お試しあれ。

(本誌・児玉智浩)

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月刊BOSS×WizBizトップインタビュー

ネットリアル社長 浅地紀幸

あさぢ・のりゆき 1967年福井県生まれ。91年早稲田大学商学部を卒業後、アパレル輸入商社を経て、94年システムサコム入社。97年浅地彩図園に入社しインターネット事業部を創設。同社が2010年にaDsFactoryに社名変更したタイミングで社長に就任。さらには11年にネットリアルを設立した。

ファックス、DMを廉価で発送

―― 浅地さんの経営するネットリアルは、ファクスやDMなど、昔からあるマーケティングの手法とインターネットを組み合わせたサービスを展開しているそうですが、もともとはホームページ制作などを請け負っていたそうですね。どういうきっかけで、このビジネスを始めることになったのですか。
浅地 自分自身がこんなサービスが欲しいと思ったからです。

私は1997年に父の経営する浅地彩図園に入社し、東京でインターネット部門を立ち上げました。本社のある福井県からHTMLのできる人間を引っ張ってきましたが、営業も書面をつくるのも、全部私1人でやっていました。その頃の仕事のスタイルはというと、左手に電話、右手にパソコンといった具合で、電話でアポを申し入れては、応じたところに商談に行くといったものでした。

でも本来の営業活動というのは、フェイス・ツー・フェイスで向かい合った時から始まります。電話をかけてアポを取るというのは前段階にすぎません。そこの部分をシステム化して、面談に力を注ぐことができたら、どれだけ効率がいいかと、その頃から思っていました。

―― 必要は発明の母ですね。
浅地 それだけではありません。最初はホームページ制作から始めたのですが、やがてソリューションを提供するようになっていき、企業の売り上げアップ支援サイトを構築していったのです。そうすると、企業からさまざまな悩みが上がってきます。中でも中小企業に共通するのが、効率的にマーケティングする手法を持っていないということでした。日本の企業は作ることには熱心ですが、売ることやマーケティングが二の次になっているところが多い。だとしたら、そこを代行してあげることで、もっと効率的に仕事ができるのではないかと考えたのです。そこで3年前からサービスを開始しました。

―― 具体的なサービスの中身を教えてください。
浅地 まず、たとえばファクスでチラシを送信するとします。その場合、当社のサーバーにワードで作成した原稿をアップしてもらいます。するとそのサーバーから、送付先データに基づき一斉送信します。つまりファックス送信が、オフィスのパソコンから簡単にできるわけです。それでいて最大でも1件に10円という低価格です。DMの場合、チラシを持ち込んでもらえば、発送料込みで1件100円かかりません。

―― 確かに安いとは思いますが、それだけならただの配送代行業ですよね。
浅地 それだけではありません。ネットリアルでは、600万件の送付先の企業名簿も提供しています。その中から、地域や業種などを選んでファクスを送信することができます。またDMの場合も同様です。さらには、登記から1週間程度の新しい企業のデータも収集していますから、様々なニーズに対応することができます。

―― どうやってデータを集めているのですか。
浅地 データ収集にあたっては、独自の検索技術を開発したり、既存のデータベースを活用しています。もともとプログラムの開発も手掛けていましたから、そういうスキルもある。様々な手法を駆使しています。

私たちが提供しているのは、企業の面倒くささの代行です。ファクスやDMの送付先リストを自分たちで集めるのは大変です。それを私たちが代わって集める。送付にしても、自分たちでファクス番号を入力したり、宛名を印刷しようとすると大変な手間がかかる。それを私たちが代行する。そのぶん、顧客のみなさんは本来の営業活動だったりマーケティング活動に力を注ぐことができるのです。

―― それにしてもいまではメルマガなどのマーケティング手法もあるのに、ファクスやDMという昔ながらの手段というのが、これまでやってきたインターネットとのギャップが大きくて面白いですね。
浅地 いくらITが進展しても、人と人のやりとりはなくならないし、紙だってなくなりません。いまメルマガとおっしゃいましたが、実際、毎日数多く送られてくるメルマガのうち、いったいどれだけ目を通していますか。

―― 正直、大半のメルマガは開けることなくゴミ箱行きです。
浅地 そういう人が多いと思います。でもファクスの場合は、最初から開封されていますから、間違いなく一度は人の目に触れることになります。DMにしても、厚手の用紙に両面印刷して、それを片側が透明の封筒で送りますから、最低限、片側だけは見てもらえる。そういう良さがあるわけです。

メディアミックスで効率アップ

―― いろんなノウハウがあるんですね。
浅地 通常、ファクスの場合、レスポンス率は3%です。でもやりようによっては、これを4%に持っていくことができる。そのためにはタイミングだったり、文面だったり、ターゲットだったり、様々な要素の組み合わせによって変わってきます。しかも当社は電話営業代行サービスもやっているので、ファクスやDMの後で電話営業をすることによって、さらに効果を上げることができます。このようなメディアミックスの手法によって、中小企業を中心としたクライアントのサポートを行っています。

ですから、利用される方には、いろんなパターンを試してみることをお勧めします。どんな商品だって、一度で完成はしないでしょう。試行錯誤して最終製品になる。それと同じで、マーケティングも試行錯誤があっていい。当社のサービスは極めて廉価ですから、それも可能です。

―― いま会員数はどのくらいですか。
浅地 現在1万4500人ですが、これを、3年の間に10万人にまで増やすことが目標です。

―― かなり意欲的な目標ですね。
浅地 ですからこれからアライアンス戦略を強化していきます。会員ビジネスを行っている外部の会社と協力して、当社の会員数を増やそうと考えています。

さらには海外にも進出します。すでにシンガポールには現地法人をつくりましたが、これからは中小企業も東南アジアなど海外に進出していく時代です。そこで問題になるのは、いかに現地のパートナーを見つけるかです。そこで当社のノウハウをもとに、まずは現地の企業にDMなりファクスを送る。興味を示した会社と面談をセットすることで、効率よく進めることができます。このように、中小企業の応援をしていきたいと考えています。

―― 先ほどから何度か、中小企業のためにと言っていますが、いつからそういう思いを抱くようになったのですか。
浅地 小さい頃からですね。私の父は、福井県でラルフローレンなどのアパレルのネームタグをつける仕事をしていました。毎日一生懸命遅くまで働いても、なかなか売り上げは上がらない。もっと効率的に取引先を増やすことができればいいのに、とずっと思っていました。

私自身は、いずれは父の会社を継ぐつもりでアパレル輸入商社に入ったのですが、父から、跡を継ぐ必要はない、と言われたのです。そこでITの世界に転身したのですが、同時に中小企業の役に立とうと決めたのです。売るノウハウ、いい技術・商品があることを知らせるノウハウが中小企業にあれば、日本はもっと豊かになると信じ、その役に立ちたいと考えています。

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