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2015年1月号より

竹鶴を抜擢した信治郎の肝っ玉|月刊BOSSxWizBiz

NHKの連続テレビ小説「マッサン」では、いよいよ主人公マッサンが、ウイスキー造りのため、鴨居商店に入社する場面に入った。

マッサン(亀山政春)は、のちにニッカを創業する竹鶴政孝、鴨居商店は寿屋(サントリー)、そして鴨居商店の大将、鴨居欣次郎はサントリー創業者の鳥井信治郎をそれぞれモデルとしていることは、いまさら言うまでもないだろう。

赤玉ポートワイン(右)と初期のサントリーウイスキー。

ドラマの中の鴨居は豪放磊落な男として描かれているが、信治郎はそれ以上だった。今号の表紙にも使った日本初のヌードポスターで赤玉ポートワインの宣伝をしたことでもわかるように、その大胆な発想と行動力は群を抜いていた。それがサントリー成長の原動力となった。

ウイスキー造りのために竹鶴をスカウトする際には年俸4000円、今の価値にして1億円以上の給料を払っている。これはスコットランドから蒸留技術者を招聘するために用意していた金額だが、当時の竹鶴はまだ20代、しかもスコットランドで蒸留技術を学んだとはいえ、何の実績もない。そんな男に対する報酬としてはあまりに破格だった。

竹鶴は寿屋で、一からウイスキー造りに取り組む。工場や、蒸留するポットスチルなどの製造機器も、すべて竹鶴が設計した。こうして1924年、サントリーの山崎蒸留所が完成、日本初のウイスキー造りが始まった。竹鶴が日本のウイスキーの父と言われるのはそのためだ。

しかし、その後、竹鶴は信治郎と袂を分かち、北海道でニッカを創業、自ら理想とするウイスキーづくりに取り組むことになる。

「マッサン」で、2人の別れがどのように描かれるか興味深いところだが、その原因は、ウイスキーに対する考え方の違いにあった。

竹鶴がスコットランドで親しまれている本格的なウイスキーを目指したのに対し、信治郎は、本物でありながらも、日本人に親しまれるウイスキーにこだわった。

竹鶴にウイスキー造りの全権を委ねながら、最終的な味を決めるブレンダ―の座を渡そうとしなかったのもそのためだ。

大正時代の寿屋の社員たち。前列中央が信治郎。隣の子供が長男・吉太郎。

1879年生まれの信治郎は、13歳で大阪・道修町の薬種問屋に丁稚奉公に出る。ここでの調合などの経験が信治郎の「鼻」をつくった。そしてこの鼻は、日本人の好む匂いと味に対してきわめて鋭敏だった。

寿屋の初期のヒット商品といえば「赤玉ポートワイン」だが、各酒屋が、同様に甘く味付けしたワインを販売していた。その中で赤玉が人気となったのは、宣伝方法が秀でていただけではなく、より上質なワインを輸入し、さらにはそれに日本人の好きな味付けをする技術に優れていたからだ。

これはウイスキーでも同じだった。ウイスキーに馴染みのない日本人に、スコッチ風の味を売ったところで売れるはずがないと信治郎は喝破した。造り方はスコッチと同じでも、最終的な味は日本人好みとする。それが竹鶴とは相容れなかった。

信治郎の生涯を描いた『美酒一代』(杉森久英著)という伝記には、こんな信治郎の言葉が紹介されている。

「ブレンドは、好きでないとでけるもんやない。好きやったら好きで、一生懸命やりなはれ。そしたら自然にでけるようになる」

サントリーのマスターブレンダーは、信治郎から息子の佐治敬三、そして孫の鳥井信吾(現副会長)へと引き継がれている。

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