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2014年6月号より

“「番外地」を脱してキー局へテレビ東京50年史

科学技術専門テレビ

前稿でも触れたが、テレビ東京50年の歴史の前半部分は、苦難の歴史だった。

いまのテレビ東京は、当然のことだが株式会社だ。持ち株会社のテレビ東京ホールディングスは東証1部に上場し、4月14日時点で1579円の株価をつけている。

ところが50年前は違った。経営母体は日本科学技術振興財団という財団法人だった。テレビ東京(当時は東京12チャンネル)は日本が工業立国として発展するための、科学技術の振興を目的とした専門テレビ局としてスタートしたためだ。母体の財団法人は、日本財界の主立った企業が資金を出し合い設立されている。

そのため、当初から放送内容に対しても強い制約があり、予備免許が下りた時点では、科学教育番組60%、一般教育番組15%、教養報道番組25%で構成することが義務づけられていた。言うなれば、現在のNHK・Eテレの科学技術版ともいえるもので、娯楽要素など皆無だった。それでも一部には、教養番組の名を借りたバラエティ番組もあったのだが、誰が考えても視聴率など取れるはずがない。当然のことながら、スポンサーもつかなかった。結果として、開局直後から、テレビ東京は大赤字に見舞われる。

開局初年度の1965年3月期は13億9000万円の赤字を計上、66年3月期には24億900万円、67年3月期には32億6400万円(いずれも累積赤字)に達した。

財団でもこれを問題視し、65年3月には後に経団連会長となる植村甲午郎などを委員とする再建委員会が発足、1年かけて再建策を決定するのだが、それによって行われた対策はすさまじいものだった。

(1)当時、テレビ東京は1日16時間放送を行っていたのだが、これを朝10時から11時半、夕方17時から21時までの5時間半に短縮。日曜日は昼の放送をなくし、1日にわずか4時間しか放送しなかった。(2)当時500人ほどいた社員のうち200人を整理。一部社員に対しては指名解雇も行った。(3)科学技術番組の放送に徹し、営業活動は一切行わない。銀行融資と有力会社10社の拠出金のみで事業運営を行う。

以上の3項目が主な施策で、要は支出を極端まで抑え、最低限必要な科学技術番組を放送し、その資金については財界が手当てする、というものだった。

大量の人員整理をしたことで、社内は荒れた。指名解雇された社員は法廷闘争を繰り広げたし、窓一面に人員削減反対のビラが隙間なく貼られ、部屋の中から外の景色をみることができなかったという。

残った社員にしても、1日5時間半放送ともなると、それほど仕事があるわけでもなく、昼間から将棋や囲碁、さらには花札に興じていたというから、会社の士気はどん底まで落ちていたことがうかがえる。

業績も一向に改善しなかった。経費を圧縮したことで赤字幅こそ小さくなったが、営業しないテレビ局など成り立つわけもなく、泥沼の経営危機が続いていた。

68年には、番組制作会社として株式会社東京12チャンネルプロダクションを設立、制作部門と放送部門の分離に踏み切る、遅まきながら、財団主導による放送事業には無理があることに気づいたのだ。

それでも業績は好転しない。そこで財団を組成する日本財界は、日本経済新聞社に経営を委ねることとした。日経は当時、日本教育テレビ(現テレビ朝日)に経営参加していたこともあり、この要請に対してなかなか首を縦に振らなかったが、最後は財界の総意を受ける形で69年11月、経営を引き受けた。

参画した日経が、まず最初にやったのは、財団に与えられた放送免許を株式会社に移すことと、科学技術専門局から一般局への変更を認めさせることの2つだった。

日経新聞でテレビ事業を担当し、のちにテレビ東京に転じ中興の祖となる中川順が著した『秘史 日本経済を動かした実力者たち』(講談社)によると、この2つを認めさせるには国会承認も必要なため、それほど簡単なものではなかったという。そこで中川は、当時首相だった田中角栄の目白の私邸を早朝に訪ね、直談判に及んだという。それでも田中はなかなかウンと言わなかった。そこで中川がこの問題に自分の進退を賭していることを伝えると、
《田中は突然、黙り込み、天を仰ぐようにして瞑目してしまったのである。そして、沈黙の時が経った――。
突如、田中は口を開いて、大声で言った。
「よし、分かった。やれ。その代わり、電光石火でやるんだぞ。遅れると雑音が入り、行政裁判になるからな」
こう言い放つや、彼は机上に常時置いてある呼鈴をチーンと鳴らした。面会終わり、次の面会者を呼び込む合図である》(『秘史』より)

これにより73年11月1日、東京12チャンネルプロダクションを社名変更した東京12チャンネルが一般局としての免許を取得、新たなるスタートを切ることになった。

その甲斐あってか、74年3月期、テレビ東京は5億8600万円という過去最高の営業利益を計上する。ところが73年秋に起きた第1次オイルショックによって、高度成長を続けてきた日本経済は突然、大混乱に陥る。

狂乱物価となり、日本銀行は公定歩合を引き上げたため、企業の投資意欲は一気に減退、74年に日本経済はマイナス成長となる。これがテレビ局の経営も直撃する。テレビ東京も例外ではなく、75年3月期からは再び赤字に転落した。

テレビ東京中興の祖

テレビ東京中興の祖、中川順元社長。

こうした中、75年10月に社長に就任したのが日経新聞常務の中川だった。中川は日経記者時代、年間215本の1面トップ記事を書いたことで知られた敏腕記者だった。テレビ東京には以前、出向した経験があったが、その時は病気のため半年で離任していたため、リベンジの気持ちを持って着任した。

中川が社長に就任した時点で、テレビ東京の累積赤字は20億円に達していた。この赤字をなんとかしないことには、一歩も前に進めない。そこで中川は7割減資によって累損を一掃することを決意した。当時のテレビ東京の資本金は30億円。7割減資すれば、20億円がきれいさっぱり消えることになる。約30社の株主に対して根回しを行い、76年6月の株主総会で減資は認められた。

ただし、中川がすんなりとテレビ東京の社員たちに受け入れられたわけではない。前出『秘史』によると、連日、赤旗が立ち、「即刻、日経に帰れ」というシュプレヒコールが続いたという。

《私は誤解を解くために、日経の取締役を直ちに辞任し、組合に対しては(1)クビは切らない (2)ハシゴはずさない (3)筋を通す、の三条項を明示し、組合の無用の誤解をなくすことに努めた。(2)のハシゴははずさないというのは、ボーナスやベア回答に当たって、中間職制を尊重し、裏切るようなことはしないという意味である》(『秘史』より)

これにより社員の士気は上がったのだろう。減資が完了した76年度には、15億7200万円の営業利益を計上、最終利益も1億8600万円と初めて1億円を突破した。

そして開局15周年を迎えた79年。この年の株主総会で開局以来初の配当を実現、中川は「再建完了」を宣言した。

日経が経営に参加したことによって、番組内容も大きく変化した。75年には「きょうの株式」という株式情報を扱う番組がスタートしているし、77年正月からは、財界4団体(経団連、日経連、日商、経済同友会)の首脳を集め、中川が司会を務める「財界4首脳日本を語る」という番組も始まった。

いずれも日経新聞傘下だからこそ実現できた番組だ。それでもテレビ東京の不思議なところは、そうした経済の「お堅い」番組を編成する一方で、とてつもなく下品でくだらない番組をも放送していたことだ。

たとえば、中川が社長に就任した75年、山城新伍司会の「独占!男の時間」の放送がスタートしている。これは女性の裸は当たり前、落語家の笑福亭鶴瓶が局部を露出し、出入り禁止になったという曰く付きの番組だった。普通、日経新聞傘下ともなれば、そういう低俗番組の放送など許さないように思えるが、それを許す度量があったことが、今日のテレビ東京の活力につながっている。

前項にも登場した、テレビ東京元常務の石光勝氏によると、
「中川さんからそういったことで文句を言われたことはありませんね。好きにやっていい。中川さんはいつもそう言っていました」

いまに続く硬軟織り交ぜた番組編成は、この頃に醸成されたことがよくわかる。

再建が完了したといっても、それでテレビ東京が一人前になったわけではない。視聴率は時としてスマッシュヒットを放つものの、平均したら他の民放4局には及びもつかなかった。「番外地」はなお続いていた。

次に中川が目指したのは、(1)社名変更(2)ネットワークの拡充(3)新社屋の建設――の3つだった。

(1)東京12チャンネルという社名には、開局からの苦難の思い出しかない。将来に向け飛躍するためにも、社名変更が必要だと中川は考えた。

(2)テレビ東京以外の東京に本拠地を置く民放は、いずれもキー局と呼ばれている。それは地方に系列局を持ち、ネットワーク化しているためだ。ところが後発のテレビ東京には、ネットワークがなかった。この場合、地方発のニュースをいかに確保するかという問題が生じる。それ以上にテレビ局の経営上、問題なのは、全国ネットを持たないテレビ局には、ナショナルスポンサーがつきにくいという現実だった。

(3)新社屋建設については、中川は特別の思いを持っていた。

《私は日経時代、大手町の日経本社ビル新築(昭和三九年)の喜びを、身をもって体験している。それによって社員の士気はいやが上にも高揚したことを知っている。
財務上再建成ったテレビ東京が、新社屋を建設することになれば、経営は鬼に金棒である》(『秘史』より)

社名変更は81年10月に実現した。その後、地デジ化によって、テレビ東京のチャンネルは7チャンネルとなった。もし旧社名のままでいたら、かなり混乱もあったに違いない。

全国ネットの完成

ネットワークは82年3月にテレビ大阪が開局、翌年9月にテレビ愛知が続いた。これによりメガTON(東京、大阪、名古屋の頭文字)ネットワークが完成した。その後ネットワークはさらに拡大を続け、テレビせとうち、テレビ北海道、TVQ九州放送が加わり、TXNネットワークとその名も変わった。独立局時代の人口カバー率は30%にすぎなかったが、テレビ大阪とテレビ愛知が加わったことでは48%となり、TVQの加入した今日の人口カバー率は65%にまで上昇した。

そして東京・神谷町の新本社は85年11月15日に竣工、12チャンネルにちなんで、12月12日に移転、放送を開始した。ちなみに、昨年秋に、高橋雄一・テレビ東京社長は15年秋をメドに六本木3丁目に本社を移転することを明らかにした。旧日本IBM本社や六本木プリンスホテルがあった一帯を住友不動産が再開発しているもので、移転することでテレビ東京は、100周年に向けた3度目のスタートを切ることになる。

このように、中川の立てた3つの目標は、就任から15年ですべて達成された。

その後、日本はバブル経済に突入。かつてはスポンサー集めに苦労したテレビ東京でも、簡単に広告が集まるようになり、断るのに苦労する時代になった。86年には400億円に満たなかったテレビ東京単体売り上げは、91年度にはほぼ倍増、800億円近くになった。営業利益も円高の始まった85年度にはほぼゼロだったものが、90年度には47億円にまで増えている。

もっともこの後、バブル崩壊によって売り上げ、利益ともに低迷。その後持ち直すもののリーマン・ショックおよび東日本大震災の影響もあり、13年3月期には赤字も計上したのだが、前稿で述べたように前3月期はV字回復を果たしている。その利益水準は、他のキー局に比べればまだまだ低いが、それでも、テレビ東京が経営危機にあるとは、いまは誰もが思わないはずだ。

50年前、弱小テレビ局として誕生し、崖っ淵を歩き続けてきたテレビ東京だが、いまやキー局の一つとして独自の存在感を示している。「番外地」はすでに過去の言葉となった。

テレビ東京50年史

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