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特集記事

2014年5月号より

“全権を掌握したサラ・カサノバ社長の次の一手

10年で「原田体制」が終焉

日本マクドナルドには2人のカリスマがいる。初代カリスマは、創業者として30年以上トップに君臨し、カリスマ経営者として畏怖された藤田田だ。2人目が先日、社長を退任することを発表した原田泳幸。米国マクドナルド本社の、いわば「代理人」として、藤田が創った日本マクドナルドを改革し、米国マクドナルド本社の“一支社”に組み込んできた。

藤田が独創性に優れた創業型経営者なら、原田は米国本社の戦略を踏襲する番頭・官僚型タイプの経営者であり、経営者としての資質は全く異なる。

晩年の藤田は業績悪化に苦しんだが、それを救ったのが原田だった。しかしここにきて原田もまた、業績悪化に苦しんだ。果たして歴史は繰り返したのか――。
(文中敬称略)

☆……☆……☆

日本マクドナルドの経営は、原田泳幸氏(左)からサラ・カサノバ氏(右)に引き継がれたが……。

日本マクドナルドホールディングス(以下HD)は今年2月、サラ・カサノバ(48)が社長兼CEOに就く人事を発表した。原田泳幸(65)はHDと日本マクドナルド(以下マクドナルド)の会長にとどまるが代表権は返上。

原田は2004年5月に社長に就任すると、米国本社の管理下で米国本社の戦略、命令を忠実に実行した。それによって8年連続で既存店売上高の増収を実現し、「原田マジック」と言われたものの、12年13年と、一転して2期連続の大幅な営業減益に陥り、結果、社長退任に追い込まれた。

原田は当面、カサノバをフォローして、カサノバが自由に経営できる環境を整えるために動くと思われるが、その後はマクドナルドを去ることになるだろう。だが、社長が原田からカサノバに交代したからといって、マクドナルドが本当に復活するかどうかは未知数だ。

カサノバは、「商品メニューの見直し」「家族客重視の原点回帰」「宅配事業の拡大」などの施策に力を入れることで、再成長を目指す方針だ。しかし、それだけでマクドナルドが復調するとはとても思えない。

原田もカサノバも、そして米国マクドナルド本社も、日本市場の構造的な変化を本当に理解しているようには見えないからだ。

原田時代、マクドナルドはスクラップ&ビルドを進め、中途半端な規模の店舗をフランチャィズ(FC)化して本体と切り離し、経営効率を高めた。

その一方、超一等立地を取ることに全力を傾けた。超一等立地に大型店を構え、1店舗の売上高の極大化を図ることで収益を上げてきたのだ。ところが、全国3000店舗を超すマクドナルドには、出店する超一等立地が不足し、新たな店舗展開が困難になってきている。

このような立地不足に加え、ハンバーガーの消費構造が大きく変わってきている。ハンバーガービジネスを支えてきた団塊の世代がリタイアし、少子高齢化、人口減少社会へ突入する中で、マクドナルドを牽引する主要顧客が見当たらなくなってきたのだ。

その上、競争環境も大きく変わってきた。コーヒーチェーンのスターバックスが台頭、マクドナルドの顧客流出が常態化した。一方、マクドナルドの商品価格が割高になったため、顧客がモスフードなどのライバルチェーン店に行く頻度が増し、底流で“マクドナルド離れ”現象が広まっている。

もう1つ、コンビニエンスストアの隆盛にも影響を受けているが、そのコンビニも、全国で5万店が限度などと言われていたものの、ここ1~2年で6万店に迫る勢いで増えている。

こうした激戦下でコンビニが生き残るためには、マクドナルドやケンタッキー・フライド・チキン(以下KFC)などのファストフードや外食チェーンから客を奪うよりほかない。まさに業態を超えたサバイバルゲームである。

藤田田の遺産は500億円

マクドナルド創業者の藤田田は、1971年に米国マクドナルド本社の創業者レイ・クロック(故人)と「日本マクドナルド」を設立した。この際、藤田は交渉を有利に進め、株式は50対50の折半出資とし、米国本社からアドバイスは受けるが命令は拒む、という方針で臨んだ。

日本マクドナルドの創業者、藤田田。日本マクドナルドの創業者、藤田田。

その結果、藤田が経営権・人事権を握り、食材の輸入調達などでは自分で設立した「藤田商店」を使うという、従来では考えられないほどの好条件を勝ち取った。こうして71年7月、東京・銀座三越の一角に第1号店が誕生した。

筆者は藤田とはいささか縁がある。「週刊サンケイ」(廃刊)の記者を1年ほどやってフリーになった80年代後半、学研が出していたビジネス雑誌「活性」(月刊。その後廃刊)という雑誌で、藤田が在籍した旧制松江高校の名簿を元に、藤田の同級生に電話して、藤田の青春時代を取材した。

高校から大学時代にかけて藤田が何をしていたのか6~7人に聞いて回り、彼らの写真入りでコメントを載せたのだが、藤田はこの「活性」を大切に持っていた。

その縁で、社史「日本マクドナルド20年のあゆみ」を出す時、私が巻末の「藤田田伝」を書くことになった。藤田からの依頼だった。

91年の春頃、藤田と新宿住友ビルで会った。

藤田はその時、自分が起業家になるいきさつなどを2時間ほど話した。筆者はその内容を、「凡眼には見えない、心眼を開け、好機は常に眼前にあり 藤田田物語」として、400字40枚ほどの文章にまとめた。

藤田は父親の遺志もあって東大法学部に進学、外交官の道を目指すが、大学時代にGHQ(連合国軍最高司令部)の通訳のアルバイトをして、高額のアルバイト料をもらっているうちに人生観が変わった。

一方、兵隊の中で金貸しをして羽振りの良いユダヤ人と知り合い、ユダヤ人の人生観や金儲けに開眼した。藤田はこの時の体験を、72年に『ユダヤの商法―世界経済を動かす』という本にまとめた。これが大ベストセラーとなり、「東大出の異色のアントレプレナー(起業家)」「銀座のユダヤ商人」などと呼ばれ、一躍著名人になった。

藤田が、その時筆者に一番伝えたかったのは、東大法学部4年生の50年から、旧住友銀行(現・三井住友銀行)新橋支店で、月々5万円の定期預金を始めたことだ。

当時の5万円は大金で、日雇い労働者の賃金が、「二個四」(ニコヨン、100円札2、10円札4)で、手取り240円。25日間働いても「240円×25日=6000円」しかならない時代だった。その時代に藤田はアクセサリーなどを輸入販売する「藤田商店」をスタート。5万円の貯金を始めることで、独立開業のリスクに備えたのだ。

藤田はこの時、筆者に漢数字(算用数字併用)でタテに書かれた古い預金通帳(銀行の受領印あり)を見せてくれた。藤田は5万円の定期預金額を10万円、15万円と上げて、その時点で40年間続けてきたと言った。貯金は複利で回り、91年4月時点で「24億1157万6544円」(この数字も藤田が手を入れた)に達した。藤田は人生が「仕事×時間=巨大な力」ということを、定期預金を通して証明した。

藤田が米国マクドナルド本社創業者のレイ・クロックに信頼され、日本マクドナルドの経営権を任されたのは、その人物の魅力にあった。藤田はマクドナルドの経営でPOSシステム(販売時点情報管理)の開発、GIS(地理情報システム)の開発、パルスフライヤー(熱効率85%、ガス代が従来の半分)、テリヤキバーガーなど日本発のイノベーションを起こし、米国本社に導入させた。

結果、藤田は米国本社の役員に抜擢される。

米国トイザらス本部と合弁で立ち上げた日本トイザらスが、92年1月に奈良県橿原市に第2号店を開店する少し前も、藤田にインタビューした。その時、彼は豪快に笑いながら、こう言った。

「ハンバーガーが売れないもので、トイザらスにおもちゃを買いに来たお客様に、ハンバーガーを買ってもらう作戦だ」

不振のマックに対し、堅調な販売を続けるモスバーガー。

藤田時代の業績のピークは99年12月期で、売上高3285億円、営業利益307億円を記録した。これは過去最高の営業利益で、10年間の原田時代にも破られていないが、藤田はこの時代、店舗数の拡大に固執していた。

それは、藤田が国内でのハンバーガービジネスの限界に気づき、店舗をネットでつなぎ、店舗とネットを一体にして、現在の楽天やアマゾンのようなビジネスを考えていたからではないかと思う。

藤田は現在のソフトバンク社長の孫正義が米国に行く時、
「これからはコンピュータの時代だ。コンピュータをやりなさい!」とアドバイスした。時代の流れや先行きを見る目は確かで、ハンバーガー屋にとどめておくのは惜しい逸材だった。

藤田を挫折させたのは2000年代に入って勃発した狂牛病騒動だった。対前年で20%近くも売り上げが減少するという、顧客の“マクドナルド離れ”が起きたのだ。そこで、平日半額セール(130円のハンバーガーを65円)などを実施し、客離れを食い止めたが、この頃から値下げ、値上げなどを繰り返して戦略がふらつき始めた。

また、マクドナルドのビジネスは、牛肉などの原材料を大量に輸入する関係で、業績の半分はドル/円相場に左右された。円高なら好調で、円安なら不調というわけだ。このため藤田は晩年、為替相場に熱中した。

2001年7月にジャスダックに上場するが、その翌年の02年12月期、マクドナルドは創業以来、29年ぶりに初の赤字に転落した。

この時期、米国マクドナルド本社では藤田とパイプの太いジャック・グリーンバーグ会長兼CEOが経営不振の責任を問われ、退任している。

マック同様、業績悪化に苦しむケンタッキー・フライド・チキン。

新経営陣は、この時を待っていたかのように、藤田に価格政策の失敗や赤字転落の責任を取らせるため、「藤田外し」の圧力を強めた。この時期、藤田が健康体であれば圧力をかわすこともできたはずだが、心臓に持病を持ち、02年3月には会長兼CEOに就き、翌03年3月には会長兼CEOも退任させられた。あるいは、藤田自身が退任を望んだのかもしれない。

それから1年後の04年4月、藤田は心不全で死去した。享年78。藤田は491億円という、歴代6位の巨額な遺産を遺した。これは、マクドナルドの経営者として30年以上かかって遺したものが大半だと思われる。

日本マクドナルド創業者の藤田は、「桜が散るように静かに死にたい」と言い、その通りに逝った。

米マクドナルドの「代理人」

一方、原田は藤田の死去1カ月後の04年5月、日本マクドナルドの社長に就いた。原田は日本のアップルコンピュータ社長兼米国アップルコンピュータ副社長を務め、マーケティングに精通していた。

とはいえ、米国マクドナルド本社が原田に白羽の矢を立てたのは、合理主義者で効率を最優先し、日本的な義理人情といった浪花節的な世界とは無縁の、意志の強いところが買われたと思われる。

米国マクドナルド本社が、「代理人」として原田に託した最大のミッションが、藤田が30年以上に亘って構築してきた「日本マクドナルド文化」の、いわば破壊、一掃であった。

米国本社は、世界の中で米国に次いで売上高の大きい日本マクドナルドが、利益率の低さにあえいでいることに業を煮やしていた。

それが「ディスカウントの多発」にあることを踏まえ、原田に従来のマクドナルド文化を破壊し、日本マクドナルドが米国本社の命令に服従することを約束させたといえる。

原田は、社長に就任すると取締役会などを英語で全部進行し、藤田派の幹部の一掃を図った。

「同じバスに乗るのかどうか」と迫ったという。ある藤田派の幹部は、「突然英語でしゃべられ、英語以外しゃべってはダメだと言われた。何を話しているのか全く分からず、これでは辞めるより仕方ないと思った」と振り返る。

原田は自分の体制について来れない幹部を次々にクビにした。この時代、現場を知り尽くしたマーケティングや店舗運営業務などに通じたプロが10~20人規模で転職し、マクドナルドのノウハウが流出した。

原田は米国本社と連携を深め、世界のマクドナルドでヒットした「ワンダラー商品」(100円マック)、プレミアムローストコーヒーの「マックカフェ」の導入などを進めた。

戦線が伸びきった藤田の後に登板し、スクラップ&ビルドの推進、中途半端な規模の店のFC化、直営店のFC化を推進。07年末時点でFC比率が28%だったのを、13年末には68%まで急激に進めた。08年以降、店舗関連の売却益は累計で150億円を突破した。FC化の推進も、米国本社の意向を進めたものだった。

マスコミは、既存店を8期連続プラスに導いたことから、「原田マジック」などと称賛したが、原田の頂点は11年12月期までであった。翌年から、2期連続で業績は悪化するのだが、前述したように、米国本社も原田も、日本市場の構造変化を十分に理解していない。

原田の周囲には、MBA(経営学修士)を取得した優秀な幹部がたくさんいたが、現場を知り抜いた幹部が流出し、さらにその人材が、コンビニコーヒーの開発などで「逆襲」に出てきている。

原田の最大の弱点は、外食産業やファストフードビジネスというより、米国本社の意向通りの務めを果たしていれば成功できる、と考えていた節があったことではないか。

藤田と原田の最大の違いは、藤田がマクドナルドの創業者でカリスマであるのに対し、原田はカリスマ型とはいえやはり“雇われ”だったことだ。

原田はいずれ、多額の慰労金を得てマクドナルドを去るだろうが、それでも、藤田の491億円もの遺産に比べればはるかに少ないだろう。この差はそのまま、創業者と雇われ社長の差と見るべきか。

「原田が徹底的な効率化を進めたマクドナルドは、あと2~3年はぺんぺん草も生えないのではないか」

業界関係者の間ではそんな声も聞かれる。後事を託されたカサノバの前途は高く、険しい。

(経済ジャーナリスト・中村芳平)

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