2014年3月号より
無料プロバイダーが始まり
ライブドアと聞いて、最初に連想されるものは何か。おそらく、元ライブドア社長の堀江貴文氏の顔ではないだろうか。
堀江氏がライブドアの社長を退任したのは、もう8年も前のことだ。それでもなお堀江氏の印象が強いのは、その登場から散り方まで、ライブドア=堀江氏が社会に与えたインパクトが強烈だったからだろう。
ここではその堀江氏ではなく、ライブドアそのものにスポットを当ててみたい。その名はあまりに興味深い運命を辿っている。
もともと、株式会社ライブドアを立ち上げたのは、前刀禎明氏。ソニー出身で、ライブドア社長退任後も米アップルで携帯音楽プレーヤー「iPod mini(アイポッドミニ)」を仕掛けるなど、事業家として活躍している人物だ。
前刀氏がライブドアを創業したのが1999年のこと。まだ電話代もプロバイダー料金も従量制だったインターネット黎明期に、接続料無料のISP(インターネットサービスプロバイダー)をスタートさせ、従来にはなかったサービスとして高い注目を集めた。運営収入は広告で賄い、電話料金だけでネットに接続できるというビジネスモデルは、画期的だったと言えるだろう。ネットの普及と相俟って、会員数も急速に伸びていった。
2000年代になると「無料プロバイダー」を標榜するサービスを展開するライバル企業も出てきた。しかしライブドアも会員数を順調に増やし、01年5月には100万人を突破。無料ISPとしては最大手、有料プロバイダーを含めても7位と、大手プロバイダーの仲間入りを果たしている。
だが、経営としては安定軌道に乗れなかった。その理由の1つとして挙げられるのが、孫正義社長率いるソフトバンクのヤフーBBの大攻勢だった。ブロードバンドという言葉とともに、回線はISDNからADSLにシフトしていく。この波にライブドアは対抗できなかった。02年10月、ライブドアは民事再生手続き開始を申請。負債総額は約16億円だった。この時、事業を引き継いだのが、堀江貴文氏のオン・ザ・エッヂだった。
ちなみに、同時期に無料プロバイダー「ZERO」としてサービス展開していたゼロも経営不振に陥っている。ISP事業は04年にGMOインターネットに売却、会社そのものはスカイマークエアラインズ(現スカイマーク)に吸収された。厳密には、ゼロ創業者の西久保愼一氏がスカイマークに出資し、同社の社長に就任することで、ゼロの損失を解消させるために吸収したとも言える。これも一つの企業の終末としては興味深いドラマだろう。
さて、ライブドアの事業を引き継いだ堀江氏は、当初、無料ISP事業をコンテンツの1つと考えていた。ライブドアはあくまでサービスのブランド名だった。堀江氏は03年4月、オン・ザ・エッヂをエッジに社名変更している。この頃の堀江氏は、積極的にM&Aに手を伸ばしていた。ITバブル崩壊から2~3年というのは、「ビジネスをやめたい」と考えるベンチャー経営者が多かったからだ。ITバブル以降の急激な変化に耐えられず、高コスト体質のネットベンチャーが増えていた。安いコストで買収し、自社のインフラに乗せて固定費を減らし、グループシナジーを高めるという堀江氏の戦略は理にかなっていた。
堀江氏はエッジへの社名変更の際、「最初から大きくやろうとするから失敗するんですよ。ひとつひとつは小さくても、手堅く仕掛けることで、着実に収益に結びつく」とメディアによく語っていた。いま振り返ると、何とも不思議な気分になる。
しかし、堀江氏は再び社名変更に踏み切る。エッジへの変更から1年も経たない04年2月、ライブドアに社名変更したのだった。
一世を風靡したライブドア
エッジはもともと、オン・ザ・エッヂ時代からデータセンターに強みを持ち、「DATAHOUSE」というサービスを軸にしていた。これをポータルサイト「ライブドア」を軸にしたポータルサイト事業に本腰を入れるために社名変更に至った。これによりライブドアブログ、ライブドア掲示板など、メディア事業にも注力。同社のサービス名にはすべて「ライブドア」が付くようになっていく。
社名変更早々の2月、証券会社から近鉄球団買収の話が持ちかけられた。これは具体的な話ではなく、近鉄球団の窮状を示したものだ。買ってくれるところがあれば売ってもいいという状況だったのだろう。
日本プロ野球の04年シーズンは激動の1年だった。近鉄は当初、相手はともかく売却の意思があったと思われる。そこに1リーグ化を画策する球団が現われ、近鉄は売却ではなくオリックス球団との統合で話が進められていた。そこに割って入ったのがライブドアだった。
6月30日、ライブドアは記者会見を開き、近鉄に対して、買収の意思があることを伝えたと発表した。ポータルサイト事業に注力しようという時、プロ野球ほど認知が高まるコンテンツはない。堀江氏ら経営陣は、何としてでも参入を果たしたかった。しかし、黒いTシャツ姿で会見に現われた堀江氏の姿は、奇異の目で見られた。タラレバではあるが、もしこの時にスーツにネクタイ姿で会見に臨んでいたら、球界参入の可能性が少しは高まっていたかもしれない。近鉄はオリックスとの合併を選び、売却の意思がないことをライブドアに伝える。そこでライブドアは近鉄消滅によって空いた1枠に新規球団として参入する希望があることを8月に表明した。
結局、三木谷浩史社長の楽天に敗れ、球界参入はならなかったものの、この件でライブドアは爆発的に知名度を上げることができた。社名変更から1年で、名を知らぬ者はないほどの宣伝効果をあげ、ライブドアブログの利用者も爆発的に増えて、一躍時代の寵児となった。
05年、勢いに乗ったライブドアは、さらにM&Aを加速させる。3月にはニッポン放送の株式をの49.8%を取得、株式を巡る激しい戦いを通して、TOB、ホワイトナイトといった経済用語を社会に浸透させた。しかし同時に、ライブドアはヒールとしてのレッテルを貼られるようになってしまう。
この年、初代ライブドアから譲渡された無料プロバイダーのサービスを終了したが、中古車のジャック・ホールディングス、通販のセシールなどを買収。業容はどんどん拡大していった。敗れはしたが堀江氏は9月の衆議院選挙で立候補(広島6区)するなど、調子に乗っていた時期とも言えなくはない。必要以上に目立ちすぎると、目をつけられてしまうものだ。
LINEに買収される
06年1月16日、証券取引法違反容疑でライブドア本社と堀江氏の自宅等に家宅捜索が入った。ライブドア事件の始まりだった。24日には平松庚三氏がライブドア社長になる。取締役ではない異例の社長就任だった。堀江氏がライブドアという社名で社長だった時期はわずか2年しかなかったのである。
その後の堀江氏は、懲役2年6カ月の実刑を受け、2013年11月10日刑期を満了した。
堀江氏が去ったライブドアは、凋落の一途を辿った。ポータルサイトの広告収入も7割落ち、06年4月の上場廃止後は、子会社の売却を次々と進め、解体されていった。07年4月、ライブドアは持ち株会社化され、ライブドアホールディングスに社名変更された。傘下には事業会社として新たにライブドアが設立された(3代目)。そのライブドアHDは08年8月にLHDに社名変更し、グループの再編、解体を担った。
主な子会社の動向を見ると、ライブドアグループの中核事業だったライブドア証券は06年、かざかフィナンシャルグループの100%子会社になり、07年にはかざか証券に商号変更している。オンライントレード事業は09年にオリックス証券に売却され、そのオリックス証券も10年5月にマネックス証券と合併している。かざか証券の対面部門は現在も存続し、内藤証券の100%子会社になった。
中古車のライブドアオートは売却後、事業は継続されているものの、4度も商号を変え、親会社も転々と入れ替わっている。現在の社名はカーチスホールディングス。筆頭株主はKABホールディングスとなっている。通販のセシールは09年7月にフジテレビがTOBをかけ、完全子会社化。現在はディノス・セシールとして経営統合されているが、サービスとしてのセシールブランドは残された。
株主も変動し、06年3月、フジテレビが持っていたライブドア株12.75%(約95億円)をUSEN社長だった宇野康秀氏が個人で取得。USENとは業務提携したが、大きな成果は得られなかった。宇野氏はその後、07年8月にモルガン・スタンレー証券にライブドアHD株を売却している。
また堀江氏自身が持っていた株も、ライブドアHDから損害賠償請求を起こされた際の和解として、09年12月にLHDに引き渡されている。
10年5月、3代目ライブドアの全株式を韓国資本のNHN Japan(現LINE)が取得した。これに伴い、LHDは11年8月に会社の清算決議を行ったが、まだ訴訟が残っていたことから、いまも解散できずにいる。
3代目ライブドアは、12年に株式会社データホテルと社名変更された。ポータルサイト等のコンテンツ事業はNHN Japanに移管され、現在もポータルサイトとして“ライブドア”の名称が使われ続けている。ライブドアブログも健在。コンテンツ事業を除くデータセンター、ISPサービスなどのインフラ事業がデータホテルで運営されている形だ。奇しくもオン・ザ・エッヂ時代のインフラ事業のサービス名が継承されているのが興味深い。
NHN Japanは13年4月にLINEと社名変更。無料ISPでネット社会の扉を開いたライブドアは、企業としては消滅したものの、無料通話アプリの会社でその名前が受け継がれている。
(本誌・児玉智浩)