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特集記事

2014年1月号より

失ってわかる志賀俊之の存在感

ゴーンと阿吽の呼吸

2013年11月1日付の人事で志賀俊之氏がCOOを外れ、副会長に就任することが発表された。志賀氏がCOOに就いたのは05年4月1日のこと。8年半の長きにわたりCEOのゴーン氏を支えてきた。60歳になり、退任が噂されていたのは事実だが、「女房役」の突然の解任に少なからず驚きの声も上がった。

志賀氏がゴーン氏と初めて会ったのは、ルノーと日産が資本業務提携の調印をする前年、1998年の秋だった。当時のルノー会長兼CEOだったシュバイツァー氏が、日産にゴーン氏を紹介するという形での面会だったという。当時のことをふり返り、志賀氏は本誌のインタビューで次のように語っていた。

「すごい迫力の人で、こういう人の下で働きたいと思いましたよ。その後、ルノーと日産のアライアンスの話が進んで、誰が日産にCOOとして来るかという時、当時の塙義一社長が三顧の礼でゴーンを迎えたと告白していますが、それは本当の話なんです。私は当時下っ端でしたから後ろのほうで見ていただけですけど、ゴーンには本当に圧倒されました」

99年に企画室長だった志賀氏は、ルノーとの提携後、アライアンス推進室長も兼務した。ルノーとのパイプ役として存在感を高め、まさにゴーン氏の“相棒”としてルノー・日産連合の礎を築いたと言っていい。

その後2000年に常務執行役員として海外市場を担当、中国東風汽車との合弁交渉などで実績を残し、05年にCOOに就いた。志賀氏が国内組の評価を高めたのは、「日産リバイバルプラン」以降、苦しむ系列や販社に対し、徹底的にフォローに回ったことだった。さらにゴーン氏の経営に対する考えを日産社員に浸透させる、文字通りパイプ役として、ルノーからの信頼も厚かった。いつしか、ゴーン氏と志賀氏の間には、言葉を交わさずとも互いを理解できる阿吽の呼吸のようなものが生まれていた。

「ゴーンの経営は不思議なワザを使っているのではなく、いわゆる王道、極めてオーソドックスな手法なわけです。王道だからこそ、こういう時にこう分析して、こう判断する、というのが理解できる。“天才の勘”だったら、こうはいかないでしょう。現にここ2週間ほど連絡を取ってないんですよ。でも日常的なことをいちいち相談しなくても、ゴーンならこう判断するということはわかる。私だけでなく、社員全体がわかれば、会社全体が同じ方向に進むことができる。私がCOOとしてやりたいのはそこです」(志賀氏・05年)

ゴーン氏が日産の経営トップに就いて以降、「日産リバイバルプラン」「日産180」と順調に中期経営計画を達成し、コミットメント経営の本領を発揮してきた。しかし、ゴーン氏にとって3度目の中計である「日産バリューアップ」で、初めて未達を経験した。

バリューアップでは、08年3月期のグローバル販売台数を420万台に設定していた。しかし販売台数は伸び悩み、07年3月期の決算は7年ぶりの営業減益、さらにバリューアップの達成時期を09年3月期まで1年先送りにする禁じ手まで使う危機を迎えた。

05年にCOOに就任した志賀氏にしてみれば、就任直後からの不振に、更迭論が上がってもおかしくない状況だったという。ゴーン氏にとっては、自分がルノーのCEOを引き受けたせいで日産が凋落したとは言えない。経営責任を問う声をかわす必要があった。

「時間が欲しい。未達成ではない」

ゴーン氏が初めて吐いた弱音ともとれる叫びだった。

しかし、時間の先延ばしはゴーン氏に有利に働いた。07年ごろから顕在化した米国のサブムライムローン問題が世界中に飛び火、08年9月15日にリーマン・ブラザーズが破綻したことで、世界的な金融危機に陥ってしまう。

世界中の自動車メーカーが赤字に転落し、悲鳴をあげた。もう誰も日産バリューアップの未達を責める者はいなくなっていた。経営責任ではなく、いかに危機を乗り越えるかに焦点が移っていった。

裏方の仕事で大きな成果

リーマン・ショックを受けて、09年2月、中期経営計画「日産GT2012」は破棄され、「日産リカバリープラン」が示された。労務費削減や企業スポーツ活動の休部など、痛みを伴う計画となった。売上高増を狙うよりも企業を存続させるべくフリーキャッシュフローを優先させる経営にシフトしたのである。

この間、志賀氏は国内販売店の再編や、電気自動車のインフラ整備に向けて神奈川県や横浜市との交渉なども行ってきた。表には見えない経営の裏方の仕事である。

どのメーカーも身を縮めて危機が去るのを待っていたような状況のなかで、日産は志賀氏が築いた中国市場の恩恵もあり、いち早く黒字を回復。11年3月期には418万台を販売、過去最高の販売台数を記録し、一気に上げ潮ムードになった。

その11年3月に、東日本大震災が起きる。

日産も例外ではなく、福島県いわき市のいわき工場は壊滅的な状況に陥っていた。当時、日産本社では対策本部が設置され、本部長を務めていたのが志賀氏だった。

いわき工場は「Z」や「GT-R」「フーガ」といった高級車のエンジンを生産している。震度6強の揺れによる被害も大きかったが、福島第一原発から57キロという距離にあったことで、屋内退避を強いられた時期もあった。志賀氏は、まだ屋内退避が解除されない3月21日にいわき市を訪れて、現地を視察、渡辺敬夫市長を訪問している。いわき工場の要望にもほぼ満額回答で応えた。工場の復旧に志賀氏の果たした役割は大きかった。

2005年のCOO就任会見。志賀氏の代わりは見つかるのか。

こうした現場との調整や、地方自治体との折衝など、志賀氏がいればこそ成し遂げられた交渉事は非常に多い。震災復興のために国内自動車メーカーが横の連携を取ることができたのも、10年から自工会会長を務めていた志賀氏の存在感があればこそだろう。渉外担当として志賀氏の役割を残したのも理解できる。

海外メーカーと日本メーカーのアライアンスは難しく、多くが訣別している。そんななか、ルノー・日産がここまで協調できたのは、ゴーン氏というより、志賀氏の存在抜きには語れないはずだ。

ルノーと日産の提携直後、ゴーン氏には「コストカッター」との異名がつけられていた。一切のしがらみを気にすることなくリストラに邁進した姿に、冷徹さを感じた日本人は多かったはずだ。ゴーン氏の冷たさとは対照的に、志賀氏は非常に柔和なやさしいイメージがある。それに引きずられてか、次第にゴーン氏も温和な表情を撮られることが多くなったように思える。志賀氏はゴーン氏に対し、何をすれば日本人の反感を買うか、どうすれば日本人に受け入れられるのかをアドバイスしていたようだ。

志賀氏のことをマスコミはゴーン氏の「女房役」「右腕」などと表現し、ゴーン氏と一対で捉えていた。ゴーン氏は今回の人事を「引責辞任ではない」と強調するが、志賀氏のこれまでの貢献は計り知れない。業績という数字に表れない大きなものを失ったのかもしれない。

(本誌・児玉智浩)

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