PickUp(2016年12月号より)
バックナンバー
友だち追加数

© 2016 WizBiz inc.

 

特集記事

Home
   
働き盛りの男たちが陥る「更年期」というエアポケット|月刊BOSSxWizBiz

まじめで、几帳面。そういう人が更年期になりやすいタイプです。

うつと更年期を生み出すきっかけがいっぱい

聖路加国際病院リエゾンセンター 精神腫瘍科博士の河野裕子さんによると、カウンセリングに来た50歳前後の男性のなかに、更年期と思われる症状を持つ人が増えてきたという。

こうした状況で、うつと更年期を見極める手がかりとしているのが、ハミルトンうつ病評価尺度(通称HAM‐D)という心理検査だ。この検査には、抑うつ気分、仕事と活動、性欲の減退、身体症状などいくつかの質問項目があり、基本的にはうつの指標を導き出す検査だ。しかし、更年期の把握にも役立つ質問があるという。それが、性欲の減退についてだ。

「日本では、うつっぽいとカウンセリングに来ても、性的な質問を避ける傾向にありますが、更年期と性欲の減退や関心のなさは無関係ではありません。性的活動があるかないかではなく、性的関心が以前と比較して減退しているかどうかがポイントになります」

性欲の減退がすぐに更年期に結びつくわけではなく、うつの症状が性欲を減退させている可能性もある。また、更年期からうつになることもある。何がどう影響しているかを一概に判断することは難しいが、男性更年期と診断される人のほとんどが、性欲減退を訴え、症状がよくなると性的関心が現れてくるという。

そして、男性更年期に陥りやすい人には共通点があるという。

「例えば、『素敵なシャツですね』という何気ない褒め言葉に、シャイなティーンズの男の子のように顔を真っ赤にしたり、汗をすごくかいたりする人が多くいます。また、更年期と診断される男性には、知的で頭脳明晰なまじめなタイプが多いことも特徴です」

と話す河野さんだが、男性更年期が増えている背景には、今の40代後半から50代前半の男性が過ごしてきた時代が影響していると考えている。

「彼らが子どものころは、父親が外で働いて母親が専業主婦という家庭がほとんどでした。そして、父親が男としての存在感を放っている姿を見て育ってきています。しかし、自分が大人になると、男女雇用機会均等法が施行され、バブル経済が崩壊して、理想とする男性像と現実とのギャップが大きくなってきた。さらに、50歳になると会社から受けさせられるセカンドキャリア研修が追い打ちをかける。無理に定年後を考えさせられ、自分が第一線から外されたような気持ちになり、そのストレスが更年期のきっかけになる人も多くいるように感じます」

時代の大きな変化に惑わされ続けてきた今の更年期世代。河野さんのカウンセリングノートから、その実態を見ていこう。

特集 働き盛りの男たちが陥る「更年期」というエアポケット

このページのTOPへ

© 2016 WizBiz inc.

 

特集記事

Home
   
将来、家族、いきなりわく不安  ままにならない心と体|月刊BOSSxWizBiz

セカンドキャリア研修が引き金に

田中さんの第一印象は、少し疲れた俳優の堤真一さん。けれど、180センチを超える身長と体格の良さはいかにも男らしく、若かりしころはモテただろうなという感じです。大学時代にはアメリカンフットボール部に所属して、仲間とともに練習に励んでいたそうです。高学歴に加えて、体育会系の心身の強さは、就職時の採用ポイントのひとつにもなったでしょう。

そんな田中さんが相談にやってきた最初の理由は、「もの忘れがひどくなってきた」というものでした。

そのころ、職場では管理職への昇格が叶わず、部下だった女性が上司になったといいます。さらに、セカンドキャリア研修を受け、「もう自分の役目は終わってしまった感じがする。居場所がない感じがする」ということでした。

一生懸命働いて手に入れた自宅にすら居心地の悪さを感じていました。というのも、自宅を購入するときに妻の両親の援助を受けていたからです。なんとなく、妻に対して頭が上がらないような気持ちがあったのかもしれません。そして、一人息子は中学受験の真っ最中。妻は息子の勉強にかかりきり。寝転がってテレビを見ることにさえ、気が引けていたようです。

この年代の男性は、年下の女性社員をまだまだ「女の子」と呼んでしまうような世代。田中さんの口からも何度も「女の子」という言葉が発せられており、女性を上司として認めることに、なかなか気持ちがついていかなかったと考えられます。

HAM-Dを実施してみると、うつの症状が強かったため、産業医の先生を通して心療クリニックにも通ってもらいました。同時に、おカネのかからない、でも体を動かせる趣味を見つけるようにすすめました。

9カ月くらいカウンセリングに来ていた田中さんの様子が明らかに変わってきたのは、彼がマウンテンバイクを買ってからでした。休みの日に、男友だち数人と多摩川の上流までツーリングするようになったというのです。みんなでツーリングすることで、体育会時代の状態に近いことを体感できた。これが落ち込み気味だった更年期を明るい気持ちにさせる大きな要因になったと思います。

COUNSELOR'S EYE

田中さんのように、かつては男らしく遊び、男らしく仕事をしてきたタイプの人こそ、更年期に陥りやすいといえます。少し上の世代は、経済逃げ切り組で、うまく資産運用して夫婦仲良く老後を過ごしている。しかし、この年代は、バブル期には社会や女性からちやほやされていたにもかかわらず、その後は男としての居場所がなくなる一方……、そんなふうに感じる人が多いようです。

更年期をうまく乗り越えるためには、田中さんのように学生時代と同じような経験ができる趣味を見つけることは有効だと思います。ちなみに、自転車はおカネがかからないだけでなく、一人乗りの乗り物。奥さんから浮気の心配をされることもなく、更年期にはもってこいの趣味といえそうです。

特集 働き盛りの男たちが陥る「更年期」というエアポケット

このページのTOPへ

© 2016 WizBiz inc.

 
         

経営者インタビュー

「8つのナンバーワン」を10にも12にも増やしていく

小路明善 アサヒグループホールディングス社長兼COO
こうじ・あきよし 1951年11月8日生まれ。75年青山学院大学法学部卒。同年アサヒビールに入社。2000年人事戦略部長、01年執行役員経営戦略・人事戦略・事業計画推進担当、02年執行役員飲料事業担当、03年アサヒ飲料常務取締役企画本部長、05年アサヒビバレッジサービス社長を兼務、06年アサヒ飲料専務取締役、07年アサヒビール常務取締役、11年アサヒグループホールディングス取締役兼アサヒビール社長、16年アサヒグループホールディングス社長兼COOに就任。

酒類、飲料、食品のグループ中核事業会社を束ねる、アサヒグループホールディングス。同社のトップに、今年3月に就任したのが小路明善氏だ。グループシナジー最大化に加え、今後も勝ち続けていくための条件、業界再編から事業哲学、経営観まで幅広く聞いた。

新商品で先駆ける企業に

―― グループの酒類、飲料、食品、それぞれの事業の足元の課題やシナジー最大化はどう考えていますか。
これから3年程度の期間で、アサヒグループのダイナミックな成長の実現を成し遂げていく考えです。

まず、酒類、飲料、食品の各事業で、ナンバーワンブランド、ナンバーワンカテゴリーをいかに多く創出していくか。いま、ナンバーワンのブランドやカテゴリーが8つありましてね。ビール類の中のビールでナンバーワン。「スーパードライ」は1987年に発売をして、89年から27年間にわたって1億ケース超え(1ケースは大瓶20本換算)という大きな量を販売してきています。2つ目に、昨年は「ドライゼロ」を中心としたビールテイスト飲料でナンバーワンカテゴリーになりました。

東京・墨田区にあるアサヒグループホールディングスの本社ビル。

3つ目は、チリワインの「アルパカ」で輸入ワインナンバーワンを実現。4つ目は「三ツ矢サイダー」が透明炭酸飲料でナンバーワンブランド。5つ目は乳酸菌飲料市場で「カルピス」がナンバーワンです。6つ目は食品事業で、「ミンティア」という商品が錠菓市場でトップ。7つ目は和光堂のベビーフード、そして8つ目が、フリーズドライのみそ汁市場でナンバーワンと。

この数を10にし、さらに12、13と上げていく。そのためには、強みのある分野への集中を意識していかないといけません。その結果、ナンバーワン商品をたくさん持っていると、コストダウンにおける数字が非常に大きくなってくるんですね。小さい商品ではコストダウンもそれなりです。大きいブランドでコストダウン、コストリダクションをすると非常にその成果が出ますから。メーカーとしては、ナンバーワンの大きなブランドをたくさん持つことによって当然、生産効率も上がっていくわけです。

―― なるほど。ほかにも何かありますか。
既存商品を常にブラッシュアップして、付加価値を高めていくことが大事です。スーパードライも中身の付加価値を高めることによって、14年に米国で開かれたワールドビアカップで、大手メーカーでは初めて金賞を取りました。15年は、ブリュッセルビアチャレンジでも金賞受賞。スーパードライのようなロングセラーのブランド商品であっても、変えていいもの変えてはいけないものをしっかり持ちつつ、さらに磨いていくことが大事ですね。

もう1つ重要なのが、技術に裏打ちされた新価値商品。健康機能の飲料や食品です。そして、常にファーストエントリーをしなくてはいけない。一番最初に新しい価値の商品を市場に出していくと。そうすることで技術力もアップしていきますし、マーケティングも研究開発部門もモチベーションが上がる。後発でなく、ファーストエントリーということが大事なのです。これによってダイナミックな成長につなげていきたいですね。

買収、提携、さらに積極化

―― 企業買収、あるいはそこまでいかなくても、提携によっても事業の幅は広がります。
M&A、事業提携、あるいは統合、事業再編ももちろんです。欧州で大型買収(イタリアの「ペローニ」、オランダの「グロールシュ」など)を手がけ、欧州でのビールビジネスで大きな基盤を獲得することができました。「日本発のプレミアム・グローバル・ビールメーカー」を標榜して、量で戦うのではなく、今後もプレミアム・ビールメーカーとしての幹を太くするようなМ&Aを続けていきたいと思っています。

提携という意味では、我々は(沖縄県の)オリオンビールの筆頭株主ですが、沖縄フェアなどを活用して、沖縄県外にも広く拡販することで、ビールのカテゴリーを増やすことができます。ほかに軽井沢ビールとも提携をしまして、ここのクラフトビールをギフトセットで売ることもスタートしています。クラフトってあまり定義がないのですが、我々の流通ルートを使って、ある特定エリアでしか飲めなかった美味しいビールを、通年というわけにはいきませんが、ギフトなどを活用して売っていくわけです。

カゴメさんも筆頭株主ですので、以前、「レッドアイ」という共同開発商品も出しておりますし、自販機分野では大塚製薬さんと提携。さらに業界内で言えば、数年前からキリンビールさん、サッポロビールさんとは首都圏でビールの共同配送をしています。同業他社と共通のもの、特に物流面での協業はメーカー共通利益の確保にもつながりますしね。酒類や飲料分野は、競争と協調を明確にしていくべき時期に入ってきたのではないかと。この協調の部分はトップダウンで進めていきます。

―― ビール市場の縮小が始まって久しいわけですが、再編の可能性、あるいは必要性は、今後の状況によってはどこまで出てくるという認識ですか。
遠い将来、再編があるのか、あるいは現時点で再編の必要性があるかどうかというのは、何とも言えません。敢えて言うと、私は現時点での再編の必要性はあまり感じません。なぜか。たとえばオリオンビールを含めたビール5社それぞれが、規模は別にして、各社ごとに特徴ある商品を持っているわけです。それを持って事業を営んでいるということは、それに対する顧客がいるということなんですね。

再編すると、ブランドというのは必ず集約されます。せっかくいる顧客の嗜好をあまりにも無視してブランド集約をするというのは、メーカー論理に偏ってしまっているのではないかと。顧客に対して付加価値の高いブランドをいかに出していくかということと、再編の前に業界協調が必要です。もちろん、カルテルになるようなことは絶対にあってはなりません。

物流1つとっても、いまの首都圏での協業で効果が出ていますから、そのエリアを拡大していく。浮いた費用で商品の開発に回すことができるのです。あるいは、流通の効率化に使うこともできる。これは、流通や顧客にとっても歓迎されることですから。

そういうことを十分にやり切ってから、オリオンビールを含めたビール5社が、日本国内で多いのか多くないのかと考えていくべきですね。それを通り越して、一気にいまの5社体制でいいのかという議論は、まだまだ時期尚早であるという感じを強く持っています。

国内にも海外にも等距離で

―― 同業他社に比べて海外比率が低いアサヒグループですが、市場も嗜好も民族性も、あるいは気候も味覚も違う海外での展開は、特にクルマや家電と違って、口に入る食品分野はなかなか難しい面も多いと思います。

海外事業は、基本的には国内と同じようにやらないといけないと思っています。あまりにも現地に任せきりでもダメですし、かといって手を入れ過ぎてもダメ。任せることとハンズオンでグリップすることを、しっかりと明確にしていけば、海外事業はそんなに失敗しないはずです。

大事なのは、国内事業と海外事業のどちらにも、いかに当社(=アサヒグループホールディングス)が等距離でいるかということでしょう。物理的な距離はあっても極端な話、欧州でも2泊で出張に行ってこれるわけで、そこは意識して、国内事業と海外事業との距離感を常に同じに保っていくことは、非常に大事だと思います。

持ち株会社と事業会社のトップは、国内も海外も、あるいは酒類でも飲料でも食品でも、すべて同じ距離感を保っていくことが重要。特に海外の場合、出張が大変だと言って距離感が開いてしまうと、海外で何が起こっているかわからなくなる。その結果、打つ手が後手に回ってしまうわけです。

「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」という言葉を座右の銘にする小路社長。

―― もう1つ、企業の意思決定では、行き過ぎたトップダウンもいけないでしょうし、さりとてボトムアップばかりでももちろんダメでしょう。その兼ね合いはどう考えていますか。
トップダウン、ボトムアップは両方必要だと思っています。私の経営観で申し上げますと、トップというのは直観力と情熱がなければダメ。情熱が時にはトップダウンになりますし、直観力で判断、決断したものが、時には外からはトップダウンに見られることもあります。トップダウン、ボトムアップがバランスよく必要とは、あまり感じません。

それより大事なのは、社長にしか果たせない役割が直観力と情熱なのです。直観力も観察の観と感性の感の2つあって、少ない材料でも決断しなくてはいけないことがある。常に観察眼を研ぎ澄ませて、いろんなデータを見たり得意先に行って情報を聞いて、仮に少ない情報であっても、最適な判断、決断をトップとしてしなくてはいけない。それが観のほうです。

感性の感のほうは、たとえばスーパードライのピンク缶は、何年か前に私がゴーサインの指示を出しました。あるクルマ(=トヨタ自動車の「クラウン」)のピンクカラーバージョンを非常に研究しました。ただ、スーパードライは屋台骨ですから失敗は許されません。

ですから、ピンク缶のスーパードライは絶対に下からは案として上ってこないですね。ピンクにしてブランド棄損でも起こしたら、誰が責任を取るんだということになる。そういう、思いきり踏み出す時の決断というのは、感性を磨いてないとできないことです。

大学時代はギターが趣味

―― さて、小路さんのこれまでの軌跡ですが、就職活動、あるいは大学時代のクラブ活動などは。
音楽が好きなので、大学時代は、よくギターを弾いてましたね。就職活動は、オイルショックの直後でしたので、衣食住分野なら永遠になくならないだろうと。プラス金融の会社を受けました。

入社後は、当時の千葉支店に配属になり、自分ではそれなりの成績を残したつもりでしたが、その後1年で東北に転勤になりまして、4年半ぐらい営業担当です。

さらに、ある日突然、労働組合の専従になれと言われまして、確か1980年だったと思います。そこから約10年を過ごしたのですが、組合専従ではいまの会長(=泉谷直木氏)が先輩でいまして、2年ほどは一緒に仕事をしています。

―― 幅広い分野で経験を積まれてきた小路さんなので、多くの武勇伝があると思いますが。
東京の大きな飲食店の契約をひっくり返したというのはあります。そこには2日に一度、1年間通い詰めました。10階建ての飲食店ビルを改装、改修する時に全部、我々の商品棚にしていただいたのです。ただし、ビールは併売でしたけれども。

確かに、私も職歴だけは多いですね。営業10年、組合専従で10年、人事を7年ほどやり、飲料事業も5年ほど。その後、飲料分野で自販機会社の社長もやり、アサヒビールで財務担当、環境、経営戦略、広報や事業計画推進、あるいはITと。

―― 最後に、中長期で見たアサヒグループの近未来像はどうですか。
海外ウエイトをこれからどんどん高めていきます。全世界で存在価値が認識される、グローバル・プレイヤーになっていきたいですね。

いま、スーパードライは約70ヵ国で販売し、海外7ヵ国8ヵ所に生産拠点がありますが、国の数は広げなくていいと思っています。韓国のように、アサヒビールが輸入ビールでナンバーワンという国もありますし、こういうエリアをたくさん作っていきたい。

言い換えれば、生活になくてはならない商品を持った企業集団。これが近未来像の私のイメージですね。事業構成比は、買収で欧州のグローバル・ビールメーカーもグループに入ってきますし、これまで、М&Aの優先順位ではアジア・オセアニアで飲料事業中心に投資してきました。私の在任期間は、酒類、つまりビール、ここへの投資が優先順位としては高くなっていくと思います。

(聞き手=本誌編集委員・河野圭祐)


経営者インタビュー

© 2016 WizBiz inc.

 
 

経営者インタビュー

ビール、発泡酒、新ジャンル“全方位強化”で戦っていく

平野伸一 アサヒビール社長
ひらの・しんいち 1956年1月16日生まれ。79年早稲田大学教育学部卒。同年アサヒビールに入社。97年経営企画部中国室長、98年グローバルマネジメント部付上海担当チーフプロデューサー。99年中国代表部業務担当部長、2000年東京支社業務部長、01年首都圏本部営業企画部担当部長、02年東京支社副支社長、03年九州地区本部広域営業担当副本部長、05年焼酎部長、06年埼玉支社長、08年執行役員九州統括本部長、11年常務取締役営業統括本部長、13年専務取締役、15年取締役副社長、16年3月アサヒビール社長に就任。

最大の商戦真っただ中のビール業界。その中でビールの巨人というべき「スーパードライ」を擁するのがアサヒビールだ。発泡酒や新ジャンルも含めた足元の動向から今後の戦い方、海外戦略まで、前頁までの小路氏同様、2016年3月に社長に就任した平野伸一氏を直撃した。

「プライムリッチ」が急伸

―― まずは、上半期の1~6月のビール類のシェアを含めた総括から聞かせてください。
シェアで言えば39.2%、1.1ポイントほどアップをしましたので、これはよかったです。ただし、ビール、発泡酒、新ジャンルと分けて見てみると、ビールは前年比99.2%でした。それを補ったのが新ジャンルで、108.2%、トータルで101.2%という結果です。

今年の5月以降、国内の外食市場が極めて厳しくなりました。前年比101.2%というのは、ボリュームで言うと80万ケースほど増えているんですが、「スーパードライ」と新ジャンルの「クリアアサヒ」「プライムリッチ」の缶、この伸長分が180万ケースあるんです。

ところがトータルではプラス80万ケース。マイナス100万ケースの分は、主に樽と瓶なんです。つまり、業務用の数字が悪かった。もともと当社は業務用、つまりビールに強い会社で、家庭用で多い発泡酒や新ジャンルは2位、あるいは3位です。業務用が減って、いまは家庭回帰の〝家飲み〟が増えています。いままでですと劣勢に立たされるところでしたが、そこでクリアアサヒやプライムリッチなどが前年比2桁増、特にプライムリッチは135%と大きく伸ばせました。この押し上げ効果があったおかげで、業務用から家庭用にシフトしたいまの状況の中でも、当社はシェアを伸ばすことができたわけです。

―― 将来の酒税法改正を睨み、ビール回帰をメーカー側が段階的に進めている一方で、消費者の財布の紐は固く、価格の安い新ジャンルが人気化しているということですか。
原因をリサーチすると、ゴールデンウィーク明けの5月中旬ぐらいから節約モードに入っていて、外食を控えて家庭に回帰している構図がわかりました。ですから、我々メーカーサイドからすれば、(ビール、発泡酒、新ジャンルと)全方位でやることが一番、大事だろうと。これまでのように業務用に偏っていると、マイナスになります。

そういう中で当社は、年初から基幹商品のクオリティアップを図り、特にプライムリッチはベルギーの国際コンテストで三ツ星を取りまして、中身品質がものすごく上がったことが評価された。結果として大きな支持を頂戴し、さきほど言いました135%になったわけです。そういう意味では101.2%は中身のある数字だと思いますね。

―― 景況感や円高、株安の影響もあるとは思いますが、財布の紐が固くなった消費者に、再び外食など外に目を向けさせる方策は。
大きな取り組みの1つが、「アサヒスーパードライ 樽生乾杯キャンペーン」(2016年6月21日~8月21日までを対象期間として、スーパードライ等1リットルの売上げに対し1円を日本オリンピック委員会と日本障がい者スポーツ協会日本パラリンピック委員会などに寄付するもの。アサヒビールは20年の東京オリンピック・パラリンピックで、ビール&ワインでゴールドパートナー)でした。

エネルギッシュでアグレッシブな雰囲気を持つ平野伸一・アサヒビール社長。

全国に26万店ほど樽生店があるのですが、キャンペーンポスターを掲出させていただけないお店もあって、調べましたら18万店ぐらいは掲出が可能と。そこでお客様に知っていただき、飲食店にも賛同していただけて、しかもオリンピック・パラリンピックの選手育成にもなり、売上げ貢献にもなるわけです。おかげさまで、ポスター掲出店は22万店にまでなりました。これは極めて異例なケースでして、それだけ、消費者の皆さんは〝コト消費〟を期待されているということです。この効果で、業務用の樽のボリュームも上がりました。

乾杯キャンペーンは、当社がゴールドスポンサーであるがゆえにできることで、メーカーサイド、飲食店の流通の皆さま、それにお客様が三位一体となって参画できるキャンペーンでした。

その参画意識が高揚感になりますから、そういうものが有形無形でいい影響を多方面に及ぼしていくわけです。当社のスポンサーシップはありませんが、これは19年に日本で開催される、ラグビーのワールドカップも同様ですね。

「クリアクーラー」の経験

―― 話を戻しますと、消費者の嗜好もいろいろで、新ジャンルが人気な一方、母数は小さいですがクラフトビールも人気です。キリンビールでは、主力の「一番搾り」で47都道府県別に違う商品を出しました。
日本でもクラフトビールは成長してきていますが、私は米国ほどは人気にならないだろうと思いますね。日本のビールの特徴として、極めて品質が高いことが挙げられますので、今後もクラフト市場だけ大きな変化というのはないでしょう。

各地域地域のビールを作ることも大事ですが、ビールも発泡酒も新ジャンルもある。さらに缶チューハイなどのRTD分野もある、洋酒も焼酎もワインもあってバリエーションがありますから、それぞれの中身品質を徹底的によくすることが満足度を高める要因です。

スーパードライも来年の3月17日で、発売から満30年になりますので、しっかりと新たなステージに取り組んでいきます。

―― もう1つ、最近はコンビニ向けを中心とした共同開発商品も多くなってきました。コンビニの圧倒的な販路は大事ですが、一方でナショナル・ブランドを最優先で売りたいメーカー側からすれば、少し複雑な思いもあるのでは。
たとえば、セブン&アイ・ホールディングスさんとの取り組みで言えば、RTD分野で缶チューハイの「クリアクーラー」を長年、やらせていただいてますが、そこで商品開発のノウハウをいろいろ勉強しているということと、お客様がどういう購入行動をされているかも、非常に勉強になります。そういうことがずっと知見として生かされて、今年発売した(缶チューハイの)「もぎたて」ができたのです。

チューハイ市場では、残念ながら当社はこれまで4位でしたが、今年の上期で言えば3位に浮上したと理解していますけど、それまでは売れる商品がなかったんです。なので、コンビニの店頭では当社の缶チューハイは陳列棚から弾かれてしまう。スーパーでもそうです。クリアクーラーはずっとセブンさんと一緒にやっていますから、永続的に置いていただける。もぎたてとクリアクーラーとがうまくコラボできて、売上げ貢献のお手伝いもできるだろうと思っています。

―― さて、平野さんのこれまでの軌跡ですが。
入社後は東京の世田谷区で3年、杉並区で3年、家庭用市場を担当し、その後2年はデパートと飲食店チェーン担当で、その間、東京支店におりました。当時はまだ支社でなく支店の時代です。

で、86年にマーケティング部に異動。翌年3月にスーパードライが発売されるということで、大手広告代理店を交えて休日出勤もしょっちゅうあり、侃々諤々の議論をしたのが懐かしいですね。

スーパードライの黄色と赤を使った立て看板、あれは私が考案しました。普通、デザイン的に黄色と赤の原色同士の組み合わせって絶対にあり得ないんですが、ものすごいインパクトがあるんですね。当時は「アサヒ生ビール」が4000万ケース売れていまして、翌年発売予定のスーパードライは、予算では100万ケース、それも当初は首都圏限定だったのです。手探りでみんな素人集団でしたが、それがかえってよかったのかもしれません。

―― キャリア的には営業経験がお長いですが、持ち株会社の小路明善社長同様、平野さんもかなり多彩なキャリアを積まれてきてますね。
確かに、人事や経営企画にもいて、中国室長や中国駐在も経験し、焼酎部長もやりましたから、営業経験と半々ぐらいですかね。

―― これまでのキャリアで、最も苦労したのが中国事業担当の頃だそうですが。
確かに一番、苦しかったですね。当時、深センで青島ビールとの合弁会社を作りましたけど、それをずっと担当していました。これはもう、すごいプレッシャーで、中国ビジネスを黒字化しないといけない。当社の技術者も100人以上、出張、あるいは駐在してもらいましたし、技術陣総動員でやりましたからね。結果的には、初年度から黒字になったのでホッとしましたけど。

当時はいつでも中国に行き来できるよう、上着のポケットにずっとパスポートを入れてましたし、あの頃は2年半で計52回、中国に出張していましたから。

豪州では2位ブランドへ

―― その中国をはじめとした海外ですが、今後の展望はどうですか。今年の年初から、海外事業の一部が持ち株会社からアサヒビールに移管されていますが。
端的に言えば、スーパードライとニッカウヰスキーをさらに海外で売っていこうということです。ブランドエクイティを上げるために輸出を促進すると。

6月21日~8月21日まで、「アサヒスーパードライ 樽生乾杯キャンペーン」を実施し、成功を収めた。

韓国やシンガポール向けは輸出で、遠隔地の欧米向けは現地で作ってもらっていますが、基本は「ハイネケン方式」だと思っています。ハイネケンでは、自社で生産した商品を全量、輸出して、大きい市場に成長したら、現地で直営の工場を作る、あるいは買収して100%子会社にするというやり方です。

この秋口には、イタリアの「ペローニ」が、アサヒグループの100%子会社になります。そうなると、欧州ではいま、違う会社に当社製品を作っていただいてますけど、もしかしたらペローニで作ってもらったほうがいい。当社から技術者も行きますし、100%子会社ですからね。そこで作れば、いわばメイド・イン・ジャパンのスーパードライを輸出する延長線上です。

韓国では、輸入ビールで5年連続ナンバーワンですが、これはロッテさんと組んで「ロッテアサヒ」という会社を作れたことが一番大きいですね。

海外に出る時に、やみくもに出るのではなく、その市場を一番知っていて、しかも流通への配荷力があるところとの契約が大事。そこは、大手商社の方も同じことを言っています。現地で3位とか4位の企業では売り切れない。そうなると、こちらにいくらブランド力があっても売れないのです。

豪州に我々の子会社がありますが、現地ではスーパードライって4位なんです。1位は「コロナ」、2位が「ハイネケン」、3位が「ペローニ」、そしてスーパードライと。このプレミアム市場で、スーパードライとペローニが戦っていた。でも、今後は3位と4位が合流し、合わせると、ハイネケンを抜いて2位になります。豪州のプレミアム市場ではかなり大きな位置づけになるわけで、今後はいろいろなシナジーも出てくるでしょう。

ペローニは、イギリスでは輸入ビールでナンバーワンですが、スーパードライはダウンタウンで戦うビールではありません。価格は高くていい。「4つ星、あるいは5つ星ホテルや国際空港でスーパードライを売れ」と指示しています。

ただ単に、海外でどれだけのケース数を売るとかではなくて、ハイエンド市場で売りたいなと。いわば、BMWのような高級路線の市場でスーパードライは戦いたいのです。高くても買っていただける市場で勝負していくことが大事。

いま、海外ではスーパードライはまだ販売が1000万ケースに達していませんが、さらにブランド価値を上げていくマーケティング活動をしていきます。それがスーパードライ、およびニッカウヰスキーの戦略の立ち位置です。

(聞き手=本誌編集委員・河野圭祐)


経営者インタビュー

© 2016 WizBiz inc.

 
 

経営戦記

加留部 淳 豊田通商社長
かるべ・じゅん 1953年7月1日生まれ。神奈川県出身。76年横浜国立大学工学部電気工学科卒。同年豊田通商に入社。99年物流部長、2004年取締役入り。06年執行役員、08年常務執行役員、11年6月末より現職。学生時代はバスケットボール部に所属。座右の銘は着眼大局、着手小局。

近大とマグロ養殖でタッグ

〔昨年、豊田通商が近畿大学と提携して卵から育てるマグロの“完全養殖”事業に参入(養殖事業そのものは2010年に業務提携)するというニュースが大きな話題になった。11年に同社の社長に就いた加留部淳氏は、就任後初めての出張が近大水産研究所で、同研究所の宮下盛所長と意気投合。今後は豊通と近大のタッグで完全養殖マグロの生産を順次拡大し、海外へも輸出していく計画だ〕

もともと当社は人材育成には力を入れ、いろいろな研修プログラムを用意していますが、その中に若い社員の事業創造チャレンジのプログラムがあるんです。自分たちでまず研究し、社内外の先輩や識者の意見も聞いて新事業案を作らせるものですが、その過程で「ぜひ、近大さんの販売や養殖のお手伝いをしたい」と提案してきた社員がいましてね。

面白い事業プログラムだったので、当時の経営陣が「やってみろよ」と。で、動き始めて実際に予算もつけ、近大さんにもお話をしに行ってというのがスタートでした。こういう社内提案制度は、起業家精神の醸成にすごく必要だと思います。もう1つ、マグロの漁獲量が減る一方で、需要は日本や東南アジアを中心に増えているわけですから、商社のビジネスとして意義がある。会社としてもやる意味があるし、若い社員を育てる点でも有効、その2つの観点から全面的にバックアップしています。

もちろん、ほかの商社でも水産系ビジネスには力を入れています。その中で、我々は違う土俵で戦うケースもありますし、どうしても同じ土俵の時は、真っ向勝負だと当社の企業体力では勝てないわけですから、戦い方を考えないといけない。そこは全社員と共有しています。そういう意味でも、他社が手がけていないマグロの完全養殖事業は非常に面白いビジネスですね。

近大とマグロの完全養殖事業で提携。左端が宮下盛・近大水産研究所長、右から2人目が加留部社長(2014年7月の会見)。

〔近大とのタッグは話題性が大きかったが、豊通という会社全体として見れば1事業の域は出ていない。これに対し、加留部氏が12年末に決断した買収案件は全社横断的な規模だ。当時の為替レートで同社では過去最大となる、2340億円を投じて買収したフランスの商社、CFAO(セーファーオー)がそれ。CFAOは、30年には中国を上回る巨大市場になると目されるアフリカ市場で強固な事業基盤を持ち、とりわけフランス語圏の多いアフリカ西側地域で圧倒的な商権を持っている〕

過去最大の投資ですから、我々もものすごく慎重に考えましたし、私も実際に現場を見に行きましたが、先方も傘下の自動車販売会社の修理工場とか、結構オープンに見せてくれましてね。当社とはDNAが合いそうだなと。

もう1つ、彼らは自動車関連事業以外もたとえば医薬関係、あるいはオランダのハイネケンと一緒に合弁工場を手がけるほか、BICブランドのボールペンなど、プラスチック成型品の生産なども手がけていて当社と親和性が高かったのです。

海外に商社という業態はあまりないですが、彼らは自分たちのことをはっきり「商社だ」と言いますから。ですから豊通がやっている事業はすぐに理解してもらえましたし、右から左のトレーディングだけでなく、彼らは工場を持ってモノづくりまで踏み込んでいるので、(トヨタグループの豊通と)お互いの理解はすごく早かったですね。

唯一、気になったのは若手社員の意識でした。若い社員が果たしてアフリカの地でビジネスをやってくれるのかどうか。そこで数人の若手に聞いてみたところ「この買収案件はいいし、アフリカは将来、伸びる市場だからやりましょうよ」と。そういう声に最後、後押しをしてもらえたようなところもあるんです。“一人称”という言葉を当社ではよく使うんですが、一人称、つまり当事者意識をもってやっていく気持ちがあるかどうかが大事ですから。

独自戦略を掲げる加留部氏。

フランス商社買収で攻勢

〔前述したように、CFAOは歴史的にアフリカ西海岸エリアの市場を得意とし、豊通は東海岸に強みを持っていたため、エリア補完も綺麗に成立した〕

地域的、事業的な割り振りで言えば、自動車関係はお互いの強みなのでしっかりやっていこうと。アフリカ西海岸で当社が細々とやっていたテリトリーは全部、CFAOに渡しています。物流の共通化なども進めて、お互いの事業効率を高めてきていますし、トヨタ車の販売や物流もCFAOと一緒にやっています。

当社としてはマルチブランドを扱うつもりはあまりなくて、トヨタと日野自動車、スバル(=富士重工)の商品を扱うわけですが、CFAOはマルチブランドなので、たとえば今年、アフリカでフォルクスワーゲンとのビジネスも決めました。

当社はケニアでトヨタ車を扱っていますが、CFAOはケニアにVW車を持ってくるわけです。CFAOは豊通の子会社なのにと一瞬、矛盾するような印象を持たれるかもしれません。我々はトヨタ車で現地シェアナンバー1を取りたいけれども、彼らもVW車でナンバー2を取ればいい。そういう組み合わせみたいなものができてくると思うんです。

いずれにしても、自動車関係のビジネスはお互いに共通しているので、この分野はオーガニックな成長で伸ばしていけるでしょう。一方、医薬品関係はいま、彼らもどんどん伸ばしていて、我々も日本の製薬メーカーを紹介したりといったサポートをしています。

〔豊通がCFAOを買収したことで、新たな効果も表れてきている。たとえば、前述したCFAOが合弁で手がけるハイネケンの工場運営会社。豊通の傘下に入る前は、CFAOの株主が収益はすべて配当で還元してほしいと要請していたため、新しい投資ができなかったのだが、豊通が入ったことでロングタームで事業を見るようになってくれたのだ〕

私もハイネケンの合弁会社社長に会って話をしました。先方も理解してくれて、生産国もコンゴだけだったのを別の国でも展開しようという話に発展しましたしね。さらに、フランス大手スーパーのカルフール。CFAOがカルフールとの合弁でコートジボアールで店舗を出しますけど、これも私がカルフールの社長とお会いし、アフリカ8カ国で展開することを決めました。

日系メーカーとではこんな事例もあります。ヤマハ発動機のオートバイを生産する合弁会社をCFAOがナイジェリアで作るのですが、彼らもヤマハとのお付き合いは従前からあったものの、それほど深かったわけではありません。

一方で、我々は日本でも(ヤマハと)いろいろなビジネスをやらせていただいているので、この合弁話を提案したら了承してくださり、出資比率も50%ずつでOKしてくれたんです。CFAOは豊通の資本が入っている会社だからと、全幅の信頼を置いていただけた。普通は、日本のメーカーが現地へ出るのに50%ずつというのはあまりなく、イニシアチブは日本のメーカー側が取るものだからです。

そういうCFAOとの協業ロードマップは10年スパンで立てていまして、私もCFAOの首脳もお互いに行き来しています。フェース・トゥー・フェースで、年に4回ぐらいは顔を合わせているでしょうか。それ以外にも毎月、テレビ電話での会議も1時間半ぐらいかけて実施し、いまの経営課題や将来の絵図などをお互い共有化するようにしています。

〔豊通には、TRY1という経営ビジョンがある。これは収益比率として自動車と非自動車の割合を均等にしていき、さらに20年にはライフ&コミュニティ、アース&リソース、モビリティの3分野の収益比率を1対1対1にするというものだ。CFAOをテコにしたアフリカビジネスの拡大も、TRY1計画達成に寄与する部分は大きいだろう〕

いまでもCFAOは1億ユーロぐらいの純利益を上げていますから、それだけでも我々は彼らのプロフィットを(連結決算で)取り込むことができますし、プラス、将来的な絵図という意味でも、お互いにステップ・バイ・ステップで各事業を伸ばしていくことで、TRY1の実現にすごく貢献するはずです。

〔総合商社といえば近年、資源ビジネスで荒稼ぎしてきたイメージが強かったが、資源価格の市況に大きく左右されるリスクがあることは、住友商事や丸紅が資源価格の大幅な下落などで多額の減損を強いられたことでも明らか。とはいえ、こうしたリスクテイクは、総合商社にとってはいわばレーゾンデートルでもあり、投資するしないの判断は難しい〕

資源といってもいろいろあると思います。いまさら石炭や鉄鉱石の採掘ビジネスにお金をガンガンつぎこんでもダメ。また、シェールガスやシェールオイルも私が社長になった頃に他社がみんなやり出して、社内でも「やりたい」という声が多かったのは事実です。でも、よく調べてみたら、当社はすでに周回遅れ、しかも1周でなく2周も3周も遅れている。「これでは高値掴みしてしまう可能性があるし、投資金額も大きいのでやめておきなさい」と、社内でかなり明確に言いました。

ですから、我々はもっとニッチで別な土俵で勝負していこうと。たとえば、チリで開発しているヨード。これはイソジンのうがい薬、レントゲンを撮る時の造影剤でも使うんですが、ヨード産地は日本、米国、チリと世界で3カ国しかありません。当社はその全部の産地で開発拠点を持っているので、将来的には取り扱いシェアを15%まで高めたいと考えています。

ほかにも、アルゼンチンではこれからの自動車ビジネスに直結する、リチウム関連の鉱山事業を昨年から始めましたし、豊通らしさというんでしょうか、ニッチキラーでもいいからウチらしさが出て、かつ上位の商社とも十分に戦えるビジネス分野でやっていこう、というのが当社の基本ポリシーです。

〔目下、前述したTRY1達成に向けて歩を進める豊通だが、現在の非自動車ビジネス拡大の基盤を整えたともいえるのが、06年に旧トーメンと合併したこと。トーメンが持っていた化学品や食料といった主力事業分野を得たことで、総合商社としての幅が各段に広がったのだ〕

実際、事業ポートフォリオが広がって、合併は結果として大正解でした。エネルギーや電力関係のビジネスはいま、一部を除いてすごくうまくいっているんですが、こうしたジャンルは豊通のままだったら絶対に出てきていないビジネスですね。

豊通はもともとが自動車関連ビジネスメインでしたから、農耕民族なんです。畑を耕して種をまいて、雑草をとって肥料や水をやってと。それが狩猟民族(=トーメン)と見事に化学反応したという感じ。狩猟民族の人も農耕民族から学んでもらえたし、お互いの良さを認め合ってすごくいい合併だったと思います。

業界ランクには興味なし

〔加留部氏は横浜国立大学工学部出身だが、就職活動では「とにかく商売がやりたくてしかたがなかった」と述懐するように、入社試験は商社しか受けなかったという〕

私は1976年の入社ですが、当時は就職が全般的に厳しくなり始めた頃で、「商社冬の時代」になりかけていた難しい時期。各商社とも採用人数を絞り、狭き門になっていました。それでも私はとにかく商社に行きたくて、最初に内定をくれたのが豊通だったんです。商社としては規模は小さいけれど、その分、若手にも仕事を任せてくれるんじゃないかと。トヨタグループだから財務基盤もしっかりしていましたしね。

〔豊通入社後は3年目に米国駐在となり、米国でのビジネスで5年間揉まれて逞しくなった後に帰国。国内で6年過ごして結婚後、再び渡米して9年間駐在した。こうした国際経験豊富な加留部氏だけに、昨年からは入社7年目までの社員を対象に、駐在でも長期の研修でも語学留学でもいいから、とにかく一度、海外へ出ることを奨励している。

ただし、加留部氏はほかの商社との戦いにおいては、純利益で何位といった相対的な物差しでなく、あくまで豊通としてどうなのかという基準で考えると強調する〕

2年か3年前、社員みんなにメールを打った時に触れましたが、何大商社とか何位であるとかは、私はまったく関心がないんです。自分たちが目指す方向に向かえているかが大事ですから。たとえば敵失があって他社の順位が下がったとします。仮に順位を純利益で測ったとして、「他社が失敗してウチが5位になったところで君たちは嬉しいか? 私は嬉しくないよ」と。

社員向けのメッセージメールは年に8回か9回出していますが、ある時、新入社員から「何位を目指しますか?」という質問を受けた時も同じことを言いました。各社ごと、事業ポートフォリオがかなり違いますし、順位は関係ない。自分たちのビジネスがどうなのか、常にそこを自問自答し検証することが正しい道だと考えます。

(構成=本誌編集委員・河野圭祐)

このページのTOPへ

© 2016 WizBiz inc.

 

この企業の匠

Home
水と安全はタダという常識の中でトレビーノを浄水器の定番にした営業ウーマン

スケジュール、備忘録、その日にあったこと…手帳の使い方は人それぞれ。時代とともに手帳はどう変わりどう使われてきたのか、そして、手帳づくりのこだわりとは――。

ズラリと並んだ手帳

10月に入ると書店や文具店にズラリと並ぶ手帳。スマホなどでスケジュール管理している人も多いが、今なおビジネスパーソンには手帳は必須のアイテムといえる。

ここ数年続いている手帳ブームのなかで、ビジネスはもちろん、それぞれのシーンや使い方に合わせた新しい手帳が続々登場。そんな手帳のトップメーカーで、日本のビジネス手帳の草分け的存在なのが、日本能率協会マネジメントセンターである。そして、同社で1988年から手帳の商品開発・製作に携わってきたのが、NPB事業本部NOLTY企画部長の二宮昌愛さんだ。

「売れ筋の手帳サイズはB6。補完的な小さな手帳も売れています」と二宮さん

「今の手帳はビジネスだけでなく、プライベートなことも書くライフ・ログと、その目的が広がっています」

と話す二宮さん。手帳の歴史を少し振り返ってもらった。

「86年にシステム手帳のブームが一気に広まったのですが、当社では市場の動向を見極めながら87年に『バインデックス』を発売しています」

そうした状況下、二宮さんは通常の手帳「綴じ手帳」の商品開発、なかでも法人向け手帳を担当していた。

「当時は多くの会社が自社の社員や取引先、顧客への贈答用に手帳を作っていたので、そうした会社を回って要望を聞いて、手帳の企画を提案していました」

こうした手帳は「年玉(ねんぎょく)手帳」と言い、当時、手帳は〝もらうもの〟だった。これを一変させたのが、バブル崩壊だった。経費削減によって法人手帳は減り、手帳は〝買うもの〟へとなっていった。

「贈答用手帳を廃止された会社の近くの文房具店などで、特定のタイプの手帳が売り切れるので、調べてみるとそれまでその企業が作っていた手帳と同じタイプの手帳だったというようなことがありました」

最盛期、同社では3000社ほどの企業の年玉手帳を扱っていたがそれが潮が引くように減っていったという。そうした状況変化のなかで、これまでの法人向けの手帳とは違った市販の手帳市場が広がる。

「当時は市販向けの手帳のアイテム数はそれほど多くなかったので、まずは今の手帳の機能で十分なのかというところから検証を始めました。そこで出てきたのがこれまでのポケットに入れるスケジュールを書くビジネス手帳だけでなく、デスクに置いて記録をしていく大型のダイアリー的なものへの変化でした」

その一方、女性向けのビジネス手帳の需要も高まり、二宮さんはその対応にも追われた。

「当時はビジネス手帳というと男性向けのものばかり。しかも商品開発の担当が私ひとりだったので、女性向けの手帳を考えるため百貨店の女性バッグ売り場に行って流行の色や柄についてリサーチしたりしました」

と笑う二宮さん。まさに手探りの状態だった。これまで手帳というと「黒」が定番だったが、表紙のバリエーションを増やしたり、単にスケジュール管理にとどまらない将来を見据えた目標を書くようなページを作るなど「キャリアマネジメント」という発想を取り入れた。

手帳づくりのこだわり

こうした手帳を取り巻く環境の変化のなかで、同社では2013年5月、60年以上親しまれた「能率手帳」から「NOLTY」へとブランド名を変更した。その新ブランドのコンセプトは「成長を願う人に寄り添う毎日のパートナー」。このコンセプトのもと新商品の開発が始まった。

「U365」のスケジュール欄、罫線が目盛りなので書き分けられ、きれいに書き込める。

「まず、ブランドが変わって新商品を考えるときに行ったのは、これまでの手帳の未充足点は何かを洗い出し、今のユーザーの不満点を解消することでした。そのうえで私たちの考え方や提案を盛り込んでできたのがUシリーズです」

このシリーズの最大の特徴はスケジュール欄。通常、1日のスケジュール欄の時間目盛りは1つだが、Uシリーズではスケジュール欄に複数の罫線を入れ、その罫線を時間目盛りにした。これによってそれぞれの罫線をプロジェクトごとに分けたり、1本目の時間目盛りは予定、2本目は実際の行動、3本目はプライベートといった使い分け、さらにそれぞれは罫線の役目も果たしているため、きれいに書き込める。

このUシリーズは、レフト式のウィークリーと1日1ページの「U365」の2つタイプがあり、「U365」は昨年のグッドデザイン賞を受賞。時間軸とメモをきちんと分けたという点で意匠権。さらに特許を取得している。

人気のNOLTYシリーズ。

「開発をはじめたときは、これまで手帳をあまり使わなかった層を意識していました。でも、実際にはかなりの手帳好きな方、目の肥えた方に使っていただいており、そのあたりはわれわれが想像したものと違っていましたね」

こうした新しい手帳づくりの一方、これまで同様、それ以上に使いやすい手帳づくりへのこだわりは強い。それは紙であったり、毎日何度となく開いたり閉じたりする手帳だからこその製本技術だ。

「お客さまは自分に合った筆記具で、手帳を書かれます。ですから、いろいろな筆記具を試して、その相性を見ています。また、13年に新寿堂という製本会社を子会社にしたことで作業工程や糊の配合など製造現場での微妙な状況で品質が変わるということを知り、毎年改良し、確実に商品が良くなっています」

スマホがどんなに便利になっても、こうした作り手のこだわりがある限り、手帳が廃れることはない。

月刊BOSS×WizBizトップインタビュー

Home


【BOSS×WizBiz】「地方に答えがある」パソナが地方創生に注力する理由

南部靖之 パソナグループ代表
なんぶ・やすゆき 1952年生まれ。兵庫県神戸市出身。76年関西大学工学部卒業。卒業直前の76年2月に起業し、人材派遣会社テンポラリーセンター(現パソナ)を設立、社長に就任。93年社名をパソナに変更。2007年に持株会社パソナグループを設立、代表に就任。

地方に定住できる環境

―― 人材派遣のイメージが強いパソナですが、最近は「地方創生」というテーマで取り上げられることが多くなってきました。
最近でこそ地方創生と言われていますが、パソナグループでは15年ほど前に、農業やコールセンター等のBPO(ビジネスプロセスアウトソーシング)センターで、地方に雇用を生んでいこうと取り組み始めました。当時は、フリーターやニートの増加が社会問題化していたので、東京ではなく、地方でそういった方々が活躍できる環境ができないかと考えたわけです。

もう1つ、団塊の世代が定年を迎える2007年問題がありました。今では、シングルマザーの問題、高齢者の貧困問題も出てきています。こうした様々な問題を解決する答えが、地方にあると考えています。なぜなら家賃もそれほど高くなく、物価も安い。賃金の格差はあるかもしれませんが、都会にいたとしても企業によって処遇格差は大きい。都会にはない魅力のある地方で、人々が経験や能力を活かして活躍できる雇用機会を広げることで、様々な問題の解決につながっていくと考えています。

昨年から政府でも地方創生が大きなテーマになりました。パソナグループでは、地方での雇用のための取り組みがきっかけでしたから、地方創生なんてかっこいいものではありませんでした。農業で雇用を創出し、地域を活性化しようと始めました。

淡路島の「チャレンジファーム」では、南部代表自ら農作業に出ることも。

―― 淡路島には特に力を入れているようですね。
淡路島で農業を始めたのは08年からです。独立就農を目指す「パソナチャレンジファーム」、10年には廃校施設を活用した地域活性化拠点として「のじまスコーラ」を立ち上げました。そもそも農業に取り組み始めたのは、03年に秋田県で始めた農業インターンプロジェクトからです。その後は青森県や和歌山県で同じく農業人材の育成事業を開始しました。

そして、農業を通じた地域活性事業が広がって、昨年4月には京都府京丹後市の道の駅を「丹後王国『食のみやこ』」としてリニューアルオープンしました。そのほかにも岡山県で道の駅「くめなん」の運営を受託するなど、グループで全国各地で地方の雇用に関する取り組みを進めています。

地方には東京や都会にはない豊かさがあります。自然環境があって、文化・歴史もある。食事も美味しい。こうした豊かさを求めている人もいます。ようやく最近、地方創生と言われるようになって、地方を活性化しよう、地方のシャッター通りをなくそうと言われていますが、実態はまだまだ厳しいものがあります。私たちは、淡路島での取り組みを1つのモデルにして、全国で地域活性に取り組んでいきたいと考えています。

―― 都市部に若者が集中する状況は変わっていませんね。
いまだに東京、東京と言われ、学校を卒業すると、仕事を探しに若者が東京に集まっています。だからこそ魅力的な産業や新しい働き方ができる環境を淡路島につくって、「人材誘致」による地域活性を目指しています。そして最近は、地方に定住できるか、定住人口をどう増やすかを考えています。観光客を増やすことも大切なことですが、みんながそこに住めて豊かな生活を送れるためには、新産業が生まれることが大事なことです。

いまは東京の企業がコールセンター等を地方に作るようになりました。確かに雇用は生まれます。だけどもし、経済環境が激変して企業の業績が悪化すると、地方のコールセンターもダメになってしまいます。これは東京で稼いだ利益を地方で使っているにすぎないからです。

地方創生というのは、その文字のごとく、地方で新しいものを生んで、地方で利益を上げ、地方で払う。だから淡路島での取り組みは、地域に根付いた事業で、地域が持続的に発展できる産業を作ろうとしています。そのため時間もかかります。よく役員会でも怒られます(笑)。時間がかかるのは、産業を生み出しているからです。でも生んだあとは強いですからね。

「週の半分以上、淡路島にいる」と南部代表。

―― のじまスコーラはかなり軌道に乗ってきたとか。
そうです。「食・農・学・芸」をキーワードに、地域活性の情報発信基地として、また地域の交流の場として、様々なイベントを開催しています。パソナチャレンジファームで採れた新鮮野菜や、淡路島の特産品などを提供する直売所、レストランを設けています。淡路島に移住した人たちがそこで働き、定住しはじめました。年間約18万人の観光客にもお越しいただいています。

また、淡路島では若者の就労支援事業も行っていますが、兵庫県や淡路市が一緒に取り組んでくれました。10年には「半農半芸」という働き方を提案して、音楽家や芸術家らを全国から募りました。午前は農業で働いて、午後は音楽等の芸術を磨くという働き方です。3年間で300人が淡路島に来ました。地域活性や定住促進は、民間企業だけではやれることに限りがあります。県と市、地元の方々の理解があったおかげで、これまで島外から定住した人の数は、数十人ではきかないくらいいます。

―― 地方にとっては人口が減ることが大きな問題ですから、こうした前例を持っていることは大きな強みですね。
パソナグループがテンポラリーセンターという社名(1993年に商号変更)だった創業時からそうなのですが、当時の人材派遣や401k、ワークシェアリング、アウトソーシング、企業内保育所等々、いまでは普通になっている様々な事業や制度をパソナグループは先駆けて導入し、サービス提供をしてきました。企業理念は40年前の創業時から「社会の問題点を解決する」という不変のものです。まるでボランティア会社のようですが、時代に応じて生じる社会の問題を、私は会社という立場から解決するためにどうすればよいのかを考え、取り組んできたことが、これまでのパソナグループの事業になってきました。

―― 先ほどの話にもありましたが、地方を自立させる地方創生に取り組むには、投資と回収までの期間が長くなります。
起業した当時から、先が見えるような事業はやっていませんでしたから(笑)。人材派遣も法律ができたのは、創業から10年後です。女性の社会進出を支援するための仕組みとして浸透するのに10年はかかりました。アウトソーシングも、いまでこそグループ会社のベネフィット・ワンは株式上場もしていますが、福利厚生のアウトソーシングというサービスが浸透するまで5年くらいかかりました。最初から、いろんな社会の問題にメスを入れようとやってきたわけですから、それは地方創生であれ、変わりません。

ビジネスは地方から変わる

―― パソナは地方の起業家支援にも取り組んでいますが、実際、地方発のベンチャー企業はどのように見ていますか。
これは私の勘ですが、これからのベンチャー企業、特にITベンチャーは地方から興りますよ。日本の人口は減っていきますから、どうしてもマーケティングはグローバルになります。ということは、東京でも地方でも、世界を相手にする以上、大きな違いはなくなります。

そしてこれからは東京で、銀座でモノを売る時代ではなくなります。しかも若者に限らず、中高年の世代が存在感を発揮してきます。中高年の世代が資金とアイデアを出し、オーディション的に若者を募る。実際にビジネスをするのは若い世代です。アメーバのように、ある時は1000人の会社になり、ある時は1人の会社になるなど、専門家を上手に活用した極端なアウトソーシング化が進むと思います。

わかりやすく言えば、映画のように、監督、役者、スタッフが集まって製作し、終われば解散して次の作品を探す。こういったことがビジネスの世界でも、特に地方でものすごく速いスピードで進むと思います。

資本関係のある親会社、子会社、孫会社が系列内で仕事を進める日本独特の仕組みから、小さな会社が集合して、プロジェクトが終われば離れるという仕組みに変わっていきます。すでにIT系の企業はそうなっています。そして規模に関係なく、力のある個人が台頭してきます。その表れがアメリカのIT企業のように、個人や数名でスタートアップした企業が、数年でグローバル企業にまで成長する例です。日本でも地方からそういった企業が出てきます。

―― 東京の人口が減って、地方に移住していくと。
東京オリンピック・パラリンピックが引き金になるかもしれません。土地も物価も上がっていくと、若者は東京に住めなくなります。給料は上がらずに家賃も食費も上がるわけですから、若者は東京から大脱走をするかもしれません。一部の企業では、地方に保養所兼オフィスを作ろうという動きもあり、その兆しはすでに見えています。民間企業、経済団体が本気になって地方にいけば、地方での雇用機会は大きく拡大します。

地方は東京にくらべ、生活費は安く、保育所も東京ほど深刻ではない。教育についても、いまや地方のほうが優秀な学生を集めるいい大学が増えています。あらゆるものが大きく変わる時期にさしかかっているのは間違いありません。

日本企業でも、重厚長大の大企業が厳しくなり、業態を変えていく企業が続出しているなかで、個人の働き方も大きく変わる下地ができてきました。そうしたなかで、地方はすべての問題を解決すると思います。雇用だけでなく、食糧問題やエネルギー問題を解決する答えのすべてが地方にあります。

(写真上)2015年4月にリニューアルオープンした京丹後の道の駅「丹後王国『食のみやこ』」。今年は道の駅のグルメ日本一を決める「道‐1グランプリ」を初開催。(下)廃校になった小学校を再生し「食・農・学・芸」をキーワードに2012年に誕生した「のじまスコーラ」。淡路島の特産品や新鮮野菜を提供し、様々なイベントも開催するなど、島内外から観光客が訪れる地域活性のシンボル拠点になっている。

―― そのような時代だからこそ、パソナは地方に答えを見つけに行くということですか。
パソナグループの人材ビジネスにおいても、常に時代を先取りしていかなくてはいけません。人材派遣や人材紹介、アウトソーシングなど、企業の細かなニーズに応じて、提供するサービスは異なります。働く人々のニーズも、フルタイムで働きたい人もいれば、スキルアップしたい、経験を積みたいなど様々です。私たちは常に時代を先取りして、次に求められるスキルを提示し、そのスキルを身に付けられる教育機会を提供することが大事です。

かつて、ワードプロセッサーが世の中に出たときは、オフィス内に急激に広がると考えて、メーカーと一緒になってワープロオペレーターの育成をしたものです。そのような対応をこれからもずっと繰り返していくことが必要です。いま伸びている事業にだけ、あるいは儲かる分野にだけ投資をするような経営をしていたら、きっと潰れていたはずです。

今の社会の問題を解決する答えはきっと地方創生にある。そう思って、私自身、この5~6年はほとんど東京にいない生活です。週の半分は淡路島に行っています。現実的にはまだ地方の人口は減っていますが、ここに来て国も地方自治体も地方創生と言いはじめ、多くの人の関心が地方に向けられるようになったので、先が見えるようになってきました。

―― 今後の展望として、地方に対してどうアプローチしていきますか。
今後は健康産業にも目を向けようと思っています。健康産業が産業として雇用を生み出せるような仕組みを淡路島で作りたいと考えています。そして、パソナグループの事業を「スマート・ライフ・イニシアチブ」と位置づけて、地方で産業を興し、地方で個々人が活躍できるようなサポートインフラを構築して、雇用の創造と地方創生を手掛けていきたいと考えています。

© 2016 WizBiz inc.