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ホンダは変わるか|月刊BOSSxWizBiz


ホンダジェット納入開始も…

2015年のクリスマスイブ、12月24日にホンダが独自開発した小型ビジネスジェット機、「Honda Jet(ホンダジェット)」の引き渡しが開始された。

ついにホンダジェットの納入が始まった。中央が八郷社長。

なぜホンダが飛行機を作るのか、前社長の伊東孝紳氏は航空機事業についてこう語っていた。

「三次元のモビリティである航空機業界への参入は、創業者・本田宗一郎の夢であり、ホンダはその夢の実現に向けて、ジェットエンジンと機体の両方を開発するという、いまだかつてないチャレンジを長きにわたって続けてきました」

実際、本田宗一郎は1962年の社内報で「軽飛行機を開発しようと思っております」と社員に伝えている。しかし、当時はまだ一介の二輪車メーカーであり、四輪の発売もしていなかった。そんな時代に航空機業界に参入するなど、夢のまた夢のような状況だったろう。

現在、ジェットエンジンの開発は航空機エンジンR&Dセンターを中心に行われているが、ホンダが本格的に飛行機の開発に取り組み始めたのは86年のこと。和光基礎技術研究センター発足と同時に航空機用小型ガスタービンエンジンの研究をスタートさせている。

基礎技術研究センターでは、ジェットエンジンだけでなく、エレクトロニクス、新素材、コンピュータ科学といった、当時としてはバイクやクルマに結びつかないような分野の研究が進められていた。ここから生まれたのが、ロボットの「ASIMO」であり、被災後の福島第一原発で運用されている「災害対応ロボット」、ナビゲーションシステムの「インターナビ」、環境分野の「太陽電池」や「燃料電池」等々、数え上げればキリがない。しかし、研究分野には事業化されていないものも多い。数十年後の未来の技術革新を見据えた研究開発という理想がそこにある。新技術をM&A等で買い集めるのではなく、できるだけ自前で開発し、そのノウハウを研究所に蓄積していく“こだわり”は、ホンダならではの精神と言える。

ホンダの事業領域は、とにかく広い。事業の三本柱の1つである汎用製品では、耕運機やポンプ、船外機、除雪機、芝刈機など、さまざまなジャンルの製品を出している。

しかし、ホンダは何をやっている会社なのかと言えば、世間一般的なイメージは「自動車メーカー」が一番に挙げられるだろう。実際、いまや売り上げの約8割が四輪事業になっている。メディア等で取り上げられる機会も圧倒的にクルマだ。そのホンダを代表するビジネスであるクルマが大苦戦している。

品質問題で苦境

2014年のホンダは、欠陥地獄にはまってしまったかのように厳しい逆風が吹いた。13年秋に発売した3代目「フィット」が不具合を連発。発売後約1年で5度のリコールは、消費者の不安を煽るのに十分だった。加えて、タカタが欠陥エアバッグの回収のために世界で約3000万台のリコールをしたことも打撃を与えた。ホンダはタカタ製エアバッグの最大のユーザー。後日タカタからの賠償はあるのかもしれないが、最近は決算発表のたびにリコール関連費用を上乗せし、ホンダの四輪事業の利益率を押し下げてしまっている。

そもそも昔からホンダ車は販売台数のわりにリコールが多く、モータースポーツ流に言うならば「信頼性の低い」メーカーだと言われていた。その理由としては、他社がやらないことを技術導入することで、成熟度に欠ける面があったからだ。それでもホンダファンが増えたのは、革新性のイメージが先行していたからにほかならない。

だが、手がかかるクルマほどかわいいと言われたのは昔のこと。近年のクルマはコンピュータが走っているようなもので、たとえエンジニアでも専門分野以外の修理ができないレベルだ。

さらにユーザー側もクルマ離れとともに技術に関する知識がなくなり、どんな不具合であれ、リコールが多い=信用できないメーカーと認識されるようになっている。クルマ選びに「安全性」を求める比重が高くなっており、たとえタカタの問題であってもホンダ車が敬遠されるのは致し方がない状況だったと言える。

13年から続いた品質問題は、他社に比して次世代技術の遅れが生んだ焦りが原因と言われる。他社に負けない環境対応車を早く市場に出すという、いわば経営の都合で新しいハイブリッドシステムがフィットに搭載された。それゆえ、テスト不足による不具合が頻発。信頼性の検証が不十分なまま市場に出たツケがリコールになって表れたのだった。

信頼回復がなされないまま、昨年6月、伊東氏から八郷隆弘氏に社長交代が行われた。八郷新社長のミッションは明確であり、リコールのホンダという悪しきイメージの払しょくと、低迷する営業利益率を改善し、利益を出せる体質に変えることだ。

品質問題については、Mr.クオリティの異名を持つ福尾幸一氏が本田技術研究所の社長に就任し、いわゆる経営側と開発現場との綱引き役を担当する。八郷改革には〝技術のホンダ〟の再構築が欠かせないだけに、福尾研究所社長の責任は重い。

そこで今回の特集では、八郷ホンダ社長と福尾研究所社長のインタビューをもとに、八郷改革は成就するのか、あらためてホンダの課題とともに検証してみたい。

特集 ホンダは変わるか

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八郷 隆弘 本田技研工業社長
はちごう・たかひろ 1959年生まれ。82年本田技研工業入社。2007年本田技術研究所常務執行役員。08年購買本部四輪購買二部長、執行役員、10年購買本部購買二部長、11年鈴鹿製作所長、13年中国生産統括責任者、14年常務、15年専務を経て同年6月社長に就任。

昨年6月に社長に就任したのが八郷隆弘氏。ホンダは2016年3月期の業績見通しで売上高14兆5500億円と過去最高の売上高を見込みながら、営業利益では6850億円と、その利益率は4・7%にとどまる。度重なるリコールと相俟って、苦難の船出と言っていい。早急な改革が求められる立場に就いた八郷新社長はホンダをどう導いていくのか――。

現場力を引き出す

―― 就任後、約半年が過ぎて、改めて社長という立場で見たホンダはどのような会社でしょうか。
私はホンダに入社して本田技術研究所に二十数年在籍し、ほとんどの時間をクルマの開発に費やしてきました。その後購買に移り、取引先の現場を回る経験をし、鈴鹿製作所の所長を経て、欧州、中国に行きました。ホンダのなかでも現場に近い経歴だと思います。社長に就いて、改めて回ってみると、やはりホンダには現場力がある。個性あふれる人材が従事しています。この現場力をいかにうまく引き出してあげるかが、これからのホンダのカギになると感じています。現場で話をするなかで、一緒に頑張っていこうという声援もいただきましたし、現場が働きやすい環境をつくり、そこからモノが生まれてくるマネジメントをしていきたいと思いました。

私は主に四輪車事業に携わってきましたから、改めて二輪車、汎用の事業を見ると、お客様に根づき、世界中のいろいろなところでお客様の夢を提供している会社だと感じています。ホンダジェットも見に行きましたが、こんな業容の広い会社は、他にも類はないし、ホンダの強みになっていると思います。

―― ホンダのファン感謝デー等で、いわゆるホンダファンの声を聞くと、「ホンダらしい」クルマを出してほしいとの要望が強い。
ホンダらしい商品が欲しいとの声は、私どもにも届いています。我々が考えるホンダらしい商品というのは、1つは生活の役に立つもの。買っていただいた方の生活を変えて、さらに人生も変わるような、生活に密着した商品です。東京モーターショーでも発信しましたが、ホンダが二輪でスタートしたのはバタバタという自転車にエンジンを取り付けたものです。生活に密着している自転車を少しでも楽に乗れるよう、新しい生活を体験してもらおうと始めたものがスーパーカブになり、いまでも世界中で愛用されています。

就任後、初の東京モーターショーでスピーチする八郷社長。

四輪でも「N360」のようなクルマは、低価格で家族で楽しめる、新しいレジャー、新しい生活を提案する目的で開発されました。以降も環境に対応したCVCCエンジンや初代「オデッセイ」、「スッテプワゴン」といった新しい提案、最近では軽自動車の「N‐BOX」もそうです。北米で秋に出した「シビック」は、新しいCカテゴリのセダンです。デザインもハンドリングも、もう一回ホンダのFun To Driveをやり直そうと、次世代の環境対応と走りを両立するダウンサイジングターボという形で提案しています。生活に根づいた提案です。

もう一つは、モビリティの走りの追求です。ここでは「S660」、台数限定の「Type‐R」「NSX」と出してきましたので、これらを継続することによってホンダらしさがわかっていただけるのではないでしょうか。

―― ホンダらしい“走り”とはどのような認識ですか。
ストレスフリーで、運転することが負担にならない。スカッとする走り。移動するという目的で運転はしますが、ただの移動だけでなく、運転することが喜びとなり、楽しさや清々しさを感じる。お客様がポジティブになれるような走りが、ホンダらしい走りだと思って、そのようなクルマづくりをしています。

―― かつてのホンダのイメージは、他社がやっていないクルマを出す尖ったクルマづくりだと思います。最近は、いわゆる新提案のクルマがないことに不満を持つファンが多いのではないでしょうか。
メーカーとしては、出したクルマはしっかり育てることをやらなければいけないと思っています。2代目、3代目と継続的にクルマを作り込まなければ、買ったお客様ががっかりするでしょう。対して新しいチャレンジングなクルマの開発も手を抜いているわけではありません。

私は2011年に鈴鹿製作所にいました。軽自動車の開発生産、購買を一体にした「鈴鹿軽イノベーション」という軽に特化した部署を立ち上げ、そこから「N‐BOX」という従来にはなかった軽自動車をつくり、ホンダとしてNシリーズを新しい提案として打ち出しました。これは評価をいただいていると思いますし、ある程度の台数も稼げていると思います。グローバルで言えば中国では中国専用車を出し、インド、インドネシアでも地域に根づいている。

ただ、日本のお客様の期待に添えなかった車種が出たという反省はあります。新しい提案は自由で楽しいですが、自動車の場合は様々なメーカーからバリエーションが出揃っていることもあって、まったくの新提案は難しい。ですが、お客様からは「もっとインパクトのあるクルマを出してよ」という声をいただいていますので、ホンダらしいチャレンジをしていきたいと思っています。

―― ホンダは軽自動車や小型車で販売台数を稼いでいますが、必然的に利幅は狭くなります。タカタのエアバッグ関連等のリコールで圧迫している面はありますが、余剰生産能力も含め、営業利益率の改善はどう図っていくのでしょう。
ここ数年で言えば、品質対応の費用が従来より多くかかっています。品質対応はしっかりやっていきますが、一方で、グローバルでみると、我々は生産のキャパに対する販売、ここに開きがあります。固定費をいかに減らしていくか。国内販売を見ると、国内の生産能力は余剰になってしまいますので、輸出にもう一度ふっていく。特に北米は好調ですし、州によっては供給が足りないところもありますので、うまく国内の生産を活用していこうと思っています。新しいシビックの5ドアは欧州市場が中心ですから、欧州で集中的につくりグローバルに展開することにしましたので、他の車種は日本から持っていくことを検討しながら、国内の負荷をグローバルで補完する形にして固定費を下げていきたい。

グローバルモデルのシビックは、前回のモデルは価値が十分でなかったために早めのテコ入れが必要だったのですが、新しい提案をした今回のモデルは最初から競争力を持ち、価値観を高めて収益が確保できる形でスタートできました。同様にCR‐Vやアコードも競争力を踏まえた企画をして準備を進めています。商品としての競争力が高まれば、それをベースとする地域専用車の価値も高まりますので、四輪ビジネスの健全化、進化を進めていきたい。

―― フィットやヴェゼルではリコールを繰り返すなど、品質問題がクローズアップされました。熟成不足のまま市場に投入したとの声も上がりましたが、どのように改善が進んでいますか。
品質問題については、大変ご迷惑をおかけしました。その後のニューモデルについては販売を遅らせ、検証を十分にやりましたので、現在出している新型車からはしっかり品質を確保できています。新しい機種につきましても、企画段階から品質管理をし、研究所での開発段階、工場での量産への移行段階で第三者的な検証ができる体制にして対応を図っています。これまでは第三者的な検証ができていなかった部分がありますから、しっかり開発フローのなかに取り入れて、改善してきています。

苦しみながら強くなる

―― 昨季はモータースポーツの分野で、各カテゴリで残念な結果に終わりました。特にF1グランプリは注目が高かっただけに、負けたインパクトも大きいものでした。
F1は参戦1年目ではありましたが、みなさまの期待に応えられず、大変申し訳なかったと思っています。若い技術者を集め、新たな体制でスタートしましたが、開幕前のウインターテストでは我々のエンジンは初めてでしたし、マクラーレンも新しいプラットフォームでしたから、準備が間に合わずに時間切れでシーズンが始まってしまいました。我々の読みが甘かった。

シミュレーションをし、実際に走行し、確認するという流れのなかで、耐久性まで十分確認できずにレースに臨んだこともあり、前半は信頼性の面でかなり苦労してリタイアする場面が出てきてしまいました。エンジン自体の性能は我々のノウハウでよくなっていましたが、回生エネルギーの分野で熟成ができていない。ルール上、それをシーズン中に改善できないこともあって、後半は信頼性があっても、モーターを使うところがうまくできませんでした。ここの改善が今季の課題です。

我々の過去の歴史を見ても簡単に勝てたわけではありません。苦しみながら、段階を経て優勝できた。とはいえ、多くを言うより結果を出すしかない。レースは勝負事ですから、結果がすべてだと思っています。一日も早い表彰台を目指します。

ただ、現場の若い技術者は一生懸命、一戦一戦改善をしていましたし、若いだけあって成長も速かった。みなさまの期待に応えるべく、今季はひと回り成長した姿をお見せしたいと思っています。

―― 昨年末には、米国でホンダジェットの納入が開始されました。すでに100機以上の注文が入って、注目が高まっています。
創業者・本田宗一郎の夢をかなえたという思いもありますが、このプロジェクトに関わった人たちの思いが強かった。栃木県のツインリンクもてぎ内にある「ホンダ ファン ファン ラボ」に最初のプロトタイプが展示されていますが、これを見ると、二輪車や四輪車からスタートしている飛行機だなと実感できます。室内空間の考え方も「マンマキシマム・メカミニマム」というMM思想が表現されていますから、ホンダならではのジェット機が提案できたのかなと思います。航空機のビジネスは、かなり先行投資をして開発をし、機体を販売して、そのあとのメンテナンスが始まります。トータルで見てのビジネスになりますから、短期的に収益が出るものではありません。私の就任している期間ではない長い単位のビジネスになっていくと思います。セールスポイントは、四輪で培った室内の広さや静粛性、乗った時の快適性を追求している点です。人間を中心に考えたジェット機になっています。

―― 以前から言われていたことですが、トヨタのように台数を売るでもなく、メルセデスのようにプレミアムカーをつくるわけでもない。ホンダが目指す方向性はどこにあるのでしょうか。
台数かニッチか、という話はありますが、我々の目指しているところは、存在を期待される企業です。商品がいかに提案性を持ち、共感を持っていただけるかだと思います。ホンダの原点は生活に役立つ、生活を変えるところにあります。二輪、四輪、汎用に加えジェットも始まり、ロボティクスということで歩行アシストの商品も始めました。すべてのプロダクトで見れば、我々は年間で2800万人のお客様と接しています。その強みを活かし、生活が変わる提案をしていくことで、ホンダはさらに発展していきます。

特集 ホンダは変わるか

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福尾 幸一 本田技術研究所社長
ふくお・こういち 1955年生まれ。78年本田技研工業入社。2002年購買本部四輪購買二部長、05年品質・認証担当、執行役員を経て、10年常務執行役員。14年専務執行役員(現任)。同年11月四輪事業本部品質改革担当。15年本田技術研究所社長に就任。

2014年、新型フィット・ハイブリッドのたび重なるリコールを受けて、品質改革担当についたのが「Mr.クオリティ」の福尾幸一氏だった。開発体制の見直しを進めるべく、本社の専務と兼任で本田技術研究所に復帰。昨年4月、継続性の観点から研究所の社長として経営にあたる。品質改革とともに技術開発のあり方にもメスが入ることになった。

研究所内で異業種交流

―― 開発の現場である研究所から本社に行き、ふたたび社長という形で戻ったわけですが、以前とは変わった目線で見られたのではないですか。
研究所を出てから13年経ちました。私は本社の四輪事業統括という立場で事業を見てきたわけですから、研究所とは開発部門として日々付き合ってきたわけです。その意味では、研究所の有り様も見ていました。2014年の11月から急遽、品質に関わるところを再構築する形で5カ月間、研究所に入り、社長になりましたが、研究所がいま抱えている問題というのは、社長になってはじめて気づいたというものではなく、以前から難しさを感じていました。もともと研究所が独立会社として運営されてきたのは、日々の経済状況や本社の商売上の戦略とは別に、少し先の未来を見て新しい技術を仕込んでいくためです。例えば、基礎研究においては、二十年、三十年前から取り組み、ホンダジェットやロボット、水素燃料電池も実を結びつつあります。

―― その聖域と言える研究所が、本来の機能を発揮できていなかったから、福尾さんが社長として呼ばれたということでしょうか。
研究所としては、やりたいことがたくさんあります。それが十分にできているかと言えば、全部が全部、できるわけではありません。フィットの品質問題があった時も「やりたいこと」と「やるべきこと」という課題が見えてきました。やりたいことというのは、早くよい技術を世に出したいという思いです。世の中に問いたいんですね。しかし、各地域でビジネス上、こういう新しい商品が欲しいとなれば、やらなくてはいけないのです。結果的に研究所内での忙しさを招き、焦りを生む。そうならないために策を施すのが私のミッションです。ただ、すぐに解決策が出るものではありません。

アシモと福尾社長(青山ウェルカムプラザ)。

まずは研究所に対するビジネス上のプレッシャーがあります。そして新しいことを生み出さなくてはいけないというプレッシャー。近年のクルマは、単なるエンジンの改良や走りの追求ではなく、エネルギーやITといった広い領域が求められています。そのなかで手薄になった部分はある。やりたいことをやる会社ですから、その面でのモチベーションは高いですが、お客様に迷惑をかけない商品であっただろうか、というところが弱かった。そこは反省していかなければならない。

これを解決するには、実際にクルマに乗り、セッティングをし、技術を開発するメンバー全員が意識を持ち直すことが必要です。そのためには忙しさに焦ることなく、余裕をもって仕事をしなければいけません。本社にはビジネス上のことは少し我慢をしてもらう。新機種を遅らせる、止める、そういった取捨選択を本社や事業本部、世界中の各地域と議論を重ねてきました。開発は続きますから、次の日から楽になることはありませんが、徐々に実行ができていると思います。

研究所内で異業種交流

―― 研究所が考えるホンダらしい技術開発とはどういうものですか。
これは大変難しい。例えば、まだニッチな自動車産業に入った頃は、隙間が山のようにあって、先達がやっていない商品であり、技術であると「新しい、ユニークだね」と評価されました。過去のヒット作は、そこに「ホンダ」というブランドとセットになって「ホンダらしさ」というイメージが高まったと思います。あらためて、自動車を見ると、ユーティリティにしても性能にしても、あるいはハイブリッド技術にしても、各社が競って埋めて、そこに新しい商品、アイデアが出るのは難しくなっています。必然、ホンダらしいユニークさは、商品そのものでは語れなくなっている。

そのようななかで、今年で言えばスーパースポーツ領域の「NSX」、昨年の「S660」、環境技術で言えば水素燃料電池自動車などにアプローチできている。私がこの一年、言い続けてきたのは「広いでしょ? ホンダ」です。取材等では、主に四輪車のホンダと語られますし、実際のビジネスも約8割が四輪事業です。しかし実際は二輪があり、汎用があり、もっと広がってジェットがあり、ロボットがあります。ホンダの本質はその広さです。

私自身、四輪のエンジニアでしたが、研究所を出て購買を3年やり、6年間品質担当をやりました。二輪、四輪、汎用すべてです。そこで自分の知らなかった二輪や汎用の世界を見て、ホンダの広さを実感したのです。昔は小さい研究所でしたから、二輪や汎用を人が行き来していましたが、現在のように大きくなると、人が固定化されて、お互いが何をやっているのか、エンジニア同士が知らない状態になっています。

―― それぞれに壁ができてしまっていると。
そうです。アジアや南米では、小さなバイクを生活の道具として使っています。汎用を見れば、農機具をやっているし、水田に送る水ポンプも作っている。私はアキュラを担当していましたから、自動車ユーザーのなかでもハイレベル、ハイセンスな人たちがお客様でした。しかし実際は、生活に密着して我々の製品を使うお客様のほうがはるかに多い。汎用で600万人、二輪で2800万台、ほとんどが10万円前後というお客様です。この広さがホンダであり、本田宗一郎が最初に描いた役立つ喜び、暮らしを豊かにしたいという原点があるわけです。

それが、大きくなりすぎたがために、各部門が疎遠になってしまった。四輪の研究所にもバイクが好きで入った人もいますし、自動車よりも生活に密着した汎用に興味を持つ人もいるでしょう。そこで公募制で、エンジニアが行き来できる共同プロジェクトを始めています。ホンダの広がりをうまく使えば、新しいものができるという実感はあります。

―― 社内で異業種交流をするわけですね。技術者の自由度がさらに増していく。
募集をしてみたら、申し込みが多すぎて困っています。それはポジティブな面もあればネガティブな面もあって、きっと不満分子も多いんだなと(笑)。
いまの自分の仕事に限界を感じて新しい世界に行きたいという技術者もいるでしょう。特に四輪は大きな組織で1台のクルマをつくるビッグプロジェクトになる。プロジェクトリーダーや開発責任者になれば世間からも見えますし、クルマ1台をまとめる自負があります。しかし、実際にはその下でいろんな機能を担当している大勢の人がいて、自分が一つの歯車のように感じるエンジニアが出てきます。クルマづくりの達成感やお客様の喜びを肌で感じるチャンスが薄くなっている。エンジニアを新しい組み合わせのなかで活かしたい。手応えは感じていますし、そのなかから世の中に期待されているホンダならではの商品が出てくると思っています。

―― 環境対応も国によって基準が異なる等、たくさんのモデルを作るのと同じくらいの手間がかかります。こうしたなかで本社と研究所の関係は、今後どうなるでしょうか。
モデルの数だけでなく、単純なガソリンエンジンではダメですから、各国の規制に合わせた技術のバリエーションは大きな負担です。半面、新しいものを生み出す余裕も確保したい。この2つのバランスを取るのが、いまの研究所のマネジメントであり、本社との関係性の難しさだと思います。

私も本社側にいましたから、あれも欲しい、これも欲しいという思いはわかります。常に本社と研究所の主要なマネジメントが思いを共有して、ガマンしてもらうところも理解してもらう。絶対に安心できる開発、迷惑かけない図面、それが第一責務。ビジネス上、コストダウンしなければいけない商品もありますが、儲からなくても未来に続く商品もある。バランスが必要という共通認識はできてきましたから、本社に「それは違う」と訴える段階は過ぎたと思っています。

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経営者インタビュー

ツイッタージャパン社長 笹本 裕

笹本 裕
ツイッタージャパン社長

ささもと・ゆう 1964年タイ・バンコク生まれ。88年獨協大学法学部卒業後、リクルート入社。在職中にニューヨーク大学経営修士修了。99年クリエイティブ・リンクを設立し取締役COOに就任。2000年12月、副社長としてMTVジャパンに入社。01年社長CEOに就任。07年1月マイクロソフト常務執行役員、08年9月同社太平洋地域統括責任者を経て11年5月ドリーム・フォーを設立、クラウドファンディング事業に携わる。14年2月Twitter Japan社長に就任。

アメリカでは業績不振で危機説が流れるツイッター。経営陣も様変わりし、創業者がCEOに返り咲くことになった。そんななか、注目されているのが日本市場。モバイル分野では世界一の賑わいだけに期待は大きい。Twitter Japanの笹本裕社長にツイッターの現在を聞いた。

日本で人気の“つぶやき”

―― アメリカ本国では共同創業者の1人であるジャック・ドーシー氏がCEOに復帰しました。ツイッター社そのものが大きな変化を迎えています。
ジャックが正式にCEOに戻り、これまで収益事業を担当していたアダム・ベインがCOOに、ネットスケープからグーグルの黎明期に収益事業を統率していたオミッド・コーデスタニがエグゼクティブチェアマンという形で入ってきました。この3人体制で新しいツイッターとしてのイノベーション、たとえば収益面での成長を加速させるなど、これから見えてくる変化も多いと思います。我々としても期待しています。

―― 本国のほうでは業績不振がクローズアップされていますが、日本法人はどのような立ち位置になっているのでしょう。
すごく重要な国として位置付けてもらっていると思います。アメリカの外にできた最初のオフィスが日本ですし、デジタル文化としても日本は先進的です。特にモバイルの利用環境という意味では、断然、日本が一番いい環境で使われています。様々な指標を見ても、日本がもっともツイッターを使い倒しているマーケットだと言えます。

例えば、通勤電車が遅れているという時に、その遅延情報をツイッターで知る人は非常に多い。ツイッターで検索して何が起きているのかを調べるわけです。天気予報と同じように使う方もいます。ツイッター上の情報が日々の生活に密着しているがゆえに、検索でさえも多く利用されている。内容も量も、アメリカに引けをとらないくらい使っていただいています。

―― なぜ日本人に受け入れられたのでしょう。
日本で最初にご紹介いただいたのは「つぶやき」という個人の会話だったと思います。我々は「ツイート」という呼び方をしていますが、これが日本人に向いていたのは、モバイルで使われることを主眼に置いて作られたサービスだったことです。日本ほどモバイル文化が早くに浸透していた国はありません。都市部では電車通勤や公共交通機関を使うのが日常になっていますから、欧米のようにクルマが主体の国とはモバイルを扱う日常が異なります。

また、自分の思っていることを匿名で語る、趣味を人に話して新しい繋がりを築くというスタイルが日本の文化に合っている。よく大晦日から元旦に「あけおめ!」とツイートされますが、五輪やW杯サッカーの時のように、群衆になって一つの興味関心に対して自分の思いを表現する場がなかったものが、ツイッターを通してできるようになったのは大きかったと思います。

数字は公表していませんが、いま新たに伸びている年齢層は30代、40代です。もっとも利用しているのは30歳前後。初期ツイッター世代が年齢を重ねてきたということもありますが、テレビを観ながらツイートされることが増えたことも挙げられます。テレビ番組のなかでツイッターを使ってコメントを投稿するということが増えてきましたので、いままでツイッターに触れてなかった世代、あるいは休止していた方々が、再び使い始めることが多くなっています。

―― 確かにニュース系の情報番組では、画面の下部にテロップでツイートが流れていますね。ちなみにこれはツイッター社と契約をしたりするのでしょうか。
特定のハッシュタグ宛に来たものを見て、手作業でテロップに流している番組もあります。すべてのツイートが自動的に流れているわけではないようです。我々はそこでビジネスをしているわけではないので、使っていただいているという感覚です。これは日本の特徴なのかもしれませんが、既存のサービスを使って、我々が想定していなかったような使い方を始めることが多いですね。

―― ツイッター自体の収益はどのようにあげているのか。日本への期待も収益モデルの変革があるように思いますが。
主な収益は広告になります。企業さんにとっては広告ですが、つぶやきでもあるんです。自分の商品の特徴を、一般の方と同じような表現を使ったり、タイミングだったり、人の興味関心に直接当てられるというところが、新しいマーケティングのやり方としてご提供できていると思います。

あとはデータの活用を有料でお使いいただくビジネスもあります。国内ではNTTデータさんやドコモさん、世界的にはIBMさんと提携して、個人の興味関心、またはどのようなアカウントがフォローされているのか、ビッグデータと呼ばれるものを企業の商品開発やマーケティングなど、いろんなビジネスシーンで使っていただける。従来ならアンケートをとって解析したものですが、リアルタイムにこれだけのボリュームの興味関心を分析できるものはツイッター以外に存在しない。ただ、日本ではデータに値札をつけることが浸透しているとはいい難く、これから期待しているビジネスだと言えます。

新しい使い方の工夫

―― 現在では140文字のツイートだけでなく、動画もアップロードできるなど、サービス自体も進化していますね。
最近の事例だと、ペリスコープというライブ放送ができるアプリを開発した企業を買収し、昨年からスタートしています。このアプリは、単独のアプリとして自分の草野球の試合や、釣りをしているところを中継するものです。これまではこのアプリをダウンロードした方しか観ることができなかったのですが、ペリスコープからツイッターに配信することで、ツイッター上からも観ることができるようになりました。

例えばこれを企業さんが活用する場合、新商品の発表会などをツイッター上で生放送できます。広告的には、その記者発表に適したユーザーにターゲッティングして配信することもできますので、これからは文字だけでなく、映像の分野でもイノベーションが生まれてきます。

―― アメリカでは140文字から1万字にまで拡大する可能性が報道されていました。

最終的にそうなるかは、まだこれからの議論です。実験は重ねていますが、仮にそうなったとしても、つぶやきのスタイルを好む人もいますし、おそらく大きな変革にはならないのではないでしょうか。ただ、個人として発信するやり方は多種多様ですから、それに対応できるように考えることは重要なことです。

ツイッター社は驚くくらいさまざまな実験を、大きなものから小さなものまで、ものすごいスピードでする会社です。私も「こんなことをやっていたのか」と後から知ってびっくりすることがあります。ユーザーの声に耳を傾け、おもしろく感じてくれるかを考えている。最終的にはいいものが出てくると信じています。

4択まで選択できる機能をつけたところ、欧州では料理の鉄人のようなテレビ番組で、どちらのシェフがよかったか視聴者投票に使われていました。今年はアメリカの大統領選がありますから、誰がふさわしいか、まさにツイッター上で投票が行われたりしています。日本では、企業さんが新商品を出す前にプロモーションとして好みを投票させ、タイムラインを通して友達に広げていくという使われ方もされています。単なる新商品の発表だけでなく、新たな使い方を発明していくところに創意工夫が好きな国民性を感じますね。

―― 経営者にもソフトバンクグループの孫正義社長や楽天の三木谷浩史社長のようにツイッターで情報発信する方は増えています。
経営者が社会に対して自社のことを伝えていくのは大きな責任のひとつだと思います。さまざまな手法はありますが、SNSは有効な手段です。実際、欧米の経営者は理解したうえでメッセージを発信し、企業価値を高めようとしています。

ツイッターもまだまだいろんなアイデアを用意していますので、もっと多くの方に使っていただけるようイノベーションを加速していきたい。日本法人を任せてもらっている立場としては、日本からそのイノベーションを発信していき、日本の利用者、企業のみなさまに、使い倒していただきたいですね。

(聞き手=本誌編集長・児玉智浩)

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経営者インタビュー

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経営者インタビュー

40年の技術の蓄積でフィンテック革命をリードする

やぎ・りゅうじ 1969年生まれ。2010年フィスコ入社、ネクス取締役などフィスコグループ会社数社の取締役を務め、昨年6月、SJI会長に就任した。

にゅう・いゅう 1962年中国生まれ。98年サン・ジャパン(現SJI)入社。サービス事業部長、イノベーションセンター長等を経て、今年1月、社長に就任した。

金融(ファイナンス)と技術(テクノロジー)が融合したフィンテックへの注目が高まっている。技術の進歩により、これまでにない金融サービスが可能になってきた。そのフィンテック事業の強化を、金融システム構築に強みを持つSJIが打ち出した。その狙いを、八木隆二会長、牛雨社長の2人に聞いた。

金融インフラが変わる

―― SJIは2月1日付でフィンテック戦略室を設置し、フィンテックへの取り組みを本格化させています。その狙いを教えてください。
 SJIはこれまで40年にわたり、金融分野のシステム構築で実績を上げてきました。日銀の銀行間決済システムをはじめ、勘定系、情報系の銀行システム、さらには大手証券や信託銀行、クレジットなどの業務にも携わってきました。

その一方で、技術が進み、金融とテクノロジーが融合し、さまざまなイノベーションが創出されるなど、新たな局面を迎えており、我々がこれまでに蓄積した技術や経験を活かすことで大きなビジネスチャンスが生まれると考え、フィンテック戦略室を設置、私が室長を兼務することにしました。

八木 フィンテック戦略室は、従来のイノベーションセンターを改組したもので、同センターでは全社の持つ高度なスキルを集約し、金融の最先端分野のR&Dを担当してきました。当然ながら、フィンテックのR&Dも行っています。それをフィンテック戦略室に改めたのは、今後、SJIがフィンテックに注力をしていくと宣言するためです。社外だけでなく同時に社内にも発信し、今後の我々の進むべき道を明確にさせるということです。

―― 欧米に比較して、日本はフィンテックへの取り組みが遅れていると言われています。投資額をみても、2014年には世界全体では120億ドルだったのに対し、日本では5000万ドルにすぎません。
 これはタイミングの問題です。日本の金融システムは非常によく整備されているため、フィンテックへの投資は欧米や中国などが一歩リードしていたという側面があったと思います。でも日本でもここにきて機運が高まっています。これから大きなビジネスに育っていくはずです。

―― フィンテックと言っても、その範囲は非常に広いですね。
八木 金融とITが組み合わされればなんでもフィンテックです。例えばスマホでネットバンキングするのもフィンテックです。ですから、いま急に始まったものではありません。ただし、ここにきて重要な因子が登場したことで、さらなる変革が起きている。それがブロックチェーンと人工知能(AI)です。

ブロックチェーンが金融インフラに活用されることによって、これまでのIT活用とはまったく違う世界が到来します。

―― ブロックチェーンというと、2年前に大騒動を起こしたビットコインの中核技術ですね。
八木 そうです。その根本的な考えは、「信頼される第三者を必要としない」ということです。預金が100万円ある人は、預けてある銀行がその預金を担保しています。そして銀行は金融庁や日銀によって担保・保証されている。つまり、第三者の保証や信頼があって100万円の預金が証明されるわけです。

ところがブロックチェーンは、第三者の保証が必要ない。インターネットでつながった不特定多数の人たちが相互に承認することで保証される。金融決済も相互承認により行われる。ブロックチェーンによってこれまでの金融システムのパラダイムが根本から変わっていきます。

―― ブロックチェーンにはどんなメリットがあるんですか。
八木 インフラコストが小さくなります。いままでは、唯一無二のマスターデータがありました。仮にこれがなくなればすべての情報を喪失してしまう。ですからけっしてダウンさせてはいけないため、膨大なコストをかけて管理してきた。

ところがブロックチェーンの場合は、何十万、何百万というノードに等しいデータが分散されているため、この中のどれかひとつが生きていれば、データは失われない。バックアップや冗長化も必要ないため、ゼロダウンタイムを実現するためにこれまでかけてきたコストが大幅に削減されるとともに、システムの安定化にもつながります。さらには改竄不可能なセキュリティ環境も構築できます。

実証実験スタート

―― 金融機関はこれまで巨額を投じて金融システムを構築してきました。それを根本から覆す新システムには否定的ではないのですか。
 世の中の流れというのは止めようがありません。その流れに乗り遅れるか、それとも先んじるかといえば、答えはひとつです。だからこそ国内の3大メガバンクもすべてフィンテックに対応しようとしていますし、仮想通貨構想を打ち出したところもあります。実際、デジタルキャッシュが流通するようになったとしても、それを発行するのはやはり銀行です。そういう意味で、銀行の信用はこれからも金融システムの中心にある。そこへフィンテックが加わることで、より安く、安定的にシステム構築ができるようになります。

「フィンテックのあらゆる可能性に準備する」と八木隆二会長。

八木 こうした動向は、一企業によってどうにかなるものではありません。でもブロックチェーンのような分散化への動きは、世の中の潮流として不可避です。その中で、最適なソリューションを提供することが、SJIの役割です。

 ただし現段階では、フィンテックがこの先、どう進んでいるのか、金融の業務にどのような影響を与えるのか、どこに行きつくのか、何ができるようになるのか、不透明なところもあります。

そこでSJIでは、ブロックチェーン技術によってどんなことができるのか、お客様がイメージできるよう、実証実験を行っていきます。

具体的には、テックビューロと協業し、同社のプライベート・ブロックチェーン基盤「mijin」を使った実証実験を行います。これにより、お客様のビジネスにどう利用できるか、どう活用すればイノベーションにつながるのか、お見せしたいと考えています。

―― AIではどんな取り組みを行っていますか。
八木 SJIの親会社であるフィスコと連携し、株価自動予測システムを開発していきます。従来にも株価を予測するシステムはありましたが、AIの活用で、自動学習型の自動予測システムを構築していきます。

―― フィンテックをビジネスチャンスと捉えている企業も多いということです。その中で、SJIの強みはどこでしょう。
八木 先ほど牛が言ったように、SJIは40年にわたり金融システムの構築を手掛けてきました。そのため金融インフラの膨大な知見を幅広く有しています。

金融システムにブロックチェーンやAIを活用するには、既存のシステムがわからないと、成約条件がどこにあるのか、どういう適用の仕方が考えられるのか、あるいはどんな弊害が生じるのか、等について考えが及びません。その点、SJIは、知見の蓄積があるため、感度を持って対処できる。そうした特異なポジションにあると自負しています。

乗数的に成長する

―― フィンテック市場は今後、大きな伸びが予想できるだけに、期待も大きいですね。
八木 ブロックチェーンやAIが乗数的に普及していくとしたら、我々も乗数的に対応していきます。マーケットの成長スピードに負けないスピードで事業を拡大していこうと考えています。

―― 競合相手はどこですか。
八木 あまり考えたことはありません。他社より先んじているという意識はありますが、ライバルがいないということではなく、他社を見るよりもマーケットを見るべきだと思うからです。

フィンテック戦略室室長を兼務する牛雨社長。

―― 逆に、SJIに足りないところがあるとしたらどこでしょう。
八木 自社プロダクトを生むためのマーチャンダイジングでしょうか。

いままでの金融サービスは、行政や銀行が規定するものでした。そのソリューションを我々は技術力で提供する。ですから、基本的には金融機関のサービスが主で、我々は従でした。しかしフィンテックにより、技術先行で新しいサービスが世の中に生み出される。ということは、これまで従の立場だった我々が、主体的に新しいプロダクトをつくり出していける。

ところがこれまでは従からのマーケティングしかやってこなかった。今後は、自ら主導的にマーケティングを行い、マーチャンダイジングをして、金融機関などへ提案していかなければなりません。そこがまだ弱い。

これを強化するには、社内文化を含めた企業風土を刷新する必要があります。そうしなければ世の中に新しい提案をする立場には立てません。

―― 最後に、いま足元の目標を教えてください。
 先ほども言ったように、ブロックチェーンの実証実験が始まりました。日本ではまだ、ブロックチェーンがどういうものか、何ができるのか、十分に浸透していません。ですから実験を通じてお客様に理解をしてもらうことが、フィンテックビジネスの第一歩です。

八木 そのうえで、できるだけ早く、課金ベースのサービスを提供していきます。同時に、フィンテックは今後どう進むかはっきりとはわかりません。ですから、ありとあらゆる可能性を考えて柔軟に対処できるよう、準備を進めていく方針です。

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経営者インタビュー

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経営者インタビュー

テクニオン工科大学と日本企業を繋ぐ懸け橋に

石角 友愛
テクニオンジャパン代表取締役

いしずみ・ともえ お茶の水女子大学付属高校を中退し16歳で単身渡米。オキシデンタル大学を卒業し帰国。インキュベーションビジネスを起業。2008年再渡米し、10年ハーバードビジネススクールでMBA取得。同年グーグル本社入社。12年12月に退職しシリコンバレーでITビジネス企業を創業。14年テクニオンジャパン代表取締役に就任。

多くの日本人にとって馴染みが薄く、遠い国のイメージがあるイスラエル。しかし、いまやイスラエルはIT技術大国として世界中から注目を集める存在だ。シリコンバレーとも密接な関係があり、世界的IT企業はこぞってイスラエル企業に出資し、M&Aも積極的に進めている。そこでイスラエルで最古かつ最高峰のテクニオン工科大学と日本企業を繋ぐテクニオンジャパンの代表取締役・石角友愛氏に話を聞いた。

イスラエル企業との商談会ツアー

―― テクニオンジャパンはどのような活動をしている会社なのでしょうか。
テクニオン工科大学の日本におけるプロモーションを手掛けています。簡単に言えば大学の資金集めということになりますが、こうした資金集め団体はアメリカ、イギリスをはじめ世界31カ国にあります。日本が一番遅く、2014年に設立されました。資金集めというと誤解を招くかもしれませんが、ユダヤ人には奉仕の義務がありますから、諸外国では成功したユダヤ人たちが寄付という形で無条件にイスラエルにお金を出しています。

前ニューヨーク市長のブルームバーグ氏や元インテルCEOのアンディ・グローヴ氏をはじめ、グーグル創業者のラリー・ペイジ氏とセルゲイ・ブリン氏、フェイスブック創業者のマーク・ザッカーバーグ氏といったユダヤ系の企業家は数十億~100億円以上の寄付をテクニオン工科大学に対して行っています。

しかしながら、日本にはユダヤ人はほとんどいません。ですから寄付ではなく、テクニオン側から技術情報を提供する見返りに出資をしていただく。テクニオンジャパンは、その仲介業務を行う会社として設立しました。財団法人ではなく株式会社にしたのは、日本では寄付としてお金を集められないからという理由が一つ。

もう一つは日本の税制上、日本赤十字社等の定められた機関以外は寄付をしても税金がかかってしまいます。ですから出資していただいたお金を研究開発費として計上できる形にしたのです。私たちは奉仕の義務がありますので、私もCEOでユダヤ人の石角完爾(07年にユダヤ教に改宗)も無報酬、役員報酬もゼロで奉仕活動として行っています。

―― 具体的には、どのような形で募っているのですか。
「テクニオンフレンズ」という名称でメンバーシップ制にしています。750万円を出資していただき、テクニオンフレンズになると、テクニオン工科大学発の技術情報の提供を受けられ、同大学発ベンチャー、技術への優先的投資権や研究室との共同研究、全世界のフレンズとの交流会への参加等々の特典があります。

―― テクニオン工科大学の強みはどういったところにあるのでしょう。
世界ではスタンフォード大、マサチューセッツ工科大と並んで注目されている大学です。最先端技術の中でも、特に強いのは医療分野です。病院を2つ持っていますし、医学部、工学部、コンピューター学部の3つの学部の共同研究開発で医療とエンジニアリングとITの融合を目指しています。ノーベル賞受賞者も3人輩出し、大学が持つ特許収入だけで約50億円(京都大学は約1億円)。卒業生もシリコンバレーを中心に約7割が起業するなど、次々に次世代のテクノロジーが生まれる土壌があります。マイクロソフト、グーグル、アップル、インテルといった企業が次々に出資をし、その技術を求めているのです。

―― 現地ツアーも企画されているとか。
6月1~3日にかけM&A、技術ライセンス、投資、販売代理権の商談会を目的としたイスラエルへのツアーを予定しています。1日3~4社ずつイスラエルの最先端技術を持った医療会社を訪問しまして、即日商談会をやろうと。観光旅行ではありませんので、現地に集まっていただき、参加費用は1人80万円の予定です。ツアー自体は他社でも企画されていますが、分野がバラバラの場合も多いです。我々は医療、ライフサイエンス、バイオという分野に特化してご案内します。

テクニオンフレンズのメンバーについては、ツアーに無料で参加でき、加えて5~8日にテクニオン工科大学を訪問します。全教授、全研究者が世界中から集まったメンバーを迎えるという重要な行事です。世界中から約2000社が参加していますが、ピンポイントで特定の研究をしている教授に会うこともできます。

テクニオンが生み出した医療技術や最新薬は、糖尿病やパーキンソン病の特効薬、歩行支援ロボットやカプセル型内視鏡などの最新技術、脊椎及び頭部の手術支援ロボット等々、枚挙に暇がなく、今後も世界標準となるようなイノベーションが登場するでしょう。しかし、多くは欧米や中国企業が出資しているのが現状です。こうした取り組みを機会に、日本企業にもぜひ目を向けてもらいたいと思います。

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経営戦記

加留部 淳 豊田通商社長
かるべ・じゅん 1953年7月1日生まれ。神奈川県出身。76年横浜国立大学工学部電気工学科卒。同年豊田通商に入社。99年物流部長、2004年取締役入り。06年執行役員、08年常務執行役員、11年6月末より現職。学生時代はバスケットボール部に所属。座右の銘は着眼大局、着手小局。

近大とマグロ養殖でタッグ

〔昨年、豊田通商が近畿大学と提携して卵から育てるマグロの“完全養殖”事業に参入(養殖事業そのものは2010年に業務提携)するというニュースが大きな話題になった。11年に同社の社長に就いた加留部淳氏は、就任後初めての出張が近大水産研究所で、同研究所の宮下盛所長と意気投合。今後は豊通と近大のタッグで完全養殖マグロの生産を順次拡大し、海外へも輸出していく計画だ〕

もともと当社は人材育成には力を入れ、いろいろな研修プログラムを用意していますが、その中に若い社員の事業創造チャレンジのプログラムがあるんです。自分たちでまず研究し、社内外の先輩や識者の意見も聞いて新事業案を作らせるものですが、その過程で「ぜひ、近大さんの販売や養殖のお手伝いをしたい」と提案してきた社員がいましてね。

面白い事業プログラムだったので、当時の経営陣が「やってみろよ」と。で、動き始めて実際に予算もつけ、近大さんにもお話をしに行ってというのがスタートでした。こういう社内提案制度は、起業家精神の醸成にすごく必要だと思います。もう1つ、マグロの漁獲量が減る一方で、需要は日本や東南アジアを中心に増えているわけですから、商社のビジネスとして意義がある。会社としてもやる意味があるし、若い社員を育てる点でも有効、その2つの観点から全面的にバックアップしています。

もちろん、ほかの商社でも水産系ビジネスには力を入れています。その中で、我々は違う土俵で戦うケースもありますし、どうしても同じ土俵の時は、真っ向勝負だと当社の企業体力では勝てないわけですから、戦い方を考えないといけない。そこは全社員と共有しています。そういう意味でも、他社が手がけていないマグロの完全養殖事業は非常に面白いビジネスですね。

近大とマグロの完全養殖事業で提携。左端が宮下盛・近大水産研究所長、右から2人目が加留部社長(2014年7月の会見)。

〔近大とのタッグは話題性が大きかったが、豊通という会社全体として見れば1事業の域は出ていない。これに対し、加留部氏が12年末に決断した買収案件は全社横断的な規模だ。当時の為替レートで同社では過去最大となる、2340億円を投じて買収したフランスの商社、CFAO(セーファーオー)がそれ。CFAOは、30年には中国を上回る巨大市場になると目されるアフリカ市場で強固な事業基盤を持ち、とりわけフランス語圏の多いアフリカ西側地域で圧倒的な商権を持っている〕

過去最大の投資ですから、我々もものすごく慎重に考えましたし、私も実際に現場を見に行きましたが、先方も傘下の自動車販売会社の修理工場とか、結構オープンに見せてくれましてね。当社とはDNAが合いそうだなと。

もう1つ、彼らは自動車関連事業以外もたとえば医薬関係、あるいはオランダのハイネケンと一緒に合弁工場を手がけるほか、BICブランドのボールペンなど、プラスチック成型品の生産なども手がけていて当社と親和性が高かったのです。

海外に商社という業態はあまりないですが、彼らは自分たちのことをはっきり「商社だ」と言いますから。ですから豊通がやっている事業はすぐに理解してもらえましたし、右から左のトレーディングだけでなく、彼らは工場を持ってモノづくりまで踏み込んでいるので、(トヨタグループの豊通と)お互いの理解はすごく早かったですね。

唯一、気になったのは若手社員の意識でした。若い社員が果たしてアフリカの地でビジネスをやってくれるのかどうか。そこで数人の若手に聞いてみたところ「この買収案件はいいし、アフリカは将来、伸びる市場だからやりましょうよ」と。そういう声に最後、後押しをしてもらえたようなところもあるんです。“一人称”という言葉を当社ではよく使うんですが、一人称、つまり当事者意識をもってやっていく気持ちがあるかどうかが大事ですから。

独自戦略を掲げる加留部氏。

フランス商社買収で攻勢

〔前述したように、CFAOは歴史的にアフリカ西海岸エリアの市場を得意とし、豊通は東海岸に強みを持っていたため、エリア補完も綺麗に成立した〕

地域的、事業的な割り振りで言えば、自動車関係はお互いの強みなのでしっかりやっていこうと。アフリカ西海岸で当社が細々とやっていたテリトリーは全部、CFAOに渡しています。物流の共通化なども進めて、お互いの事業効率を高めてきていますし、トヨタ車の販売や物流もCFAOと一緒にやっています。

当社としてはマルチブランドを扱うつもりはあまりなくて、トヨタと日野自動車、スバル(=富士重工)の商品を扱うわけですが、CFAOはマルチブランドなので、たとえば今年、アフリカでフォルクスワーゲンとのビジネスも決めました。

当社はケニアでトヨタ車を扱っていますが、CFAOはケニアにVW車を持ってくるわけです。CFAOは豊通の子会社なのにと一瞬、矛盾するような印象を持たれるかもしれません。我々はトヨタ車で現地シェアナンバー1を取りたいけれども、彼らもVW車でナンバー2を取ればいい。そういう組み合わせみたいなものができてくると思うんです。

いずれにしても、自動車関係のビジネスはお互いに共通しているので、この分野はオーガニックな成長で伸ばしていけるでしょう。一方、医薬品関係はいま、彼らもどんどん伸ばしていて、我々も日本の製薬メーカーを紹介したりといったサポートをしています。

〔豊通がCFAOを買収したことで、新たな効果も表れてきている。たとえば、前述したCFAOが合弁で手がけるハイネケンの工場運営会社。豊通の傘下に入る前は、CFAOの株主が収益はすべて配当で還元してほしいと要請していたため、新しい投資ができなかったのだが、豊通が入ったことでロングタームで事業を見るようになってくれたのだ〕

私もハイネケンの合弁会社社長に会って話をしました。先方も理解してくれて、生産国もコンゴだけだったのを別の国でも展開しようという話に発展しましたしね。さらに、フランス大手スーパーのカルフール。CFAOがカルフールとの合弁でコートジボアールで店舗を出しますけど、これも私がカルフールの社長とお会いし、アフリカ8カ国で展開することを決めました。

日系メーカーとではこんな事例もあります。ヤマハ発動機のオートバイを生産する合弁会社をCFAOがナイジェリアで作るのですが、彼らもヤマハとのお付き合いは従前からあったものの、それほど深かったわけではありません。

一方で、我々は日本でも(ヤマハと)いろいろなビジネスをやらせていただいているので、この合弁話を提案したら了承してくださり、出資比率も50%ずつでOKしてくれたんです。CFAOは豊通の資本が入っている会社だからと、全幅の信頼を置いていただけた。普通は、日本のメーカーが現地へ出るのに50%ずつというのはあまりなく、イニシアチブは日本のメーカー側が取るものだからです。

そういうCFAOとの協業ロードマップは10年スパンで立てていまして、私もCFAOの首脳もお互いに行き来しています。フェース・トゥー・フェースで、年に4回ぐらいは顔を合わせているでしょうか。それ以外にも毎月、テレビ電話での会議も1時間半ぐらいかけて実施し、いまの経営課題や将来の絵図などをお互い共有化するようにしています。

〔豊通には、TRY1という経営ビジョンがある。これは収益比率として自動車と非自動車の割合を均等にしていき、さらに20年にはライフ&コミュニティ、アース&リソース、モビリティの3分野の収益比率を1対1対1にするというものだ。CFAOをテコにしたアフリカビジネスの拡大も、TRY1計画達成に寄与する部分は大きいだろう〕

いまでもCFAOは1億ユーロぐらいの純利益を上げていますから、それだけでも我々は彼らのプロフィットを(連結決算で)取り込むことができますし、プラス、将来的な絵図という意味でも、お互いにステップ・バイ・ステップで各事業を伸ばしていくことで、TRY1の実現にすごく貢献するはずです。

〔総合商社といえば近年、資源ビジネスで荒稼ぎしてきたイメージが強かったが、資源価格の市況に大きく左右されるリスクがあることは、住友商事や丸紅が資源価格の大幅な下落などで多額の減損を強いられたことでも明らか。とはいえ、こうしたリスクテイクは、総合商社にとってはいわばレーゾンデートルでもあり、投資するしないの判断は難しい〕

資源といってもいろいろあると思います。いまさら石炭や鉄鉱石の採掘ビジネスにお金をガンガンつぎこんでもダメ。また、シェールガスやシェールオイルも私が社長になった頃に他社がみんなやり出して、社内でも「やりたい」という声が多かったのは事実です。でも、よく調べてみたら、当社はすでに周回遅れ、しかも1周でなく2周も3周も遅れている。「これでは高値掴みしてしまう可能性があるし、投資金額も大きいのでやめておきなさい」と、社内でかなり明確に言いました。

ですから、我々はもっとニッチで別な土俵で勝負していこうと。たとえば、チリで開発しているヨード。これはイソジンのうがい薬、レントゲンを撮る時の造影剤でも使うんですが、ヨード産地は日本、米国、チリと世界で3カ国しかありません。当社はその全部の産地で開発拠点を持っているので、将来的には取り扱いシェアを15%まで高めたいと考えています。

ほかにも、アルゼンチンではこれからの自動車ビジネスに直結する、リチウム関連の鉱山事業を昨年から始めましたし、豊通らしさというんでしょうか、ニッチキラーでもいいからウチらしさが出て、かつ上位の商社とも十分に戦えるビジネス分野でやっていこう、というのが当社の基本ポリシーです。

〔目下、前述したTRY1達成に向けて歩を進める豊通だが、現在の非自動車ビジネス拡大の基盤を整えたともいえるのが、06年に旧トーメンと合併したこと。トーメンが持っていた化学品や食料といった主力事業分野を得たことで、総合商社としての幅が各段に広がったのだ〕

実際、事業ポートフォリオが広がって、合併は結果として大正解でした。エネルギーや電力関係のビジネスはいま、一部を除いてすごくうまくいっているんですが、こうしたジャンルは豊通のままだったら絶対に出てきていないビジネスですね。

豊通はもともとが自動車関連ビジネスメインでしたから、農耕民族なんです。畑を耕して種をまいて、雑草をとって肥料や水をやってと。それが狩猟民族(=トーメン)と見事に化学反応したという感じ。狩猟民族の人も農耕民族から学んでもらえたし、お互いの良さを認め合ってすごくいい合併だったと思います。

業界ランクには興味なし

〔加留部氏は横浜国立大学工学部出身だが、就職活動では「とにかく商売がやりたくてしかたがなかった」と述懐するように、入社試験は商社しか受けなかったという〕

私は1976年の入社ですが、当時は就職が全般的に厳しくなり始めた頃で、「商社冬の時代」になりかけていた難しい時期。各商社とも採用人数を絞り、狭き門になっていました。それでも私はとにかく商社に行きたくて、最初に内定をくれたのが豊通だったんです。商社としては規模は小さいけれど、その分、若手にも仕事を任せてくれるんじゃないかと。トヨタグループだから財務基盤もしっかりしていましたしね。

〔豊通入社後は3年目に米国駐在となり、米国でのビジネスで5年間揉まれて逞しくなった後に帰国。国内で6年過ごして結婚後、再び渡米して9年間駐在した。こうした国際経験豊富な加留部氏だけに、昨年からは入社7年目までの社員を対象に、駐在でも長期の研修でも語学留学でもいいから、とにかく一度、海外へ出ることを奨励している。

ただし、加留部氏はほかの商社との戦いにおいては、純利益で何位といった相対的な物差しでなく、あくまで豊通としてどうなのかという基準で考えると強調する〕

2年か3年前、社員みんなにメールを打った時に触れましたが、何大商社とか何位であるとかは、私はまったく関心がないんです。自分たちが目指す方向に向かえているかが大事ですから。たとえば敵失があって他社の順位が下がったとします。仮に順位を純利益で測ったとして、「他社が失敗してウチが5位になったところで君たちは嬉しいか? 私は嬉しくないよ」と。

社員向けのメッセージメールは年に8回か9回出していますが、ある時、新入社員から「何位を目指しますか?」という質問を受けた時も同じことを言いました。各社ごと、事業ポートフォリオがかなり違いますし、順位は関係ない。自分たちのビジネスがどうなのか、常にそこを自問自答し検証することが正しい道だと考えます。

(構成=本誌編集委員・河野圭祐)

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「あったらいいな!」の芯の折れないシャープペン

シャープペンで字を書いているとき突然“ポキッ”と折れる芯。
カチカチと芯を出して書き出し、何度も繰り返される、イラつくことこの上ない。
そんなイライラをなくした究極のシャープペンはどう生まれたか。

永遠の開発テーマ

一般の人にとってそれほど難しそうではなさげなのに、なかなかできないけれどあったらいいなというものはけっこう多い。カスの出ない消しゴム、使っても切れなくならない包丁、指紋のつかないスマホ…。そんなものの一つが「芯の折れないシャープペン」ではないだろうか。

2014年11月、そんな芯の折れないシャープペンが登場。発売開始から1年半足らずで400万本というヒット商品になっている。それがゼブラの「デルガード」というシャープペンなのだ。

新機構の開発を手掛ける相沢吉敏さん。

そもそも日本ではじめてシャープペンを作ったのは、家電のシャープの創業者・早川徳次さんで、当時は「早川式繰出鉛筆」という名前で売られた人気の文房具だった。しかし、関東大震災で被害を受け、事業を譲渡。その後、早川さんはラジオ生産を始めた。その際社名をシャープペンから「シャープ」とした。

それはともかく、日本の文具メーカーはもちろん、世界の文具メーカーにとっても芯の折れないシャープペンは“永遠の開発テーマ”だったのではないか。たぶん、きっと。

しかし、これまではもっぱら、芯の強化が行われ、その昔には平行に並べた2本の芯の上に10円玉だか100円玉だかを10枚ぐらい載せても折れない、といったCMがあったほど芯の強化が図られた。しかし、このデルガードはまぎれもなく、芯の折れない機構を搭載したシャープペンなのである。

「最初に芯の折れないシャープペンの開発が始まったのは2009年でした。しかし、このときは商品化できずに中断したんです」

と話すのは、ゼブラ研究開発部の相沢吉俊さん。一度は頓挫した折れないシャープペン開発だったが、12年に再びこのプロジェクトが復活したのだという。

「研究開発部の部長から『うちはシャープペンでヒット商品がないから、もう一度折れないシャープペンをやってみよう』と提案が出て、改めて、開発が始まりました」(相沢さん)

プロジェクトメンバーは8人で、再び開発が始まった。まず、最初に行ったのは、アイデア出しだった。そして、そもそもシャープペンの芯が折れるときというのはどういう状態になったときなのか、その原理について考えることになった。そこで気づいたのは芯が折れやすいのは、「縦に線を描いたとき」(相沢さん)だったという。

どういうことか。それは手前に線を描くと伸びていた手首が縮み、そのときに芯にかかる力が大きくなり、芯が折れやすいというわけ。そして、字を書く場合は、こうした動きが複合的にからみあう。

手前に線を引くと、手首が曲がってペンに力がかかり芯が折れる。

「09年に一度コケてますからね、本当にできるのかなという不安はありましたよ」と笑う相沢さん。最初に出された60ほどのアイデアのなかには芯に負荷がかかると、ペンそのものが折れ曲がる、芯をほんの少ししか出ないようにするなど、“トンデモ”なアイデアもあったが、そのなかにこのデルガードにつながるアイデアも含まれていた。

「シャープペンは芯が長く出ていると折れやすいんですね。ですから、芯に力がかかったときは芯の出ている部分を少なくしてあげるというのが基本的な仕組みです」(相沢さん)

これまでも芯に垂直に力が加わると引っ込むショックアブソーバーのようなシステムはあった。それに加えて、デルガードでは斜めからの力が加わった際には、芯の周辺の金属部分が飛び出し、露出部分をなくして芯が折れなくしている。さらに芯の目詰まりを防ぐ機構も搭載し、これらは特許を取得している。

「12年に開発が始まって、2~3カ月で手作りの試作モデルが出来上がりました。製品化が決まったのは13年10月で、14年3月ごろには量産化を見据えたプロトタイプが完成しました」(相沢さん)

日本メーカーの心意気

現在販売されているデルガードシリーズは、芯の太さが0.3ミリ、0.5ミリ、0.7ミリの3つのタイプ。価格は450円の一般モデルと1000円の高級モデルがラインナップされている。

芯の折れない、いわば究極のシャープペンでありながら、価格が安すぎやしないか?

「シャープペンは100円でも売っている商品ですからね。それにメーンユーザーは学生さんということを考えると、お小遣いで手の届く範囲の手頃な価格ではないですかね」

と話す相沢さん。こうしたところが、日本メーカーらしいところなのかもしれない。

筆圧がかかると金属部分が飛び出し芯をカバーする。

もちろん、顧客の反応も上々だ。

「これまでシャープペンの芯が折れると気が散って勉強に集中できなかったけれど、デルガードを使うようになって勉強に集中できるようになって成績も上がったという保護者からの意見もありました」(相沢さん)

また、これまでシャープペンのユーザー層ではなかったビジネスパーソン層にも受けて、この層への販売も好調だ。発売5カ月で200万本を売り上げ、文房具屋さん大賞などを受賞。さらに台湾、韓国など海外でも販売、日本ならではのクールな商品として売れているという。

「思いついたアイデアが、最終的には商品化されないことも多いのですが、この製品はずいぶんとうまくいったなと思います」

と笑う相沢さん。今は後輩のサポートをしながら、新たな商品開発に取り組んでいる。

(本誌・小川純)

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食べる・行く・住む 目指すは郷土料理を通じた地方活性化 瀬川 雄貴 ロケーションリサーチ社長

瀬川 雄貴 ロケーションリサーチ社長
せがわ・ゆうき 1985年生まれ。出生地は兵庫県だが東京育ち。大学卒業後、マーケティング会社を経てウェブマーケティングを手がける会社に転職。2007年に中学校時代の友人と2人で郷土料理をテーマとしたロケーションリサーチを設立した。

郷土料理店のネットワーク

―― 瀬川さんが社長を務めるロケーションリサーチは、郷土料理の魅力を広めることで地域振興を図ることを目的としているそうですね。起業のきっかけを教えてください。
私自身、食べ歩くのが大好きだったということが、起業の大前提としてあります。食べ歩くうちに、郷土料理には何百年も続く、一過性ではない魅力があることに気づいていった。そこで2007年に会社を設立するのですが、この年は食品の偽装問題が頻発する一方で食料自給率の低下が話題になるなど、食への関心が高まっていた。そうであるならば、本物のストロングスタイルである郷土料理を通じた事業が可能なのではないかと考えたのです。

―― 事業内容は、郷土料理のイベントの企画・提案や、レシピなどのコンテンツ提案、さらには販売促進につながる料理教室などの導入提案ですが、最初からこうしたビジネスモデルを考えていたのですか。
違います。東京には全国から人が集まっています。そして全国の料理も集まっています。そこで最初は郷土料理店のPRを行うことでお金をいただこうと考えていました。でもなかなかうまくいかない。そこで発想を変えました。それまでの営業活動で、郷土料理店とのネットワークはできつつあるのだから、彼らの持っているスキルや情報に対価を払い、企業などに売り込んだらどうか、と考えたのです。

このビジネスモデルを展開するうえで大きかったのが、2007年暮れに農水省が選定した「郷土料理百選」の企画・運営を任されたことでした。

―― 何の実績もない会社が、よくぞ官庁の仕事を請け負うことができましたね。
最初は農水省の代表番号に電話するところから始めました。ただしその時点で、営業先として回っていた郷土料理店数十店との関係性を持っていた。これが手土産になったようです。

この郷土料理百選を手がけると、次に調布市から、半年間の料理教室の依頼がありました。営業活動はしていませんでしたが、「百選を習う料理教室をやってほしい」という市民の声が寄せられたことがきっかけでした。その後、食品スーパーのマルエツからも同様の依頼があるなど、ビジネスが回り始めました。

―― 先生はどうやって手配するのですか。
郷土料理店の料理人や女将さんにお願いします。みなさん面白がって引き受けてくれますよ。

料理教室以外の仕事もこのやり方です。たとえば、ある冷凍食品メーカーに、北海道と九州の郷土料理の丼メニューの提案を行い、採用されましたが、この時も郷土料理店の力を借りて、メニュー開発を行いました。また、さまざまなイベントで郷土料理の実食を行っていますが、これも、郷土料理店の方々に手伝っていただいています。

子供の郷土料理サミット

―― 小学生のためのイベントも運営してるそうですね。
農水省から、子供たちに和食の魅力を理解してもらう場をつくりたい、という希望が出されたので、「日本全国こども郷土料理サミット」という企画を提案したところ採用され、昨年まで3年連続で開催しました。

小学1~3年生の児童には、郷土料理の絵を描いてもらい、優秀作品を表彰します。4~6年生には、地元で伝承されている郷土料理の食材や調理方法、特色、地域や行事との関わりをワークシート形式で書いてもらいます。そして全国9ブロックから代表を選出、渋谷の国連大学で発表会を開催すると同時に取り上げた郷土料理の実食も行います。昨年のサミットでは、1000件ほどの応募がありました。

―― いまでは地方に行っても、駅前にあるのは全国チェーンの飲食店だらけです。郷土料理に未来はあるのでしょうか。
これから回帰すると思います。確かにどこに行っても全国チェーンの店はありますが、だからこそ、やがて不便であってもそこでしか食べられない料理を求めることに行きつくのではないでしょうか。B級グルメのイベントには何万人もの人があつまりますし、地方の料理を紹介するテレビ番組も人気です。

―― 今後、どのような活動を考えていますか。
いま手がけていることはさらに拡大していきたいと思っています。さらには、海外への発信も考えています。いままでにも、日本にいる海外の方に郷土料理教室を開いてきましたし、評判もよかった。来日する観光客も増えていますから、この人たちにも日本料理の良さを伝えていきたい。同時に、海外にいる人たちに対しても、日本の郷土料理、日本の食材のよさを知ってもらいたい。その準備を始めています。

もうひとつは、都道府県のアンテナショップとのコラボレーションです。東京には、多くのアンテナショップがあります。ここには、それぞれの地方の食材や料理などが販売されています。いわば宝の山です。ここと組むことで、郷土料理への関心をさらに高めることができるのではないかと考えています。

私たちが目指すのは郷土料理を通じた地方の活性化です。郷土料理を食べて、そのおいしさに気づいた人が、次はその地方から食材を取り寄せる。さらにはその地方に旅行する。こうした人が増えていけば、中にはそこに住みたいという人も出てきます。実際、私たちの運営したイベントをきっかけに、地方に移住した人もいます。これほど嬉しいことはありません。

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