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ホンダは変わるか|月刊BOSSxWizBiz


ホンダジェット納入開始も…

2015年のクリスマスイブ、12月24日にホンダが独自開発した小型ビジネスジェット機、「Honda Jet(ホンダジェット)」の引き渡しが開始された。

ついにホンダジェットの納入が始まった。中央が八郷社長。

なぜホンダが飛行機を作るのか、前社長の伊東孝紳氏は航空機事業についてこう語っていた。

「三次元のモビリティである航空機業界への参入は、創業者・本田宗一郎の夢であり、ホンダはその夢の実現に向けて、ジェットエンジンと機体の両方を開発するという、いまだかつてないチャレンジを長きにわたって続けてきました」

実際、本田宗一郎は1962年の社内報で「軽飛行機を開発しようと思っております」と社員に伝えている。しかし、当時はまだ一介の二輪車メーカーであり、四輪の発売もしていなかった。そんな時代に航空機業界に参入するなど、夢のまた夢のような状況だったろう。

現在、ジェットエンジンの開発は航空機エンジンR&Dセンターを中心に行われているが、ホンダが本格的に飛行機の開発に取り組み始めたのは86年のこと。和光基礎技術研究センター発足と同時に航空機用小型ガスタービンエンジンの研究をスタートさせている。

基礎技術研究センターでは、ジェットエンジンだけでなく、エレクトロニクス、新素材、コンピュータ科学といった、当時としてはバイクやクルマに結びつかないような分野の研究が進められていた。ここから生まれたのが、ロボットの「ASIMO」であり、被災後の福島第一原発で運用されている「災害対応ロボット」、ナビゲーションシステムの「インターナビ」、環境分野の「太陽電池」や「燃料電池」等々、数え上げればキリがない。しかし、研究分野には事業化されていないものも多い。数十年後の未来の技術革新を見据えた研究開発という理想がそこにある。新技術をM&A等で買い集めるのではなく、できるだけ自前で開発し、そのノウハウを研究所に蓄積していく“こだわり”は、ホンダならではの精神と言える。

ホンダの事業領域は、とにかく広い。事業の三本柱の1つである汎用製品では、耕運機やポンプ、船外機、除雪機、芝刈機など、さまざまなジャンルの製品を出している。

しかし、ホンダは何をやっている会社なのかと言えば、世間一般的なイメージは「自動車メーカー」が一番に挙げられるだろう。実際、いまや売り上げの約8割が四輪事業になっている。メディア等で取り上げられる機会も圧倒的にクルマだ。そのホンダを代表するビジネスであるクルマが大苦戦している。

品質問題で苦境

2014年のホンダは、欠陥地獄にはまってしまったかのように厳しい逆風が吹いた。13年秋に発売した3代目「フィット」が不具合を連発。発売後約1年で5度のリコールは、消費者の不安を煽るのに十分だった。加えて、タカタが欠陥エアバッグの回収のために世界で約3000万台のリコールをしたことも打撃を与えた。ホンダはタカタ製エアバッグの最大のユーザー。後日タカタからの賠償はあるのかもしれないが、最近は決算発表のたびにリコール関連費用を上乗せし、ホンダの四輪事業の利益率を押し下げてしまっている。

そもそも昔からホンダ車は販売台数のわりにリコールが多く、モータースポーツ流に言うならば「信頼性の低い」メーカーだと言われていた。その理由としては、他社がやらないことを技術導入することで、成熟度に欠ける面があったからだ。それでもホンダファンが増えたのは、革新性のイメージが先行していたからにほかならない。

だが、手がかかるクルマほどかわいいと言われたのは昔のこと。近年のクルマはコンピュータが走っているようなもので、たとえエンジニアでも専門分野以外の修理ができないレベルだ。

さらにユーザー側もクルマ離れとともに技術に関する知識がなくなり、どんな不具合であれ、リコールが多い=信用できないメーカーと認識されるようになっている。クルマ選びに「安全性」を求める比重が高くなっており、たとえタカタの問題であってもホンダ車が敬遠されるのは致し方がない状況だったと言える。

13年から続いた品質問題は、他社に比して次世代技術の遅れが生んだ焦りが原因と言われる。他社に負けない環境対応車を早く市場に出すという、いわば経営の都合で新しいハイブリッドシステムがフィットに搭載された。それゆえ、テスト不足による不具合が頻発。信頼性の検証が不十分なまま市場に出たツケがリコールになって表れたのだった。

信頼回復がなされないまま、昨年6月、伊東氏から八郷隆弘氏に社長交代が行われた。八郷新社長のミッションは明確であり、リコールのホンダという悪しきイメージの払しょくと、低迷する営業利益率を改善し、利益を出せる体質に変えることだ。

品質問題については、Mr.クオリティの異名を持つ福尾幸一氏が本田技術研究所の社長に就任し、いわゆる経営側と開発現場との綱引き役を担当する。八郷改革には〝技術のホンダ〟の再構築が欠かせないだけに、福尾研究所社長の責任は重い。

そこで今回の特集では、八郷ホンダ社長と福尾研究所社長のインタビューをもとに、八郷改革は成就するのか、あらためてホンダの課題とともに検証してみたい。

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八郷 隆弘 本田技研工業社長
はちごう・たかひろ 1959年生まれ。82年本田技研工業入社。2007年本田技術研究所常務執行役員。08年購買本部四輪購買二部長、執行役員、10年購買本部購買二部長、11年鈴鹿製作所長、13年中国生産統括責任者、14年常務、15年専務を経て同年6月社長に就任。

昨年6月に社長に就任したのが八郷隆弘氏。ホンダは2016年3月期の業績見通しで売上高14兆5500億円と過去最高の売上高を見込みながら、営業利益では6850億円と、その利益率は4・7%にとどまる。度重なるリコールと相俟って、苦難の船出と言っていい。早急な改革が求められる立場に就いた八郷新社長はホンダをどう導いていくのか――。

現場力を引き出す

―― 就任後、約半年が過ぎて、改めて社長という立場で見たホンダはどのような会社でしょうか。
私はホンダに入社して本田技術研究所に二十数年在籍し、ほとんどの時間をクルマの開発に費やしてきました。その後購買に移り、取引先の現場を回る経験をし、鈴鹿製作所の所長を経て、欧州、中国に行きました。ホンダのなかでも現場に近い経歴だと思います。社長に就いて、改めて回ってみると、やはりホンダには現場力がある。個性あふれる人材が従事しています。この現場力をいかにうまく引き出してあげるかが、これからのホンダのカギになると感じています。現場で話をするなかで、一緒に頑張っていこうという声援もいただきましたし、現場が働きやすい環境をつくり、そこからモノが生まれてくるマネジメントをしていきたいと思いました。

私は主に四輪車事業に携わってきましたから、改めて二輪車、汎用の事業を見ると、お客様に根づき、世界中のいろいろなところでお客様の夢を提供している会社だと感じています。ホンダジェットも見に行きましたが、こんな業容の広い会社は、他にも類はないし、ホンダの強みになっていると思います。

―― ホンダのファン感謝デー等で、いわゆるホンダファンの声を聞くと、「ホンダらしい」クルマを出してほしいとの要望が強い。
ホンダらしい商品が欲しいとの声は、私どもにも届いています。我々が考えるホンダらしい商品というのは、1つは生活の役に立つもの。買っていただいた方の生活を変えて、さらに人生も変わるような、生活に密着した商品です。東京モーターショーでも発信しましたが、ホンダが二輪でスタートしたのはバタバタという自転車にエンジンを取り付けたものです。生活に密着している自転車を少しでも楽に乗れるよう、新しい生活を体験してもらおうと始めたものがスーパーカブになり、いまでも世界中で愛用されています。

就任後、初の東京モーターショーでスピーチする八郷社長。

四輪でも「N360」のようなクルマは、低価格で家族で楽しめる、新しいレジャー、新しい生活を提案する目的で開発されました。以降も環境に対応したCVCCエンジンや初代「オデッセイ」、「スッテプワゴン」といった新しい提案、最近では軽自動車の「N‐BOX」もそうです。北米で秋に出した「シビック」は、新しいCカテゴリのセダンです。デザインもハンドリングも、もう一回ホンダのFun To Driveをやり直そうと、次世代の環境対応と走りを両立するダウンサイジングターボという形で提案しています。生活に根づいた提案です。

もう一つは、モビリティの走りの追求です。ここでは「S660」、台数限定の「Type‐R」「NSX」と出してきましたので、これらを継続することによってホンダらしさがわかっていただけるのではないでしょうか。

―― ホンダらしい“走り”とはどのような認識ですか。
ストレスフリーで、運転することが負担にならない。スカッとする走り。移動するという目的で運転はしますが、ただの移動だけでなく、運転することが喜びとなり、楽しさや清々しさを感じる。お客様がポジティブになれるような走りが、ホンダらしい走りだと思って、そのようなクルマづくりをしています。

―― かつてのホンダのイメージは、他社がやっていないクルマを出す尖ったクルマづくりだと思います。最近は、いわゆる新提案のクルマがないことに不満を持つファンが多いのではないでしょうか。
メーカーとしては、出したクルマはしっかり育てることをやらなければいけないと思っています。2代目、3代目と継続的にクルマを作り込まなければ、買ったお客様ががっかりするでしょう。対して新しいチャレンジングなクルマの開発も手を抜いているわけではありません。

私は2011年に鈴鹿製作所にいました。軽自動車の開発生産、購買を一体にした「鈴鹿軽イノベーション」という軽に特化した部署を立ち上げ、そこから「N‐BOX」という従来にはなかった軽自動車をつくり、ホンダとしてNシリーズを新しい提案として打ち出しました。これは評価をいただいていると思いますし、ある程度の台数も稼げていると思います。グローバルで言えば中国では中国専用車を出し、インド、インドネシアでも地域に根づいている。

ただ、日本のお客様の期待に添えなかった車種が出たという反省はあります。新しい提案は自由で楽しいですが、自動車の場合は様々なメーカーからバリエーションが出揃っていることもあって、まったくの新提案は難しい。ですが、お客様からは「もっとインパクトのあるクルマを出してよ」という声をいただいていますので、ホンダらしいチャレンジをしていきたいと思っています。

―― ホンダは軽自動車や小型車で販売台数を稼いでいますが、必然的に利幅は狭くなります。タカタのエアバッグ関連等のリコールで圧迫している面はありますが、余剰生産能力も含め、営業利益率の改善はどう図っていくのでしょう。
ここ数年で言えば、品質対応の費用が従来より多くかかっています。品質対応はしっかりやっていきますが、一方で、グローバルでみると、我々は生産のキャパに対する販売、ここに開きがあります。固定費をいかに減らしていくか。国内販売を見ると、国内の生産能力は余剰になってしまいますので、輸出にもう一度ふっていく。特に北米は好調ですし、州によっては供給が足りないところもありますので、うまく国内の生産を活用していこうと思っています。新しいシビックの5ドアは欧州市場が中心ですから、欧州で集中的につくりグローバルに展開することにしましたので、他の車種は日本から持っていくことを検討しながら、国内の負荷をグローバルで補完する形にして固定費を下げていきたい。

グローバルモデルのシビックは、前回のモデルは価値が十分でなかったために早めのテコ入れが必要だったのですが、新しい提案をした今回のモデルは最初から競争力を持ち、価値観を高めて収益が確保できる形でスタートできました。同様にCR‐Vやアコードも競争力を踏まえた企画をして準備を進めています。商品としての競争力が高まれば、それをベースとする地域専用車の価値も高まりますので、四輪ビジネスの健全化、進化を進めていきたい。

―― フィットやヴェゼルではリコールを繰り返すなど、品質問題がクローズアップされました。熟成不足のまま市場に投入したとの声も上がりましたが、どのように改善が進んでいますか。
品質問題については、大変ご迷惑をおかけしました。その後のニューモデルについては販売を遅らせ、検証を十分にやりましたので、現在出している新型車からはしっかり品質を確保できています。新しい機種につきましても、企画段階から品質管理をし、研究所での開発段階、工場での量産への移行段階で第三者的な検証ができる体制にして対応を図っています。これまでは第三者的な検証ができていなかった部分がありますから、しっかり開発フローのなかに取り入れて、改善してきています。

苦しみながら強くなる

―― 昨季はモータースポーツの分野で、各カテゴリで残念な結果に終わりました。特にF1グランプリは注目が高かっただけに、負けたインパクトも大きいものでした。
F1は参戦1年目ではありましたが、みなさまの期待に応えられず、大変申し訳なかったと思っています。若い技術者を集め、新たな体制でスタートしましたが、開幕前のウインターテストでは我々のエンジンは初めてでしたし、マクラーレンも新しいプラットフォームでしたから、準備が間に合わずに時間切れでシーズンが始まってしまいました。我々の読みが甘かった。

シミュレーションをし、実際に走行し、確認するという流れのなかで、耐久性まで十分確認できずにレースに臨んだこともあり、前半は信頼性の面でかなり苦労してリタイアする場面が出てきてしまいました。エンジン自体の性能は我々のノウハウでよくなっていましたが、回生エネルギーの分野で熟成ができていない。ルール上、それをシーズン中に改善できないこともあって、後半は信頼性があっても、モーターを使うところがうまくできませんでした。ここの改善が今季の課題です。

我々の過去の歴史を見ても簡単に勝てたわけではありません。苦しみながら、段階を経て優勝できた。とはいえ、多くを言うより結果を出すしかない。レースは勝負事ですから、結果がすべてだと思っています。一日も早い表彰台を目指します。

ただ、現場の若い技術者は一生懸命、一戦一戦改善をしていましたし、若いだけあって成長も速かった。みなさまの期待に応えるべく、今季はひと回り成長した姿をお見せしたいと思っています。

―― 昨年末には、米国でホンダジェットの納入が開始されました。すでに100機以上の注文が入って、注目が高まっています。
創業者・本田宗一郎の夢をかなえたという思いもありますが、このプロジェクトに関わった人たちの思いが強かった。栃木県のツインリンクもてぎ内にある「ホンダ ファン ファン ラボ」に最初のプロトタイプが展示されていますが、これを見ると、二輪車や四輪車からスタートしている飛行機だなと実感できます。室内空間の考え方も「マンマキシマム・メカミニマム」というMM思想が表現されていますから、ホンダならではのジェット機が提案できたのかなと思います。航空機のビジネスは、かなり先行投資をして開発をし、機体を販売して、そのあとのメンテナンスが始まります。トータルで見てのビジネスになりますから、短期的に収益が出るものではありません。私の就任している期間ではない長い単位のビジネスになっていくと思います。セールスポイントは、四輪で培った室内の広さや静粛性、乗った時の快適性を追求している点です。人間を中心に考えたジェット機になっています。

―― 以前から言われていたことですが、トヨタのように台数を売るでもなく、メルセデスのようにプレミアムカーをつくるわけでもない。ホンダが目指す方向性はどこにあるのでしょうか。
台数かニッチか、という話はありますが、我々の目指しているところは、存在を期待される企業です。商品がいかに提案性を持ち、共感を持っていただけるかだと思います。ホンダの原点は生活に役立つ、生活を変えるところにあります。二輪、四輪、汎用に加えジェットも始まり、ロボティクスということで歩行アシストの商品も始めました。すべてのプロダクトで見れば、我々は年間で2800万人のお客様と接しています。その強みを活かし、生活が変わる提案をしていくことで、ホンダはさらに発展していきます。

特集 ホンダは変わるか

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福尾 幸一 本田技術研究所社長
ふくお・こういち 1955年生まれ。78年本田技研工業入社。2002年購買本部四輪購買二部長、05年品質・認証担当、執行役員を経て、10年常務執行役員。14年専務執行役員(現任)。同年11月四輪事業本部品質改革担当。15年本田技術研究所社長に就任。

2014年、新型フィット・ハイブリッドのたび重なるリコールを受けて、品質改革担当についたのが「Mr.クオリティ」の福尾幸一氏だった。開発体制の見直しを進めるべく、本社の専務と兼任で本田技術研究所に復帰。昨年4月、継続性の観点から研究所の社長として経営にあたる。品質改革とともに技術開発のあり方にもメスが入ることになった。

研究所内で異業種交流

―― 開発の現場である研究所から本社に行き、ふたたび社長という形で戻ったわけですが、以前とは変わった目線で見られたのではないですか。
研究所を出てから13年経ちました。私は本社の四輪事業統括という立場で事業を見てきたわけですから、研究所とは開発部門として日々付き合ってきたわけです。その意味では、研究所の有り様も見ていました。2014年の11月から急遽、品質に関わるところを再構築する形で5カ月間、研究所に入り、社長になりましたが、研究所がいま抱えている問題というのは、社長になってはじめて気づいたというものではなく、以前から難しさを感じていました。もともと研究所が独立会社として運営されてきたのは、日々の経済状況や本社の商売上の戦略とは別に、少し先の未来を見て新しい技術を仕込んでいくためです。例えば、基礎研究においては、二十年、三十年前から取り組み、ホンダジェットやロボット、水素燃料電池も実を結びつつあります。

―― その聖域と言える研究所が、本来の機能を発揮できていなかったから、福尾さんが社長として呼ばれたということでしょうか。
研究所としては、やりたいことがたくさんあります。それが十分にできているかと言えば、全部が全部、できるわけではありません。フィットの品質問題があった時も「やりたいこと」と「やるべきこと」という課題が見えてきました。やりたいことというのは、早くよい技術を世に出したいという思いです。世の中に問いたいんですね。しかし、各地域でビジネス上、こういう新しい商品が欲しいとなれば、やらなくてはいけないのです。結果的に研究所内での忙しさを招き、焦りを生む。そうならないために策を施すのが私のミッションです。ただ、すぐに解決策が出るものではありません。

アシモと福尾社長(青山ウェルカムプラザ)。

まずは研究所に対するビジネス上のプレッシャーがあります。そして新しいことを生み出さなくてはいけないというプレッシャー。近年のクルマは、単なるエンジンの改良や走りの追求ではなく、エネルギーやITといった広い領域が求められています。そのなかで手薄になった部分はある。やりたいことをやる会社ですから、その面でのモチベーションは高いですが、お客様に迷惑をかけない商品であっただろうか、というところが弱かった。そこは反省していかなければならない。

これを解決するには、実際にクルマに乗り、セッティングをし、技術を開発するメンバー全員が意識を持ち直すことが必要です。そのためには忙しさに焦ることなく、余裕をもって仕事をしなければいけません。本社にはビジネス上のことは少し我慢をしてもらう。新機種を遅らせる、止める、そういった取捨選択を本社や事業本部、世界中の各地域と議論を重ねてきました。開発は続きますから、次の日から楽になることはありませんが、徐々に実行ができていると思います。

研究所内で異業種交流

―― 研究所が考えるホンダらしい技術開発とはどういうものですか。
これは大変難しい。例えば、まだニッチな自動車産業に入った頃は、隙間が山のようにあって、先達がやっていない商品であり、技術であると「新しい、ユニークだね」と評価されました。過去のヒット作は、そこに「ホンダ」というブランドとセットになって「ホンダらしさ」というイメージが高まったと思います。あらためて、自動車を見ると、ユーティリティにしても性能にしても、あるいはハイブリッド技術にしても、各社が競って埋めて、そこに新しい商品、アイデアが出るのは難しくなっています。必然、ホンダらしいユニークさは、商品そのものでは語れなくなっている。

そのようななかで、今年で言えばスーパースポーツ領域の「NSX」、昨年の「S660」、環境技術で言えば水素燃料電池自動車などにアプローチできている。私がこの一年、言い続けてきたのは「広いでしょ? ホンダ」です。取材等では、主に四輪車のホンダと語られますし、実際のビジネスも約8割が四輪事業です。しかし実際は二輪があり、汎用があり、もっと広がってジェットがあり、ロボットがあります。ホンダの本質はその広さです。

私自身、四輪のエンジニアでしたが、研究所を出て購買を3年やり、6年間品質担当をやりました。二輪、四輪、汎用すべてです。そこで自分の知らなかった二輪や汎用の世界を見て、ホンダの広さを実感したのです。昔は小さい研究所でしたから、二輪や汎用を人が行き来していましたが、現在のように大きくなると、人が固定化されて、お互いが何をやっているのか、エンジニア同士が知らない状態になっています。

―― それぞれに壁ができてしまっていると。
そうです。アジアや南米では、小さなバイクを生活の道具として使っています。汎用を見れば、農機具をやっているし、水田に送る水ポンプも作っている。私はアキュラを担当していましたから、自動車ユーザーのなかでもハイレベル、ハイセンスな人たちがお客様でした。しかし実際は、生活に密着して我々の製品を使うお客様のほうがはるかに多い。汎用で600万人、二輪で2800万台、ほとんどが10万円前後というお客様です。この広さがホンダであり、本田宗一郎が最初に描いた役立つ喜び、暮らしを豊かにしたいという原点があるわけです。

それが、大きくなりすぎたがために、各部門が疎遠になってしまった。四輪の研究所にもバイクが好きで入った人もいますし、自動車よりも生活に密着した汎用に興味を持つ人もいるでしょう。そこで公募制で、エンジニアが行き来できる共同プロジェクトを始めています。ホンダの広がりをうまく使えば、新しいものができるという実感はあります。

―― 社内で異業種交流をするわけですね。技術者の自由度がさらに増していく。
募集をしてみたら、申し込みが多すぎて困っています。それはポジティブな面もあればネガティブな面もあって、きっと不満分子も多いんだなと(笑)。
いまの自分の仕事に限界を感じて新しい世界に行きたいという技術者もいるでしょう。特に四輪は大きな組織で1台のクルマをつくるビッグプロジェクトになる。プロジェクトリーダーや開発責任者になれば世間からも見えますし、クルマ1台をまとめる自負があります。しかし、実際にはその下でいろんな機能を担当している大勢の人がいて、自分が一つの歯車のように感じるエンジニアが出てきます。クルマづくりの達成感やお客様の喜びを肌で感じるチャンスが薄くなっている。エンジニアを新しい組み合わせのなかで活かしたい。手応えは感じていますし、そのなかから世の中に期待されているホンダならではの商品が出てくると思っています。

―― 環境対応も国によって基準が異なる等、たくさんのモデルを作るのと同じくらいの手間がかかります。こうしたなかで本社と研究所の関係は、今後どうなるでしょうか。
モデルの数だけでなく、単純なガソリンエンジンではダメですから、各国の規制に合わせた技術のバリエーションは大きな負担です。半面、新しいものを生み出す余裕も確保したい。この2つのバランスを取るのが、いまの研究所のマネジメントであり、本社との関係性の難しさだと思います。

私も本社側にいましたから、あれも欲しい、これも欲しいという思いはわかります。常に本社と研究所の主要なマネジメントが思いを共有して、ガマンしてもらうところも理解してもらう。絶対に安心できる開発、迷惑かけない図面、それが第一責務。ビジネス上、コストダウンしなければいけない商品もありますが、儲からなくても未来に続く商品もある。バランスが必要という共通認識はできてきましたから、本社に「それは違う」と訴える段階は過ぎたと思っています。

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経営者インタビュー



角 和夫
阪急阪神ホールディングス社長

すみ・かずお 1949年4月19日生まれ。神戸市の灘 高校を経て、73年早稲田大学政治経済学部卒。同年 阪急電鉄に入社。97年流通本部流通統括室長、98年 鉄道事業本部鉄道計画室長、2000年取締役入りし、 鉄道事業本部長、02年常務、03年社長。05年持ち株 会社の阪急ホールディングスを設立して社長、06年 阪神電鉄と経営統合して阪急阪神HD社長に。

沿線開発やターミナルデパートなどの先駆けと言えば阪急電鉄。 同社が持ち株会社化したのが10年前の2005年で、さらに同年、 阪神電鉄と村上ファンドが対峙したことから翌06年には両社 が経営統合、阪急阪神ホールディングスが誕生した。いまでは 私鉄再編のモデルケースになった阪急阪神HDの角和夫社長 に、10年の振り返りから今後の戦略までを聞いた。

持ち株会社化から10年

〔阪急阪神ホールディングスにとって、2015年は節目の年。昨年は宝塚歌劇100周年だったが、今年は大きな被害を受けた阪神淡路大震災から20年、持ち株会社の阪急ホールディングス誕生から10年だ〕

私が阪急電鉄社長に就いたのは03年でしたが、バブル時代の傷に苦労し、就任当初はその傷の深さに愕然としていました。社長になって2年が経過した頃、ようやく何とかやれるかなという自信ができ、それで阪急百貨店うめだ本店の建て替えを意思決定したのです。そこへ阪神電鉄と村上ファンドの問題が起き、阪神との経営統合という流れになりました。

もともと、阪急グループといえば小林一三というカリスマ経営者が興したこともあり、小林が存命中はグループ間を株で支配する必要がまったくなかったわけです。自立できる事業は自立させていくということで、百貨店や映画、興行事業もそうでした。グループ経営力はある意味、求心力というより遠心力を利かせて、それぞれ自主性をもってやってもらっていた。その上で、グループとして方向性を合わせる必要性が何かあれば、小林が一言言えばベクトルは合ったのです。

ですが、小林一三が亡くなって(1957年他界) 約50年が経っていたわけで、そうなると親子上場の問題も出てきます。たとえば、阪急電鉄もマンション分譲事業をやっていますが、同じように上場していた阪急不動産も手がけている。同じ阪急系でありながら、親会社も子会社も上場、そして同じマンション事業をやっている関係で、利益相反みたいなところがあったわけです。

それで親子上場をやめ、純粋持ち株会社を作ったのが05年です。阪急HDの下に阪急電鉄、阪急交通社、あるいはグループのホテルといった兄弟会社が並ぶようにした。そこに、阪神電鉄という兄弟会社が増えればいいと考え、経営統合を決めました。

〔阪急電鉄は主として梅田(大阪市)─三宮(神戸市)間の山側を走り、阪神電鉄は海側、その中間をJRが走る形で、阪急電鉄は富裕層を得意とし、阪神は庶民的という沿線カラーが指摘されてきた。阪急と阪神の経営統合から10年目のいま、ここまでの棲み分けやシナジーはどう総括するのだろうか〕

思い起こすと06年の4月以降、しばらくは各テレビ局が一斉に、「並行して走っている、ライバルの阪急と阪神が一緒になって統合効果をどうやって出すのか」という論調で報道しました。でも、当時から私は「まったく逆です。並行しているからいろいろなシナジーが出せるのです」と主張しています。

その1つが梅田の街作りです。お互いに梅田にターミナルがあってターミナルデパートを持っている。梅田を起点に山側を走る阪急と海側を走る阪神があるわけですが、“駅勢圏”というものが自ずとあって、海側に住んでいる方が、私は阪急が好きだからと、わざわざ阪急のエリアに来られることはないし、その逆もしかりです。つまり駅勢圏がそれぞれにあるわけです。

2つの私鉄がライバルでなく、一緒のグループとして大阪の百貨店戦争に立ち向かっていけたことは非常によかったと思いますね。統合の話が出た頃、阪神百貨店はすでに耐震補強工事にとりかかりかけていました。で、私は当時の阪神百貨店のトップにストップをお願いしたのです。

というのは、阪急と阪神が一緒になれば、まずは阪急百貨店を建て替える。その工事期間中は、阪急百貨店の売り場が半分になってしまう分、必要に応じて阪神百貨店のほうに売り場を移すことができます。そして、阪急百貨店の建て替えが完成した後で、今度は阪神百貨店を建て替えましょうと。阪神だけが古いビルでは、画竜点睛を欠く街作りになってしまいますから。

時間軸で言えば、阪神百貨店の建て替えは今秋から本格着工して、1期工事で2年半、ビルの西側を取り壊すのに1年、それからまた2年半の計6年かかり、上層のオフィス部分完成はさらにその半年後。つまり、全面開業は22年の春と、ちょっと時間はかかるんですが、グループの象徴になる新しいビルが向かい合ってできるのは、とても大きいと思っています。

ソフト面の街作りも重視

〔阪急、阪神とも、メインの鉄道ルートは梅田─三宮間だが、そのほかの沿線開発や鉄道の延伸といった分野ではどうか〕

阪神では、なんば線の新設が非常に良かったですね。尼崎から難波を結ぶので、梅田を通らずにショートカットして時間が短縮でき、かつ乗り換えの不便もなく、運賃も梅田経由より140円安くなりました。こんなに経済効果の大きい私鉄新線は珍しいと思います。いまだに定期のお客様が増えていますからね。一方の阪急のほうは、北大阪急行の延伸があります。

そういうハードの問題もさることながら、いま阪急と阪神で一緒にやろうとしているのは、沿線で教育、文化、安心といった街作りのキーワードになるソフト面なんです。たとえば「ミマモルメ」。これがいま10万人の会員まで増えました。サービスの1例を挙げると、ICタグを持ったお子様が登下校時に校門を通過すると、登録した保護者の方のアドレスにメールで自動通知するものがあります。

去る4月20日には、シニア向け会員制サロンの運営会社への資本参加を発表しました。ここの旅行、カルチャー、生活サポートや介護支援事業に我々も参画し、高齢者にもっと元気に街へ出てもらい、それによって健康年齢を上げていただく。あるいは認知症の発症を少しでも抑えていく。そういうアクティブな高齢者のための会員制クラブですが、こうしたソフト面からの街作りを重視しています。自治体間競争も沿線間競争も同じことで、住みたいと思ってもらえる沿線であり続けたいですし、それが最大にして唯一と言っていいくらいの経営戦略だと思います。

たとえば最近は大阪で、千里地区が住みたい街の上位にランキングされるようになりました。もっと言えば、梅田とか難波とか、以前では考えられなかったようなエリアが住みたい街になってきていると、マンションディベロッパーの調査で出てくるんです。職住近接もそうですが、大阪の街も以前より少し洗練されてきたのかなと。私の学生時代だと、阪神間に住んでいると大抵、三宮へ遊びに行き、大阪へは出なかったものですが、2年前にできた梅田地区のグランフロント大阪の大規模再開発エリアに代表されるように、最近は大阪もちょっと変わってきたかなと思います。

〔20年前の阪神淡路大震災では、阪急も阪神も鉄道が広域で分断され、自社のビルが倒壊するといった甚大な被害があった。三宮にある阪急のビルもこれまで仮設状態で残っていたのだが、今年度から建て替え計画も具体的に動いていくところまできている〕

結果として、この20年余りで企業が東京に本社を移す動きが起こったのは事実です。ですが、東京一極集中はもちろん良いことではなく、少なくとも東名阪はスーパーメガリージョンのような形にしていかないといけない。その中で当社の沿線人口はまだ増えていて、鉄道の輸送人員は減ってはいないんです。超高齢少子化の社会になると、選ばれる自治体、選ばれる沿線ということが非常に重要。また、都市部においてもコンパクトに機能を集約することが大事であるとずっと主張してきましたから、今後もその方向で街作りを進めていきたいですね。

財務強化も終わり、攻めへ

〔一方、人口減少が今後も加速する中で、5年後の東京五輪は訪日外国人を増やすビッグチャンスとなり、東京の百貨店はすでに訪日外国人たちによる爆買いで潤っている。関西圏も東京経由で、あるいは直接呼び込む形で、このチャンスを捉まえようと意気込む〕

今年は、おそらく訪日外国人が1500万人になろうかと思いますが、ここ4年で倍ぐらいのイメージでしょうか。一昨年に1000万人の大台を超え、昨年が1300万人超え。この強烈な伸びは当然、東京だけで受け切れるものではありません。関西の強みは24時間空港があることなので、観光だけでなく物流の世界でも強いですからね。

〔関西圏以外の、首都圏戦略や海外展開はどうか。首都圏で言えば、その先兵となるのがグループの東宝(阪急阪神HDが筆頭株主で持ち株は12%、阪急不動産が8%、H2Oリテイリングが7.2%)。東宝は映画興行が好調なうえ、不動産ビジネスも活況だ。去る4月17日には新宿コマ劇場跡地に新宿東宝ビルが完成し、ビルの屋上テラスに実物大のゴジラの頭部を再現し、話題に〕

小林一三の時代に、東京でもいろいろ事業を展開しましたしね。それを東宝が引き継いだ関係で、首都圏の不動産賃貸事業は東宝が担っているわけです。我々も東宝の劇場を借りる形で宝塚歌劇の通年公演をして、いい形で昨年、100周年を迎えることができました。

かつては双子の赤字ならぬ“3つ子の赤字”というのがあって、それが阪急ブレーブス、宝塚歌劇、宝塚ファミリーランド。つまり野球、歌劇、遊園地事業の3つが毎年、10億円を超える赤字を垂れ流す状況だったのです。その後、うち2つは撤退をして、宝塚歌劇は東京の通年公演が効いて黒字転換しました。

我々の沿線で成功した事業を東京でやるという部分では、マンションとホテルになります。ホテルは、私が社長になった時点で宴会やレストランビジネスはこれ以上はやらない、宿泊に特化したホテルをやろうと。

海外展開は、私が社長に就任して10年間、財務体質の改善を最大の経営管理指標にしてやってきましたので、たとえば貨物分野は海外で倉庫を持つことは一切認めず、ノンアセットで来ました。ただ、ようやく財務体質の強化も図れて、格付け的にもシングルAをいただけるようになり、負債倍率の面でも私鉄の中で3位グループまでは来ました。なので、今後はある程度、成長投資をやっていこうということで、インドネシアで物件を取得し、今後もASEANを中心に投資できればいいなと考えています。

〔阪急阪神に東宝を加えた企業集団という意味では、私鉄の中でも事業基盤は厚いが、今後の重点課題について、グループの頂点に立つ角氏はどう考えるのか〕

東宝で今年、初めて中期経営計画を発表させていただきました。東宝は非常にいいグループ企業になってきましたし、阪急百貨店も、うめだ本店の建て替えが非常にうまくいきました。電鉄も含めていま、グループが非常にいい流れの中にいるなと思います。

逆に言えば、3つの事業が揃ってこんなに順調な時期は過去になかったので、ちょっと慎重にならなければという思いがするくらいですね。長期的な経営戦略は次世代に任せていきますが、目先は、阪急百貨店なら中国でのプロジェクトを成功させないといけないし、当然、阪神百貨店の建て替えプロジェクトもそうです。まずは、足元の事業をしっかりと、実りあるものにしていくことだと思います。

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「日本の産業にとってロボットは重要」と話す宮河社長。

日本のロボットアニメの代表ともいえる『機動戦士ガンダム』。2009年に全高18メートルの実物大の立像が東京・台場の潮風公園に出現し、大きな話題になった。そして、また2019年、今度は実物大のガンダムを動かそうという「ガンダム GROBAL CHALLENGE (以下GGC)」が動きだしている。

GGCプロジェクトの代表理事で、ガンダムシリーズのアニメーション制作を行うサンライズの宮河恭夫社長に話を聞く。

―― 09年に公開された実物大のガンダム立像は、話題になりました。
宮河 実物大のガンダムを作ろうといったときには社内から大反対されるなど苦労しました。ただ、ガンダムを知らない方も、あれを見て「これがガンダムなんだ」と認知をしていただけたかなとは思っています。当時、ガンダムの富野由悠季監督とも、表現はよくないですが、実物大のガンダムを作るなんて馬鹿馬鹿しいことだと話していたんです。でも、実際に18メートルのガンダムが立っていたら面白いだろうなという、その思いだけで作った。周りに何もない公園に立たせたことで、スケール感が伝わったと思うんです。

―― 79年のテレビシリーズ以後ガンダムの人気は衰えず、続いています。その理由はどこにあると。
宮河 ガンダム以前のアニメは勧善懲悪のものでした。しかしガンダムは、地球の人口が増えて人が宇宙に移住しなくてはならないという物語の背景設定で、なぜロボット型の兵器が必要になったのかという理由づけがしっかりしていました。また、ストーリーは、地球連邦とジオン公国との戦争を描いていますが、戦争にいたるには、それぞれに事情があり、単純にどちらか一方がよい、悪いとはいえないということを、正面から描きました。ただ、子どものアニメとしては難しく、当時は放送が打ち切りになりました。しかし、ガンダムというロボットの格好よさから、子どもには「ガンプラ」というプラモデルに人気が出ました。一方、ガンダムの設定やストーリー性が大学生に刺さり、人気に火がついたと思います。当時、私はバンダイに入社したばかりで、まさにガンプラの営業をやっていたのですが、あの人気の広がりの熱量はすごいものがありました。

―― いま、いわゆる、ガンダム世代が企業の中核を担っています。
宮河 企業内ではガンダム世代がプロジェクトの起案者、あるいは起案者の上司というポジションで、発言力が強くなっているようです。それを感じたのが、12年にトヨタ自動車さんとコラボした「シャア専用オーリス」でした。これはキャラクターの商品化ではなく、ガンダムの世界観を車に持ち込んだ。実際に真っ赤にカラーリングした車に、トヨタのエンブレムではなく、ジオン公国のエンブレムを付けました。また、14年にはJXホールディングスさんがガンダムを企業広告で使っています。以前ならこのような企業がガンダムを使うなんて考えられませんでした。この5年で世界が大きく変わったように感じています。

―― 19年には、GGCプロジェクトが計画されています。
宮河 40周年にあたる19年は、東京オリンピックの前年で、日本が世界から注目され、日本自体も大きく盛り上がっている時期だと思うんですね。そこで世界から集めたアイデアを基に、日本が実際のものとして実現させたとアピールできたらと思っているんですね。

―― 具体的な計画は?
宮河 リアルと映像などバーチャルの2つの部門に分けてそれぞれでアイデアを募集し、いまはその審査をしています。今年の秋頃にはアイデアを選定、オープンプラットフォームでそれを公開し、アイデアの追加募集を行います。その後、審査・絞り込みをして基本プランを決定する予定です。多くの日本企業の協力を得て製作できればと思っています。

―― アニメーションがリアルに与える影響とは?
宮河 GGCの技術的顧問で、早稲田大学副総長の橋本周司先生から「いまは夢と現実が近づいて、夢が持てない状態になっている」とうかがいました。では、夢を持ってもらうにはどうしたらよいか。それは夢のレベルをポーンと高くするしかありません。それには、絵空事をぶち上げるしかないと思うんです。そこで僕たちアニメーションの人間は、絵空事を創る。そして、それと技術との掛け算ができないか考えていく。10年前だったら絶対に無理だと思うのですが、いまはちょっと馬鹿げたことでもできるんじゃないか、そんなふうに思っています。

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日常会話のできるコミュニケーションロボット「Sota」と、大和信夫・ヴイストン社長。

『週刊Robi』――ディアゴスティーニが週刊で発売したロボット組み立てキットで、全70週でRobiというロボットが組み上がる。Robiはドライバー1本で組み立てることができるが、人と会話をしたり、歌って踊るなどの機能が盛り込まれている。価格は1号あたり2000円ほど。すべて買い揃えるには15万円かかる。けっして安くないのだが、10万セットが売れたという。

このRobiの開発に協力したのが、大阪に本社のあるヴイストン。ホビー用ロボット開発の最先端を走っており、これまでに村田製作所がCMで使った玉乗りロボットや、カップヌードルから変型するロボットを手がけてきた。

もともとは全方位カメラなどの事業化を目的に誕生したヴイストンだが、2003年に2種類の二足歩行ロボを発売する。二足歩行ロボが市販されたのはこれが初めてだった。価格は400万円・40万円と高額だったが、40万円のロボットは200体売れたという。

「無名の会社の高額商品が、こんなに売れるということに驚いた」と語るのは大和信夫社長。ここからヴイストンのロボット開発は加速していく。ヴイストンが中心になって結成されたロボットサッカー「Team OSAKA」は、世界大会5連覇を達成した。

現在では、写真のコミュニケーションロボット「Sota」や、段ボールでできた二足歩行ロボット「ロボダンボー」など、教材用も含め数多くのロボットを市場に送り出している。

大和社長によれば、人に寄り添うロボットは、ペット同様、家族として扱われるようになるという。

「10年前のロボットはまったく人間らしくなかった。それが最近は感情移入できるようになってきた。言葉や表情、手振りなどでコミュニケーションもとれる。一家に1台、ロボットが家庭に入る時代がやってくるのではないですか」(大和社長)

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オムニボットシリーズを紹介するタカラトミーの木村貴幸氏。

タカラトミーは昨年、家庭向けロボットシリーズ「オムニボット」の発売を開始、ロボット事業に参入した。オムニボットとは「omnipotent=全能」とロボットを組み合わせたものだ。

最初に発売されたのが、スマホでも操縦できる二輪ロボの「ハロー! ミップ」。続いて犬型の「ハロー! ズーマー」、前頁で紹介した「Robi」を小型化、1000の言葉を覚えていて会話が楽しめる「ロビジュニア」、そして恐竜型の「ハロー! ダイノ」の4商品が投入されている。価格はいずれも1万5000円。

「タカラトミーはおもちゃ会社です。ですから当社のロボットで生活が便利になるわけではありません。おもちゃ会社のロボットですから、そんなに高くすることもできませんでした」(木村貴幸・タカラトミー新規事業部ニュートイ企画部部長)

犬型ロボットだったソニーの「アイボ」は、1999年に発売した1号機は25万円もした。ハロー! ズーマーは、車輪で動くところが四足歩行のアイボとは違うが、それ以外の機能はそれほど変わらない。それが、わずか1万5000円で買える時代になったのだ。

実はタカラトミーは84年にもオムニボットを発売したことがある。テープレコーダーとアラームのコンビネーションによるプログラミング機能を持つもので、価格は3万9600円だった。また2007年には世界最小の二足歩行ロボットも発表している。しかし当時はおもちゃとしては高価すぎた。そこでロボット事業はしばらく休止したものの、ソフトバンクの「ペッパー」の発表や音声認識技術の進化など、環境が整ったとみて、再参入を決意したという。

事業としての滑り出しは順調で、2月末に発売したロビジュニアなどは、1週間で完売するほど人気を集めている。

「子供から100歳以上まで、幅広い世代の方がオムニボットをお求めになっています。理由は癒されたい、子育てが終わった、などさまざまですが、ロボットが家にあることで、家族の会話が増えたという声もいただいています」(木村氏)

タカラトミーでは、今後もオムニボットのラインアップを増やしていく方針だ。家庭にロボットの時代はもうそこにまで迫っている。

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第5世代スケルトニクス・アライブ/白久レイエス樹氏(左)と阿嘉倫大氏

ビジネスは夢実現の手段

2008年、沖縄工業高等専門学校のメンバーとしてロボコンに出場、見事、優勝を果たし、その後、起業したのが、スケルトニクスのCEO白久レイエス樹氏とCTO阿嘉倫大氏である。

「よくも悪くも、高専のときのロボコンの状態がいまも続いています」という白久氏。

彼らが開発したスケルトニクスというのは「動作拡大型スーツ」というもので、リンク機構(複数のリンクを組み合わせて構成した機械的な機構)を応用。人のおよそ2倍の大きさになるパフォーマンスロボットである。

11年にユーチューブで動画が公開されて話題になり、14年にはNTT東日本のCMにも使われるなど活動の場を広げている。

しかし、彼らが一般的なベンチャーと違うのは、会社を継続、成長させる強い意思はないということだ。

「スケルトニクスを法人化したのは『エグゾネクス』という人型から変形してそのまま移動できる動作可変型スーツを作るのが目標で、スケルトニクスは、その資金を作るための会社です」(白久氏)

いわばスケルトニクスは、自分たちが考えている新しいロボットを作るための手段でしかない。

ビジネス的には、これまで1体1000万円のスケルトニクスを長崎のハウステンボス、ドバイ首長国首相オフィスにそれぞれ1体ずつを販売。また、イベントなどにパフォーマーとして呼ばれるなどして、その目的は果たされている。

エグゾネスは1~2年で完成するというが、その後については「全くの白紙」だという。

「完成後のことはまったく考えていません。これは挑戦なので、いま世の中に出ているパワードスーツにぜんぜん及ばないものかもしれないし、卓越した技術になるかもしれない。自分たちもどうなるかわかっていません。極端にいえば、エグゾネクスが完成すれば会社は解散してもOKですし、どこかの会社が買収したいといえば、売却するかもしれない」

ロボットづくりは自分たちの夢の実現――スケルトニクスは、いまなおロボコン継続中である。

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「パワーアシストハンド」特区の中小企業がリハビリ病院や大学の意見をとり入れて開発した。撮影/中野昭夫

実証に力を入れた特区

企業がさまざまなロボットの開発を進める一方、自治体でもロボット産業が地域活性化につながるとして取り組みはじめている。その1つが神奈川県の「さがみロボット産業特区」である。

「行政が産業振興に取り組む場合、基礎部分、研究段階の上流部分を中心に進めるところが多いのですが、われわれのさがみロボット産業特区は、実証部分の実用化に向けた出口に近い部分の支援を行っていくことに重点を置いています」

と話すのは、神奈川県産業労働局産業・観光部産業振興課さがみロボット産業特区グループの渡部力氏である。この特区に指定された地域は広く、神奈川県の中央部分の相模原市、平塚市、藤沢市、厚木市、伊勢原市、座間市など10市2町に及ぶ。

「中央部は製造業が盛んで、県内の研究開発の人口のうち約5割がこの地域に集中しています」(渡部氏)

神奈川県では特区に指定した地域をそれぞれの地域性に合わせて、北部を災害対応、中央部を介護・医療、南を高齢者への生活支援と、3つに分類している。また、こうした総合特区では、規制緩和、財政、税制、金融の4つについて特例を設け、支援を行えるが、ここでは、規制緩和と財政の2つに特化する。

また特区内だけでなく、全国から実証実験を行いたい企業を公募し、「場」の提供も行っている。実験には、以前は県立高校だった校舎や体育館などの施設を利用。校舎では病院や福祉施設に見立てて自立運転型のロボットの実験を、校庭では無人遠隔操縦のロボットの実験を行う。

このほか、ロボット特区ということもあって、特区内の病院や介護施設も協力的だ。

一方、財政支援では、県が直接財政支援を行うのではなく、総務省、経産省、中小企業庁、厚労省といった中央省庁が出している補助金の情報を収集。企業からの相談に応じて、それらの補助金を受けやすいよう申請書類の作成方法や説明書類のつくり方のアドバイスをしている。実際にこうした取り組みで、2013年は5件・1億8000万円あまり、14年には11件・4億2000万円以上の補助金を獲得している。

特区だからできたこと

こうした取り組みから生まれた地元の中小企業が集まり商品化第1号になったのが、パワーアシストである。これは脳梗塞などで、手に障害が生じた際のリハビリのサポートを行う。

「これは地域の企業が集まり、特区内の大学、リハビリ施設の協力を得て開発されたものです。モーターを使っていないため、無理なくリハビリができるのが特徴です」(渡部氏)

手の不自由な方が体の一部(写真でアゴ)を少し動かす だけで、自分で食事がとれるようになるロボット。セコムが開発した。撮影/中野昭夫

さらに、生活支援ロボットの浸透・定着を目的に、(1)パワーアシストハンド(エルエーピー)、(2)食事支援ロボット「マイスプーン」(セコム)、(3)コミュニケーションロボット「パルロ」(富士ソフト)、(4)自動ページめくり機「りーだぶる3」(ダブル技研)、(5)非接触バイタル感知センサー(ミオ・コーポレーション)の5つのロボットの介護保険適用の申請を特区として行った。

「通常、介護ロボット適用については市町村の提案になるのですが、直接ロボット開発を行う企業が集まっている特区ですので、メーカーの声を特区として提案しました。結果としては、残念ながら5つとも認められなかったのですが、介護ロボットについては、今後、厚労省も柔軟に対応していくという方針を示されまして、実際はわかりませんが、特区として提案したことで今後の対応に変化がでてきたのかなと、感じています」(渡部氏)

3年目──次への課題

一方、特区はロボット関連企業だけのものではない。地元に住む人に「生活支援ロボットとはどういったものか」「ロボットのある生活とは」というものへの、理解を深めてもらう啓発活動も行っている。

その1つが特集ページでも紹介した特区内にある住宅展示場などを活用し、直接、生活支援ロボットに触れることができる「場」の提供だ。また、町のなかにも、通常は「歩く人・止まる人」になっている歩行用信号機を、イメージキャラクターである鉄腕アトムのシルエットにするなど、ロボット特区ならではの雰囲気づくりもされている。

さまざまな産業特区があるなかで、実際にはなんのための特区なのか、わからないところもある。そんななかでさがみロボット産業特区は、その名前からも旗幟鮮明な特区といえる。今後の展開として、渡部氏は次のように話す。

「実用化の方策としては、特区内には159の企業が集まっているので、こうした企業による共同開発が進められないか。また15年で3年目になるので、次の大きなテーマとして、もっと社会に浸透させる事業を行っていきたいと思います。その1つが年間100カ所ほどの施設でのロボット体験ができる『ロボット体験キャラバン』です。

また、ロボットをお試し使用ができるモニター制度の構築もしていきたいと考えています。ロボット社会への定着としては、どこでロボットを使うことが可能か、各分野のオピニオンに参加していただき、いろいろな提言もしていければと思っています」

産業用ロボットの分野では、世界のトップを走る日本。しかし、生活支援ロボットの分野は緒についたばかりだ。そんななかで、実用性を推し量るこうした特区は重要な存在といえるだろう。

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人の中心にいるロボット

「そのまま背伸びをしましょう。ううんと、力を入れて、ううんと……」テーブルの上で両腕を上げて、背伸びの運動をするロボット。その周りにはイスに座ったお年寄りが集まり、ロボットの動きと同じ運動をする――その時間およそ25分。誰ひとりそこを離れることはない。

こうした高齢者施設で活用されているのが、富士ソフトが開発したコミュニケーションロボット「PALRO(パルロ)」である。

富士ソフト「PALRO」

神奈川県藤沢市にある「藤沢富士白苑」は、特養の入所者140・ショートステイ20の160ベッドを備える。ここでは2014年3月にパルロを導入した。

施設長の関野雅之氏がこう話す。

「100人の顔認識ができるなら、面白い使い方ができるだろうと導入したんです」

富士白苑では3階建ての施設の各フロアに1機、エントランスに1機の計4台を備えている。

いまでは高齢者の人気者になったパルロだが、開発のスタートは7年前にさかのぼる。

「そもそも開発のスタート段階では介護といったことは、まったく考えていませんでした」

と話すのは、富士ソフト常務執行役員プロダクト・サービス事業本部長の渋谷正樹氏だ。

「当時、iPhoneが発売されてコンピュータがポケットに収まり、その先のコンピュータはどうなるのか、ということが開発のきっかけです。いまのコンピュータは人が指示を出していますが、その先は、あらかじめ動いていて、もっとやさしいインターフェースのコンピュータになるだろう。そして、それは知能を持つコンピュータ、人間に近いものになるだろうと考えました」

ラップトップPCから始まった開発がいつしかロボットに変わり、開発チームは大学のロボット研究室などのリサーチをはじめる。その延長線上で、汎用部品を使ったパルロのプロトタイプを製作。そんなとき、営業担当者から「おばあちゃんがすごく気に入ったから売ってほしいという人がいる」との連絡を受ける。確認をすると、そこが高齢者施設だったというのである。

「笑わなかったおばあちゃんが、一定期間パルロを使っていたら、笑うようになったというんですね。そこから、お役に立てるならとはじまったわけです」(渋谷氏)

実際の開発にあたっては、馴染みやすいロボットにするため、大きさやデザインについてこだわりを持ったと渋谷さんはいう。

「パルロの全高は約40センチですが、これはテーブルにのせたときに、向き合った人が見上げない、その人の目線よりも低くしたいという理由からです。また、デザインはすべて女性の意見です」

本田英二・富士ソフト執行役員(左)/渋谷正樹・富士ソフト常務執行役員

会話は0.4秒がカギ

コミュニケーションロボットとして重要なポイントは、人との円滑な会話が成り立つかどうかにあり、それには、最初の言葉への答えがすぐに必要で、反応が遅れると、人はストレスを感じるという。

「通常、会話は0.4秒でのやりとりなんですね。それが0.8~0.9秒かかってしまうと、ちょっとイラっとする。また、日本語は複雑でイエス・ノーだけで124種類もあります。最初、パルロと会話をはじめたときは、コンピュータ相手ということで、はい・いいえをはっきり言いますが、会話が進むとそれを忘れて、きちんとした言葉ではなくなってくるんです」

介護施設へと用途が広がったパルロだが、「開発の当初の目的だったコンピュータやネットに触れない人にも触れてもらうためのインターフェースを組み上げるというスタンスは変わっていません」と渋谷氏は話す。

ロボットは静かに確実に、日常生活に入りつつあるようだ。

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経営戦記

加留部 淳 豊田通商社長
かるべ・じゅん 1953年7月1日生まれ。神奈川県出身。76年横浜国立大学工学部電気工学科卒。同年豊田通商に入社。99年物流部長、2004年取締役入り。06年執行役員、08年常務執行役員、11年6月末より現職。学生時代はバスケットボール部に所属。座右の銘は着眼大局、着手小局。

近大とマグロ養殖でタッグ

〔昨年、豊田通商が近畿大学と提携して卵から育てるマグロの“完全養殖”事業に参入(養殖事業そのものは2010年に業務提携)するというニュースが大きな話題になった。11年に同社の社長に就いた加留部淳氏は、就任後初めての出張が近大水産研究所で、同研究所の宮下盛所長と意気投合。今後は豊通と近大のタッグで完全養殖マグロの生産を順次拡大し、海外へも輸出していく計画だ〕

もともと当社は人材育成には力を入れ、いろいろな研修プログラムを用意していますが、その中に若い社員の事業創造チャレンジのプログラムがあるんです。自分たちでまず研究し、社内外の先輩や識者の意見も聞いて新事業案を作らせるものですが、その過程で「ぜひ、近大さんの販売や養殖のお手伝いをしたい」と提案してきた社員がいましてね。

面白い事業プログラムだったので、当時の経営陣が「やってみろよ」と。で、動き始めて実際に予算もつけ、近大さんにもお話をしに行ってというのがスタートでした。こういう社内提案制度は、起業家精神の醸成にすごく必要だと思います。もう1つ、マグロの漁獲量が減る一方で、需要は日本や東南アジアを中心に増えているわけですから、商社のビジネスとして意義がある。会社としてもやる意味があるし、若い社員を育てる点でも有効、その2つの観点から全面的にバックアップしています。

もちろん、ほかの商社でも水産系ビジネスには力を入れています。その中で、我々は違う土俵で戦うケースもありますし、どうしても同じ土俵の時は、真っ向勝負だと当社の企業体力では勝てないわけですから、戦い方を考えないといけない。そこは全社員と共有しています。そういう意味でも、他社が手がけていないマグロの完全養殖事業は非常に面白いビジネスですね。

近大とマグロの完全養殖事業で提携。左端が宮下盛・近大水産研究所長、右から2人目が加留部社長(2014年7月の会見)。

〔近大とのタッグは話題性が大きかったが、豊通という会社全体として見れば1事業の域は出ていない。これに対し、加留部氏が12年末に決断した買収案件は全社横断的な規模だ。当時の為替レートで同社では過去最大となる、2340億円を投じて買収したフランスの商社、CFAO(セーファーオー)がそれ。CFAOは、30年には中国を上回る巨大市場になると目されるアフリカ市場で強固な事業基盤を持ち、とりわけフランス語圏の多いアフリカ西側地域で圧倒的な商権を持っている〕

過去最大の投資ですから、我々もものすごく慎重に考えましたし、私も実際に現場を見に行きましたが、先方も傘下の自動車販売会社の修理工場とか、結構オープンに見せてくれましてね。当社とはDNAが合いそうだなと。

もう1つ、彼らは自動車関連事業以外もたとえば医薬関係、あるいはオランダのハイネケンと一緒に合弁工場を手がけるほか、BICブランドのボールペンなど、プラスチック成型品の生産なども手がけていて当社と親和性が高かったのです。

海外に商社という業態はあまりないですが、彼らは自分たちのことをはっきり「商社だ」と言いますから。ですから豊通がやっている事業はすぐに理解してもらえましたし、右から左のトレーディングだけでなく、彼らは工場を持ってモノづくりまで踏み込んでいるので、(トヨタグループの豊通と)お互いの理解はすごく早かったですね。

唯一、気になったのは若手社員の意識でした。若い社員が果たしてアフリカの地でビジネスをやってくれるのかどうか。そこで数人の若手に聞いてみたところ「この買収案件はいいし、アフリカは将来、伸びる市場だからやりましょうよ」と。そういう声に最後、後押しをしてもらえたようなところもあるんです。“一人称”という言葉を当社ではよく使うんですが、一人称、つまり当事者意識をもってやっていく気持ちがあるかどうかが大事ですから。

独自戦略を掲げる加留部氏。

フランス商社買収で攻勢

〔前述したように、CFAOは歴史的にアフリカ西海岸エリアの市場を得意とし、豊通は東海岸に強みを持っていたため、エリア補完も綺麗に成立した〕

地域的、事業的な割り振りで言えば、自動車関係はお互いの強みなのでしっかりやっていこうと。アフリカ西海岸で当社が細々とやっていたテリトリーは全部、CFAOに渡しています。物流の共通化なども進めて、お互いの事業効率を高めてきていますし、トヨタ車の販売や物流もCFAOと一緒にやっています。

当社としてはマルチブランドを扱うつもりはあまりなくて、トヨタと日野自動車、スバル(=富士重工)の商品を扱うわけですが、CFAOはマルチブランドなので、たとえば今年、アフリカでフォルクスワーゲンとのビジネスも決めました。

当社はケニアでトヨタ車を扱っていますが、CFAOはケニアにVW車を持ってくるわけです。CFAOは豊通の子会社なのにと一瞬、矛盾するような印象を持たれるかもしれません。我々はトヨタ車で現地シェアナンバー1を取りたいけれども、彼らもVW車でナンバー2を取ればいい。そういう組み合わせみたいなものができてくると思うんです。

いずれにしても、自動車関係のビジネスはお互いに共通しているので、この分野はオーガニックな成長で伸ばしていけるでしょう。一方、医薬品関係はいま、彼らもどんどん伸ばしていて、我々も日本の製薬メーカーを紹介したりといったサポートをしています。

〔豊通がCFAOを買収したことで、新たな効果も表れてきている。たとえば、前述したCFAOが合弁で手がけるハイネケンの工場運営会社。豊通の傘下に入る前は、CFAOの株主が収益はすべて配当で還元してほしいと要請していたため、新しい投資ができなかったのだが、豊通が入ったことでロングタームで事業を見るようになってくれたのだ〕

私もハイネケンの合弁会社社長に会って話をしました。先方も理解してくれて、生産国もコンゴだけだったのを別の国でも展開しようという話に発展しましたしね。さらに、フランス大手スーパーのカルフール。CFAOがカルフールとの合弁でコートジボアールで店舗を出しますけど、これも私がカルフールの社長とお会いし、アフリカ8カ国で展開することを決めました。

日系メーカーとではこんな事例もあります。ヤマハ発動機のオートバイを生産する合弁会社をCFAOがナイジェリアで作るのですが、彼らもヤマハとのお付き合いは従前からあったものの、それほど深かったわけではありません。

一方で、我々は日本でも(ヤマハと)いろいろなビジネスをやらせていただいているので、この合弁話を提案したら了承してくださり、出資比率も50%ずつでOKしてくれたんです。CFAOは豊通の資本が入っている会社だからと、全幅の信頼を置いていただけた。普通は、日本のメーカーが現地へ出るのに50%ずつというのはあまりなく、イニシアチブは日本のメーカー側が取るものだからです。

そういうCFAOとの協業ロードマップは10年スパンで立てていまして、私もCFAOの首脳もお互いに行き来しています。フェース・トゥー・フェースで、年に4回ぐらいは顔を合わせているでしょうか。それ以外にも毎月、テレビ電話での会議も1時間半ぐらいかけて実施し、いまの経営課題や将来の絵図などをお互い共有化するようにしています。

〔豊通には、TRY1という経営ビジョンがある。これは収益比率として自動車と非自動車の割合を均等にしていき、さらに20年にはライフ&コミュニティ、アース&リソース、モビリティの3分野の収益比率を1対1対1にするというものだ。CFAOをテコにしたアフリカビジネスの拡大も、TRY1計画達成に寄与する部分は大きいだろう〕

いまでもCFAOは1億ユーロぐらいの純利益を上げていますから、それだけでも我々は彼らのプロフィットを(連結決算で)取り込むことができますし、プラス、将来的な絵図という意味でも、お互いにステップ・バイ・ステップで各事業を伸ばしていくことで、TRY1の実現にすごく貢献するはずです。

〔総合商社といえば近年、資源ビジネスで荒稼ぎしてきたイメージが強かったが、資源価格の市況に大きく左右されるリスクがあることは、住友商事や丸紅が資源価格の大幅な下落などで多額の減損を強いられたことでも明らか。とはいえ、こうしたリスクテイクは、総合商社にとってはいわばレーゾンデートルでもあり、投資するしないの判断は難しい〕

資源といってもいろいろあると思います。いまさら石炭や鉄鉱石の採掘ビジネスにお金をガンガンつぎこんでもダメ。また、シェールガスやシェールオイルも私が社長になった頃に他社がみんなやり出して、社内でも「やりたい」という声が多かったのは事実です。でも、よく調べてみたら、当社はすでに周回遅れ、しかも1周でなく2周も3周も遅れている。「これでは高値掴みしてしまう可能性があるし、投資金額も大きいのでやめておきなさい」と、社内でかなり明確に言いました。

ですから、我々はもっとニッチで別な土俵で勝負していこうと。たとえば、チリで開発しているヨード。これはイソジンのうがい薬、レントゲンを撮る時の造影剤でも使うんですが、ヨード産地は日本、米国、チリと世界で3カ国しかありません。当社はその全部の産地で開発拠点を持っているので、将来的には取り扱いシェアを15%まで高めたいと考えています。

ほかにも、アルゼンチンではこれからの自動車ビジネスに直結する、リチウム関連の鉱山事業を昨年から始めましたし、豊通らしさというんでしょうか、ニッチキラーでもいいからウチらしさが出て、かつ上位の商社とも十分に戦えるビジネス分野でやっていこう、というのが当社の基本ポリシーです。

〔目下、前述したTRY1達成に向けて歩を進める豊通だが、現在の非自動車ビジネス拡大の基盤を整えたともいえるのが、06年に旧トーメンと合併したこと。トーメンが持っていた化学品や食料といった主力事業分野を得たことで、総合商社としての幅が各段に広がったのだ〕

実際、事業ポートフォリオが広がって、合併は結果として大正解でした。エネルギーや電力関係のビジネスはいま、一部を除いてすごくうまくいっているんですが、こうしたジャンルは豊通のままだったら絶対に出てきていないビジネスですね。

豊通はもともとが自動車関連ビジネスメインでしたから、農耕民族なんです。畑を耕して種をまいて、雑草をとって肥料や水をやってと。それが狩猟民族(=トーメン)と見事に化学反応したという感じ。狩猟民族の人も農耕民族から学んでもらえたし、お互いの良さを認め合ってすごくいい合併だったと思います。

業界ランクには興味なし

〔加留部氏は横浜国立大学工学部出身だが、就職活動では「とにかく商売がやりたくてしかたがなかった」と述懐するように、入社試験は商社しか受けなかったという〕

私は1976年の入社ですが、当時は就職が全般的に厳しくなり始めた頃で、「商社冬の時代」になりかけていた難しい時期。各商社とも採用人数を絞り、狭き門になっていました。それでも私はとにかく商社に行きたくて、最初に内定をくれたのが豊通だったんです。商社としては規模は小さいけれど、その分、若手にも仕事を任せてくれるんじゃないかと。トヨタグループだから財務基盤もしっかりしていましたしね。

〔豊通入社後は3年目に米国駐在となり、米国でのビジネスで5年間揉まれて逞しくなった後に帰国。国内で6年過ごして結婚後、再び渡米して9年間駐在した。こうした国際経験豊富な加留部氏だけに、昨年からは入社7年目までの社員を対象に、駐在でも長期の研修でも語学留学でもいいから、とにかく一度、海外へ出ることを奨励している。

ただし、加留部氏はほかの商社との戦いにおいては、純利益で何位といった相対的な物差しでなく、あくまで豊通としてどうなのかという基準で考えると強調する〕

2年か3年前、社員みんなにメールを打った時に触れましたが、何大商社とか何位であるとかは、私はまったく関心がないんです。自分たちが目指す方向に向かえているかが大事ですから。たとえば敵失があって他社の順位が下がったとします。仮に順位を純利益で測ったとして、「他社が失敗してウチが5位になったところで君たちは嬉しいか? 私は嬉しくないよ」と。

社員向けのメッセージメールは年に8回か9回出していますが、ある時、新入社員から「何位を目指しますか?」という質問を受けた時も同じことを言いました。各社ごと、事業ポートフォリオがかなり違いますし、順位は関係ない。自分たちのビジネスがどうなのか、常にそこを自問自答し検証することが正しい道だと考えます。

(構成=本誌編集委員・河野圭祐)

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2016年11月、米国のハンバーガーチェーン、「シェイクシャック」が日本に上陸した前後から、にわかに盛り上がってきたグルメバーガー。迎え撃つ日本のモスフードサービスも、「モスクラシック」という別業態で、高級バーガーという新たな領域へのチャレンジを始めた。

夜も楽しめるバーガーを

モスバーガーのイメージカラーと言えば、ヘルシーなベジタブルやトマトを連想させるグリーンとレッド。が、昨年11月27日、東京・千駄ヶ谷の東京体育館前にオープンした「モスクラシック」は、ウッディなブラウンを基調とした、落ち着いた大人のカフェレストランといった佇まいだ。ここはレギュラーモスと何が違うのか。その答えは、昨秋以降盛り上がりを見せているグルメバーガーにある。

新規事業本部を束ねる友成勇樹さん。

昨秋、東京・神宮外苑に1号店をオープンした、米国のグルメハンバーガー店、「シェイクシャック」の上陸が話題になった。マクドナルドの長期低迷が喧伝されていたさなか、同じ米国勢ということもあり、シェイクシャックの新規出店は新旧交代を印象づけたものだ。前後して、この機を捉えようと「ロッテリア」や「フレッシュネスバーガー」も、神戸牛や松阪牛、黒毛和牛などを使ったグルメバーガーを相次いで投入した。

ただ、モスクラシックはこうした人気にあやかっての急造店舗ではない。構想自体はもう、4年ほど前からあったものなのだ。モスフードサービスで取締役執行役員新規事業本部長を務める友成勇樹さんが語る。

「当社の櫻田厚社長はかねてから、モスバーガーのいわば上級ブランドとして、夜はアルコールも楽しめる新業態を模索し、いろいろな構想を練って物件を探してきました。たまたま千駄ヶ谷のレギュラーモスの物件が空くこととなり、モスクラシックとして生まれ変わったのです」

モスクラシックの最大の特徴は、カウンター席の前をオープンキッチンとし、来店客の目の前でパティを焼く、開放的なライブ感を重視したこと。実際に焼いてもらったところ、鉄板焼きの店といってもおかしくない雰囲気だった。だが、だからといってステーキなど商品アイテムを広げてしまっては、普通のレストランと代わり映えしなくなる。

「ビストロやディナーレストランのようにするのであれば、メニュー自体のコンセプトもかなり変わってきます。この店は、あくまでもモスバーガーの上位ブランドとして、ハンバーガーを中心に楽しんでいただくことを念頭に置きながら開発しました。夜のシーンでも、お酒を飲みながらハンバーガーが楽しめるんだという方を増やしたいですね」

ファストフードのかき入れ時はランチタイム。最近は朝型の人が増えているため、モーニングタイムの売り上げも上がっているが、夕刻以降は需要が落ちてしまう。そこを補う新業態という意味でも、モスクラシックの実験は意義があるのだ。

「従来のモスは、昼中心のモデルで何十年もやってきましたが、単にモスの派生形としてのモスクラシックではなく、モスバーガーの良さを残しつつ、違うハンバーガー店を作らないと。品揃えや雰囲気、内外装など、その仕掛けづくりという点で既存のモスとの違いを意識しました」

モスクラシックは今後、首都圏でもう1、2店舗、さらに6大都市への拡大も視野には入れているものの、立地の選定などは慎重に行い、性急な多店舗化は考えていないと言う。

一番人気の「アボカドバーガー」。

サイフォン式コーヒーも

モスクラシックでは基本、商品はナイフとフォークを使って切り分けて食べるのだが、パティやバンズはグレードアップした専用設計のものを使用している。人気ナンバーワンで特に女性の支持が高いのが、ポテト付きで税込み1150円の「アボカドバーガー」。ヘルシーなアボカドのクリーミーな食感と、粗挽きパティのハーモニーが女性にウケた。

このほか、モスバーガーのテリヤキをクラシック風にアレンジした「モスクラシックテリヤキバーガー」(1100円)、さらに、チリ風ソースが特徴の辛めの「チリバーガー」(同)を加えた3品が肉汁自慢のスペシャルメニュー。もちろん、ランチタイムにはお得なドリンク付きセットもある。ドリンク付きランチというと、コーヒーはおまけで、ドリップマシン式の原価が安そうなイメージだが、モスクラシックでは1杯ずつ淹れるサイフォン式コーヒーと、ここでもこだわりを見せている。

パティは来店客の目の前で丁寧に焼いていく。

「1000円を超えるハンバーガーなので、具材の素材に関しても、『こんなので1000円?』と思われないものをということで、繰り返し試食会を開催して作りこんできました。モスと言えばテリヤキバーガーですが、大人にとっては甘ったるいと感じるお客様もいます。そこで、既存店のテリヤキバーガーとは、また一味違った大人の味覚に堪えるものができました。お客様の属性は30代や40代の方が一番多く、昼は近隣の20代後半の方もお見えになりますね。男女比はほぼ半々。夜も含めると若干、男性のほうが多いです。

サイフォンで淹れるコーヒーには、社内でいろいろ議論はありましたが、現場の責任者がどうしても取り入れたいと。おかげさまでご好評いただいておりますが、コストより、まずいいものを出そうよというのは、いわばモスのDNAですから」

こうした手づくり感満載の店だけに、当初はパティ自体を焼く時間(1つ焼くのに約10分)と鉄板スペースの関係上、8枚ずつしか焼けなかったのだが、グリルを増設して改善したという。

「店舗のオペレーションレベルが現状、かなり重く、仕込みなどがすごく多いので、何らかの仕組みの改善は今後、必要ですね」

モスクラシックの進化に注目だ。

(本誌編集委員・河野圭祐)

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会員数が15万社を突破した日本最大級のビジネスマッチングサイト 新谷 哲 WizBiz社長

新谷 哲 WizBiz社長
しんたに・さとる 1971年東京生まれ。大学卒業後、ベンチャー・リンク入社。仙台支店長、東日本事業部長、執行役員を歴任。その後、常務執行役に就任し、経営コンサルティング部門や営業部門、サービス提供部門を統括。2010年に独立し、WizBizを設立。15万社の会員企業を組織する経営者向けネットメディア「WizBiz」を運営している。

社長になりたくなかった

―― もともとこのビジネスは、新谷さんの古巣のベンチャー・リンクが始めたものだそうですね。そこで、まずはベンチャー・リンクに入社した経緯からお話しください。
学生時代からコンサルティング会社に入りたいと思っていました。ただし大学は無名だし、成績も悪い。そこで考えたのは、誰よりも早く動き、誰よりも多く受けることでした。実際、100社ほどを受けましたがほぼ全滅。唯一受かったのが、まだ上場前のベンチャー・リンクでした。

ベンチャー・リンクでは最後、常務まで務めましたが、最初はとにかくダメ社員でした。入社早々、会社を辞めようかと思ったけれど、いざ辞めたところで自分には能力がないから同じこと。だったら、自分を変えるしかない。それまでは、昼間はほとんどサボっていたのに、日報を書き、誰よりも訪問件数を増やそうと決めて行動したところ、数字が上がっていきました。

それでも、昇進は同期の中でも遅いほうでした。それにもともと出世したいという欲もなかった。それなのに、巡り合わせで自分の上のポストが空くことが続き、階段を昇っていったようなものです。

―― いまにつながるビジネスマッチングは新谷さんが発案したんですか。
違います。当時の社長や役員がやろうと言いだして、「やるならどうぞ」というスタンスでした。でもやり始めたはいいけれど、全然黒字にならない。聞いてみると、どうやっていいかわからないと言う。僕は営業の責任者でもあったから、「じゃあ、俺がやるよ」と言って引き受けたのです。

その後、ベンチャー・リンクが経営危機となった時に、社長からこの事業を「持っていけ」と言われた。その話を部下にしたところ「やりましょう」ということになってスピンアウトすることになったのです。

―― 新谷さんが積極的に動いて独立したわけではないんですか。
僕は生まれてこのかた、社長になりたいと思ったことはないし、いまでも社長は自分にいちばん向いていない仕事だと思っています。でもその時は、やるべきことだと思ったから、社長を引き受けただけです。

目標は70万会員

―― WizBizが誕生したのは2010年4月。以来5年あまりで会員数は15万社を超えたそうですね。どうやって増やしてきたんですか。
ベンチャー・リンク時代、会員数は5万社を超えていたけれど、独立時点で1万以上減って4万社になりました。当初は会員になれば、名刺が安くつくれる、ユニフォームを安く揃えることができる、ということで会員を増やそうと考えていましたが、すぐにこれでは黒字にするのはむずかしいとわかった。そこで、方針を大転換して、WizBizをネットメディアという発想に変えようと考えました。

中小・零細企業の経営者がどんなことで悩んでいるか。その悩みを解決するサイトを100立ち上げようという構想を掲げ、現在、65のサイトを提供しています。

―― 確かに「ビジネスマッチング」を筆頭に、「入札ナビ」「経営者占い」「海外進出デスク」「起業塾」「M&Aマッチング」など、数多くのサイトがあります。
さらには独立2年目からセミナー事業を始めました。ここでは、さまざまな人たちが経営者の問題を解決するセミナーを開催します。現在、月に40ほどのセミナーを開催していますが、いずれは80にしようと考えています。セミナー事業をやるようになってから、会員数は一段と増え、このほど15万社を超えました。そこで、これを記念して、大前研一さんなどが講師を務める特別講演会を4月7日に開催します。(※)

―― 15万会員ともなれば、そこからの会費収入だけで安定的にビジネスを展開することができますね。
15万会員のほとんどは無料会員です。その代わり利用してもらったらフィーをいただく。フィーを増やすためにも使ってもらえるサービスを増やしていく。

たとえばセミナー事業なら、講師の多くがコンサルタントです。講師にしてみれば、WizBizのセミナーは自分の顧客を増やすチャンスです。そこでわれわれは、集客を請け負う代わりに、講師とコンサルタント契約を結んだ場合、その一定額が我々に入ってくるようになっています。ですから集客には力を入れています。基本的にはメルマガで集客するのですが、開封してもらうためにタイトルには非常にこだわります。現在、メルマガを開いてもらい、セミナー等の案内をクリックしてもらう確率は約1%。一般的にはメルマガの開封率が0・3%と言われていますから、WizBizのクリック率は日本一と自負しています。

―― 今後、何を目指していきますか。
WizBizは、日本のすべての企業、中でも中小企業の発展のために役立ちたいと考えています。具体的には、経営者向け総合スーパーを目指しています。問題を抱えた中小・零細企業の経営者が、当社のサイトを覗けば、あらゆる問題解決の方法がある。経営者にはその中から、自己責任で方法を選んでもらう。

IPOも検討しています。日本には約600万人の事業主がいますが、その1割+αで70万人の会員獲得を目指しています。上場すれば、タダで広告ができ、知名度も上がる。それが会員数の増加につながると考えています。

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