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父と娘の事業承継 父の思い 娘の気持ち|月刊BOSSxWizBiz

2015年問題が本格化

団塊世代が65歳以上になる、いわゆる2015年問題が幕を開けた。この世代が経営トップにいるオーナー企業や中小企業にとっては、本格的な世代交代がはじまり、まさに事業承継はこれからが本番だ。しかし、そうした企業の後継者不足は深刻で、14年度版の中小企業白書では、60代の経営者のおよそ6割、70代の経営者のおよそ5割、80代の経営者のおよそ4割に後継者がいないとされている。

これまでオーナー企業や中小企業での事業承継といえば、息子、娘婿、あるいは甥といった男性に引き継ぐことがほとんど。しかし、ビジネスにおいては、すでに男女に力の差はなく、むしろ昨今は男性よりも女性のほうが優秀と評価が高い。そんななかで女性の後継者、つまり“跡取り娘”に注目が集まっている。

実際、下表にあるように、世襲の多い政界でも、娘が父親の地盤を引き継いで国会議員になる例も増えている。しかし、こうした女性後継者の1つの共通点は、先代に突発的な出来事があり、引く継ぐという点だ。

とくに政界はその傾向が顕著で、田中真紀子元衆議院議員、小渕優子前経産相の2人は、元首相の父親が急病・急死によって。鈴木貴子衆議院議員も父親が公民権の停止を受けたため後継に立った。一方、加藤鮎子衆議院議員は父親が落選し引退、ブランクがあってからの登場だが、どのケースも先代から明確なかたちで後継者とされていたわけでなく、何らかのアクシデントが発生し、承継したパターンが多い。

これは政界だけでなく、中小企業においても父娘間での事業承継は、アクシデントによる場合が多いと話すのは、企業の事業承継に詳しいTOMAコンサルタンツグループ理事長の藤間秋男さんだ。

「娘さんへの事業承継では、いわゆる禅譲というかたちの、先代も元気で後継者になるというのではなく、お父さんが突然亡くなられ、後継者がいないため娘さんが引き継く、というケースが多いですね」(藤間さん)

もちろん、男女ともに一度はどこかの会社に就職。あらためて実家の事業に興味を持ち、後継者になることは珍しくないが、そういったケースでも女性は少数派だという。

とはいえ、いまの企業経営では、女性の感覚は欠かせない要素となっているのも事実だ。たとえば、フォーチュン誌では、企業業績と女性役員の比率は連動しているという調査結果も出されている。

具体的には、女性役員の多い企業は、少ない企業に比べROE(株主資本利益率)がプラス53%、ROS(売上高利益率)がプラス42%、ROIC(投下資本利益率)がプラス66%高い――こうしたことからも、娘への事業承継の期待は高い。

父娘バトルのゆくえ

そんななかで大手企業で華々しいキャリアを積んだ女性を会社に呼び、その力を借りたいと考えるのは、経営者であれば当然だ。それが父親であれば、なおのことそう思っても不思議はあるまい。しかし、こうした期待がかえって裏目に出てしまったのが、最近、何かと話題を集めている大塚家具の大塚勝久・久美子父娘のケースといえるだろう。

大塚家具の大塚久美子社長

父・勝久氏は、1943年家具職人の子として生まれた。しかし、自らは職人にならず、家具の販売に力を入れ、69年に大塚家具センター(現・大塚家具)を設立した。一方、久美子さんは勝久氏が会社を設立した翌年の69年に長女として生まれた。

設立後、大塚家具は順調に業績を伸ばし、80年には株式を店頭公開。93年には同社を飛躍的に伸ばす原動力になった会員制を導入する。

会社設立とほぼ同じ時期に生まれた久美子さんは、白百合学園の中学・高校へと進学。91年に一橋大学経済学部を卒業後、富士銀行(現・みずほ銀行)に総合職で入行。融資課、企画係で国際広報などを担当した。いってみれば“お嬢からバリキャリ”のエリートコースを歩んできたというわけだ。

その後、94年に銀行を退職し、大塚家具に入社する。入社の理由については、大店法が改正され人手が足りなくなったからとも、娘のキャリアを見込んで久美子さんを呼んだとも、いわれている。

いずれにしても、父の会社である大塚家具に入った久美子さんは、会員制を導入し業容を拡大していくなかで経営企画部長、経理部長、営業管理部長、広報部長、商品本部長などのポストを歴任していく。これら彼女の担当したポストを見ていくと、経営計画を立て、経理を見直し……といったように銀行でのキャリアをいかんなく発揮、社内の組織体制を整えていった様子がうかがえる。しかし、2004年に久美子さんは突然退職、コンサルティング会社を設立する。

一方、久美子さんが去った大塚家具では、06年に行った自己株買いが証券取引等監視委員会からインサイダー取り引きにあたると指摘されたことが、07年に明るみ出ている。

そして、09年に久美子さんは、今度は社長として復帰した。しかし、14年に再び解任され、15年1月に今度は逆に父・勝久氏を解任し、自らがまた社長に就いている。こうした父娘バトルが、社員や株主を巻き込み拡大しているのがいまの状況である。いまは3月27日の株主総会で、どちらか一方が経営権を取るために、委任状を奪い合うプロキシーファイトを展開中だ。

ここまで父娘バトルが泥沼化した原因はなんだったのか。双方がともに相手を批判するのみで、実際の真相はいまなお藪の中だ。しかし、この原因を探ること自体が、無理なのかもしれない。

父と娘の事業承継――心の葛藤は本人たちにしかわからない。

(取材・構成=小川 純/児玉智浩)

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世襲の多い政界において、父娘の世襲の国会議員として注目されているのが、鈴木宗男・新党大地代表と民主党の鈴木貴子衆議院議員だ。一般的に政治家の世襲では、先代は引退し、ほとんどが表に出てくることはない。しかし、鈴木宗男・貴子父娘はまさに二人三脚で、政治活動を行っている。この父と娘の関係はいかなるものなのか――。

“お腹のなか”でも選挙活動

鈴木貴子(以下・貴子) この世の中で一番嫌いな職業は1に政治家、2にマスコミ、3が司法や検察だったんです。でも、大学を卒業して何かを発信をしていく仕事をしたいという思いと、事実を事実として伝えることの大事さを痛感したことで、逆にマスコミは中から覗いてみようとNHKに就職しました。ただ、私の夢は10年ぐらい働いてお金が貯まったら、カナダでパン屋さんを開いて、向こうにはないメロンパンやチョココロネなどを売ることだったんです。ですから、政治の「せ」の字も人生プランに入っていませんでした。

鈴木宗男・貴子父娘へのダブルインタビューは貴子さんのこの言葉からはじまった。貴子さん本人が話す「パン屋さん」の夢とはウラハラにYouTubeなどにアップされている演説などの映像を見ると、まさに政治家が天職ではないかと思える。その話しぶりは、およそ当選2回の代議士とは思えないほどだ。しかも、話の間合いの取り方などは父・宗男氏そのままである。

鈴木宗男(すずき・むねお)
1948年、北海道生まれ。70年拓殖大学卒業。在学中から故・中川一郎元農水相の秘書を務める。83年第37回衆議院議員選挙で旧北海道5区から自民党候補として出馬し初当選、以後8期連続当選。97年北海道・沖縄開発庁長官、98年内閣官房副長官、2002年受託収賄容疑で起訴。05年新党大地を結成。10年に実刑判決確定し収監。議員を失職。11年仮釈放され、同党代表に就いている。

鈴木宗男(以下・宗男) 娘が生まれたときは私の2回目の選挙の年でした。昭和61年6月です(貴子さんの生年月日は昭和61年1月5日)。いま考えれば恐ろしい話ですが、選挙活動中、女房は生まれて5カ月のこの子を選挙事務所に置いて後援者回りに出るんですよ。それで事務所にいる後援者の方が時間になるとミルクをあげたりしてくれていたんです。女房にいわせれば「お腹にいるときから、この子は選挙活動をやってきましたよ」というぐらい、娘は選挙とは切っても切れない生い立ちなんですよね。

宗男氏は、過去の出来事や家族との思い出を語る際、「あれはね○年の選挙のときで…」と、選挙のあった年月日とリンクして話す。記憶そのものが選挙を起点にインプットされているようだ。貴子さん曰く「ザ・政治家・鈴木宗男」のゆえんを感じさせる。

貴子さんが子ども時代の父娘関係とは、どういうものだったのか。

宗男 家族旅行というのは、娘がカナダに留学する直前、5月にカナダに行くというので、その前の4月に女房と長男・次男・娘の5人で、女房の実家のある広島と山口県の萩に行ったのが、後にも先にも唯一の家族旅行なんじゃないなかな。

貴子 後にも先にもって、みんなで長野に行かなかった?

宗男 あ、あれはね、学校を卒業してからでしょ。

貴子 そのあとも行ってるんだから、後にも先にも1度だけではないでしょ。私はこういうのが嫌なんですよ。いまは共働きの家庭が当たり前なのに、家族をないがしろにして自分に陶酔してるようなところがあるんです。

宗男 いや、そうじゃなくてね。私が子どもと時間を取らなかったとか、授業参観や学芸会に行けなかったということに、私自身が反省してるってことでね。後ろめたさがあるんですよ。娘はいまは共稼ぎが普通と前向きにとらえてますけど、私としては親としての申し訳なさというのがあるんですね。

鈴木貴子(すずき・たかこ)
1986年、北海道生まれ。2008年6月カナダ・オンタリオ州トレント大学卒業。09年日本放送協会入局、長野放送局でディレクターを務める。12年第46回衆議院議員選挙に北海道7区から新党大地の公認候補として初出馬。13年同党比例北海道ブロックで当選した石川知裕代議士の辞職にともない繰り上げ当選。14年第47回衆議院議員選挙で民主党公認候補として北海道7区から立候補するものの落選。同党比例北海道ブロックで復活当選。

貴子 申し訳ないと思っているなら、いくらでもできるはずなんです。家族全員がそろわなくても、行けるメンバーだけで行けばいい。家にだって早く帰ってくればいいんです。でも、「365日政治家・鈴木宗男」ですから。家族の前でも政治家・鈴木宗男として生きています。たぶん、朝起きた30秒くらいだけ人間・鈴木宗男の顔をしているんじゃないかと思います。

―― 子どものころから、父娘という感じでは接してこなったということですか?
貴子 いまの状態は、会社であれば上司と部下、あるいは師匠と弟子のような関係ですが、こういうことをずけずけ言えるのが親子関係なんだと思います。10組の父娘がいれば10種類の父娘関係があると思いますから、これもひとつの父娘関係だと思っています。母からは、きちんと師弟関係を出しなさいと言われますが。

宗男 長幼の序というのがいまの人にはないもんだから。われわれの感覚からすれば、そういうふうにわきまえなさいよとなりますが、同時に父娘でもあるので、第三者から見るとちょっと奇異に見えたとしても特別なことではないんですね。

貴子 父以外の政治家の先輩に対するときは違いますよ。ただ、家族だからこそ、父にはほかの誰よりも、きちんとした服装でいてほしいとか、私がそういうところを見なくてはいけないという責任を感じています。私が尊敬しているのは政治家・鈴木宗男で、父親・鈴木宗男ではありませんからね。政治家・鈴木宗男には人の前に出るときは常にベストな状態でいてほしい。それをマネージというか、しっかり見ておくのが私の仕事だと思っています。

――お父さんが甘えている?
宗男 いや甘えてるのは娘のほうです。好き勝手に言ってるわけですから。私のほうが遠慮してますよ。

貴子 本当ですかぁ?(笑)

ここが政治家に向いている

そんな貴子さんが総選挙に初出馬したのは2012(平成24)年12月のこと。そのとき宗男氏は、政治資金規制法違反で有罪が確定。公民権が停止され、選挙に出馬できない状態にあった。

宗男 NHKに入って仕事にも慣れて興味を持ち、ディレクターとして仕事がやっていけるという自信が芽生えたころだったようです。そんなときに「解散だ。鈴木宗男は出られない。じゃあ誰がその鈴木宗男をカバーするのか」「それができるのは鈴木貴子しかいない」というのが後援会の判断として、自分の名前が先に出たので驚いたと思います。

ただ出馬をするにあたって本人も一番胸にぐっときたのは、ある後援者から言われたことだと思うんですね。その方は私のはじめての選挙から応援してくれたいわば私の親代わりであり、貴子にとっても祖父母のような存在で、その方に病床から出馬するよう言われ、後援会長も出馬を促しに来ると。これね、私が出ろと言ったところで、出るとは言わなかったと思うんですよ。

貴子 はじめての選挙になる直前、実は翌年に希望の部署に異動ができるかもと、そのときは目標のようなものが見えてきていたんです。もちろん、パン屋の夢があったので、NHKで一生を終わろうとは思っていなかったのですが。

それ以前の選挙では、自分がやりたいからと親の応援はしたことはあるけれども、自分がタスキをかける側になりたいとか、そのための勉強もしていないので、政治の世界に入る準備はしていませんでした。それまでは地元での政治家・鈴木宗男がどう人と接し方してきたかというのは見てきましたが、永田町での対官僚とか、そうした仕事ぶりは見たことはなかったんです。

地元では「貴ちゃん行くしかない」「貴ちゃん頼む」と後援会の方に来られても、その期待に私が応えられる根拠が見えなかったんですね。仮に父から「お前、選挙に出ろ」と言われたら「ふざけるな」となったと思いますが、後援会の方でしたからね。そのとき考えたのは「これを断ったら一生北海道に帰れない」。北海道を捨てられるか、と思ったらそれはできない。それなら出馬するしかない――この1点で出馬を決めたんです。

宗男 これは一つの巡り合わせで、後援会から言われて無視できないという思いと、政治の継続性、北海道という地域性などさまざまなことを考えたうえでの結論でした。

それに何といっても、一番大切なことは本人が政治家に向いてるかどうかということです。秘書をやってる次男も、演説はうまいですし、センスもよく政治家に向いているんです。やれと言ったらやり切れると思います。でも、それ以上に娘のほうが向いているというのが一般の人の受けとめ方だったんですね。

平成17年、私が胃がんの手術をしたあとの郵政解散で、新党大地を立ち上げたときに、娘は私の体調管理をしながら、いっしょに選挙カーに乗ったりして私の身の回りの世話をしてくれたんです。これが全国的に話題になって。そうした姿を見ているものですから、後援会の人は何の心配や計算もなく、「とにかく鈴木貴子しかいないんだ」となったと思うんですね。

―― 長年、政治家の秘書や政治家として政界の表も裏も知っているなかで、その世界に娘を入れるということに躊躇はなかったのですか。
宗男 それは大アリでしたよ。戦場に送り込むようなものです。しかも、この世界は権力闘争で、私も逮捕されたわけですからね。そこに送るというのは、私にもやっぱり大変な思いがありました。

私自身もそうですが、自民党の右翼といわれた青嵐会の世話人代表を務められ、あれだけ豪傑な師匠の中川一郎先生ですら命を絶つ。松岡利勝や松下忠洋といった私もよく知っている現職の大臣も自ら命を絶った世界です。しかも、田中角栄先生や金丸先生といったキングメーカーといわれた人も力を失っていく姿を見てますから。

ただ一方で、この鈴木貴子の心の強さ、根性ややる気、情熱というのは政治家に向いてる。チャンスさえ与えてもらえればやれる、という思いは親としては持っていました。

父と娘だからラッキーだった

政治家である以上、自らの主義・主張があり、理想とする政策や実現させたいビジョンがあるはずだ。父娘といえども、そうしたお互いの考え方の違いはどのように埋めていくのか。

貴子 そういうときは“なんで攻撃”です。「なんでダメですか」「理由は何ですか」「なんでそういう結果になるのですか」……そうやって話を聞いていって「なるほど」と腑に落ちたり、逆に父から「もう、それで行け」となったりすることもあります。でも、結論が出るまでは、なんだかんだと、常にキャッチボールをしています。

宗男 いま鈴木貴子は、民主党所属の国会議員で、私は新党大地の代表です。たとえば、今後、知事選挙などで民主党の考えと私の考えがずれてしまうと、娘との間でねじれ現象が起きるかもしれない。ただ私は娘は娘の立ち位置、私は私の立ち位置でやればいいと思ってるんです。少なくとも自由主義と共産主義といったイデオロギーのぶつかりはないですから。

政治手法の違い、判断の違いというのはあってしかるべきだし、当然ですから。あまり細かくギスギスするもんではないと思っているんですね。

貴子 もし私が息子で跡を継いでいれば、男同士ということで、いろいろ自分のなかで比べて独自の色を出そうというふうに考えたかもしれません。

でも、たとえば、時に批判材料となるような鈴木宗男の特徴でもある利益誘導、地元重視という政策も私は素直に受けられるというか、私が批判を受けても「私の地元は北海道ですから」と。北海道のために働いて何が悪いのかと思いますからね。父と娘だったというのはラッキーだと思います。

兄を見ていると、言いたいことがあっても言えないというところがたくさんあるように見えます。兄は遠慮しているように見えるんですね。でも娘の私は、遠慮しないで言えちゃう。

―― 逆に、父親だから娘に対する遠慮というのはありますか?
宗男 やはりストレートにガーンとは言えませんね。息子であれば「おい、お前」となんでも言ってしまう部分はある。そこが女の得でしょう。

貴子 それが女の得というか、父親の愚かさというか、難しいところだと思います(笑)。

したたかな娘としては、やはり使えるものは全部使わないと。だから私も「鈴木宗男の娘」ということを最大限に使いたいです。国益というか、地元の発展に繋がるならそれを使わないのは損です。選挙で投票していただいた方に申し訳ない。「鈴木貴子」の名前で選挙に出ているわけですから。もしそれが嫌だったら、苗字を変えるなりしなくてはいけないと思います。

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健康器具の製造・販売を手がけるジャパンライフ。「世界中の人々に健康で豊かな生活を提供する」との理念のもと、1974年に山口隆祥氏(現会長)によって創業された会社は今年で丸41年になる。隆祥氏が会長に就任し、社長職を娘であるひろみ氏に譲ったのが2007年。以来、二人三脚で経営のタクトを揮ってきた。娘を「共同創業者」と語る父の真意、それを受け止める娘のキモチとは――。

山口ひろみ(やまぐち ひろみ)
1972年東京都生まれ。聖心女子大学文学部外国語外国文学科卒業。慶應義塾大学大学院経営管理研究科前期博士課程修了、経営学修士(MBA)。96年ジャパンライフに入社。経営企画等を経て2007年社長に就任。

2人で始めた改革

―― 創業経営者にとって、会社を誰に託すのか、大きな問題だと思いますが、ジャパンライフでは2007年に娘であるひろみさんが社長に就任しています。父である山口会長にはどのような思いがあったのでしょうか。
山口会長 私は、実は娘を後継者とは思っていないんですよ。いわば「共同創業者」です。後継者と言えば、出来上がったものを受け取って引き継ぐというイメージですが、そうではない。なあ?

ひろみ社長 そうですね。新しいジャパンライフをつくってきたと言いますか。

山口会長 中学生くらいから私に付いて、アメリカをはじめ世界中を一緒に回っていたしね。

ひろみ社長 中国もそうでしたね。

山口会長 そうそう。大学に入ってすぐくらいだったか、大学が休みの時に、香港のジャパンライフに行って、物流の倉庫で、1人でコンピュータを打っていた。あんなところでさびしかっただろう。

ひろみ社長 香港の本社は最新型のオフィスビルでしたけどね。

山口会長 物流の拠点はいわゆる倉庫街。そういうところから現場を見てきているし、後継者ではない、共同創業者ですよ。一緒に会社をつくってきた。社長になって何年?

ひろみ社長 7年くらい。私が社長になった時は、店舗がまだ21店舗でした。その当時は代理店さんが中心の体制で、そこから自社の店舗をしっかり確立して社員も雇っていこうという時です。まだ従業員が300人くらいでしたものね。

山口会長 販売ネットワークを、まったく新しい方向に作っていこうと、2人でやってきた。いま不定期雇用まで含めれば1300人くらいまでに増えている。新卒採用を本格的に始めたのも社長だからね。

私がこの会社を作った時、まだ31歳と若かったから、なるべく私よりも年上の人を採用した。40代、50代、こういう人がいなければ会社に重みがない。いまや私も73歳だから、その方たちはどんどん退職して、現在の社員は社長が採用した人が多い。普通の会社の承継ではなく、2人で何から何まで苦労してきた。新製品の開発から工場の建設、機械設備、それこそ全部。ある程度、会社の基礎はできていたとしても、その基礎の上にまた新しい会社を作り直したような。

ひろみ社長 いまのマネージャークラスは新卒から入って8年目、30歳くらいの人たちが多くなっています。中途採用の人も30代くらいが多かったですから、気が付くと私より年上の人が少なくなっているんです。私より社歴が長い人も、役員クラスを除けば、数えるほどしかいなくなっていますよね。

山口隆祥(やまぐち たかよし)
1942年群馬県生まれ。75年ジャパンライフを創業、社長に就任。医療機器認可家庭用磁気治療器の発売を開始。80年財団法人ライフサイエンス振興財団設立。2007年に会長に就任

―― 2人で始めた改革というのは、どのようなものだったんですか。
山口会長 会社の仕組みとして、以前は商品の研究開発、製造まではウチがして、その商品を売るのはすべて代理店だったんです。ウチの社員は、代理店に商品を出荷する手続きをしたり、入金の確認をしたりといった処理。後方支援の要素が強く、前面に出て商品を売るということは、まったくなかった。

ところが、法律がどんどん厳しくなって、従来のように商品を届けて集金するだけでは済まなくなりました(2000年代に入り、薬事法の大改正をはじめ景品表示法、特定商取引法等の改正が相次いでいる)。いろいろな書類を作り、記帳していかなくてはいけない。そんなことかと思われるかもしれませんが、代理店任せにしてしまうと、法律の変化に付いていけなくなる可能性が高くなってしまった。代理店にも契約書をきちんとつくり、お客様に正確に説明できるだけの技量が求められるようになったわけです。

クーリングオフがわかりやすい例だと思いますが、仮に代理店がお客様の返品に応じないようなことがあれば、重大な法律違反に発展しかねない。ですから、すべてのお客様のところへ我々の社員が行き、契約事項の説明や法令に則った対応をすることが求められるようになりました。これにより全国の代理店を支援するためのサービスステーションをつくり、社員が代理店と一緒に販売をするようにしたわけです。これでむしろ代理店にとっても仕事がしやすい状況が生まれました。

私の時代は古い繋がりや仲間意識で「まあまあ」となってしまいがちだったんですね(笑)。社長は大学院で5年勉強しましたから、介護保険をはじめ民間保険、国民年金、共済年金等、制度や法令に非常に詳しい。

ひろみ社長 私は大学院で経営管理研究科だったのですが、ちょうど介護保険制度創設に関わっている先生のゼミだったんです。1999年から2003年まで大学院にいたので、介護保険の準備、施行の時。そこで様々なものを学べましたね。

山口会長 経営というものに対して、数字のことはすべてわかっている。だからいまは、私は財務的なことは一切やっていない。経理、財務、決済等々、すべて任せています。もう1つは、コンピュータです。どういうものかは何となくわかるけれども、自慢じゃないけど動かせませんからね、私は(笑)。ホームページやインターネット等のITは、我々の世代ではついていけません。

経営理念に基づいた言葉

―― ひろみ社長から見て、父の存在はどういうものですか。
ひろみ社長 それは、スゴイことばっかり(笑)。私がいろいろやっていると言ってくれましたけど、バブル崩壊やさまざまな金融ショックを乗り越えて、40年間、会社を続けてこられただけでもスゴイ。公益財団法人のライフサイエンス振興財団や、良質の水のために30年も前に購入した霧島高千穂の山とその工場建設等々、代替医療の機器の販売だけでなく「世界中の人々に健康で豊かな生活を提供する」という企業理念に基づいた行動をするという点で、ずっと一貫しているんです。要介護や病気にならないためにどうすればよいのか、健康に重要なことは何なのか、それをしっかりみなさんにお伝えしようとしている。

お客様に会っている人数も商品を試している数も、すべて一番です。ジャパンライフのお客様はボリュームゾーンが70代ということもあって、お客様の気持ちもよくわかっているし、これまでの経験からアドバイスをしてもらえるので、私はあまり悩まなくてすみます。何かしらの課題があっても、会長に聞けばすぐに返事が返ってきますし、経営理念に基づいた会長の言葉は、私だけでなく社員やお客様に対してもマイナスになることはない。できないことを言うこともないですし、関わっている人すべてが信頼をもって受け止めることができます。

山口会長 私と社長の年齢の開きも30歳と、ちょうどいいと思いますよ。私は団塊の世代の盛り上がりとともに人生を歩んできた。かつて、がんは不治の病だったけれども、いまはそれが治せるようになりつつあり、命は助かったけど次は要介護が待っている。介護施設が54万人分も足りないとか、4人に1人が65歳以上の時代になると言われていますが、仮に私が社長と同世代だったら、いまのビジネスが考えられなかったかもしれない。団塊の世代の悩みを私自身が体験してきたからこそジャパンライフがつくれた。その企業理念に基づいて、必要なものを商品として開発し、私自身が体験してきたことを、社長は小さい頃から見てきた。

中学高校大学くらいになれば、どなたでも祖父母が病気などで苦しんでいるところを見たでしょう。ジャパンライフは、高齢者を病気にさせない、要介護にさせないことを目指し、商品を一生懸命開発している。社会的な意義というものについて考える年齢というものはあるんです。その時期に父親の仕事を見たことで、自然に私の言葉も受け入れてくれているのではないか。いまでは親と同世代の人たちがどんな悩みを持っているのか、私より社長のほうが詳しいですよ。私は見たり聞いたりしたことだけど、社長は経営のデータとして集めてくるからね(笑)。

成功の秘訣は理念の共有

―― ちょうど大塚家具の会長と社長の対立がニュースで騒がれています。父親と娘ということで関係が同じになりますが、うまくいく秘訣のようなものはありますか。
ひろみ社長 事業ですからね。向かう方向性が一緒になれば。

山口会長 共同創業者として一緒にやれば、思いは一緒になると思いますよ。どうだろう? もっと低価格なものをつくって、たくさん売ろうと思うのかね? 正直に言えば、安くすればいいものはできません。原料というものがあるわけですから、それは無理です。安いからと手を抜くわけにはいかない。安い資材を使えば安っぽいものしかできない。

ひろみ社長 そうですね。

「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる東京・巣鴨地蔵通りのアンテナショップでの1コマ。

山口会長 商品はどんどん品質改良していかなくてはいけません。仮に古い商品が100万個あったとして、新しい商品が出来上がれば、この100万個は捨てるしかない。お客様の健康のための、より効果のある新商品なのに、100万個がもったいないからと、これを売り切ってからを出すということはできません。しかし、捨てた100万個は、新しい商品の利益から回収しないと、会社として存続できません。それを理解していただけるお客様でなければ売れないでしょう。付加価値があるから値段は高くなる。

その意味では家具も同様でしょう。会員制にすることで、上質な付加価値のある家具を、お金を出せる人に購入してもらうのは間違ってはいない。店舗に入りやすくしてファミリーが来るのはいいですが、子供がベッドやソファーで跳ねたり寝転んだりしたものを他の客が欲しいと思えるかどうか。例えば、娘さんがアメリカや欧州の家具屋に勤めればわかると思う。お金を払って届くのは半年後、10カ月後というのは珍しくない。そのぶん品質が高く、担当者の対応も行き届いた家具が届く。

私にはあのお父さん、創業者の気持ちがよくわかります。創業の理念はどうなのか。娘さんは単純に売り上げと利益を求めているから大衆化しようとしているのではないか。企業理念の本当の意味というものを創業者と後継者の間で共有できていなかったというのが問題でしょう。

ひろみ社長 親とか子供というのではなく、会社がどこを目指しているのかが重要ですよね。ジャパンライフでも要介護や病気にさせないための商品をつくろうとした時に、やはり低価格なものでつくろうというのは難しい。メインの商品である磁気治療器は、創業の時から厚生労働省に認可を取り、厳しい基準のもとで商品化しています。商品の価格は高いと思われがちですが、厳しい審査を受けて、しっかり認められる効果があるものです。それを理解していただくために、体験していただいて納得をしていただいて購入していただく。

私たちの商品は、たとえ数千円の基礎化粧品でも「効かない」ということは許されません。より高品質な商品に興味を持っていただくためには、入り口のところで躓いてはいけない。お客様に効果をわかっていただくためにも、ひとつとして商品に手は抜けませんし、工場からの発送ひとつにしても、きちんと包装しなければお客様が不満を感じてしまう。経営理念を共有しているからこそ、やるべきことも共通してくると思いますね。

―― ちなみに反抗期などはありましたか。また経営者になるための帝王学などはどう伝授したのでしょう。
山口会長 育て方の問題ですよね。子供を一つの枠にはめようとすれば、子供は小さい時はがまんしますけど、どこかで反抗しますよね。そういうことはしなかった。

ひろみ社長 30歳くらいの時に気がついたんですけど、計算していましたよね(笑)。

私が中学の途中から高校くらいのころ、ジャパンライフをアメリカで展開するために、会長は家も買って移住しました。私は英語が話せるようになりたかったし、もっと勉強したいなと思っていたら、「アメリカに家があるよ」と。そして高校で帰国して日本の大学に行ったのですが、91年に香港に会社を作って中国に進出する時で、今度は「中国に視察に行くから一緒に行かないか」と。ちょうど上海が開放経済になる時で、これからビルを建てるような状況。それを見た私は、よくわからないけど中国語を勉強しなきゃと思いました。

自分で選んでアメリカや中国に行って、自分で選んで勉強して話せるようになったつもりだったんですけど、実は、やりたくなるように仕向けられていたらしい(笑)。「やれ」とは1回も言われたことがないんですけど、興味を持たせようと見せる範囲を計算していたんですね。

山口会長 あの頃の中国って、まだ貧困も激しくて危険極まりない雰囲気があった。中国の経済貿易大学の学長が知り合いでしたから、海外から受け入れる教員用の宿舎に住まわせてもらって、安全を確保したうえですよ。どうせ興味を持つだろうなと思っていたから(笑)。

ひろみ社長 大人になってから気が付きましたよ。自ら率先して行ったつもりでしたけど、その時々でやっておいたほうがいいことをやらせてくれたんだなと。

山口会長 歌手になりたいというのをあきらめさせたら、恨みつらみも残るんだろうけどね。仕向けたと言うと人聞きが悪いですが(笑)、だから反抗期はなかった。

ひろみ社長 なかったね(笑)。

父親から引き継ぐもの

―― (ここで山口会長は退出)ひろみ社長から父親を見て、学んだ経営者像などはありますか。
ひろみ社長 ジャパンライフでは、会長が一番働いています。仕事とプライベートと分けるのではなく、仕事が生活です。現代人は健康と仕事が重要だと言っていますが、それを、身をもって実践しています。お客様とも触れ合って写真を撮ったり、体験会でも直接、話をしている。会長のそういう姿を見て私もがんばらないと、と感じています。私だけでなく、役員も社員もそう思っている。その思いは共有されています。

でも、共同創業者と言ってもらえたのは本当にうれしかったですね。そこにある理念や目標は同じですから、大きな理念に向かってどうすればよいか考えることで、結果、行き着くところは同じになると思います。社員の気持ちをひとつにするためにも、共同経営者がぶれていては話になりません。会長がアドバイスしてくださることは、絶対にやっておいたほうがいいと自信を持って言えますから、理念と方向性だけはぶれることなく、引き継いでいきたいと思っています。

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最悪の状態からの出発

埼玉県・三芳町上富緑――うっそうと茂った森の一角に石坂産業はある。大型のダンプカーの出入りはあるが、外からはオフホワイトその工場が産業廃棄物の処理プラントだということはわからない。しかし、いまから16年前の1999年、高濃度のダイオキシンが野菜から検出されたというテレビニュースをきっかけに、同じこの場所には監視小屋が建てられ、「石坂産業反対!」などと書かれた横断幕が貼られていた。その後、そのニュースは誤報だったと判明したが、その風評被害はこの周辺に途方もない爪痕を残した。そんな異様な状況のなかで「私に社長をやらせてください」と自ら父親に直談判し社長になったのが、石坂典子さんだった。

「できればこの会社を子どもに継いでほしいと思って、この会社をつくった」と、父の思いをはじめて聞いて、もうその場で即答ですよね。会社を継ぐのは自分しかいないと勝手に思い込んで、感情だけで、なんの躊躇もなく「社長をやらせてください」って言っていたんですよ。

石坂典子(いしざか・のりこ)
1972年、東京生まれ。米国短期留学を経て、92年石原産業入社。2002年取締役社長に就任。13年代表取締役社長に就任。里山保全に取り組み、財団法人日本生態系協会のJHEP(ハビタット評価認証制度)最高ランクのトリプルA取得(日本で2社のみ)。経産省「おもてなし経営企画選」選抜。「掃除大賞」「文部科学大臣賞」など受賞。著書に『絶体絶命でも世界一愛される会社に変える!』がある

石坂さんは20歳のときに、「会社を手伝え」という父・好男さんの言葉もあって、ネイルサロンの開業資金を貯める目的で入社。10年後、ダイオキシン騒動の渦中に、1年間の限定付きで“取締役社長”に就任する。このとき30歳、2児の母でもあった。

父は「女は嫁に行くもの」という考えの人だから、私を社長にすることは、最初から頭にはなかったと思います。「やってみろ」と言ってみたものの、実際には試しにやらせ、ダメならやめさればいいという感じだったんでしょうね。くじけずにやり通せるのかも含めて、自分で何ができるのか、1年間やれることをやってみなさいという感じでした。

子どものころの石坂さんにとって、好男さんは怖いだけの存在でしかなかった。高校卒業後は米国に短期留学。その後はひとり暮らしをしていたため、毎日父親と話すようになったのは会社に入ってからだった。そして、社長になってからは、「朝8時半からの15分の儀式」として業務報告を欠かさず行った。

その人の性格もあると思うのですが、父は縦割りで考えるタイプで、人の話を聞くのが苦手なんです。代表権は父が持っているので、何をやるにしても、父から決裁をもらわなくてはなりません。そこで毎朝、時間を決めてYESかNOかのジャッジをもらうようにしたんです。社長になった直後にやることといえば、ダイオキシン問題をどう乗り越えるかでした。そこで「脱・産廃屋」「産廃屋らしからぬ産廃屋」を目指すということで、父もこれは了解していました。

社長になって石坂さんが打ち出したのが、40億円の新プラントの建設と、社員の意識を変えるためのISOの取得だった。

逆風のなかでの新たな投資には、何の不安もありませんでした。「機敏な決断と実行力」という父の言葉が、常に私のなかにあったんですね。実際、反対運動のさなかに、15億円かけて新設した最新焼却炉の解体を決断した父の姿を目の当たりにしてましたから。出来て2年の、会社の心臓部であり売り上げの一番多い部分をカットしたんです。これはちょっとビビリましたよね。

また、ISOを取得しようとしたときは、社員がどんどん辞めていきました。しかも、社員のなかには私のいる目の前で父に「女の経営者は、イノベーションを起こせない」と言う人もいた。これには傷つきましたよ。それが父も信頼している社員でしたから。ほかにも父に手紙を出す社員もいました。ただ父は「新しいことをやるときに多少の血の洗い替えは仕方がない」と言ってくれました。

本当の危機

しかし、本当の危機は反対運動が収まってからだった。代表権の移行の前後、石坂さんと好男さんとの間では父娘だからこその葛藤があった。

私が社長になってからも、父は生涯現役と言っていました。そのときに「2代目社長なんて誰でもできる、要は3代目がしっかりしているかだ」というのが口癖でした。これを言われ続けると、やっぱり心が折れるんです。会社をよくしたいと頑張ってきても、自分が認められるフィールドはないんだと。そいう日が続いた30代の後半のある時期、ちょっとノイローゼのようになったんです。そんなときに突然、父が代表取締役を降りると言ったんです。

でも、代取を降りたあと、今度は父が苦労したようです。年齢も70歳前後でしたし、まだ自分流にやりたかったんですね。父にとっては、私を社長として育てていた10年間は楽しかったんだと思います。工場を作るのも、図面を見ながらああでもないこうでもない、「お前は馬鹿か」とやってるわけですからね。でも、私も社長業を10年もやっていれば、自分でできるようになっている。そうなると父は寂しい。任せたいけど娘だし、口は出したい。最後は私のやり方に文句を言うようになって「お前のやり方とは合わない」と捨てゼリフを吐き…。自分のなかで葛藤しているようで、言っていることがコロコロ変わるようになりました。

父の楽しみ、娘の理想

父は個人商店のようにやってるときが楽しかったんだと思うんです。それを続けたいと思っていたかもしれない。でも、私は会社を安定的に継続させたい。それには制度を整えて組織を強くしたいと思ってやってきた。最初は父もそれがよかれと思って、娘とやってきたけれど、会社が変わっていく寂しさを感じていたんじゃないかと思うんです。

そんな父を見ていて、父娘の本質を崩す必要はあるのかと思ったので「お父さんがやりたいなら降りるよ」と話したんです。すると「そんなことはできるわけがない」と怒って、「ずっと生きていられるわけないんだから、(自分が)降りる」と言われたときは少し寂しかったですね。

父親に接するにあたって、石坂さんが心がけているのは、「謙虚な心」で一歩譲ることだという。

後継者の私が考えなくてはいけないのは、「誰に食べさせてもらっているのか」ということだと思います。こうして生活しているのも、食べていけるのも、会社があるからで、その原点は創業者の父の代から続く顧客であり働いてくれる社員です。その人たちに生かされていると思えば、謙虚になれますよ。

もちろん、実際の仕事でAかBかとなったときは、自分の考えを強く主張します。でも最後は父が決めればいいと思っているんです。父がつくった会社なんですから。我慢とかという問題ではなく、そもそも誰に育ててもらったのか。そんな生意気な口をきけるのは誰のおかげか、そこなんだと思いますよ。

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先代の病気で社長に

博水社の3代目として田中秀子さんが社長に就任したのは2008年だった。博水社の主力商品は酒類用割り材となる炭酸飲料の「ハイサワー」。先代社長(現・会長)の田中専一氏が開発し、1980年に発売、現在まで続く大ヒット商品になっている。社長を継ぐことになったきっかけは、父である専一氏の病気だった。

「父が肺がんになり、肺の一部を切除しました。社長業は社内にいるばかりではなく、外に行くことが多い。大変なんですよね。私はうっすらと、自分が継ぐんだろうなと思っていたし、ほかにやる人もいないし、どうしよう、という感じでした」

田中秀子(たなか・ひでこ)
1960年生まれ。山脇学園短期大学英文学科を卒業後、80年博水社に入社。東京農業大学、税理士予備校に働きながら学ぶ。2008年に社長に就任。著書に『そうだ、私は社長なんだ!! 小さな会社、酒とナミダの奮闘記』(TBSサービス)がある。

もともと、秀子さんは子供のころからバレエを習っていたこともあり、会社を継ぐ意思は持っていなかったという。

「2人姉妹の長女で、もし私が男に生まれていれば、跡継ぎとして子供のころから勉強したと思います。でも娘でしたから、父も、私に好きな人ができれば出ていくんだろうと思っていたでしょう。さらに、私はバレエをずっとやっていたので、将来は振付師になるという夢を持っていました。大学には行かずに、ニューヨークに留学することも決まっていたんです。

ところが、腰を傷めてしまい、プロのバレエダンサーにはなれなくなってしまった。結局、短大に進学したのですが、勉強もせず、ジャズのボーカルの仕事をしてお金をもらって、という生活をしていました」

秀子さんはハイサワー発売直後の80年に博水社に入社する。

「子どもの頃は、小さな工場でした。木製の壁の、風が吹き抜けるような工場で家族がジュースをつくっているのを見てきました。コンベアの下をくぐって鬼ごっこをして遊んだクチです(笑)。20年以上、親の仕事を見てきたわけですから、簡単にできると思っていました。全部わかっているつもりでしたけど、工場の人が話している言葉が日本語に聞こえなかった。『ペーハーの調整が…』『クエン酸の酸度が…』『糖度ブリックスって…』。わかっているというのは大間違いだったんです。

父は、聞けば教えてくれるタイプの人です。でも、いちいち教えてくれるタイプではない。キャッチボールができないのに野球をするようなものでしたから、基礎がわからないのに教えようもないんですね。父は『お客様に買っていただいてお金をいただくのに、つくれなきゃ売れないだろう』と。製造販売というのは、こういうことなんです。表面はわかったつもりでも、根本がわかっていなかった」

入社後間もなくして、秀子さんは東京農業大学食品醸造科に社会人入学。仕事の合間をぬって授業に出席した。

「学校で学んで、次の日に会社に行くと、教科書以上のことが工場で行われていました。商品をつくる現場って、こういうことなんだと感じましたね。基礎は学校で学び、現場では父から学んだ。その意味では先生が2人いるようでした。でも、商品がつくれるようになってくると、今度は決算書とか税金とか、税理士さんと父が話していることが、まったくわからない。会計書類を見て、タウンページより分厚いものが、この世にあるのかと感じました(笑)」

専一氏は、秀子さんに「会社はお金を扱うから、お金の計算ができないと会社はできない」と一言。秀子さんは税理士予備校に通うようになる。週3回、仕事を終えてからの授業だった。専一氏は、ここでも現場での先生となった。

「父はイチからは教えてくれない人でしたが、私の仕事のテリトリーが増える時には、いつも先生でいてくれました」

秀子さんが社長に就任した際、専一氏から経営に関する具体的なアドバイスはなかったという。

「ふつう、社長はバトンを渡すことになったら、いろいろ言いたいことがあると思います。でも、ウチの父は、たった一つしか言いませんでした。『3倍で考えておけばいい、と俺は思う』。ふつうは、売り上げを3倍にするとか、商品数を3倍にするとか、ものを大きくすることを考えると思います。

でもそうではなくて、『仮に会社で3人の社員がいたとしたら、会ったことがあるのは3人だけかもしれない。しかし、社員には家族がいて子供がいる。独身もいるが、平均すれば3人くらいいる。だから、あんたが話をしている人間の3倍の生活までは、社長の責任。それを踏み外さないようにしておけば、やっちゃいけないこととやっていいことが見えてくる』と。会社のトップをやるうえでは、それが根本です」

3代目の重圧

博水社は今年創業86年の老舗企業だ。2代目の専一氏は父の急逝により24歳で跡を継ぎ、兄弟9人と母の計10人を養ってきた。家族を支える責任を十分すぎるほど理解していた。従業員の生活を守ることが社長の責任だ、というのが秀子さんに伝えられたメッセージだった。

「取引先の経営者の方々のなかには『3代目って、会社を潰す人が多いんだよ』と心配してくださる。私は祖父の時代を知らないのですが、創業者の86年前の思いをどこかできちんと持っていなければいけない。時代とともに変えなくてはいけないことは変える。でも、私と父が、いちばん多く、一緒に過ごした場所は、木板でつくられた工場です。そこが私のルーツになっています」

秀子さんは父について、ひと言で言えば「コツコツ」だと表現する。

「特別華やかな感じはないですね。社長だからといって、飾るわけでもなかったですし。仕事をしていてわからないことがあると、インターネットがない時代でしたから、黙って本屋に行って本を注文するような人です。非常に勉強家。お酒は弱いんですけど、だからこそ味に冷静だったのかもしれません」

ちなみに、いまやハイサワーの定番グッズ(?)となっている「美尻」。09年に第1号ポスターが製作され、好評を受けて10年にはカレンダーが製作されるようになった。本来は取引先等に配る販促グッズだったが、一般販売をすると約1万部が完売するほどの人気だ。

「カワイイですよねえ。父は『なんでハイサワーにケツなんだ!』とびっくりしていましたけど。すっかり定着してしまいましたね(笑)」

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男尊女卑でも世襲が優先

朴槿恵(パク・クンヘ)大統領は韓国史上初の女性大統領ですが、これは本来ありえないことです。韓国は男尊女卑社会で、女性は家を守るもの。「メンドリが鳴くと、家滅ぶ」という諺があるように、女性の表立った社会的活動を戒める文化です。

ではなぜ朴大統領が誕生したのか。

呉善花(オ・ソンファ)・拓殖大学教授

最大の理由は、朝鮮は伝統的に世襲を重んじる社会であることです。李氏朝鮮が終わり、王朝支配はなくなりましたが、世襲文化はいまなお生きています。だからこそ北朝鮮では、金日成(キム・イルソン)から金正日(キム・ジョンイル)へと受け継がれ、さらにはなんの実績もない金正恩(キム・ジョンウン)への世襲が、疑問もなく受け入れられたのです。

これは韓国でも同じこと。韓国で国父と言えば朴槿恵大統領の父、朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領のことを指します。しかも朴槿恵大統領は、若い頃に母親が暗殺されたため、それからはずっとファーストレディの役割を果たしてきた。ですから韓国国民は、彼女に父親を重ね合わせている。世襲の価値が女性という存在を上回っているのです。

朴正煕元大統領以外の歴代大統領で、閣下と呼ばれる人はほぼいません。ところが、現在の朴槿恵大統領は、側近から閣下と呼ばれています。そのことからも、彼女が父親のイメージとともにあることがわかりますし、朴大統領自身、それをうまく利用しています。

2002年、大統領に就任する前のことですが、朴氏は北朝鮮を訪れ、当時の金正日総書記と会談し、「お互い2世としてうまくやりましょう」と励まし合っています。北朝鮮でも韓国でも、実績よりも血筋がモノをいう社会なのです。

それでも、従来の韓国社会であれば、女性大統領の誕生はあり得なかった。

韓国は、イスラム諸国以外では、いちばん女性差別の激しい国です。韓国には女性の地位向上を図ることを目的とした、女性家族部という行政機関がありますが、これも女性差別が激しいことの裏返しです。

もっとも以前に比べれば、社会に出て行く女性が増えたことは事実です。

きっかけは1997年の通貨危機でした。アジアを襲った通貨危機は韓国経済を直撃し、韓国はIMFの管理下に置かれました。これにより、多くの企業が倒産、失業者があふれました。

それまでは良妻賢母として家を守ることが女性に求められていましたが、この危機に直面して、女性たちは自分たちも経済力を持たなければいけないことに気づいたのです。この時以降、社会進出する女性が激増しました。

同時に、離婚率も急増しています。女性の社会進出が珍しかった時代、離婚した女性に対して社会は冷たかった。非常に差別を受けました。そのため別れたくても別れられない。我慢して生きるしかなかった。ところが女性が経済力を持った結果、韓国はアメリカに次ぐ離婚大国となりました。何事も極端から極端へと動くのが韓国の特徴です。

このように、女性の社会進出が一般化したことが、朴大統領誕生にも大きな影響を与えていると思います。ただし、表面的には女性が活躍しているように見えても、根源的な部分での差別はまだまだ強い。

経済政策がうまくいっていないこともあり、朴大統領の支持率は低下しています。今後さらに悪化するようなことがあれば、「やはり女性はダメだ」という評価につながりかねません。

怒ることで威厳を示す

最近、韓国の女性で世間を賑わしたのが、ご存じ「ナッツ姫」です。

大韓航空の趙亮鎬(チョ・ヤンホ)会長の長女で、大韓航空副社長の趙顕娥(チョ・ヒョナ)氏が、客室乗務員からナッツを袋ごと渡されたことに激怒し、サービス責任者を降ろすために機体を引き返させたという事件です。

ナッツ姫の裁判は先日行われ、懲役1年の実刑判決が言い渡されました(趙氏は控訴)。

大韓航空は、韓進グループという財閥に属していますが、韓国の財閥において、オーナーの娘が役員を務めることは珍しいことではありません。サムスングループや現代グループでも、オーナーの娘たちが役員になっています。韓国は家族主義の国です。言葉を替えれば、身内しか信用しない社会です。「血は水よりも濃い」のです。ですから、子供や孫を財閥に迎えるのは当然のことなのです。

ナッツ姫は機内で激怒した際、男性のサービス責任者に暴言を吐いただけでなく、ひざまずかせて謝罪させたと言われています。男尊女卑の韓国で、なぜこんなことが起きたのかというと、「両班(ヤン バン)」の歴史があるためです。

両班は李氏朝鮮時代の支配階級です。朝鮮では支配層と庶民の身分は厳格に区別されていました。

両班の家族が、使用人に対して優しい言葉をかけることなどありえない。そんなことをすれば逆に使用人たちになめられてしまう。

むしろ厳しい言葉を使うことで、自分たちの立場を知らしめ、威厳を見せる。そのほうが支配階級として尊敬を集めることができるのです。これは女性の場合も変わりません。

日本では、他人を叱る時に人前で叱ることはあまり多くありません。叱られた人に恥をかかせないよう配慮するためです。韓国は違います。むしろ人前で怒るのです。それが威厳につながるからです。

ですから、ナッツ姫が機内で怒ったというのは、彼女にしてみれば当たり前だったのでしょう。そういう環境で彼女は育ってきたのです。ただそれが、世界中の人に知られてしまったことに誤算があったのかもしれません。

韓国の国民にとっては、それほど驚く話ではないはずです。ただその一方で、財閥に対する反発がある。それが、あの大騒動につながったのです。

ただし財閥への反発は憧れと裏表です。誰もが本音では財閥に入りたい。ある調査によれば、大学生の50%以上がサムスンへの入社を希望しているそうです。

かつて、両班になるには高級官僚登用試験の科挙に受かることでした。いまは財閥企業の就職試験が科挙と同じ意味を持っています。財閥に入ることは支配階級に属することを意味しています。

ですから、韓国の受験戦争は日本より熾烈です。そして女性の場合なら、美しさを求める。美人であれば、支配階級と巡り合うチャンスが多くなる。彼女たちにとって美は資本なのです。だからこそ、韓国は世界一の美容整形大国ともなっているのです。

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インタビュー



澤田秀雄
エイチ・アイ・エス会長ハウステンボス社長

さわだ・ひでお 1951年生まれ。73年旧西ドイツのマインツ大学留学。帰国後の80年エイチ・アイ・エスの前身となるインターナショナルツアーズを設立。96年スカイマークエアラインズ(現・スカイマーク)を設立。2007年澤田ホールディングス社長に就任。10年ハウステンボス社長。アジア経営者連合会の理事長も務めている。

エイチ・アイ・エス(以下HIS)の澤田秀雄会長が、スカイマークエアラインズ(現・スカイマーク)を立ち上げたのは1996年11月のこと。その後、98年に羽田?福岡線に就航、定期航空としては35年ぶりの参入を成し遂げ、“半額運賃”を武器に寡占の航空業界に風穴を開けた。が、2003年に経営権を譲渡された西久保愼一前社長の下、同社は今年1月末に経営破綻した。スカイマーク生みの親である澤田氏はどう見ているのか。

一方で、10年4月から再建を託されたハウステンボス(以下HTB)は絶好調、この夏からはサービスロボットを導入して、HTB内でロー・コスト・ホテル(以下LCH)にも挑戦する。そこで澤田氏に、スカイマークからHTB、将来の新事業構想、日本が観光立国になるための条件などを聞いた。

中途半端になって失速

―― スカイマークが破綻に至った要因は、超大型のエアバス380型機を発注したものの業績低迷で断念し、巨額の違約金が発生したことに尽きますか。
澤田 そうでしょうね。ドル/円が80円台という円高で調子が良かった頃に、無理をせずに脇を締めながらやっていれば、こうなっていなかったと思います。経営権を譲渡して以降、最初のうちは西久保さんと会ってましたけど、後半はほとんど会っていませんでした。きちんと引き継いだ後は変に口出しをするとよくないし、HISの持ち株も段階的に処分してきましたから。もちろん、スカイマークへの送客の協力はHISとしてもしてきて、たぶん、HISが1番か2番の送客ボリュームだったでしょう。

澤田氏が生みの親だったスカイマークの再建の行方に注目が集まる。

―― 確かに、節約志向が際立ったリーマンショック直後などは、スカイマークには飛ぶ鳥落とす勢いがありました。その後、ロー・コスト・キャリア(以下LCC)が日本でも生まれてスカイマークが押されたとはいえ、LCCは関西空港や成田空港からの発着。対するスカイマークはドル箱の羽田発着ですから、やり方によっては十分に迎撃できたはずですが。
澤田 LCCまではいきませんが、スカイマークは格安航空の走りでしたので結構、羽田の発着枠はきちんと割り当てられていましたからね。たとえば、成田から福岡には皆さん、あまり行こうとは思わないでしょうし、きちんと経営していれば、十分に黒字だったと思います。これからだって、やり方次第では黒字になると思いますね。

―― LCCを意識し過ぎてか、差別化のために従来のボーイング737型機ではなく、もう少し大きいエアバス330型機に置き替えていき、結果として搭乗率を下げたのも痛かったですね。
澤田 確かに機材を中途半端に大きくしましたし、運賃も上げたでしょう。330型機でやるのだったら、とことんいいサービスとクオリティでいいお客さんをつかまえる。もしくはLCCに徹し、徹底して合理化してできる限り運賃を安くして飛ばすか、このどちらかにしないと、中途半端ではお客さんが離れる可能性がありますから。

―― スカイマーク支援に名乗りを上げたのも創業者としての思いですか。
澤田 ご協力できるところはしていきたいです。まずは安全に飛んでいただく。そしていい競争をしていただき、お客さんに喜んでいただくプライスとサービスを提供するのがスカイマークの役割だと我々は思っていますので。今後も、やり方次第で必ず喜ばれるエアラインになるでしょうし、スカイマークを生んだ関係上、あるいは嫁に出した以上、きちんと支援はしたいですね。

「変なホテル」で差別化

―― 一方でHISは、一昨年夏にバンコク(タイ)を拠点とする国際チャーター航空会社(アジア・アトランティック・エアラインズ=トリプルA)を立ち上げましたが、ここの近況はどうですか。
澤田 トリプルAの役割は、スカイマークとはまた全然違います。なぜタイで設立したかと言えば、コスト的にもそのほうが安くできるだろうということと、成長著しいアジアにあって、タイはちょうどアジアのど真ん中にありますので、タイをハブにしてインドやインドネシア、日本などへ飛ばすのに好都合なのです。

―― ビジネスモデルとしては、繁忙期に少し安くする形ですね。
澤田 日本ならお盆とか正月とか、繁忙期はだいたい運賃が高いので、この時期に少しでも安くしよう、もしくは座席を供給しようという役割で作ったのがトリプルAです。LCCとはコンセプトが違いますし、中国の春節期、あるいはレバラン(イスラム教圏の祭りの時期)など、繁忙期はその国によって時期がずれてきますから、そこを狙って飛ばしていきます。立ち上げてから1年半が経って、だいぶ経営的にもよくなってきました。3年ぐらいでメドがついて、意外と早く黒字になるかもしれません。

旅行ビジネスで大事なのは、大きく分けて2つです。まず、飛行機はやはり重要な役割を果たします。もう1つがホテル。ホテルと飛行機が車の両輪で、そこをきちんとケアするのが旅行会社なのです。

そして我々は今年7月17日、「変なホテル」という名称のLCHをスタートさせます。何しろホテルのフロントをサービスロボットに任せるので、世界一、生産性が高いホテルになるでしょう。生産性が高いということは将来、それだけ客室料金も安く提供できるということですからね。たぶん、10年後にはLCHが一気に広がっていると思います。

ハウステンボスの風物詩の1つとなった「花の王国」。

―― サービスロボットは全部、安川電機との共同開発ですか。
澤田 いや、違います。荷物を運ぶロボットはシャープさんですし、フランス製や日本製など多種類で、顔認証専門の会社にも入っていただき、いろいろなチームを組んでやっていますから。ロボット1体の価格はおおよそ、1000万円前後ですね。「変なホテル」では、シングルでだいたい1泊7000円から1万4000円ぐらいまでの幅で、ツインになったらそれより2000円高ぐらいです。

特徴としては、初のチャレンジですが、宿泊料金をオークション方式の入札制にしたこと。これによって時期、日にち、時間帯によってフレキシブルな価格設定が可能になります。入札制が完成してさらに効率化していけば、将来はいまの半額の宿泊料金も可能になるでしょう。

これまでのサービスロボットはまだ、使えるようで使えなかったんです。産業用ロボットは単純作業だからいいのですが、サービスロボットはそうはいかないので、「こういうふうにしてください」とか「こうしましょう」と提案してロボットのソフト面を改良していき、真にサービスで使えるロボットを作っていこうじゃないかと。

―― ロボットに限りませんが、作り手としてはどうしても使わない機能まで加えて、オーバースペックになってしまうものですよね。
澤田 “見せもの”のロボットではダメですから、むしろ余計な機能は削ぎ落としてもらっていますし、「変なホテル」と命名したのも絶えず変化し、進化し続けていくホテルにしたいからです。将来は、ホテルサービスの90%以上がロボットやコンピュータシステムで動くホテルになっていくでしょう。リッツカールトンやフォーシーズンズのような五つ星ホテルは人間のサービスも必要だと思いますが、HTBは三つ星、四つ星ですから。とはいえ、ビジネスホテルのクオリティとは違いますから、独創的なホテルにできると思っています。

―― 円安を追い風に、訪日外国人が急増しています。
澤田 このままいくと、東京も大阪もホテルの料金が上がり、いずれ外国人が来づらくなりますね。インバウンドは昨年で1300万人、今年はたぶん1500万人と言われていますが、私はその水準でいったん止まると思います。なぜなら、ホテルの供給が追いつかないことが1つ。もう1つ、高くなるとそろそろお客さんが敬遠し始めるんです。「別に日本に行かなくても、もっと安い国のホテルに行こう」と。我々は旅行業を長くやっていますから、そのあたりの按配は経験値でわかりますから。

いま、東京のホテル稼働率は軒並み80%以上ですし、大阪は90%以上だと思いますが、ということは飽和状態に来ているのです。次に何が起こるかと言えば、宿泊料金を上げていくんですよ。でも限度がありますから、ある価格帯を超えてくるとお客さんがそっぽを向いて来なくなる。アジアの大航海時代には、LCCとLCHの両方が必要である、というのが我々の考え方です。

―― 最近はトーンダウンしていますが、カジノ誘致論議はどう考えますか。一部では横浜市と大阪市が有力と報じられましたが。
澤田 地方カジノとしては、HTBなんかはピッタリかもしれませんね。いずれにしろ、売り物にエンターテインメントやショーがないと、カジノだけでは博打のみですから、よくない。米国のラスベガスは、売り上げの半分以上がエンターテインメントですから。特に、地方でやるならそういうふうにもっていかなくちゃいけないでしょう。ただ、地方で初期投資を何千億円もかけてカジノで採算が取れるところがあるかと言えば、たぶん難しいですね。

いまやシンガポールやフィリピンにマカオと、あちこちでカジノができて競争の時代になっていますから、中途半端なカジノを作ってしまうとダメです。カジノビジネスもそんなに甘くはないと思いますが、国として、やるのであればやる、やらないのであればやらない、と早く決めたほうがいい。

植物工場や地熱発電も

―― HTBではこれまで、次々とお客さんを飽きさせない打ち手を繰り出してきました。花の王国から始まって光の王国、今年は健康王国が新しいコンセプトですね。
澤田 HTBはモナコの広さがあるんです。で、モナコは1つの都市であり国でしょう。HTBの園内は私有地ですから規制がない。だからいろいろなチャレンジができます。

世代的なことで言えば、シニアは花やショーを好みます。親御さんは適度に園内のアトラクションを楽しみ、ゲームやアドベンチャーパークはヤングに喜ばれる。つまり、HTBは3世代に喜ばれるのです。ゴールデンウイークはファミリーやヤングが主力で、その後は100万本のバラ園。これはシニアが来られます。そうやって、時期によってマーケットを変えているわけです。我々はディズニーさんやユニバーサルスタジオさんの真似をしても勝てません。

フロントを担当するロボットの「アクトロイド」。

―― 澤田さんが目指すのは、単なるテーマパークでなく、観光ビジネス都市だそうですね。
澤田 そう、観光ビジネス都市の中にテーマパークもあるという考え方です。ですから将来、「変なホテル」のような最先端ホテルをいずれ、全世界に出していきたいですし、来る食料不足の時代のために世界最先端の植物工場も作りたいですね。

あるいはエネルギー問題の研究でも、すでに我々は太陽光発電設備を持っていますし、今秋からは地熱発電ビジネスもやります。HTBのある九州はだいたい、温泉などを利用して地熱発電開発に熱心ですから。ほかに、原子力発電よりもっと安く電気を作る方法はないかといった研究もしています。

LCHのほうは、HTB内の「変なホテル」をゼロ号店と言っていますが、これを改良したものをラグーナ蒲郡(愛知県)で作ろうと。それが1号店。で、うまくいったらアジアに1つ作って3号店。それが終わり次第、直営とフランチャイズの両方で世界に広げていきます。

―― 最後に、日本が観光立国になるための条件は何でしょうか。
澤田 日本には観光資源は豊富にあります。気を付けないといけないのは、インフラをきちんと整備しながら、ステッブ・バイ・ステップで増やしていくこと。サービス面が落ちたり価格が高くなるのはダメ。ですから、インバウンドは急激に伸ばさないほうがいい。それができれば東京五輪後も大丈夫でしょう。

最初はいわばゴールデンルートで、海外から東京に来たらまず箱根に行ってもらって富士山を見て、その後、京都に行き、関西空港から帰っていただくというのが主流です。それが北海道や東北、九州へも足を伸ばしてもらえるようになれば、リピーターがどんどん増えてくる。そこを焦って増やせ増やせといっても値段は無茶苦茶上がる、サービスも一挙に押し寄せてくるから落ちる、インフラも追いつかない、では来なくなります。毎年、インバウンドで1割か2割伸びれば十分でしょう。ベンチャー企業もそうですが、急成長すると必ず反動が起きますから。そこだけですね、ちょっと危惧するのは。

HTBもそんなに一気に来ていただかなくていい。「ホテルヨーロッパには長期団体客はお泊めしません」と言っています。それでも来られるんですが(笑)、申し訳ないですけどそこは抑えています。

(聞き手=本誌編集委員・河野圭祐)

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経営戦記

堀 義人 グロービス社長
ほり・よしと 1962年生まれ。京都大学工学部卒、ハーバード大学経営大学院修士課程修了(MBA)。住友商事を経て、92年グロービス設立。96年グロービス・キャピタル、99年エイパックス・グロービス・パートナーズ(現グロービス・キャピタル・パートナーズ)を設立。2006年4月、グロービス経営大学院を開学、学長に就任。

いまやMBA(経営学修士)の取得を希望するビジネスマンは珍しくない時代。海外留学ではなく、国内で働きながら経営大学院で学ぶ人も多くなってきた。グロービス経営大学院は2006年の開学ながら、社会人のための大学院として、仕事と両立しやすいカリキュラムが注目され、認知度は飛躍的に高まっている。グロービス社長で、経営大学院の学長でもある堀義人氏に、グロービスの取り組みとリーダー論について聞いた。

オンラインでMBA

〔日本でも屈指のビジネススクールであるグロービス。その経営大学院の学生数は年々増加し、2006年度に78人だった生徒数は、14年度は598人を数えるまでになった。通算では1400人の卒業生を送り出し、MBA(経営学修士)を目指す社会人の学びの場として定着しつつある。そんななか、昨年10月にはオンラインMBA(単科)を開講するなど、新たな学びのスタイルの提供を積極的に仕掛けている〕

現在、グロービスでは、日本語のMBA講座を東京・大阪・名古屋・仙台・福岡の5キャンパスで開いています。また英語でのMBAも、世界40カ国から生徒が集っています。ここに新しく始めたオンラインMBAを合わせ、3本柱の形になっています。

オンラインの本科コースは今年4月からスタートしますが、昨年10月に始まった単科コースでは、日本語での講座にもかかわらず、アメリカ、韓国、マレーシア等々世界から集まっています。国内では、大都市圏以外の方が受講される、あるいは子育て中の女性の方も来られている。高い評価をいただいて、予想をはるかに超える願書が届いています。

〔「グロービスのMBA」は、ケースメソッドに重きを置いた講義を行っており、当然、生徒同士による議論や意見交換も活発に行われている。オンラインでもそのカリキュラムは変わらないのだという〕

私自身、リアルのクラスで教えて、オンラインのクラスでも教えていますが、感覚的なものはどちらも変わらない。授業を進めていくなかで、生徒の能力が上がる手応え、感覚が同じなんです。生徒のほうも、得る感触は変わらないそうです。そうであるなら、長い時間をかけて通学をしなくても、ネット上でオンラインでアクセスしてもらえばいい。必ずしも1カ所に集まる必要はなく、自宅や工場、事務所、出張先でも海外からでも、決まった時間にアクセスして学び合うことができますので、これがこれからの方向性になるのではないか。

世界的な潮流として、レクチャー形式の授業では、すべて動画にしてアーカイブにできますから、どこからでもアクセスし、教科書はダウンロードして読み、それをネットのスカイプやチャットで議論しながら学んでいく。オンライン上ですべてを学べるようになったことは、大きな変化だと言えます。これらは企業等の研修にも使えるものですから、人材の教育がオンゴーイングで、日々行われるようになっていく。この方向性は加速していくでしょうね。

トレンドとしては、いつでもアーカイブから閲覧できるMOOCs(Massive Open Online Courses ムーク)が注目されていますが、グロービスではSPOCs(Small Private Online Coursesスポック)です。30人程度の少人数でディスカッションを通して能力の向上を促す。だからこそ教室での授業と同じ学習効果が上げられます。ゆくゆくは英語でのオンラインMBAも始めたいと考えています。

〔グロービスは1992年に創業、マーケティングの1講座からスタートしている。経営大学院は06年に開学されたが、「ヒト・カネ・チエの生態系を創り、社会に創造と変革を行う」という創業以来のビジョンは掲げ続けている〕

グロービスは、大学院としてアジアナンバー1のビジネススクールになることを目標としています。創造と変革の志士を育成していく、志を持ったサムライを育成していくんだと、常に言ってきています。

ヒトの面では、経営大学院と「グロービス・エグゼクティブ・スクール」でビジネスリーダーを輩出する。企業内研修等の法人向け人材育成サービスにも力を入れています。

カネの面では、我々はベンチャーキャピタル「グロービス・キャピタル・パートナーズ」を持っています。新しい産業を、VCを通してつくっていく。

チエについては、「GLOBIS知見録」というウェブサイトを通じて、日本をよくすることを目的に知恵の発信を行っています。また、「G1サミット」を09年に立ち上げました。政治・経済・ビジネス・科学技術・文化等、様々な分野の第一線で活躍する同世代の仲間が、互いに学んで議論し、他領域の知恵を自らの糧として、さらにリーダーが成長していく。日本を担っていくリーダーたちが学び、交流する場です。

リーダーに必要なもの

〔昨今、大手企業が経営者を外部から招聘するなど、日本のリーダー不足が懸念されるようになっている。次世代リーダーの育成を標榜するグロービスで、堀氏はこの状況をどのように考えるのか、リーダー論について聞いてみた〕

リーダーについては、勝手に育つものではなく、育てるものだと思っています。育てるという意識を持たなければリーダーは生まれない。では何が必要か。

(1)意思決定できる力 経営判断をするためには、適切な戦略を描き、何が重要かを認識し、そのために必要な知識・理論を知っていることが重要。囲碁で言う定石を理解して、形勢判断をして意思決定をする。1つしか選べないならどれを選ぶか、考えて先読みしていくという能力。

(2)人間関係能力 言ってみればリーダーシップ能力。自分が考えていることをコミュニケーションしていく力、人のモチベーションを高める力、必要に応じて交渉しながら、みんなが納得する結論に持っていく、人間を繋ぎ合わせていく力。

(3)それらを元に自分なりの哲学を持つ力  価値観や人生論、何のために生きているのか、自分の歴史観や世界観を持たなければならない。

この3つの能力は、勝手に育つかと言えば、そうではない。たとえばリーダーシップを発揮する場合に、組織にどのような構成員がいて、どういった媒体を使い、どういったメッセージを、どういったトーンで発するべきなのか。場合によっては自らが出ないという選択肢もある。こういったことを判断する力は②の部分に入ってくる。シチュエーションに応じたリーダーシップの発揮の仕方には体系化された考え方があるので、経営学を学んでいくことで身に付けられます。

(1)の意思決定をする方法論も、実際にあった事例をもとに意思決定をする訓練をすることによって、年齢に関係なく、疑似体験を積み重ねることで力が増してくる。

自分の生き方を見つめなおす、自分なりのミッションを考えていくことを(3)として捉えれば、体系的に学ぶことでリーダーは育成されると思います。

私はハーバード経営大学院でMBAを取り、29歳の時に卒業したわけですが、入学する前と後では、自分の考え方が様変わりしていました。それまでは人間関係を体系的に学ぶことはなく、どう組織が動いていくのかを考えたりすることもなかった。友達とともに夢を語り合って自分の人生を考えることもありませんでした。しかし、こういったものを体系的に学び、凝縮することで得られたものがあります。

私の同期には、新浪剛史さん(サントリー社長)がいて、2つ下には三木谷浩史さん(楽天社長)、1つ上には南場智子さん(DeNAファウンダー)がいた。少人数にもかかわらず、これだけの人が活躍しているのを見ると、体系的に経営を学ぶことによって、リーダーが育成されていくことが理解できると思います。

〔海外には、GEのように、社内でのリーダー育成に力を注ぐ企業は多い。日本企業の現状はどうか、どうすればリーダーは育てられるのか〕

人材を輩出する会社とそうでない会社の違いは、体系的に経営を学ぶ組織、訓練の場があるかどうかが重要になってきます。

例えば、IBMやGEといったリーダーを輩出している企業は、体系的な教育研修機関を使っていながら、コア人材を選出し、彼らに様々な経験を積ませて、だんだんと責任範囲を広げながら成功体験を積んでいける。そのなかで育成された者のなかで1人だけがトップになる、それ以外の人たちは外に出て、他の会社の社長になったりする。これらの流れを体系的に行っていない企業は、いつまでたってもリーダーがいない。人材を輩出する会社は、常に育てる意識があるわけです。

日本の企業でも、英語が非常に上手なトップが増えてきました。武田薬品会長の長谷川閑史さんや新日鉄住金相談役の三村明夫さん、日立製作所会長の中西宏明さん、丸紅会長の朝田照男さん等々、みなさん本当に英語が上手い。そして海外で子会社の経営をして、立て直す等の体験をして、それを本社に持ち込むケースも増えてきました。従来だと、国内の事業部や部門で経験を積んで本社のトップになるケースが多かったのですが、最近は海外子会社のトップを経験した人が本社のトップになることが増えています。

それは非常にいいことですが、それが体系的に研修や人事制度が結びついて、意識的に行われているかというと、まだまだ足りない。しかし、リーダー育成に対する意識は高まってきていると思います。

〔MBAを目指す若者は確実に増えているが、一方で日本人特有の、自己アピールに弱い謙虚すぎる人も多い。育てられる側の意識はどうなのだろうか〕

実は、私も自分がリーダータイプになるとは思ってなかったんです。日本人の多くの人は、自分が参謀タイプだと思いたがる。私もそう思っていました。でも、自分がリーダーとしての自覚を持たなければ、リーダーにはなれない。自覚を持つのは、そういった場に置かれるか、自分が志すのか、どちらかです。現代というのは、リーダーとしての自覚を持つ機会は、以前に比べて増えてきたように思います。たとえば月刊BOSSのような雑誌もそうですし、インターネットでリーダーの話を読んだり、あるいは動画で観たり、グロービスのような経営大学院ができたことで、リーダーというものが、身近に意識されるようになってきたのではないかと思います。

草食系経営者は世界の潮流

〔近年、草食系経営者という言葉が出てくるほど、おとなしい経営者が増えてきた。いわゆる大法螺は吹かず、メディアで吠えることもない。起業家でもスポーツカーに乗ることもなく地味な存在が増えている〕

世界的な流れとして、草食系と言いますか、インターフェイスが柔らかくなってきています。昔は、「俺について来い」という体育会的な、親分肌の人がリーダーとして見られてきたのが、最近は違っている。いわゆる調整型、多くの人の考え方をまとめ上げながら、違いを認識して、その違いがどこにあるのかを考えて、ソリューションという解決策をもってコンセンサスを得ていくというリーダーシップの形が増えてきたんですね。これは世界的にそう。

上意下達的なリーダーシップが成り立たなくなって、命令されたくない、価値観も押し付けられたくないという社員が増えている。インターネットが普及してネットを使ったコミュニケーションが増え、ネットを使って営業をするということも増えて、口頭でのコミュニケーションの量が減ってきています。逆に考えれば、ネットにおける集客の方法論を考えることでお金になりはじめているわけですから、必然的な変化だと言える。私自身、昔に比べればソフトになったと思いますね。

働く側にしてみれば、どういうリーダーのもとで働きたいかということが大きい。自分のことを尊重してくれて、自由があって、違いを認識してくれて、様々なライフスタイルに合わせた働き方ができるほうがいい、雇用形態も自由なほうがいい。違いを尊重するダイバーシティな方向に進んでいくのだろうと思います。それに合ったリーダーシップに移行してきている。

いま世界ではマイノリティがトップなんです。世界で一番パワーを持っているのはアメリカ大統領ですが、オバマさんはアフリカ系です。欧州で一番力を持っているメルケルさんは女性。世界銀行の総裁ジム・ヨン・キムさんは韓国系。ハーバード経営大学院学長のニティン・ノーリアさんはインド出身等々、そういう時代になってきた。もはや価値観を押し付けてはいけない。価値観を押し付けると、ハラスメントになってしまう。価値観の違いを認識して、感情を考慮しながら、そのなかでいちばんよい方法を模索する。リーダーシップの変化だと言えます。

〔とはいえ、リーマンショック後の世界的な金融危機のような場合は、スピードある経営判断が求められる。いわゆるトップダウン型の経営にシフトすることが必要だ。日本企業も経営陣の交代や簡略化が進んだ時期でもある〕

求められるリーダーシップは場合によって変わる。クライシスの時はトップダウン、平時はボトムアップの調整型。これを自由自在に変えられなくてはいけない。1人の人間がどちらもできるようにする。グロービスでも、97年のアジア経済危機、08年のリーマンショック、11年の東日本大震災の時は、クライシスマネジメントとして、私が全部決めると宣言しました。でも、平時まで自分が決めていたら、ほかの人材がいらなくなってしまう。場合に応じた意思決定、経営スタイルを柔軟に考えなくてはいけないですね。

両方をできるようにするために、教育が必要なんですよ。リーダーは構成員に対して、どのような形でコミュニケーションすべきかを学ぶ。最初からすべてうまくいく必要はありません。間違えながら成長していくわけです。

私は29歳でリーダーとしての思いを持った。だから早く自分でベンチャーを興したくて、30歳で起業しました。リーダーの自覚を持って進めていくことが、自らの成長にも繋がります。意識を高く持つことで年齢は関係なく、リーダーとしての能力が備わるわけです。

(構成=本誌・児玉智浩)

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25年ぶりの新ブランド

去る1月21日、資生堂では約25年ぶりとなる、シニア女性向け化粧品ブランドがスタートした。メーキャップやスキンケアを含む、総合ブランドの「プリオール」がそれだ。

「ラインナップの中では特にヘアケア製品が非常に好調で、想定の倍ぐらいのペースで売れています。これまで資生堂を使っていなかった非ユーザーの方にトライアルで買っていただき、30代、40代の方にも好評なんです。この裾野の広さから、やはり“大人の七難をすんなり解決したい”人が多いのだということが確認できました」

語るのは、資生堂の国内化粧品事業部コスメティクスマーケティング部で、ブランドマネージャーを務める石川由紀子さん。プリオールのメッセージの特徴は、石川さんが語った“大人の七難すんなり解決”に凝縮されている。七難とは、凹凸、影、色、乾き、下がる、見えにくい、おっくうという、シニア女性が抱える7つの悩みで、それをできるだけ簡単に解決する方法を提案したのだ。

石川さんは過去、メガブランドの「TSUBAKI」なども手がけた名マーケッターだ。

「当初から賛否両論あるだろうなと想定していたのは、パッケージをルビーカラーにしたことです。実際、ヒアリング調査していた時から賛否ありまして、『シニア向けは地味なカラーが多い中で待ってましたという感じ』という声から、『これは若い人向けでは』と敬遠する人までいろいろでしたが、敢えてルビーカラーを選びました」

これまで、シニア女性に向けた化粧品やシャンプー、リンスといったトイレタリー製品は、清潔感のあるホワイト、あるいはや濃紺、パープルといったカラーが多い中で、プリオールのような鮮やかな色はあまりなかった。

“七難すんなり解決”については、石川さんはこう語る。

「マッサージや顔体操とか、これまでいろいろな美容ソリューションが提案されていますが、皆さん、実際にはあまりなさらない。『まだまだ若い人には負けないわ』と頑張っていらっしゃる方もいますが、頭ではいいことはわかっていても体が追いついていかないんです。

年齢が上になればなるほどおっくうになるし、気力、体力が若い頃のようにはいかないので、美容ソリューションが長続きしない。そこで、プリオールでは“できるだけ簡単に”をキーワードに作りこんでいきました。ポンプ式でシャンプーのように使えたり、リンスをするだけで白髪が染まるとかですね。特別な手間や時間を割く必要はなくて、普段の手間ひまかけない化粧だけでいろいろな年齢サインが解決できたり、加齢による悩みもカバーできるわけです」

プリオールブランドの全商品に盛り込んだ技術が、「つやサイエンス」だ。これは、肌表面に光沢を与える鏡面と、肌内に入った光が内側から外側に向けて多方面に光を放つ拡散の、2種類の反射光をコントロールするもの。

鏡面反射光では肌につややかな光沢感を与えて「色ムラ」を目立たなくし、拡散反射光は肌にふんわりとした透明感を与え、「凹凸」や「くすみ」を目立たなくさせた。

もともと、資生堂は若年層とシニア層に強いことで定評があったのだが、30~40代のヘビーユーザーの支持が十分ではないとの認識から、一時期、「メガブランド戦略」を取り、ヘビーユーザー層に向けて集中的にブランディングを展開していた。

そのため、シニア層のブランディングが手薄になり、実際にシェアを落とす結果にもなった。が、超高齢社会のいま、化粧品市場で50歳以上の女性の購入金額構成比は、すでに46.7%を占めている。また、4年後の2019年には人口構成上、50歳以上が全女性人口の50%を超える試算もあり、こうした層は購買単価も比較的高い。資生堂としてもシニア層の再強化は必然だった。そこで同社では12年から、かつてない規模でシニアにヒアリングを始めている。自宅訪問も含めた調査対象者は、実に6600人を超えた。

「シニア層の意識と当社が提供している商品にズレはないか。また、ズレがあるとすればどこにあるのかをはっきりさせようと考えました。

私たちはそれまで、昭和時代のステレオタイプのシニア女性という目で見ていた反省があって、お客様が美容に何を求めているかを探ろうとヒアリング調査を始めました。研究すればするほど、井の中の蛙というか、当社の常識は世間の非常識ということが多々出てきたので、まず彼女たちに真正面から向き合い、一緒に美しさを探していける価値観を探ったわけです」

出身地の静岡県富士市から、いまでも片道2時間かけて通勤している石川さん。地元のシラスやサクラエビのほか、富士宮焼きそばも週に1度は食する庶民派。

とはいえ、50歳以上のシニア層をわしづかみにすることは難しい。多様な価値観を持って、生き方も人それぞれだからだ。

「もちろん、一筋縄ではいかない世代ですし、健康格差、収入格差、家族構成や趣味の違いなど、本当に捉えどころがない。一番最初に社内で議論のポイントになったのは、シニア層に対して想定ターゲットを設定しないということでした。実際に皆さんにお聞きしてみると、楽がいいという人から、女磨きを諦めていないから時間をかけて高いものを使いたい人、あるいは自分の年齢を受け入れる人から年齢に抗う人まで、本当に多様なんです」

その後、調査を粘り強く続けて見えてきたものがある。それは、セカンドライフをゆっくりのんびり、大過なく過ごすといった価値観、あるいは贅沢で落ち着いた、セレブでマダムなイメージといったものではない意識である。

「一言で言えば、メガインサイト(消費者心理)ですね。いたって簡単なことなのですが、女性はいくつになっても女性であり続けたいんだと。『あなたにとって美しさとは?』との問いには“輝き”という回答の言葉が最も多いんです。つまり、少々白髪やシミがあっても、いくつになっても輝いている人は輝いているわけで、そういう人を目指したいと。

その方法論として、“すんなり解決”も浮かび上がってきました。オールインワンタイプの化粧品は、まさしく忙しい子育てママのためのアイテムだと思っていたのですが、若い方もシニアの方も、簡単、手軽、便利、お得といったキーワードは共通なのです」(石川さん)

調査していくうちに、シニア層は洗面台やダイニングテーブルで化粧をする人が多く、鏡台を使う人がほとんど見られなかったという。メガニーズを探るより、まず、メガインサイトを突き止めることが大事ということなのだろう。

(河)

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月刊BOSS×WizBizトップインタビュー

三澤和則 ソルナ社長
みさわ・かずのり 1968年山口県生まれ。医療機器メーカーの執行役員として、全国の拠点およびサービスセンターを統括。2005年4名で不動産コンサルティング会社を創業し、専務に就任。設立から5年で、急成長を果たした同社の中心メンバーとして活躍。2010年、同社役員を退任し、翌年、ソルナを設立。

風評被害は予防が肝心

―― 東日本大震災から4年がたちました。ソルナが設立されたのは、震災の前日だそうですね。
三澤 設立の翌日に、あの大震災です。しばらくは東京ではビジネスにならないと考え、システム開発の技術者のいた広島に移転、さらには大阪に拠点を移し、2年前に再び東京に戻ってきました。

―― ソルナは、インターネット上の風評被害や誹謗中傷への対策を主たる業務としていますが、同様のサービスを行っている会社は何社もあります。ソルナの強みはどこにあるのでしょうか。
三澤 同じように見えますが、自前で優秀な技術者を抱え、自社で対策を行っているところは案外少ないのです。

ネット上の風評被害対策にはいろいろなやり方があります。たとえば「2ちゃんねる」のような掲示板に誹謗中傷やネガティブな情報が掲載された場合、情報自体を削除してもらう。それができない場合、逆SEO対策により、検索しても上位にその情報が上がってこないようにして、被害を最小限に抑えます。

ただしそれには、独自のスキルやノウハウが必要です。検索順位を下げるのは、上げるよりはるかに大変です。しかも主たる検索エンジンであるグーグルは、しょっちゅうアルゴリズムを変更します。それに対応する情報収集力、そのためのシステム開発力、データ分析力など、高度な専門性が必要です。そういう対策を、ソルナではすべて自社で責任をもって行っています。そのため、同等のサービスであれば、他社の半額から3分の2程度の料金で提供することが可能です。

―― 実際に、ネット上の風評被害は増えているんですか。
三澤 増えています。企業の評判を書き込めるサイトが増えていますし、スマホの普及が後押ししています。

たとえばリブセンスが運営する「転職会議」というサイトがあります。これは、転職を希望する人が、企業の評判を知るための口コミサイトですが、以前はこのようなサイトは転職会議だけでした。それが最近ではいくつもできている。それだけネガティブ情報を書き込む場所が増えているし、拡散する可能性も高くなっています。

―― 企業でも個人でも、一度拡散してしまうとネガティブ情報がひとり歩きを始めてしまう。それだけ対策がむずかしくなっています。
三澤 そのとおりで、風評被害が起きてから、それを打ち消すのは大変です。ですから、健康診断と同じで問題が起きたらいち早く発見できる仕組みが必要です。ソルナでは、風評監視対策も提供しています。ご契約いただいたクライアントのネガティブ情報が、ネット上に出たらすぐに手を打つ。これによって拡散を防ぐことができます。

ただこれを行うには、自動化抽出と言って、ネガティブ情報を効率よく収集するシステムを構築しなければなりません。また、どのサイトに出たら拡散しやすいのか、それもきちんと把握する必要がある。こうした技術力やスキルがあるからこそ、ネット上の膨大な情報を監視することができるのです。

―― 被害が増えているということは、売り上げも伸びているんじゃないですか。
三澤 設立から4年がたちましたが、だいたい倍々で伸びています。

―― それにしても、三澤さんはなぜ、このビジネスを始めようと思ったのですか。以前に立ち上げた不動産コンサルティング会社も順調だったと聞いています。三澤さんはその会社の専務の座を捨て、ソルナを設立しています。
三澤 前の会社のビジネスモデルは僕が中心となってつくったものですし、急成長させることもできた。

でも、ある時、2週間ほど入院することになった。その時、改めて自分が何をしたいのか、何をしたい時にいちばんモチベーションが上がるのか、自分と対話することができました。それで気づいたのは、これは自分が本当にしたい仕事ではない、ということでした。

前の会社も、創業当時は楽しかった。ところが会社が大きくなるにつれ、いつの間にか知らない社員が入り、いつの間にか辞めている。古参社員からも、創業時のほうが楽しかったという話を聞きました。それで気づいたのは、自分はもっと社員やお客様と密接に関わりたいということでした。それがソルナ設立につながっています。

退職者の本音を聞く

―― なぜ、風評被害対策を選んだのですか。
三澤 これも入院と関係するんですが、人間はケガや病気をすれば病院に行きます。ところが会社には病院がない。「会社+病院」で検索してもなかなかヒットしなかった。

しかもスマホ時代を迎えていたし、すでに飲食店の口コミサイトはいくつもありました。ここに悪口を書かれて閉店に追い込まれた店もある。いずれ企業にも同じようなことが起きるのでは、そう考えたのです。

しかも、天才的な技術者と巡り合うことができた。それでソルナを立ち上げることができたのです。

―― これからの目標は何ですか。
三澤 「会社の病院」です。病院には内科だけでなく、外科もあれば眼科、耳鼻科もある。会社の病院もそれと同じで、風評被害対策だけではありません。やがては、企業の経営問題をすべて解決できるようになりたい。経営者が悩んでいたら、まずソルナに相談する。そういう存在になりたいですね。

―― 「退職者匿名調査」というのをやっているそうですね。
三澤 社員が辞める理由はさまざまです。ただ、辞める時に、本音を言う社員はほとんどいません。一身上の都合といった具合です。でも本当は評価制度に不満があったり、上司のセクハラが原因かもしれない。これを放置していては、せっかく育てた社員にまた辞められてしまう。

そこで、会社に代わってわれわれが調査する。辞める時には言えなくても、辞めてしばらくしてなら、本音を言ってくれるかもしれない。そしてそこにこそ、会社をよくするヒント、経営の核心がある。それを明確にして対策を打つことで、会社の問題の根治につなげていくことができるはずです。

―― なかなか社員が定着しない会社があります。経営者もその理由がよくわからない。そういう会社にとっては重宝するでしょうね。
三澤 その一方で、顧客企業の考え方や魅力をしっかり伝え、企業ブランドを確立するお手伝いもしていきます。いままで会社案内というと紙が主体でしたが、そうではなく、ウェブを利用した「しゃべる会社案内」を提唱しています。

顧客訪問時に、自分たちのことを知ってもらうために紙の会社案内を渡すのではなく、タブレットなどでしゃべる会社案内を見てもらう。そうしたサービスも始めています。

ソルナという社名はソル(太陽)とルナ(月)を組み合わせたものです。風評被害対策のように会社を守る事業はルナ事業、しゃべる会社案内のように、会社や商品を売り込むお手伝いはソル事業です。

この2本柱で成長していこうと考えています。

伊藤健太 ウェイビー社長
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