PickUp(2014年6月号より)
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かつて「番外地」と呼ばれたテレビ局があった。「金なし、人なし、ネットワークなし」の三重苦を背負ったテレビ東京の別名である。50年前に「科学技術振興」を目的としたテレビ局として誕生した経緯もあり、最初の10年間は視聴率は低迷、毎年巨額の赤字を垂れ流し、常に“存亡の危機”にあった。そのテレビ東京が最近、やたらと元気がいい。他のテレビ局が、いずこも似たような番組づくりをしている中、「とんがった」番組づくりに惹かれる視聴者が増えているのだ。いまでも他局に比べれば人も金も十分とはいえない。だが、弱者には弱者の戦い方があることを、テレビ東京は身をもって証明している。

民放第3位に躍進

4月12日、テレビ東京は開局50周年を迎えた。当日は、記念特番も組まれ、局は華やかな雰囲気に包まれた。東京・神谷町にあるテレビ東京本社屋周辺も、50周年記念イベントなどの告知であふれている。

50周年だからというわけではないだろうが、最近、テレビ東京の元気のよさが目立っている。かつては「番外地」と呼ばれ、民放テレビ局の中で鬼っ子のように扱われていた。それが最近では、堂々と他局と競い合っている。

その象徴が、同局の大江麻里子アナウンサーが、週刊文春の「好きなアナウンサーランキング」で1位に輝いたことだろう。民放各局の女子アナは、時にはタレント以上に注目を集める存在だ。ところがテレビ東京のアナウンサーが、こうしたランキングで1位をとることなど、これまでなら考えられないことだった。それが、他局の人気女子アナを差し置いて、堂々の1位である。

大江アナはこの3月31日から、小谷真生子キャスターの後を継いで「ワールドビジネスサテライト」のキャスターを務めているが、それが決まったときも、ウェブや雑誌などで大きな話題となった。これもかつてなかったことだ。

女子アナ人気だけでなく、番組も好調だ。

左ページのグラフは、過去10年間のテレビ局の全日、プライムタイム(午後7時~11時)、ゴールデンタイム(午後7時~10時)の視聴率の推移を示したものだ。

一目でわかるように、テレビ東京の視聴率は、常に最下位だ。年度単位でいえば、一度として定位置を離れたことはないし、数字そのものも、以前に比べれば悪くなっている。

しかしグラフにあるように、他局の視聴率も総じて悪くなっている。かつて、ゴールデンタイムにテレビを観ている人の割合は7割ほどだったが、現在は6割にまで落ちている。テレビそのものが地盤沈下しているのだが、その中にあってテレビ東京は、比較的堅調といえる。

特に、今年に入ってからの視聴率の良さが目立つ。

「1月クールは、第8週終了時(12月30日~2月23日)で、ゴールデン8.0%(前年比+0.9)、プライム7.5%(同+0.8)、全日3.5%(同+0.4)と、去年の同時期に比べ、それぞれ上昇している。中でも『開運!なんでも鑑定団』『出没!アド街ック天国』『和風総本家』といったレギュラー番組が好調です。“金曜8時のドラマ”枠で1月クールに放送している『三匹のおっさん』は5回平均10.1%、と大きな手応えを感じている。

このほか、2月24日放送の『YOUは何しに日本へ?』は11.2%、2月25日放送の『開運!なんでも鑑定団』も13.7%と、多くの番組で最高視聴率をたたき出しています」(2月27日の定例会見で高橋雄一・テレビ東京社長)

そうした好調番組に支えられ、最近では、週単位であれば最下位から脱出するケースも出ており、2月にはフジテレビ、TBSを抜いて民放3位の座についたこともあった。

かつて民放5局は、「3強(日本テレビ、TBS、フジテレビ)、1弱(テレビ朝日)、1番外地」と呼ばれていた。それがいまでは番外地が3強のうち2角を崩すまでになったのだ。

テレビ東京好調の理由として、多くの人が指摘するのが、番組の独自性だ。

テレビ東京以外の民放を見ていて気になるのは、どの局も同じような内容の番組を放映している。ドラマで医者モノが受ければ他局も真似し、刑事モノの調子がよければそれに乗っかる。バラエティ番組にしても、同じようなタレントばかりが出演している。必然的に、番組も似てくるため差別化がむずかしい。

少し前なら、「ドラマのTBS」「バラエティのフジ」といった具合に、局ごとのカラーがあったが、最近では非常に薄れている。それがテレビ東京の独自性を余計、目立たせる結果につながっている。

先日のSTAP細胞に関する小保方晴子博士の会見にしても、テレビ東京以外の全局が長時間にわたり生中継をした。一方、テレビ東京は、当初の予定どおりの番組を淡々と放送。わずかながら前日より視聴率を伸ばした。他局がやるなら我々はやらないという姿勢が奏功したことになる。

ドラマにしても、先の社長発言にあった「三匹のおっさん」は、3人の還暦過ぎの男性が近所の問題を解決するというもの。美男美女が出るわけでもなく、派手さも華やかさもない。他局ではなかなか手が出せないものだ。その点、テレビ東京にはためらいがない。他局がやらないようなものなら、よけい「やってみよう」というのがテレビ東京のDNAなのだ。

コンプレックスがバネ

詳しくは次稿に譲るが、テレビ東京は開局からしばらくの間、辛酸を嘗め続けた。毎年のように赤字を計上、他局のように番組づくりにお金をかけるわけにはいかなかった。そうなると当然、優秀な人も集まらない。50周年記念特番で、草創期のテレビ東京でディレクターを務めた田原総一朗氏が「知能指数の高くない人が集まった」と語っていたが、優秀な人材はすべて労働環境も給与水準もはるかに高い、NHKや他のキー局を選んだ。ある意味、当然の選択だった。

「金や人がないだけではありません。モノもなければ他局のような全国のネットワークもなかった。ただの東京ローカル局だったのです。当然だけれど他局に対するコンプレックスだらけです。でもだからこそ、それをバネに、よそとは違う番組をつくってやろうという思いを社員全員が持っていました。

50周年の意気込みを語る高橋雄一社長(中央)。

いまの社員はコンプレックスは感じてないかもしれない。だけど、いまなお制約があるのは事実です。制作費のこともあり、吉本(興業)の芸人でひな壇を埋めることも、ジャニーズ事務所のタレントを総動員することもできない。ではその中で何ができるか。必死になって考えることから、テレビ東京らしさが生まれるんだと思います」

こう語るのは、テレビ東京で常務まで務め、その後、系列の通販会社プロントの社長を務めた石光勝氏だ。石光氏は『テレビ番外地 東京12チャンネルの軌跡』(新潮新書)という本も出している。テレビ東京が1日4時間放送に追い込まれた時から、再建への道筋を現場で見続けた生き証人だ。

「『家貧しくて孝子出ず』というでしょう。貧しければそれを逆手に取ればいい。永井豪原作の『ハレンチ学園』は、放映するとすぐに高い視聴率を獲得しました。でもこれはテレビ東京だからできたこと。他局なら怖くてできませんよ。実際、テレビ東京にも抗議が寄せられ、1年で番組を終えざるを得なかった。でもこのゲリラ性こそ、テレビ東京の強みです。

あるいは女子プロレスだって、他局ならやりません。馬場や猪木がいるわけですから。でもわれわれにはそれができません。だったら女子プロレスをやろうと考えたわけです」

金がないから、誰も注目していないコンテンツに目をつける。それがテレビ東京流だった。女子プロレスもそうだが、米国で流行っていたローラーゲームを日本に持ち込み、大ブームを起こしたのもテレビ東京の功績だし、箱根駅伝の中継を真っ先に始めたのもテレビ東京だった。

スポーツ以外でも、料理エンターテインメントや旅番組をいち早く放送、そのジャンルの先駆けとなった。そのため、テレビ東京が拓いた分野を、他局が追随、あるいはコンテンツそのものを横取りされることもあった。

箱根駅伝はその代表で、テレビ東京は1979年から放送を開始したが、8年後からは日本テレビが放送を開始するのに伴い番組は終了した。女子プロレスも、ビューティペアやクラッシュギャルズといったアイドルレスラーが誕生するのは、フジテレビが放映するようになってからだ。

その意味で、テレビ東京はテレビ界のモルモットのような存在といえるだろう。それでも石光氏は「モルモット、大いにけっこう。いまだって、テレビ東京はモルモットでなければ生きていけませんから」と断言する。

業界は違うが、かつてモルモットと呼ばれながら世界的企業に成長したのがソニーである。ソニーがいままで存在しなかった電化製品をつくって市場を開拓しても、その果実は東芝や日立などの大手電機メーカーに取られてしまうことを、評論家の大宅壮一が揶揄し、「ソニー=モルモット論」が生まれた。

しかしこの言葉をソニー創業者の井深大は喜び、「われわれはモルモットでいい」と言い続けた。ソニーに勢いがあったころの、心温まるエピソードである。

それと同じような血が、テレビ東京マンにも流れているということだろう。

日経新聞との関係

「もう一つ、テレビ東京のいいところは、権限をどんどん下に渡していくことです。これは人がいないからそうせざるを得ないところもあるのですが、若い社員でも、自分の責任でやりたいことをやれる土壌があった。ですから、好き勝手やれたということはあると思います。上の顔色を気にしなくてもいいわけですから」(石光氏)

テレビ東京にとって幸いだったのは、経営不振を打開するために、1969年に日本経済新聞社が経営に参画してからも、自由な番組づくりを認め続けたことだ。日経傘下となったことで、テレビ東京は経済情報番組の比率を増していく。それがのちの「ワールドビジネスサテライト」や「ガイアの夜明け」といった硬派番組につながっていくのだが、その一方で、世間の顰蹙を買うような番組を流し続けた。前出の「ハレンチ学園」の放送が始まったのは、日経が資本参加するのとほぼ同時だったし、その後も女性の裸を売り物にしたような番組をいくつもいくつも送り出している。

これは日経新聞から派遣された中川順社長の鷹揚さの賜物だろう(中川社長については次ページ参照)。その後の社長も、いずれも日経出身なのだが、過度な番組への干渉は控えている。その結果が、経済情報番組は硬派、それ以外はゆるいという、テレビ東京独特の番組編成につながっている。

この「ゆるさ」も好調の原因の一つだ。「ブラブラさまぁ~ず2」にしても、おじさん2人が路線バスで旅をする「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」(「土曜スペシャル」内の人気企画)にしても、ひたすらゆるい。

「ゆるさ」を演出

テレビ東京の魅力を語る野崎芳明ザテレビジョン統括編集長。

テレビ情報誌の中で最多の発売部数を誇るKADOKAWAのザテレビジョン編集部統括編集長の野崎芳明氏によると、このゆるさが、視聴者だけでなく、出演者さえも油断させてしまうという。

「テレビ東京は、番外地を自虐ネタにすることで、企画・演出面の敷居を低くしている。それによって視聴者ばかりか出演者も油断する。油断することで素が出てくる。視聴者はそれを楽しんでいます」

ただしその裏には綿密な計算もあるのではないかという。その例として挙げるのが、昨年、放映を開始し、瞬く間に人気となった「YOUは何しに日本へ?」だ。この番組は空港で外国人観光客に声をかけ、日本での行動に密着したドキュメンタリータッチの番組だ。

「いまの視聴者は作り込んだ画像を嫌います。そのことを考え、テレビ東京では、わざとゆるい空気感をつくっているようだ。これは技術的には大変なものがあると思います。

あるいは、先日、バラエティの生放送を見ていて思ったのですが、画面が切り替わる時に、わざとスタッフの姿が映り込むようにしたり、CMが終わっているのに司会者がそれに気づかず水を飲むところを入れてみたり。これらはライブ感を出すための演出なのではないかと思います。きちんきちんと進行させるより、わざと手違いの部分を映してやる。これがゆるさにつながります。

テレビ東京は昔から独自の番組をつくることにかけては定評がありました。いまはそこに経験が積み重なって、視聴者に気づかれないような自然な演出ができるようになったのではないですか。これは一朝一夕にできることではありませんよ」

ではこれから、テレビ東京はどこに行くのか。いまだ制作費は他局に比べ10分の1というが、それでも、以前よりは使える金も増えている一方、知名度が上がることで優秀な人材も集まるようになった。

「会社の業績がよくなるにしたがい、どんどんエリートが入ってくるようになる。でも面白い番組をつくるDNAだけは失わないでほしいですね」(野崎氏)

「番外地精神を受け継ぎつつ、すぐれた5位を目指してほしいですね。苦し紛れに視聴率を追うのではなく。輝ける5位局でいてほしい」(前出・石光氏)

取材で会った多くの人が、テレビ東京の快進撃に喝采を送る。同時に、このまま快進撃が続くと良さが失われてしまうと懸念する。その矛盾の中に、テレビ東京は生きている。

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科学技術専門テレビ

前稿でも触れたが、テレビ東京50年の歴史の前半部分は、苦難の歴史だった。

いまのテレビ東京は、当然のことだが株式会社だ。持ち株会社のテレビ東京ホールディングスは東証1部に上場し、4月14日時点で1579円の株価をつけている。

ところが50年前は違った。経営母体は日本科学技術振興財団という財団法人だった。テレビ東京(当時は東京12チャンネル)は日本が工業立国として発展するための、科学技術の振興を目的とした専門テレビ局としてスタートしたためだ。母体の財団法人は、日本財界の主立った企業が資金を出し合い設立されている。

そのため、当初から放送内容に対しても強い制約があり、予備免許が下りた時点では、科学教育番組60%、一般教育番組15%、教養報道番組25%で構成することが義務づけられていた。言うなれば、現在のNHK・Eテレの科学技術版ともいえるもので、娯楽要素など皆無だった。それでも一部には、教養番組の名を借りたバラエティ番組もあったのだが、誰が考えても視聴率など取れるはずがない。当然のことながら、スポンサーもつかなかった。結果として、開局直後から、テレビ東京は大赤字に見舞われる。

開局初年度の1965年3月期は13億9000万円の赤字を計上、66年3月期には24億900万円、67年3月期には32億6400万円(いずれも累積赤字)に達した。

財団でもこれを問題視し、65年3月には後に経団連会長となる植村甲午郎などを委員とする再建委員会が発足、1年かけて再建策を決定するのだが、それによって行われた対策はすさまじいものだった。

(1)当時、テレビ東京は1日16時間放送を行っていたのだが、これを朝10時から11時半、夕方17時から21時までの5時間半に短縮。日曜日は昼の放送をなくし、1日にわずか4時間しか放送しなかった。(2)当時500人ほどいた社員のうち200人を整理。一部社員に対しては指名解雇も行った。(3)科学技術番組の放送に徹し、営業活動は一切行わない。銀行融資と有力会社10社の拠出金のみで事業運営を行う。

以上の3項目が主な施策で、要は支出を極端まで抑え、最低限必要な科学技術番組を放送し、その資金については財界が手当てする、というものだった。

大量の人員整理をしたことで、社内は荒れた。指名解雇された社員は法廷闘争を繰り広げたし、窓一面に人員削減反対のビラが隙間なく貼られ、部屋の中から外の景色をみることができなかったという。

残った社員にしても、1日5時間半放送ともなると、それほど仕事があるわけでもなく、昼間から将棋や囲碁、さらには花札に興じていたというから、会社の士気はどん底まで落ちていたことがうかがえる。

業績も一向に改善しなかった。経費を圧縮したことで赤字幅こそ小さくなったが、営業しないテレビ局など成り立つわけもなく、泥沼の経営危機が続いていた。

68年には、番組制作会社として株式会社東京12チャンネルプロダクションを設立、制作部門と放送部門の分離に踏み切る、遅まきながら、財団主導による放送事業には無理があることに気づいたのだ。

それでも業績は好転しない。そこで財団を組成する日本財界は、日本経済新聞社に経営を委ねることとした。日経は当時、日本教育テレビ(現テレビ朝日)に経営参加していたこともあり、この要請に対してなかなか首を縦に振らなかったが、最後は財界の総意を受ける形で69年11月、経営を引き受けた。

参画した日経が、まず最初にやったのは、財団に与えられた放送免許を株式会社に移すことと、科学技術専門局から一般局への変更を認めさせることの2つだった。

日経新聞でテレビ事業を担当し、のちにテレビ東京に転じ中興の祖となる中川順が著した『秘史 日本経済を動かした実力者たち』(講談社)によると、この2つを認めさせるには国会承認も必要なため、それほど簡単なものではなかったという。そこで中川は、当時首相だった田中角栄の目白の私邸を早朝に訪ね、直談判に及んだという。それでも田中はなかなかウンと言わなかった。そこで中川がこの問題に自分の進退を賭していることを伝えると、
《田中は突然、黙り込み、天を仰ぐようにして瞑目してしまったのである。そして、沈黙の時が経った――。
突如、田中は口を開いて、大声で言った。
「よし、分かった。やれ。その代わり、電光石火でやるんだぞ。遅れると雑音が入り、行政裁判になるからな」
こう言い放つや、彼は机上に常時置いてある呼鈴をチーンと鳴らした。面会終わり、次の面会者を呼び込む合図である》(『秘史』より)

これにより73年11月1日、東京12チャンネルプロダクションを社名変更した東京12チャンネルが一般局としての免許を取得、新たなるスタートを切ることになった。

その甲斐あってか、74年3月期、テレビ東京は5億8600万円という過去最高の営業利益を計上する。ところが73年秋に起きた第1次オイルショックによって、高度成長を続けてきた日本経済は突然、大混乱に陥る。

狂乱物価となり、日本銀行は公定歩合を引き上げたため、企業の投資意欲は一気に減退、74年に日本経済はマイナス成長となる。これがテレビ局の経営も直撃する。テレビ東京も例外ではなく、75年3月期からは再び赤字に転落した。

テレビ東京中興の祖

テレビ東京中興の祖、中川順元社長。

こうした中、75年10月に社長に就任したのが日経新聞常務の中川だった。中川は日経記者時代、年間215本の1面トップ記事を書いたことで知られた敏腕記者だった。テレビ東京には以前、出向した経験があったが、その時は病気のため半年で離任していたため、リベンジの気持ちを持って着任した。

中川が社長に就任した時点で、テレビ東京の累積赤字は20億円に達していた。この赤字をなんとかしないことには、一歩も前に進めない。そこで中川は7割減資によって累損を一掃することを決意した。当時のテレビ東京の資本金は30億円。7割減資すれば、20億円がきれいさっぱり消えることになる。約30社の株主に対して根回しを行い、76年6月の株主総会で減資は認められた。

ただし、中川がすんなりとテレビ東京の社員たちに受け入れられたわけではない。前出『秘史』によると、連日、赤旗が立ち、「即刻、日経に帰れ」というシュプレヒコールが続いたという。

《私は誤解を解くために、日経の取締役を直ちに辞任し、組合に対しては(1)クビは切らない (2)ハシゴはずさない (3)筋を通す、の三条項を明示し、組合の無用の誤解をなくすことに努めた。(2)のハシゴははずさないというのは、ボーナスやベア回答に当たって、中間職制を尊重し、裏切るようなことはしないという意味である》(『秘史』より)

これにより社員の士気は上がったのだろう。減資が完了した76年度には、15億7200万円の営業利益を計上、最終利益も1億8600万円と初めて1億円を突破した。

そして開局15周年を迎えた79年。この年の株主総会で開局以来初の配当を実現、中川は「再建完了」を宣言した。

日経が経営に参加したことによって、番組内容も大きく変化した。75年には「きょうの株式」という株式情報を扱う番組がスタートしているし、77年正月からは、財界4団体(経団連、日経連、日商、経済同友会)の首脳を集め、中川が司会を務める「財界4首脳日本を語る」という番組も始まった。

いずれも日経新聞傘下だからこそ実現できた番組だ。それでもテレビ東京の不思議なところは、そうした経済の「お堅い」番組を編成する一方で、とてつもなく下品でくだらない番組をも放送していたことだ。

たとえば、中川が社長に就任した75年、山城新伍司会の「独占!男の時間」の放送がスタートしている。これは女性の裸は当たり前、落語家の笑福亭鶴瓶が局部を露出し、出入り禁止になったという曰く付きの番組だった。普通、日経新聞傘下ともなれば、そういう低俗番組の放送など許さないように思えるが、それを許す度量があったことが、今日のテレビ東京の活力につながっている。

前項にも登場した、テレビ東京元常務の石光勝氏によると、
「中川さんからそういったことで文句を言われたことはありませんね。好きにやっていい。中川さんはいつもそう言っていました」

いまに続く硬軟織り交ぜた番組編成は、この頃に醸成されたことがよくわかる。

再建が完了したといっても、それでテレビ東京が一人前になったわけではない。視聴率は時としてスマッシュヒットを放つものの、平均したら他の民放4局には及びもつかなかった。「番外地」はなお続いていた。

次に中川が目指したのは、(1)社名変更(2)ネットワークの拡充(3)新社屋の建設――の3つだった。

(1)東京12チャンネルという社名には、開局からの苦難の思い出しかない。将来に向け飛躍するためにも、社名変更が必要だと中川は考えた。

(2)テレビ東京以外の東京に本拠地を置く民放は、いずれもキー局と呼ばれている。それは地方に系列局を持ち、ネットワーク化しているためだ。ところが後発のテレビ東京には、ネットワークがなかった。この場合、地方発のニュースをいかに確保するかという問題が生じる。それ以上にテレビ局の経営上、問題なのは、全国ネットを持たないテレビ局には、ナショナルスポンサーがつきにくいという現実だった。

(3)新社屋建設については、中川は特別の思いを持っていた。

《私は日経時代、大手町の日経本社ビル新築(昭和三九年)の喜びを、身をもって体験している。それによって社員の士気はいやが上にも高揚したことを知っている。
財務上再建成ったテレビ東京が、新社屋を建設することになれば、経営は鬼に金棒である》(『秘史』より)

社名変更は81年10月に実現した。その後、地デジ化によって、テレビ東京のチャンネルは7チャンネルとなった。もし旧社名のままでいたら、かなり混乱もあったに違いない。

全国ネットの完成

ネットワークは82年3月にテレビ大阪が開局、翌年9月にテレビ愛知が続いた。これによりメガTON(東京、大阪、名古屋の頭文字)ネットワークが完成した。その後ネットワークはさらに拡大を続け、テレビせとうち、テレビ北海道、TVQ九州放送が加わり、TXNネットワークとその名も変わった。独立局時代の人口カバー率は30%にすぎなかったが、テレビ大阪とテレビ愛知が加わったことでは48%となり、TVQの加入した今日の人口カバー率は65%にまで上昇した。

そして東京・神谷町の新本社は85年11月15日に竣工、12チャンネルにちなんで、12月12日に移転、放送を開始した。ちなみに、昨年秋に、高橋雄一・テレビ東京社長は15年秋をメドに六本木3丁目に本社を移転することを明らかにした。旧日本IBM本社や六本木プリンスホテルがあった一帯を住友不動産が再開発しているもので、移転することでテレビ東京は、100周年に向けた3度目のスタートを切ることになる。

このように、中川の立てた3つの目標は、就任から15年ですべて達成された。

その後、日本はバブル経済に突入。かつてはスポンサー集めに苦労したテレビ東京でも、簡単に広告が集まるようになり、断るのに苦労する時代になった。86年には400億円に満たなかったテレビ東京単体売り上げは、91年度にはほぼ倍増、800億円近くになった。営業利益も円高の始まった85年度にはほぼゼロだったものが、90年度には47億円にまで増えている。

もっともこの後、バブル崩壊によって売り上げ、利益ともに低迷。その後持ち直すもののリーマン・ショックおよび東日本大震災の影響もあり、13年3月期には赤字も計上したのだが、前稿で述べたように前3月期はV字回復を果たしている。その利益水準は、他のキー局に比べればまだまだ低いが、それでも、テレビ東京が経営危機にあるとは、いまは誰もが思わないはずだ。

50年前、弱小テレビ局として誕生し、崖っ淵を歩き続けてきたテレビ東京だが、いまやキー局の一つとして独自の存在感を示している。「番外地」はすでに過去の言葉となった。

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1988年にスタートした「ワールドビジネスサテライト(WBS)」の初代キャスターを、4年間にわたり務めさせてもらいました。

その間に、東証株価は3万8900円の最高値をつけ(89年大納会)、ベルリンの壁の崩壊で東西冷戦が終結、昭和天皇が崩御され、湾岸戦争が勃発するという、まさに激動の4年間でした。

現在、WBSは午後11時にスタートしていますが、最初は11時半スタートで、時差を利用して海外マーケットの最新情報を伝えていました。テレビ局としては小さいかもしれませんが、経済に関しては専門家も多く、視聴者からも信頼される番組をつくることができたと思います。ただし視聴率は1%台でした。それでも他の番組と違って、熱心な視聴者が多かったため、伝える側も真剣に、しかも気をつかいながら放送したことを覚えています。

しかもロンドンではロイター、ニューヨークではウォールストリートジャーナルといった、世界の一流メディアと提携、質の高い情報を提供できた。それが番組への信頼を高めることにつながったと思います。

テレビ東京でよかったと思うのは、やりたいと思うことを自由にやらせてくれたことです。湾岸戦争の時も、私は中東の専門家ですから、バグダッドに飛んでそこから中継をすることができました。自分でこれをやりたい、ということに、反対された記憶はほとんどありません。それがテレビ東京の独自性につながっているのだと思います。

多くの人が興味を持つ問題でも、すべての人が興味を持っているわけではありません。テレビ東京は、その大勢に流されず独自路線を歩んでいる。これからも、誇りを持って、自分たちの信じる道を進んでほしいものです。

小池百合子衆議院議員

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インタビュー

 

桑原 豊
ワタミ社長

くわばら・ゆたか  1958年生まれ。東京都出身。私立暁星高校卒業後、78年すかいらーく入社。98年ワタミ入社、営業本部長就任。ワタミダイレクトフランチャイズ社長、ワタミフードサービス社長(ともに現任)を経て、2009年ワタミ社長に就任。

3月27日、ワタミグループが国内の居酒屋を中心とした外食646店舗のうち約1割にあたる60店舗の閉鎖を発表した。理由は業績の低迷ではなく、労働環境の改善が主たる目的だという。景気回復によって人手不足が深刻になってきた外食産業に何が起こっているのか。ワタミ社長の桑原豊氏に話を聞いた。

低迷する外食産業

―― アベノミクスによって昨年から景気回復が強調されるようになってきましたが、日本マクドナルドが業績を下げるなど、外食産業は決して回復しているとは言えません。外食の状況をどう分析していますか。
桑原 お客様にアベノミクス効果が出てきているのは感じます。実際には、給与所得が必ずしも上がっているわけではありませんが、景気の「気」の部分は緩んできている。消費をする時に、いままでの価格よりも少し上の価格帯にシフトしているのは事実です。いまファストフードが厳しいと言われていますが、対してファミレスは好調です。お腹を満たすという意味では同じですが、テーブルサービスのある少し高めの外食に消費は移っている。

居酒屋にも同様なことが起きていて、厳しいのは中心価格が3000円未満のチェーンの居酒屋です。外食のなかでも特に厳しいマーケットだと言えます。1つは、そもそも若年層の人口が減っている。もう1つは、昔に比べていまの若者はお酒を飲まなくなっています。

また、3000円未満の居酒屋は参入障壁が低く、店自体はいまもまだ増えています。競争は従来に比べて厳しくなっている。かつてはチェーン店で飲む安心感がありました。お客様は、この店ならこれくらいの価格で2時間楽しめるというのがわかっていたんですね。それがいまは、安心感ではなく、目的でお店を選ぶようになっています。外食機会が減少する中、「たまに行くのだから、△△を食べに行こう」と、店の選び方が変わってきている。私たちの業態で言えば、厳しいのは店舗数の9割を占める「和民」と「わたみん家」という3000円未満のチェーン居酒屋です。一方でアメリカンレストランの「T・G・I フライデーズ」、炭火焼き鳥の「炭旬」、バル&ダイニングの「GOHAN」等の専門性を持った業態は好調です。

人口が減少してパイは増えないのに外食は、中食、コンビニエンスストアなどの他業態と戦わなくてはいけません。外食の持つ豊かな空間や時間、商品価値をより一層高めて提案していく力が求められている。そのなかにあって、人手不足というのが一番の課題になっています。

―― 人手不足に陥っている理由はなんでしょうか。
桑原 日本はここ十数年、景気がずっと後退してきましたから、企業も新卒の採用を抑えてきました。拡大戦略をする業界も少なかったですから、深刻な人手不足になっていなかった。ところがアベノミクス効果もあって、昨年から企業は採用を強化しはじめました。また、アルバイトの採用も厳しくなっています。コンビニが年間6000店前後増えていくなど流通業の積極的な出店の影響が大きい。そして時給も上げてきている。かつては外食のほうが時給単価は高かったのですが、現在では外食とコンビニは同じくらいになっています。

―― その人手不足からくる労働環境の改善策として、居酒屋を60店舗も閉めるそうですが、これでどのように改善されるのでしょう。
桑原 いちばん改善されるのは、一店舗あたりの社員の数ですね。いま平均すると1店舗あたり1.66人くらい。店舗数の削減により約100人の社員を既存の店に再配置できます。それによって社員数の平均が0.2人ほど上がります。これに4月の新卒採用60人と中途採用も継続していますので、9月頃には1店舗あたりの配属目標人数である2人まで上がってくる。

去年の7月に外部有識者による業務改革検討委員会(以下、有識者委員会)を発足し、さまざまな角度から調査していただきました。社員向けにアンケートを取っていただいたり、その分析をしていただいたり。その結果、「労働環境を改善するためには人員不足を解消する必要がある」との提言をいただきました。

先ほどの通り、外食の採用環境は大変厳しく、採用強化による人員増が困難です。短期的な改善策として、1割の店舗を閉めることを決めました。店舗を減らすことで人員を充足させることができます。また、営業の現場以外での勤務時間を削減することで、より現場業務に集中できる環境を整え従業員の負担を軽減します。具体的には店長の会議・研修を6分の14に減らしました。毎月1回、本社で会議・研修を行っていたのですが、営業時間外に集めていましたから、その負担を軽減できます。

その会議・研修では、主に「理念教育」をしてきました。理念経営をもとに成長してきたのがワタミグループですから、減らした分、理念教育体系を見直します。例えば、営業の現場でOJTによる理念教育を深めるようにしていく。会議・研修は減らしますが、理念は薄めないようにする。

私たちは現場スタッフの教育を大事にしてきました。店舗で働き始めると、なかなか本を読む機会もなくなります。そこで、知識を身に付け、視野を広げてもらおうと課題図書を指定して、年間を通しての研修課題としていた。読んで考えたこと、感じたことをレポート1枚にまとめてもらっていましたが、これも見直しました。とにかく今は、店舗数の削減と会議・研修の削減により労働環境の改善を進めていきます。

深刻な人手不足

―― 外食産業は独立志向のある人も多く、総じて離職率が高いものですが、この数字を改善しなければ人手不足は解消できないのでは。
桑原 いまワタミグループの外食事業では、新卒の3年後の離職率が約50%です。宿泊・サービス業の平均も約50%ですから、ワタミグループはちょうど平均値にいることになります。しかし、50%というのは高い離職率です。離職率の低減は労働環境の改善だけでなく、働き甲斐も必要になってくる。

短期的な取り組みとして、先ほどの労働環境の改善とコンプライアンス経営の強化。そして中期的な取り組みとして働き甲斐のある職場づくりです。社員がきちんと将来設計ができるように、評価や報酬体系を見直します。時短社員の採用、女性の活用、障がい者の雇用なども見直し、働き方の多様性を推進して誰もが将来の展望もしっかりと見ながら、長く働いてもらう。メンタルヘルスサポートの仕組みの拡充や、新卒向けにメンター制度の導入もした。それで、今年の新卒の3年後離職率を30%まで抑えようと考えています。

―― そもそもなぜ離職率が50%になっているのでしょう。
桑原 1つめは、マッチングです。長い間、学生にとっては就職が厳しい時期が続いていました。やりたい仕事ではないのに就職することだけに主眼を置いていた学生も多かったと思います。2つ目は、外食、特に居酒屋の場合は深夜帯の営業が多いことも影響していると思います。また、女性社員の結婚による離職もありますし、独立していく人もいます。ワタミフードサービスでは社員の独立支援制度があり、120店舗ほどは社員が独立した店舗です。離職率の中にはこのように独立していく離職も含まれています。

―― 3月27日にワタミの従業員だった女性の過労死訴訟で口頭弁論が開かれました。この訴訟についてはどのように社内では受け止めているのでしょう。今回、労働環境を見直すための有識者委員会の設置は、訴訟と関連はあったのですか。
桑原 ワタミフードサービスの社員だった女性がお亡くなりになったことは大変悲しく重く受け止めております。会社として道義的に責任があると考え、直接の謝罪をさせていただきました。労働環境に法的責任や因果関係があったかについては司法の判断に委ねたいと考えております。

有識者委員会は、ワタミグループが「起の時代」創業の時代から、「承の時代」次の時代に移行していくなか、6000人を超える各職場での法令順守の状況や理念が大切にされているかを、客観的な立場から確認が必要であると考え設置したものです。

創立30周年に新しい仕掛け

―― 「和民」「わたみん家」と、主力の業態が厳しいなか、ワタミフードサービスはどういった戦略をとっていくのでしょうか。
桑原 その2つ以外の業態では、既存店が前年比を割っていません。専門店として開発した業態は非常に好調ですから、多業態戦略を進めていきます。既に、2月に中華業態「WANG'S GARDEN」、3月に炉ばた焼きの和食業態「銀政」を開発し好調に推移しています。今後も1年に1~2の新しい業態を開発していきます。和民、わたみん家の店数のシェアを落とし、専門性の高い業態を成長の柱にしていきますが、チェーン居酒屋のマーケットは、縮小したとは言え一番大きなボリュームゾーンです。和民、わたみん家においては価値訴求を強化するリ・ブランディングを行うなど、しっかりこのマーケットで戦っていきます。

花畑牧場とコラボ。従来のワタミにはなかった施策。

―― 4月14日には、花畑牧場(田中義剛社長)とのコラボも発表しました。いままでのワタミグループにはなかった新しい試みですね。
桑原 このコラボの大きな目的は「6次産業モデル」を推進していくことにあります。ワタミグループは農業に参入して12年、花畑牧場さんは20周年、おたがい独自の6次産業モデルを持っている。両社の強みを合わせることで、今までにない6次産業化が実現します。ワタミグループは畜産酪農もやっていて、北海道の弟子屈牧場で毎日1.5トンの牛乳が取れます。この牛乳を毎日、十勝の花畑牧場の工場に送り、チーズやデザートに加工し、ワタミのお店で販売していきます。これも付加価値を高めていく戦略の一環です。

外食産業は国内23兆円のマーケットで、年々減っている。でも、外食が不要かと言えば、決してそうではない。外食というのは、ただお腹を満たすだけではありません。それだけなら価格が安いコンビニにはかなわない。外食が果たす使命は、心の豊かさという付加価値です。いまや宅配など便利になっていますから、外食をする回数は減っていくでしょう。そこでは、心が豊かになるという付加価値を提供できるところが生き残ると思います。

(聞き手=本誌・児玉智浩)

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経営戦記

楠 雄治 楽天証券社長

くすのき・ゆうじ 1962年11月生まれ。広島市出身。86年広島大学文学部卒業後、日本ディジタルイクイップメント(現日本ヒューレット・パッカード)入社。96年、シカゴ大学ビジネススクールMBA取得。同年A.T.カーニー入社。99年、DLJディレクトSFG証券(現楽天証券)入社。2006年執行役員COO。同年、社長に就任。

今年3月で創業15周年を迎えた楽天証券。口座数では約170万口座と、業界首位のSBI証券を追う。就任7年半となった楠雄治社長に、15年の軌跡と今後の戦略を聞いた。

大手5社の共通点

〔1999年に創業した楽天証券が今年3月24日に15周年を迎えた。設立当時の社名はDLJディレクトSFG証券。米DLGディレクト社50%、住友銀行20%の2社が大株主という資本構成だった。99年10月からの株式売買委託手数料の自由化で数多くのオンライン証券が誕生したが、現在はSBI証券、楽天証券、マネックス証券、松井証券、カブドットコム証券の大手5社で市場の大部分を占めている。親会社が変わりはしたが、楽天証券が勝ち残れた理由はなんだったのか〕

当時、売買手数料の自由化に合わせて、米国を中心に外資が数多く参集してきました。現在の大手5社に共通するものは、撤退した外資と比較すればよくわかります。例えば米オンライン証券のチャールズ・シュワブは、米国株の取引しかできないようなサービスでした。日本の投資家を、きちんとふまえてビジネスをしていたかどうか。

インターネットの時代として、我々も当初は新しい投資家、例えば30代のサラリーマンが中心になるだろうと仮説を立てて始めていましたが、実際は従来の個人投資家が多く取引を始めた。仮説が間違っていたことにいち早く気付き、入ってきたお客様のためのサービスを作れたかどうかが、最大の違いです。

従来のお客様というのは、店頭で営業マンを介して株取引をしていた、年齢の高い投資家たち。パソコンを使ったことがないような方たちが、手数料が圧倒的に安いことから、パソコンを購入してまで自分で始めたのです。ベテラン投資家が動き出したことに対応してサービスを作ってきた会社が残っています。

例えば松井証券さんが最初に信用取引をネットで始めた。そこにニーズがあるとキャッチアップして始めていったのが、残った会社の特徴と言えるかもしれません。

〔半分を外資の資本でスタートしたDLJディレクトSFG証券は、相次ぐ外資の撤退劇に巻き込まれることになる〕

DLJディレクトの親会社DLJはアクサグループの1つでした。アクサは保険業務が中心ですから、オンライン証券は必要ないとクレディスイスグループに売却したのです。クレディスイスはリテールのネットビジネスはやらないと、どんどん売却していきました。そのなかに日本も含まれていました。

2001年ごろ、住友側と相談のうえ、ソニーに売却したいという話もありました。ソニーはマネックスの大株主でしたから、マネックスと統合しようという話が盛り上がった時期もありましたね。でも破談になった。03年に4社でコンペティションが開かれ、そこで最終的に楽天が落札をしました。

クレディスイスは売りたがっていたので、親会社が変わることに驚きはなかったのですが、実は当時、候補の4社のなかで、どこが将来的に活躍ができそうかと経営幹部で話をしていた時に、楽天がいちばんいいのではないかと考えていました。楽天が落札したことで、新しいパラダイムが開けると、ワクワクして楽天グループに移りました。普通の証券の常識を超えたところでビジネスができそうだと、楽しみでしたね。

〔楽天グループ入りした当時、オンライン証券は松井証券がトップ、その他は団子状態の群雄割拠の時代だった。楽天証券は楽天経済圏のグループシナジーをバックに、口座数を順調に伸ばし、イー・トレード証券(現SBI証券)との激しい手数料値下げ競争を展開していた〕

順調に突っ走りかけたところで、05年の郵政解散後の上げ潮相場が来ました。この時は、05年の春くらいから急速に伸び始めて、04年の終わりに25万口座だった口座数は、05年が終わってみると50万口座になっていました。1年で2倍に引き上がったのです。ここで我々の失敗だったのが、バタバタとシステムがダウンしてしまったこと。キャパシティ・プランニングがしっかりしていなくて、夏の郵政選挙が始まったころから取引も口座数もボリュームが駆け上がった時にシステムが耐え切れず、毎週のようにシステム障害になり、つまずいてしまいました。もし、ここを乗り切れていれば、手数料はSBIさんと同じような競り合いをしていたので、いまほどの差はつかなかったと思います。

〔激しい競争のなか、ネット証券業界はM&Aが頻繁に行われた。マネックスがセゾン証券、日興ビーンズ証券、オリックス証券などと合併を繰り返し、SBI証券もワールド日栄証券、日商岩井証券を吸収した。カブドットコム証券も元はイー・ウイング証券と日本オンライン証券の合併からスタートし、Meネット証券(三菱証券系)を吸収している。こうした再編と無縁だったのが、松井証券と楽天証券だった〕

オンライン証券は8割がた同じような業務をしていますから、買った方が買われた方のシステムや人を切り捨てて、お客様だけ持っていくというのがブローカー流の買収。大枚はたいて会社を買うのがいいのか、それだけのお金を使うのであればマーケティングにお金を使い、ちゃんと獲得して稼働させたほうがいいのか。概ね、後者のほうが経済合理性は高い。単純に時間を買うかどうかなんです。正直、検討をしたことはありますが、買ってまで拡大を図るのか、最終的な判断としては、やらないほうがいいと。

7月にドットコモディティという商品先物会社を統合しますが、これは、新しい分野を付け加えるということで、証券会社を買うというわけではないですからね。それにいま買いたくなるような証券会社は大手5社くらいですから、買収金額が高すぎるでしょう(笑)。

右肩下がりを乗り越え

〔楠氏が社長に就任したのは、06年10月。前社長の國重惇史氏が7年半在任し、楠氏も同じく7年半になる〕

國重と私でちょうど半分ずつですね。國重が06年までのいい時をやって、私はライブドアショック以降の右肩下がりの時(笑)。12年は特に苦しかったですね。

株取引が落ち込むなかで、いかにFXや投資信託を盛り上げるかと、いろんな新しいサービスをつくって、収益構造を少しずつ変えながら利益を維持するということをやってきました。やはり株取引は大きいですから、市況がよくないと、いくら多様化しても売上高は落ちてくる。そうすると赤字にならないようにコストを絞っていかなくてはいけない。

多様化することでシステムの必要な処理は増えますが、膨らむものを膨らませないように、新しいものに変えていくのが知恵です。ITは進化が早いですから、あっという間に速いプロセッサーが出てきて、実はコストは下がる。「ムーアの法則」をいかに有効活用するか。06年に引き継いだ時よりも、システムの処理能力は3~4倍になっているのに、システムのコストは半分くらいまで落ちているんです。

〔最も市場が冷え込んだ12年を乗り越え、13年はアベノミクス相場がやってきた。ネット証券各社は不況時代を乗り越えて非常に筋肉質な経営体質が出来上がっている。そのぶん、好況期の利益は従来以上に大きく返ってきた〕

昨年はすごかったですね。特に3、4、5月は恐ろしいくらいで、このままならシステムが足りなくなるのではという勢い。それに比べると、現在は半分くらいに落ち着いています。それでも12年に比べればはるかによい。

東証が発表している売買高のボリュームも1年前にくらべると内訳はずいぶん変わってきています。現在も1日2兆円を超えている状態は続いていますが、個人のシェアはすごく落ちている。東証のシェアで見ると、個人の売買は多い時に33%ほどでしたが、現在は25%ほど。海外投資家を中心に、短期筋のボリュームが大きくなっているんです。

〔せっかく戻りつつあった個人投資家だが、いまは市場を静観している状態だという。まだ投資に目が向いているうちに、どう投資家を繋ぎとめるのか〕

幅広い商品を提供して、どんな状況にでも動ける体制はつくっていますし、それは変わらない。今年は株取引こそ下がっていますが、投資信託は伸び続けています。昨年の12月に駆け込みで売却した個人投資家は、キャッシュを多く持っています。そのお金を株ではなく、投資信託に入れている。これはNISAのおかげもあるかもしれません。

現在の株式市場は、とても難しいと言えます。ですから、いま取引に至らないまでも、すぐ始められるよう常にお客様をサポートしておくことが重要です。

今年2月に就任した楽天証券経済研究所のチーフ・ストラテジスト窪田真之が、デイリーレポートを朝8時に、口座を持つお客様向けに掲載して、わかりやすいメッセージを出しています。経済研究所は05年からありまして、山崎元、今中能夫の2人でしたが、窪田をはじめ投資信託周りで吉井崇裕、篠田尚子等々、リクルーティングしました。とにかく継続的な情報提供を、きちんとやっていきましょうということ。非常に重要な案件だと思います。リーマン・ショックのような大きなイベントがあった時に、いまの市場がどのような状況なのか、会社のメッセージとして伝えられると、お客様の安心感に繋がる。こういったサポートは非常に重要でしょう。

資産形成を前面に打ち出す

〔楽天証券の15周年は、株式売買手数料15周年でもあり、ネット証券が本格的に世に出てきた年数でもある。大手5社に絞られ、互いの手の内は知り尽くされた業界にあって、今後どう戦っていくのか〕

基本的には、楽天グループのお客様に使っていただけるサービスを作っていく。15年経って、ネット証券も特色が分かれてきていると思います。松井証券さんやカブコムさんのように株を中心にして手数料も下げてとしているところと、SBI証券さんやウチのように総合的な路線で預かり資産の増大に注目しているところ。もちろんトレーディングを中心に取引されているお客様もいますので、弊社はトレーディング+資産形成にどれだけ貢献していけるかがポイントになると思います。

象徴的なのがIFA(金融商品仲介業)の事業です。お客様に資産運用のアドバイスを行う金融のプロフェッショナルですから、楽天証券としても資産形成が非常に大きなキーワードとなっていくでしょう。

〔市況が悪い時期が長かったために、投資信託やFX、外国株等、日本株取引以外の金融商品の拡充が進んだ。筋肉質になった半面、これ以上の商品の拡充は限られている〕

お客様に対する商品のラインナップはだいたい揃えきっていると思います。あとは、それぞれの商品での収益力をいかに上げていくか。


年末の株価は「1万8000円」と楠社長。

FXも楽天銀行にホワイトラベルで商品提供を始めたり、我々のプラットフォームは応用が利くものになっています。いわばBtoBtoCですよね。こういう分野にも広げていきたい。ネット証券はシステム基盤がしっかりしているので、ネットとネットならば、受け入れ過程もシンプルに作ることが可能です。我々の既存のプラットフォームを有効活用して、全体のパイを広げていくことを考えています。

また、IFAも、我々の持っているプラットフォーム上で、IFA用の画面提供をして、サービスを使っていただいています。海外からのオーダーフローも取り始めていますし、一部BtoBの事業も入っていく。これまでBtoCだけだったものから、大きく幅は広がっていくでしょう。

〔最後に、ネット証券社長インタビュー恒例の、年末株価の予想をしてもらった〕

1万8000円。これはあり得る話です。消費税率アップの影響で、どこまで株価が下がるか、と世間では言われていますが、すでに消費税は株価に織り込まれていると見るアナリストも多い。4~5月はあまり伸びないかもしれませんが、秋にかけて、日銀も含めて政府のテコ入れが期待されます。景気を持ち上げて、来年の消費税率10%に持っていく。そうすると、年末まで、それほど悪くなることはない。

実際、雇用は増え始めていますし、所得も徐々に切り上がっていく。1万8000円は現実的な数字だと思います。盛り上げていきましょう(笑)。

(構成=本誌・児玉智浩)

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企業の匠

 

のざき・のぶお 1949年姫路市生まれ。72年芝浦工業大学建築工学科を卒業し鹿島入社。大阪支店や関西支店、中国支店などに配属され、50近い建設現場に携わる。大津プリンスホテル宴会棟増築工事には課長として参加、Jパワーの橘湾火力発電所の石炭サイロ新設の時は所長として指揮した。姫路城修復工事が鹿島で最後の仕事となる。

5年半の修復工事

山陽新幹線の姫路駅から、北へまっすぐ伸びる道路の向こうには、国宝であり世界遺産の姫路城天守閣が真正面にそびえる。

しかし、現在、その天守閣を見ることはできない。その周囲を「素屋根」と呼ばれる鉄骨で覆われているためだ。というのも、ただいま姫路城天守閣は、「平成の修理」の真っ最中。これは「昭和の大修理」と呼ばれる1956年から8年間にわたった工事に続く大規模な補修工事で、2009年秋から15年3月までの日程で行われている。

工事期間は余すところあと11カ月。つまり1年後には、鉄骨の覆いもはずされ、再び美しい姿を見せることになる。素屋根に隠れている天守閣は、鯱や屋根瓦、漆喰壁などの解体・修理をすでに終え、白鷺城の名のとおりの美しい姿を取り戻している。

後は素屋根など、工事に使用した鉄骨を解体するだけなので、解体工事が進むにつれ、化粧直しをした姿が徐々に見えてくるはずだ。

「でもこれからがいちばん気を使う場面です。私はこの計画を聞いた時から、最後が最大の山場だと思っていました」

と語るのは、姫路城大天守保存修理JV工事事務所総合所長の野崎信雄氏だ。

野崎氏がこう語るのには理由がある。素屋根には1700トンもの鉄骨が使われているが、天守との隙間はいちばん近いところで10センチしかない。しかも形状も入り組んでいる。これを天守に一切触れることなく解体しなければならない。素屋根の組み立て時なら、多少、天守を傷つけても、後で解体・修理時に直すことができる。しかし解体時にはそれができない。だからこそ細心の注意が要求されるのだ。

もっとも「4年前の工事開始からここまでずっと、気を使うことばかりだった」と野崎氏は振り返る。

「姫路城は世界遺産です。ですから工事のやり方一つとっても制約が大きかった。素屋根を組み立てる前に資材搬入のための講台を設置しなければならないのですが、特別史跡であるため、杭を打つことができません。そこで、地面の上に大量の石を敷き、そこに基礎の鉄筋を組み立て、鉄骨を上に上にと伸ばして行かざるを得ませんでした。

あるいは素屋根を組み立てるにしても、特別史跡は火気厳禁ですから、溶接することができない。ですからすべてボルトとナットで固定しています。しかも姫路城の場合、大天守だけでなく小天守もあり、その間を縫うように組み立てなければならなかったから、普通の寺社仏閣の修理工事に比べると難易度は高かったですね」

しかも、いざ工事に入ると、当初の設計図どおりに行かないことも多々あったという。そういう時は、施工中でも現場で構造計算をし直すなどして、解決していったという。

そういう時に陣頭に立ってリーダーシップを発揮したのが野崎氏だった。

平成の修理は、ゼネコン大手の鹿島と、地元の神崎組、立建設とのジョイントベンチャーだが、野崎氏は鹿島の人間だ。

1972年に芝浦工業大学建築工学科を卒業して鹿島に入社。以来、大阪支店、関西支店などで現場に立ち続けた。

「技術にこだわり続けてここまできました。設計図だけでは建物は建ちません。施工技術があって初めて完成する。私のモットーは、QCDSE(Quality Cost Delivery Safety Enviroment=品質、費用、工期、安全、環境)をトータルに管理し、段取りよく安全に作業する人が気持ちよく働けるか。そのことをいつでも考えてきましたし、新しい技術があったらできるだけ取り入れてきました。次の現場ではどの工法でいこうか、そういうことを考えるのが楽しくてしかたがなかったんです」

野崎氏は過去に50近くの施工に携わってきたが、中でも記憶に残っているのが、1994年に完成した大津プリンスホテル(滋賀県)の宴会場増設工事だという。

その5年前に大津プリンスは開業しているが、ここに、大宴会場を建設することになった。しかし通常の工法で建設しようとすると、すでに稼働している高層ホテルが邪魔になる。しかも騒音や振動などでホテルの宿泊客に迷惑をかけるわけにはいかない。そこで野崎氏が選んだのは、屋根部分を手前で組み立て、本来、あるべき位置までスライドさせる「トラベリング工法」というもの。この工法により、当時としては日本最大の宴会場が完成した。

もう一つが、徳島県につくった石炭サイロだ。これはJパワーが建設した石炭火力発電所で使用する石炭の貯蔵庫で、その大きさは日本最大級。ここではリフトアップ工法を採用。周囲の壁を先に建設し、最後に床面に設置しておいた屋根をリフトアップするというものだった。

「施工前にはいつも、いくつかの工法を考えます。そのうえで、現場にいちばん適した工法を選択する。でもどうせなら、誰もやっていない新しい工法をやりたいというのが正直な気持ちです。そうすることで、その知識を次の人たちにも伝えることができますから」

このように、これまでも数々の特殊な工事を担当してきた。その経験が、今回おおいに役に立った。

故郷に錦を飾る

野崎氏が言うには「今度の仕事は私の集大成」とのこと。それほどまでに、姫路城修理工事に対する思い入れは強い。これまでは鹿島のサラリーマンとして、会社から辞令が下れば、どこにでも赴任した。しかし、今度の姫路城大天守の保存修理工事に関しては、自ら手を挙げたのだという。

なぜなら、野崎氏は姫路市出身で、小さい頃から姫路城を見ながら育ったからだ。常に自分の近くに姫路城があったし、小学生の時には昭和の大修理を目の当たりにしている。

「昭和の大修理の時には心柱も入れ替えています。この時、城まで心柱の祝曳きが行われ、沿道には多くの人が集まりました。その中の一人が、小学4年生の私でした」

鹿島が平成の修理を落札したのは09年5月のことだった。当時、野崎氏は甲南大学ポートアイランドキャンパス新築工事の所長を務めていた。この竣工式には鹿島の関西支社長も臨席したが、その場で野崎氏は、「姫路城をやらせてください」と直訴したのだった。

「この時、私は59歳。あと1年で定年でした。だったら、最後の仕事として、自分が生まれ育った姫路に恩返しをしたい。そう思ったのです」

その熱意が届いてか、野崎氏は工事事務所の所長に任命され、故郷に錦を飾ることとなった(11年から総合所長)。

「私の家は姫路城のすぐそばにあります。この仕事が終われば、あとは悠々自適の毎日です。散歩をしながら、白鷺城を見守り続けたいと思っています」

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月刊BOSS×WizBizトップインタビュー

マウンテンフィールズ社長 山田 芳幸

やまだ・よしゆき 1961年生まれ。84年神奈川大学法学部を卒業し、日本ソフトバンク(現ソフトバンク)入社。95年に退社、ケイネット常務に就任。その後、IT関連企業を数社立ち上げ、08年にクレイントータスを設立。11年にマウンテンフィールズに社名変更し、電力事業へ参入した。また、多くの企業の再建に参加している。

東日本大震災が契機

―― 山田さんが率いるマウンテンフィールズという会社は、太陽光発電の監視システムを販売しているそうですが、いま、全国で膨大な数のメガソーラーができているだけに、業績好調なんじゃないですか。
山田 メガソーラーとは、発電量が1メガワット以上のものを言うわけですが、現在われわれは、全国4カ所のメガソーラーで、どれだけ発電しているか、不具合なパネルはないかといった監視を行っています。もしおかしなところがあれば、すぐにメンテナンスすることが可能です。いまはまだ数は少ないですが、将来的に200メガまで監視する予定です。その意味で、成長の余地はいくらでもあるといえるでしょうね。

―― なぜメガソーラーの監視を行うことになったのですか。
山田 マウンテンフィールズは、もともと人材派遣会社として立ち上げた会社です。というのも、私は長らくIT業界に携わってきましたが、その現場を支えている多くが派遣社員です。それで自分でもやってみようかと思ったのですが、よその会社を手伝うことになって、一時休眠していました。

2年半前に再スタートしたのですが、その時は東日本大震災もあり、電力問題が日本の重要なテーマになっていました。それならこれをビジネスにしようと決めたのです。

―― 震災のあと、日本国中で原発不要論がわき起こり、多くの会社がメガソーラーに手を挙げました。その機を捉えたわけですね。
山田 最初からメガソーラーの監視をやろうとは考えていませんでした。まず最初に、家庭や事業所でも電力監視を始めました。震災の年、経済産業省は15%の節電を家庭および法人に呼びかけましたが、自分たちがどのくらい電力を使っているか、あるいはどれだけ節電できたか、チェックしなければなりません。そのためには電力の見える化が必要だと考え、コンセントにタップを差すだけで、電力使用量をモニタリングするシステムを開発し、販売を開始しました。つまりHEMS(ホーム・エレクトロニクス・マネジメント・システム)です。

続いてMEMS(マンション)、BEMS(ビル)へと拡大していきました。その過程で、東京電力系列の東京エネシスと提携、設置工事保守を委託することになり、これが転機となりました。

―― 東京エネシスは、発電所の保守管理を行っている会社ですよね。
山田 そうです。原子力、火力、水力など、ほとんどすべての種類の発電所の保守管理をやっています。ここから、当社のHEMSのシステムを応用することで、メガソーラーの監視ができないか、という話が進んだのです。これが2年ほど前のことでした。

―― その意味では、本当に誕生して間もないサービスですね。でも、市場拡大が間違いない事業ですから、競争も激しいのではないですか。
山田 競合相手がいないわけではないですが、それほど競争が激しいわけではありません。というのも、メガソーラー事業者が、監視システムにこれまではそれほど関心を示してこなかった。多くのメガソーラー事業者が、短期的な利益ばかりを考えているからです。

代表的なのが、外資ファンドが入ったメガソーラーで、現在の電力買い取り水準からいけば、8年ほどで回収できる。外資ファンドの場合なら、もっと早い段階で売却するなどのエグジットを考えるはずです。彼らにしてみれば、メガソーラーはいかに安く構築できるかが最大のテーマであって、将来的な運用は考えていません。メガソーラーの監視システムの導入率は20%以下というのが実態です。

―― ハゲタカ流に考えれば監視システムなど不要だと。
山田 でもメガソーラーというのは、10年、20年と使用できるものです。そのためには、日ごろからのメンテナンスが重要です。メンテナンスをしなければ発電効率も下がり、メガソーラー自体の価値も下がってしまうわけですから、監視システムは絶対に必要なものです。

さらに言えば、外資系ファンドがエグジットする際にはデューデリジェンスが必要になりますが、財務のデューデリだけでなく、施設のデューデリもするべきです。当社の監視システムがあれば、それも可能になります。

震災によって日本中が電力不足に悩んだ時は、まずは新しい電力を確保することが重要だったかもしれません。でもそろそろ将来のことを考える時期にきていると思います。

3年後の上場目指す

―― ソーラー事業者の意識が変われば、さらに市場が膨らむわけですね。当面、この監視システムに注力していく考えですか。
山田 メガソーラーだけではありません。小規模なソーラー発電や、風力、小規模水力発電など、再生可能エネルギー全般の監視も視野に入れています。

そのうえで、電力のマッチングサービスを行っていこうと考えています。私たちはHEMSやMEMS、BEMSなどにより、使う側のマネジメントに関与している一方で、発電監視システムによって、発電側にも関与しています。その2つを結びつけることで、クリーンなエネルギーをより安い価格で提供することができるはずです。

そのための技術開発にいま取り組んでいるところですし、監視システムにしてももっと精度を上げていく。たとえばいまは、ソーラーパネルがある程度まとまったストリング単位での監視を行っていますが、これをパネル1枚ごとに監視するように進化させていきます。実現すれば、パネル1枚ごとの劣化度合いが確認できるため、発電効率をいっそう安定させることができるのです。

このような技術開発を進め、アジア一のエネルギーマネジメントサービスプロバイダーをめざし、3年後の上場も視野に入れています。

―― ところで、山田さんはソフトバンク出身だそうですね。どういう経緯で、現在に至ったのですか。
山田 学生時代に雑誌フォーカスで孫正義さんとアスキー創業者の西正彦さんを取り上げた記事を読んだのがきっかけでした。「神童・孫、天才・西」というタイトルがついていて、どちらかの会社に入ろうと決めました。入社した時は、まだ日本ソフトバンクという社名で、社員は100名前後。ソフト卸と出版事業の会社でしたから、いまとはまるで姿は違います。

そこでソフトバンク・テクノロジーなどの立ち上げに関わったのですが、一時、ソフトバンク社長だった大森康彦さんが再建を引き受けた第3セクターのプロバイダー、ケイネットの役員となり、その後いくつかのIT企業の立ち上げや事業再生に関わり、いまにいたっています。

大学時代は法学部で、ITのことなど何も知らなかったのに、いまはITの最前線で仕事をしているわけですから、人生というのはわからないものですね。

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