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楽天の三木谷浩史社長は変心した。エリート街道をひた走り、起業してからも体制とうまく折り合い、そのインサイダーとなることで、目的を達成してきた。それが突然、アウトサイダーに変貌し、既成勢力に対して牙をむくようになった。軋轢も覚悟のうえだ。三木谷氏にいったい何が起こったのか。そうまでして、日本の何を変えようとしているのだろうか。三木谷氏の日本改造論の本質を探った。

優勝3日後に怒りの会見

11月3日文化の日、プロ野球日本シリーズで東北楽天ゴールデンイーグルスは4勝3敗で東京読売ジャイアンツを下し、日本一に輝いた。

この快挙に東北は大いに盛り上がった。2011年3月11日の東日本大震災から約1000日。復興途上にある東北の人たちに、楽天イーグルスの優勝は大きな勇気と希望を与えることになった。

楽天イーグルスが創設されたのは04年のこと。この年、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブが合併を発表。1つ空いた枠を巡って、楽天とライブドアが競い合った結果、楽天に軍配が上がり、仙台をフランチャイズとする球団が誕生した。参入1年目にはシーズン97敗という屈辱的な成績も残したが、その後、戦力を整備し、9シーズン目にして日本一を勝ち取った。楽天社長にして球団オーナーの三木谷浩史氏にしてみれば、待ちに待った瞬間だった。優勝が決まった直後のパーティでも、満面の笑みで挨拶する三木谷氏の姿があった(パ・リーグ優勝の際は胴上げまでされている)。

ところがそれからわずか3日後、三木谷氏は東京・港区のホテルで厳しい表情で記者会見に臨んでいた。この会見は政府内で検討されていた改定薬事法が、医薬品のインターネット販売を一部認めない方向で進んでいることに抗議するもので、このままなら国を提訴することを明らかにした。いわば政府を相手に喧嘩を売ったようなものである。

ベンチャー経営者が好戦的なのはよくあることだ。ソフトバンクの孫正義氏は、ADSL事業を行うにあたり、NTTのあまりに非協力的態度に業を煮やし、監督官庁である総務省に乗り込み、「NTTを注意しないのなら、ここでガソリンをかぶって火をつける」とまで言った。

前例踏襲の多い日本社会は、新規参入組には厳しい環境だ。そこで新しいことを押し通すには、時には本気で喧嘩する姿勢を見せることが必要になる。孫氏の「火をつける騒動」はその典型的な例だ。この他にも、ヤマト運輸の小倉昌男元社長は、宅急便の黎明期、運輸省(当時)がなかなか認可を与えなかったために行政訴訟に踏み切っている。

楽天も、創業から間もなく17年。いまでは売上高5000億円に迫ろうかというほどの大企業に成長したが、まだまだベンチャー企業の気風を色濃く残している。それを思えば、その会社のトップが好戦的な態度を取るのも不思議なことではない。

しかし少し前の三木谷氏を考えれば、こうした行動は信じられないことだ。というのも、三木谷氏はベンチャー経営者にもかかわらず、体制とうまく折り合いをつけることで目的を達してきたからだ。

牛尾治朗(ウシオ電機会長)、宇野康秀(有線ブロードネットワークス社長)、大橋洋治(全日本空輸社長)、奥田碩(日本経団連会長)、奥谷禮子(ザ・アール社長)、金丸恭文(フューチャーシステムコンサルティング社長)、斎藤宏(みずほコーポレート銀行頭取)、鈴木茂晴(大和証券グループ本社社長)、新浪剛史(ローソン社長)、西川善文(三井住友銀行頭取)、羽根田勝夫(日本航空インターナショナル社長)、増田宗昭(カルチュア・コンビニエンス・クラブ社長)。

以上に挙げた各氏は、04年に楽天イーグルスが誕生した時に球団の経営諮問委員会のメンバーになってもらった人たちだ(社名、肩書はいずれも当時)。

錚々たる顔ぶれだ。奥田氏は時の財界総理だし、牛尾氏は経済同友会の元代表幹事、西川氏は「最後のバンカー」の異名を持った大物頭取だった。しかも財界重鎮だけでなく、新浪氏のような若手経営者も加えるなど、よくもこれほどまでバランスのとれた人材を揃えたと思えるほど、見事な人選だった。

典型的なエリート

1965年に神戸市で、神戸大学教授を務める三木谷良一氏の三男として生まれた三木谷氏は、一橋大学商学部を卒業し日本興業銀行に入行する。興銀時代にはハーバード大学に留学を許されてMBAを取得したのだから、興銀でも将来を嘱望されていたことがわかる。つまり、生まれも学歴も職歴も、典型的なエリート、エスタブリッシュメントだった。また大学時代はテニス部で部長を務めるなど体育会系の男である。礼儀正しく先輩に対する敬意を忘れない。それだけに、経済界のお歴々は、安心感を持って三木谷氏に接することができた。

楽天球団創設にあたっても、それが大きく役に立った。近鉄とオリックスが合併することにより球団が減ってしまうことをファンは望んでいないと、真っ先に新球団設立に名乗りをあげたのはライブドアの堀江貴文社長だった。この堀江氏の行動は若い世代を中心に熱狂的な支持を集めた。それがのちの「ホリエモンブーム」につながっていくのだが、それに対して楽天・三木谷氏は、堀江氏の動きを見てから手を挙げたため、「後出しじゃんけん」との批判も受けた。世間の評価では堀江氏が三木谷氏を圧倒した。しかし実際に球団創設が認められたのはライブドアではなく楽天だった。

赴任したばかりのケネディ米国大使を迎える三木谷氏。活動の場は世界に広がる。

プロ野球界は非常にコンサバティブな世界である。その世界の住人にしてみれば、どうせ仲間を増やすなら、何を考えているかもわからない堀江氏よりも三木谷氏を選ぶのは必然だった。また三木谷氏も、自分は体制側の人間であることをアピールした。その象徴が先に挙げた諮問委員会の顔ぶれだった。

経営手法も堅実だ。楽天が会社設立から十数年で5000億円企業にまで育ったのは、積極的なM&Aによるところが大きい。創業の原点のショッピングモールは別にして、金融部門や旅行サイトなどは主に企業買収によって手に入れたものだ。

特筆すべきは、楽天の場合、買収によって手に入れた企業を手放さないことだ。同じITベンチャー経営者である孫正義氏率いるソフトバンクと比べるとよくわかる。ソフトバンクがこれまで買収あるいは出資した企業の数は楽天の比ではない。ところが孫氏は、手に入れた企業を簡単に手放してしまう。ソフトバンク成長の礎になった米ヤフーなどはその典型だ。一時ソフトバンクはヤフー株の37%を保有する筆頭株主だった。ところが順次その株を売却、いまでは0.002%を保有しているにすぎない。このような例はいくらでも挙げることができる。

楽天は違う。楽天金融部門の中核会社である楽天証券、楽天銀行は、以前はそれぞれDLJディレクトSFG証券、イーバンク銀行という企業名だった。前者は三井住友銀行の子会社、後者はかつてライブドア系列やGMO系列だった。それを楽天が買収し、しばらくしてから楽天の名を関する会社となった。買収先を自然のうちに楽天色に染め上げ、グループに不可欠の存在に育てた。楽天が買収した多くの企業がこうした経緯をたどっている。

企業を使い捨てにしないこうした手法は、買収される企業に安心感を与える。同時に三木谷氏に対する信頼感につながった。ベンチャー経営者らしからぬ優等生。それが三木谷氏の評価だった。

脱ぎ捨てた優等生の仮面

ところがここにきて、三木谷氏はかぶり続けていた優等生の仮面を脱ぎ捨てた。最初の“異変”は2011年に経団連を脱退したことだった。その理由について三木谷氏は「非常に保守的・保護的になってしまったため」と説明している。しかしそんなことははるか前からわかっていたこと。最近急に経団連が保守的になったわけではない。それでも三木谷氏は経団連に所属し、日本経済の中枢たちと折り合いをつける道を選んできたはずではなかったか。

“変心”の理由について、楽天関係者は次のように語っている。

「創業当時、楽天の事業は日本市場だけが対象であり、競合も日本企業だった。だからこそ、日本の経済界とうまくやっていく方法を三木谷さんは選んだ。ところがインターネットの世界はボーダレスです。楽天も世界で勝負しなければならないし、外国企業も日本に入ってくる。そのうえで自分の戦略を考えると、日本に本社を置くのはあまりにハンディが大きい。法人税は高すぎるし規制も多い。語学の問題もある。このままでは、海外の優秀な人間を採用しようとしても、来てもらえない。企業も成長できないし、日本は世界の中で負け組になってしまう。そうならないためには国の法律、国の制度を変えなければならないことがわかってきた。

本来なら財界の重鎮がいるような大企業が率先するべきことで、楽天のような新興企業が取り組むべき問題ではない。ところが大企業は戦おうとしない。そこでやむなく、経団連を脱退し、新しい経済団体、新経連を結成したのです」

安倍政権が誕生したことも追い風になった。三木谷氏は12年秋に衆院解散が決まるとすぐに安倍氏に面談、意気投合した。結果として、安倍氏は首相に就任後、経団連より先に新経連を訪れ、産業競争力会議のメンバーに三木谷氏を選んだ。三木谷氏の主張が政策に反映される可能性ははるかに増した。

こうした一連の動きを見て、三木谷氏は権力にすり寄ったと言うムキもあるかもしれないが、それは短絡的だ。三木谷氏が応援するのは、権力者ではなく自分の主張をわかってくれる人だ。その証拠に参院選では、三木谷氏は民主党議員をも必死になって応援している。また医薬品のネット販売で国を提訴したことからもわかるように、安倍首相と親しくても、噛みつく時には噛みつく。是々非々の態度である。

三木谷氏の主張は一貫している。国が成長力を取り戻すためにはイノベーションが不可欠だということ。そのためにネット規制を筆頭に、成長を阻害する様々な規制を撤廃すべきであり、日本企業が国際的に競争できるように、法人税率を他国並みに引き下げることだ。さらにはグローバルで活躍できる人材を育成するために教育改革が必要であり、中でも英語教育に力を入れろ、といったものだ。いずれもかなり昔から言われていることであり、特に目新しい内容ではない。総論で反対する経営者はほとんどいないはずだ。

にもかかわらず、日本社会はこれまで変わってこれなかった。そしてこのままでは、いつまでたっても変われないのではないか。その恐怖心が三木谷氏を動かしている。

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國重惇史 楽天副社長

くにしげ・あつし 1945年12月23日生まれ。68年東京大学経済学部卒。同年住友銀行(現・三井住友銀行)入行。87年渋谷東口支店長、88年業務渉外部部付部長、90年審議役融資第三部出仕。91年本店営業第一部長、93年丸の内支店長、94年取締役入りし、95年日本橋支店長、97 年本店支配人東京駐在。同年6月住友キャピタル証券副社長、99年DLJディレクトSFG証券(現・楽天証券)社長。2003年に楽天が買収し、05年から楽天副社長、06年楽天証券会長、08年イーバンク銀行(現・楽天銀行)社長。12年同行会長。住友銀行時代は大蔵省(現・財務省)担当いわゆるMOF担を10年務めたエリート。親子2代の住友マン。

楽天会員8700万人

―― 12月3日に東証1部に昇格しました。なぜこのタイミングでの上場になったんでしょうか。
國重 東証1部と米ナスダックは、いつかは行こうという話はあったんですよ。ただ、楽天はもともとヤンチャな企業だから、箔がついたという議論とは違う。上場した当時は、ベンチャー企業=ジャスダック、ナスダックをイメージしていたんでしょうけど、アメリカでもナスダックの存在感が下がり、ニューヨーク取引所というふうになっています。これまではジャスダックの引きとめもありましたが、ジャスダックは東証の子会社になり、日本のマーケットの変化もあります。グローバルに競争するには、まとまって日本取引所としてひとつのグループで立ち向かっていかなければならない流れになっている。インターネットが社会基盤になり、機が熟してきたということです。

―― 楽天は市場だけでなく、金融や旅行、12月5日からサービスが始まった「楽天でんわ」での通信と、さらに広がっています。「楽天経済圏」の目指すものとはどういったものなんでしょう。
國重 通信は、ビジネスという側面もありますが、インフラです。ネット社会を実現していく上で楽天もインフラに参画していく必要があると思うんですよ。楽天でんわは、20円と高止まりしている携帯電話料金をいかに下げるか。3社寡占状態になっているなかで、楽天が入ることによって競争原理を働かすことができるんじゃないかと。

クレジットカード事業は、顧客獲得キャンペーンを積極的に展開する。

「ゆりかごから墓場まで」という言葉があるように、個人の人生に関すること、少なくともインターネットに関係のあることは楽天経済圏のなかに取り込んでいく。

楽天会員は8700万人、よく利用してくださる方も2000万人います。シナジーの典型的な例が楽天カード。クレジットカードの会員を募るのに、何もメリットがなければ入会してくれないでしょう。ヤフーさんに広告を出すにしても、膨大な広告費がかかる。8700万人の会員がいて、楽天市場で頻繁に買い物をする人がいるわけですから、その方に「楽天カードを使いませんか、ポイントが付きますよ」とアプローチする。顧客獲得コストが安くすむために、入会すれば何千ポイントとお客様に還元できるわけです。同じように、他のサービスについても、ポイントで還元できますし、あらゆるサービスで使えますから、ポイントが現金と同じ意味を持つ。

―― インフラという意味では、12年に「楽天スーパーロジスティクスサービス」が開始されるなど、物流にも参入していますね。
國重 アマゾンさんは物流をフックに伸ばしていこうとしているでしょう。「アマゾンプライム」のように年間3900円払うと配送料が無料になるみたいな。対抗上、やらざるを得ないところもある。

アマゾンさんは物流もあるけれども、自分で在庫を持つBtoCですよね。楽天は、売るのは我々でなく店舗さんです。BtoBtoCのサービス。その意味では物流のネットワークをつくるのは大変難しい。店舗さんから商品をお預かりして、それを届けるわけですから。でも、今後アマゾンさんと競争していくという意味では、国内だけでなく、グローバルな視点でも物流は必要だと思います。

―― 競争という意味では、ヤフーショッピングが法人も個人も出店料無料という、いわば楽天、アマゾンに宣戦布告をしてきたわけですが。
國重 あれは宣戦布告ではなく、孫さん(正義氏・ソフトバンク社長)の撤退宣言だと受け止めています。ヤフーはもともと広告を集めて稼ぐモデルなんです。ECでは儲からなかった。出店料は無料にするから、代わりに広告料をどんどん使ってねという考え方です。募集したら1日に5万件の申し込みがあったそうですが、なぜあんなことをしたのか。なぜなら1日に5万件なんて出店の審査ができないですよ。

出店料無料を発表する前に、ヤフーショッピングに出店していた店舗が使用期限切れの薬品を売っていたことが東京都に指摘された。ヤフーさんではなく店舗がやったことですが、それをチェックするのがマーケットプレイスの仕事なんです。ニセモノや期限切れを売っていないか、きちんと巡回して見ていなければならない。そのためにもきちんとお金をもらってやらなければならない。中国にタオバオというECモールがありますが、そこも出店料は無料で、一定の売り上げが立てば手数料を取るモデル。やはりニセモノがたくさん売られている。中国人はたいして気にしないのかもしれませんが、日本人はそうではない。我々が心配しているのは、ヤフーショッピングがそれをやることによって、ECはいいかげんなものだと消費者が思ってしまうことです。

―― 実際、影響はなかったんですか?
國重 無料が発表された日は、ずいぶん株価が下がりましたが、売り上げ等の影響はないですね。お客様には出店料がいくらかなんて関係ないですし。心配することはないとわかりましたから、現在、株価はむしろ上がっています。

日本一で40%増

―― 楽天ゴールデンイーグルスが日本一になったことも大きかったのではないですか。
國重 9月の楽天市場の流通総額が、前年同月比でプラス40%を超えました。11月はもっとすごかったかもしれない。やはり我々も、野球ってすごいんだと思いましたよ(笑)。

―― 日頃、野球を観ない女性たちまで、楽天市場のセールを期待して楽天球団を応援したとか。
國重 負けても「応援ありがとうセール」みたいなのをやるつもりだったんですけどね(笑)。昨年までも応援感謝セールはやっていたんですけど、これは通常の楽天会員の方が買われる。今回の優勝セールは、ふだん楽天で買い物をされていない新規のユーザーがどっと入ってきた。

そして「あの弱小球団の楽天が優勝だ」と、巨人ファンまで楽天を応援してくれたそうですから。東北のエンパワーメント。球団の立花陽三社長は東北の全部の県に優勝報告をしに行っています。特に今回の日本シリーズは第7戦までもつれて、仙台地区では瞬間最高視聴率も60.4%で、盛り上がりましたね。

ネット販売の攻防

―― 三木谷社長が代表理事を務める新経済連盟ですが、楽天にとってどのような存在ですか。
國重 建前的には、新経連は、政府の政策なり、海外の政策に対して、我々の考えを伝えていくポリシーメイキング。しかし実際は、常に変革していく。経団連さんはエスタブリッシュメントですよ。

新経連は既得権益に対して変革をしていき、楽天の利害ではなく、ベンチャー企業や新しい企業のチャレンジを進めていく。コンセプトは、アントレプレナーシップ、イノベーション、グローバルの3つ。グローバルに活動していくために、グローバルスタンダードを導入していこう、ということです。

よくガラパゴス現象と言われますが、日本特有のもの、日本だけをプロテクトするものです。これからはマーケットも世界ですし、労働力も含めて世界に通用するものをつくっていかなくてはいけない。

―― 薬のネット販売に関する議論のなかで、薬事法改正で99.8%解禁されるにもかかわらず、残りの0.2%に強く反発しました。
國重 私も新経連顧問という肩書で出席しましたが、あれはひとつの象徴的なテーマでした。

薬剤師会やチェーンドラッグ協会などの既得権益の組織は、ネットが入ってくることによる価格競争で、甘い汁を吸えなくなることを恐れたわけです。そこで持ち出してきたのは、対面原則。買いに来た人の顔色を見たり、匂いを嗅いだりしなくてはダメだと。我々はそれに対して、ネットのコミュニケーションのほうが勝っていることはあっても、少なくとも劣っていることはないという主張をした。この意味で、重要なテーマなんです。

一般医薬品のネット販売の一部規制に抗議する会見を開いた。(撮影・堀田喬)

市販薬は8000億円くらいのマーケットで、ネットが10%入っても800億円の市場にしかすぎません。その裏にあるのは、9兆円とも言われている処方薬の販売です。年々増えていっている。そのマーケットを薬剤師や調剤薬局が守ろうとしている。市販薬は8000億円しかないマーケットですが、ここが崩れるとアリの一穴で処方薬もやられる。0.1%でもいいから、ネットで売ってはいけない薬を用意しなくてはならなかった。それが、禁止された28品目というわけです。

よく言うのは、かつて金融機関で口座を開こうとすると、対面原則で身分証明書を見せてというものだった。それが写真を撮って送ればいいというふうに、金融機関もネットでいいという感じになっている。実際薬局で薬を買う時でも、この薬をくださいと言えば、レジ袋に入れて、手渡すだけでしょう。処方箋薬でも、安倍総理が薬局で順番待ちして薬をもらいに行っているのか。決してフェイストゥフェイスでなければダメだというものではない。

―― 三木谷さんは、この1%が認められないのであれば、産業競争力会議の議員を辞めるとまで言っていましたが、結局辞めなかった。
國重 ITを推進する新しい会議体をつくるからと安倍総理から慰留されて、留まったんです。辞めるべきだという人もいれば、辞めるべきではないという人もいた。三木谷自身も相当悩んだと思います。安倍総理から、ただ慰留されただけなら辞めたでしょう。ネットでのコミュニケーションを広げるためにITの振興に関するセクションをつくると言われたので、自分も関与して発言していかなくてはいけないと判断したのでしょう。

私自身の気持ちを言うと、辞めてもいいと思った。三木谷は従来、5割くらい海外に行って、5割が日本でした。政策関連とか新経連が入ってきて、3割の時間をとられるようになり、残りの7割の半分が海外で半分が日本。35%ずつになってしまった。

だから社長室には長蛇の列ができてしまっています。政策関連の仕事がなくなれば、はるかに仕事はしやすくなる。規定上の決済や、判断を仰ぐことはどんな組織でもあるから、彼の時間が空けば空くほどいいんです。

最も成長したのが三木谷氏

―― 國重さんから見た三木谷さんはどういう人物ですか。
國重 私が楽天グループに入って10年経ちますが、ずっと見ていると、一番成長しているのが三木谷浩史なんです。その次に会社。ちょっと遅れたところから、役職員が足をもつれさせながら追っかけて成長しようとしている。夏休み、彼は1カ月間サンフランシスコに行くんです。9月の初めに、執行役員に集まってもらって合宿をやる。その時に彼は、向こうのシリコンバレーとかのトップと意見交換したり、昼飯食ったり、たっぷりと情報を仕入れてくる。こっちはずっと日本ですから、情報格差が開いていく一方なんです。

―― 以前は経団連に入り、体制に近いイメージでしたが、いまはむしろ反発するイメージがあります。
國重 確かに経団連に入った(11年退会)わけですが、当時の会長が奥田碩さん(トヨタ自動車元会長)だった。奥田さんは必ずしも体制の人ではなく、いろんな変革もやってきた方です。奥田さんには三木谷もずいぶんかわいがってもらいましたし、奥田さんを慕って経団連に入った部分もかなりあったのではないか。

彼自身、若い頃は“じじ殺し”と言われていましたが、彼が発言しても、若造が何か言っている程度で終わっていた。ところが彼自身が成長し、彼が意見を言えば聞く人が出てきたということ。その意味では思ったことを言うようになり、メディアの人も聞きにいくのでしょう。

―― 多忙なゆえに、実力あるナンバー2、または後継者が必要になると思いますが、いかがですか。
國重 後継者については、まだ三木谷は48歳ですからね。少なくとも10~15年は問題ないでしょう。ただ役員も若く、常務陣も40代半ばから50代前半。いまのままだと、役員は10年以上働けますから、下から上がってこられなくなってしまう。若い人に同じ仕事をやらせ続けるわけにもいかないし、どう登用していくか。彼がいま一番考えていることだと思いますよ。

(聞き手=本誌・児玉智浩)

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医薬品の販売がキッカケ

11月6日、楽天社長の三木谷浩史氏は、記者会見のマイクの前にいた。

一般医薬品のネット販売をめぐり、一部の医薬品のネット販売を規制する方向で政府が最終調整に入ったことを受け、規制に対する抗議のための会見だった。

事の詳細はこの特集の最後の記事に譲るが、この医薬品のネット販売こそが、三木谷氏が財界活動に足を踏み入れるキッカケになった論争である。

2009年、医薬品のネット販売をめぐり、ケンコーコムとウェルネットがネット販売を規制する厚生労働省令の取り消しを求めて提訴した。両社は楽天市場に出店していたこともあり、三木谷氏もバックアップ。次第にEC事業者の輪は広がり、国との対決姿勢を強めることになっていった。

10年2月、EC事業者が中心となって結成した業界団体「一般社団法人eビジネス推進連合会」が発足した。この会の会長は三木谷氏。主な活動として最初に挙げられたのが「医薬品通販に対する政策提言」だった。三木谷氏は国内のネットビジネスの発展と海外との競争力強化を掲げ、産業の振興を妨げる規制には断固反対していくという、強い姿勢を示していたのだ。

しかし、このeビジネス推進連合会は目立った活動が見られなかった。発足式こそ名だたるITベンチャー経営者が揃い、華やかさがあった。副会長にはヤフー社長の井上雅博氏(当時)の名前があり、事務局もヤフーが請け負うなど、ライバル企業の垣根を超えた新しい業界団体としての期待もあったはずなのだが、機能不全になってしまっていた。

「いつからか経営者ではなく、担当者レベルの集まりになってしまっていた」(会員企業関係者)

風向きが変わってきたのは、東日本大震災後だった。11年5月、三木谷氏はツイッターでこうつぶやいた。

「そろそろ経団連を脱退しようかと思いますが、皆さんどう思いますか?」

電力業界を保護しようとする態度が許せないとして、「なぜ関経連のトップが関電なのか、このタイミングで?」と怒りをぶつける。翌月、三木谷氏は経団連を脱退した。

経団連の保守的な姿勢や電力政策への疑問を脱退の理由にしているが、そもそもインターネットによる社会構造の革新を志向する三木谷氏と経団連の方向性は明らかに異なっていた。

その後すぐに三木谷氏は、新しい経済団体設立の道を模索し始める。eビジネス推進連合会はEC事業者が中心であり、比較的考えの近い企業が集まっている。業界団体のeビジネス推進連合会を、経済団体として改組することを考えたのだ。

しかし、三木谷氏はここで重大なミスをしている。新経済連盟にヤフーを取り込めていなかった。もっと言えば、孫正義氏を味方につけていなかった。

「ベンチャー企業は若い経営者が多く、どこかに属しておきたい、仲間が欲しいという気持ちは持っている。だけど、その組織で積極的に活動しようとか、自分がトップになって引っ張ろうと考える人は、実は少ない。だって自分の会社の経営が一番大事ですからね。三木谷さんが『俺がやる』と立てば後押しするけれども、三木谷さんの代わりにやろうという人はほとんどいない」(ベンチャー企業経営者)

新経連の会員は、一般会員357社、賛助会員417社の合計774社。ソフトバンク、ヤフーの存在感は、楽天を除く他の会員すべての合計より上回るだろう。特にソフトバンクは既得権益の塊でもあるNTTを相手に戦ってきた企業だ。体制との戦い方も熟知していると言っていい。

eビジネス推進連合会でいったんは手を組んだヤフーが抜けたのは痛恨だった。しかもヤフーは12年7月に経団連に入会する。徹底的に袂を分かつことを選んだとしか思えない動きだった。

1丁目1番地

新経済連盟が正式に発足したのは12年6月のこと。中心にいるのは楽天で、事務局も楽天の社員が兼任する形でスタートした。新経連の活動の目的は「日本の競争力強化」と「日本の経済発展にとって重要な新産業の支援」を行うことだという。三木谷氏が新経連の集まりで好んで使う言葉がイノベーション。既存のビジネスに新しいやり方を取り入れたり、新たな試みを始める企業を支援する団体を目指すという。重厚長大の経団連とは異なるアプローチだ。

新経連がクローズアップされたのは、12年12月、衆院選で大勝した自民党の安倍晋三総裁と三木谷氏が政策意見交換会を行ったことがキッカケだった。経団連でも同友会でもなく、首相指名が確実な安倍氏が最初に会った財界団体が新経連だったからだ。

直後の13年1月には、ケンコーコムとウェルネットの提訴について、ネット販売を認めた二審判決を支持する最高裁判決が出たことにより、医薬品は事実上、全面的に解禁される見通しになった。

三木谷氏は安倍内閣の産業競争力会議の議員にも選ばれ、積極的な政策提言も行っている。4月に産業競争力会議で提出した資料中の「7つの提案」の最初にあるのが「対面原則・書面交付原則の撤廃」基本法整備だった。

問題点として挙げたのが、インターネットやICT(情報通信技術)の利用を阻害する規制や商慣行が存在し、日本の法環境が世界的に低い評価にあること。その解決施策として「対面原則・書面交付原則の撤廃」を打ち出していたのである。

三木谷氏が医薬品のネット販売全面解禁にこだわった最大の理由がこの時点で出ていたことになる。

冒頭の会見の席上、三木谷氏は医薬品のネット全面解禁を「1丁目1番地」と表現した。これは三木谷氏が考えるビジネスイノベーションの、まさに最初の提案だったからに他ならない。この最初の提案を飲めずして、安倍内閣には他のイノベーションは実現できないと考えたのだ。

会見では、市販薬のインターネット販売において一部制限が立法化された場合、ケンコーコムを中心に地位確認の訴訟を起こすことも示した。国を相手取った訴訟となるわけで、当然、三木谷氏は国の重要な委員を続けるわけにはいかないと、辞任する意向を示すに至った。

結論から言えば、法案は立法化され、ケンコーコムは提訴。しかし三木谷氏は安倍総理に慰留され、議員を辞任することはなかった。

総理は三木谷氏に対し、前述の「対面原則・書面交付原則の撤廃」を医薬品に限らず他分野でも進めることや、インターネット分野のイノベーションを検討する機関を新設することを約束したとみられる。どういう形にせよ、ネット分野の改革を進める以上、まだ三木谷氏が発言する余地はあるということだろう。

問題は、こうした政治活動において、三木谷氏の存在しかクローズアップされないことだ。新経連からこそ二の矢、三の矢の人物が飛び出してほしい。

それがなければ三木谷氏が考えるネット社会の実現は難しく、三木谷氏ひとりが悪者にされかねない。このまま浮いた存在にならなければよいのだが。

 

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M&Aでグループを形成

三木谷浩史社長が「楽天経済圏」という言葉を打ち出してきたのは2006年のことだった。ソフトバンクが金融部門のSBIグループと袂を分かち、三木谷社長が「インターネット財閥企業は楽天だけだ」と語ってから、まだ7年しか経っていない。当時はTBS株の大量取得や、買収した国内信販の不振で業績を悪化させるなど、決して順風満帆とは言えない経営状況の時だった。

06年と言えば、ライブドア事件で堀江貴文氏らが逮捕され、ネットベンチャー企業への風当たりが強かった時期でもある。世間は三木谷氏の発言を、大ボラのように受け取っていた。しかし、である。いまとなっては楽天経済圏の存在を否定する者はいない。企業のエコシステムとしての理想像とまで言われるようになってきた。

2000年のジャスダック上場以降、楽天は「楽天ブックス」の設立やポータルサイトの「インフォシーク」の買収など、積極的なM&Aを開始し、03年には「旅の窓口」を運営していたマイトリップ・ネット(現楽天トラベル)、DLGディレクトSFG証券(現楽天証券)と、大きな金額の買収を進めるようになる。これら買収した企業のサービスを楽天市場と連携させ、グループシナジーを最大限生かそうとするエコシステム構想は上場の段階から存在していた。

当初は単なるインターネットを通じた顧客誘導に留めた発想だったのかもしれない。いかにもネットとの親和性が高い企業の買収を進め、集客の向上を図ってきた。ヤフーに近いモデルだったと言える。

楽天会員数は8700万人。

それが02年の楽天スーパーポイントの登場でビジネスモデルが大きく変化を始めた。ポイントを介して繋ぎ合わせていくことで、よりシナジーを意識したグループとして形成されていった。その流れが明らかに顕著になったのは、04年のあおぞらカード(楽天クレジット→現楽天カード)と05年の国内信販(現KCカード)の買収だろう。クレジットカード事業によって決済サービスの充実とグループ収益力の向上が図れることで、ネットからリアルへ、エコシステムの拡大が現実味を帯びてきたからだ。

楽天KC事業は、国内信販時代からのクレジット事業やローン事業のマイナスが大きく、再建が難航して最終的には売却、失敗に終わった買収となったが、残った楽天カード事業は、いまや楽天経済圏を象徴する事業となっている。発行枚数は非公表だが、13年のショッピングの年間取扱高は第3四半期までに約1兆8000億円に達し、2兆円を超えるのは確実。もちろん楽天グループの決済にも大いに利用されている。

楽天経済圏において、中心に置かれているのが楽天会員IDのデータベース。楽天会員は9月末現在で8740万人。7~9月の第3四半期にログインした会員数も6026万人にのぼる。12年の国内EC流通総額は約1兆4465億円。うち楽天がシェア28.9%を占めて首位となっている。ちなみに2位がアマゾン(14.6%)で、2社で市場の約45%を占める。この巨大な会員数がECの楽天市場をはじめ、旅行や電子書籍、動画サービス等のデジタルコンテンツを利用していく。

そしてこれら独立したサービスを繋ぎ合わせているのが、「楽天スーパーポイント」だ。

楽天市場の出店店舗数は4万1933店舗(9月末時点)で、商品数は1億5000万点以上。通常、購入金額100円ごとに1ポイントが付与される。キャンペーンによっては5倍、10倍以上のポイントが付与されることもある。このポイントは楽天市場の商品に限らずグループ内の他のサービスでも利用できるため、実質的には現金に近い利用用途がある。

楽天会員が積極的に楽天カードをつくり決済するのも、この楽天スーパーポイントの存在が大きい。

楽天カードの主な特徴は4つあり、年会費無料で取得できること、ポイント還元率が1%(一般的なクレジットカードは0.5%)、100円で1ポイントと小額決済でもポイントが貯まる、楽天市場での決済に使えばポイントが2倍、キャンペーンによってはそれ以上付与されること、がある。交換等の手間をかけることなく非常に効率よくポイントを貯められるため、楽天市場をよく使う人ならメリットが大きいクレジットカードだと言える。

さらに「楽天証券の口座開設で最大1万8200ポイント」や保険の「資料請求で最大20ポイント」、「楽天銀行の口座開設でポイント3倍」といった、ポイント還元を謳った他サービスへの呼び込みも盛んだ。楽天カードも「新規入会で5000ポイント」といったキャンペーンを展開、高額なポイントに誘われて入会する人も少なくない。

グループを利用すればするほどポイントが貯まり期間限定ポイントなどが付与されれば、使わなくてはいけないという気持ちに自ずとなる。楽天カードとポイントの引力にハマリ込むと、抜け出せなくなってしまうようだ。

予想外のサービス

楽天経済圏の構想は、ネットだけでない、リアルな世界に広がっている。楽天カードをリアルの店舗で使ってもポイントが貯まるというのも一例だが、サービス自体も多様化を見せるようになった。

楽天のサービスで、趣が異なるのが結婚紹介所のオーネットだ。オーネットはもともとオーエムエムジーが運営していたが、07年に楽天が事業承継を受け、08年に連結子会社化している。出会い系サイトでもあるまいし、リアルな人生のイベントである結婚とネットがどう結びつくのだろうか。

「結婚相談自体はリアルで行うビジネスですが、結婚相手が見つかったあとが大いに楽天と結びつきます。結婚が決まったカップルにはお祝いとして楽天スーパーポイントをプレゼントする。例えば、結婚式場は楽天ウェディング、新婚旅行は楽天トラベル、新居は楽天不動産で探し、家財道具は楽天市場で購入していただける」(楽天関係者)

楽天のホームページから会社概要を開き、グループのサービスを見ると、おなじみの「楽天市場」「楽天トラベル」と並んで、「楽天車検」「楽天ソーラー」といった、とてもイメージではネットとは結びつかないサービスが存在している。

楽天車検は13年から始まったサービス。「見積もりで500ポイント、実施で1500ポイント」といったポイントキャンペーンと同時に、楽天の自動車保険への加入に結びつけることができ、楽天市場でのカー用品の購入も考えれば、シナジーは十分あり得る。

楽天ソーラーは12年にスタートした。楽天が受注し、伊藤忠系の日本エコシステムが設置し、パネルはシャープ製という純国産サービス。パネル購入時のポイントサービスに加え、エントリーすれば雨の日・曇りの日にポイントが付与されたりマイレージクラブが準備されたりと、楽天ならではと言えるサービスが多々ある。東北にプロ野球チームを持つ楽天にとって、東日本大震災後の自然エネルギーに対する関心の高まりは無視できなかったようで、ネットならではの低価格化に挑んでいるようだ。

「ゆりかごから墓場までという言葉があるでしょう。個人の人生に関することで、インターネットにかかわることをすべて取り込んでいこうということです」(國重惇史副社長)

12月5日には「楽天でんわ」のサービスを開始。イー・モバイルとともに展開していた「楽天スーパーWiFi」と併せ、通信事業にも力を入れ始めた。モバイルの通信インフラをより安く提供し、モバイルコマースに繋げたいという意図もはっきりしている。

何らかのシナジーがあれば、次々と新事業を立ち上げる。楽天経済圏の広がりは留まることを知らない。

国際化する楽天経済圏

三木谷氏はこの楽天経済圏を国内だけに留めるつもりはない。楽天市場の海外進出だけでなく、この楽天経済圏ごと海外展開することを見据えている。

楽天が最初に海外企業の買収に取り組んだのは、EC事業者ではなく、アメリカのアフィリエイト広告会社だった。その後も海外企業の買収は続いているが、そのなかにはSNSのアメリカPinterest、動画配信のスペインWuaki.TV、電子書籍のカナダKoboなどがある。ECを中心にしてシナジーのある他事業を周りに据えていくスタイルには変わりない。

三木谷氏は13年7月に行われた楽天市場の店舗向けのイベント「楽天EXPO」東京会場での講演で、
「楽天の全流通総額のうち、将来的には、30%は海外向けの販売にしたい」と語っていた。これは単にグローバル化を語っているのではなく、国内の楽天市場の出店者に対して「君たちも海外に出ろ」と促したコメントでもある。
このイベントで三木谷氏は「向こうが先に来ている。こっちも出なくてはいけない」「自由化は向こうが入ってくると同時に、こちらも出ていけるということ」と、世界を意識したコメントに終始。講演の後半には、

「楽天のプラットフォームは日本語から英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、というふうに書き換えることができて、世界中に売れるようにする。そういうふうにシフトしていく」
と、マルチリンガルに対応していくことも公表した。

楽天経済圏は英語で「Rakuten Eco-System」と呼ぶらしいが、日本で構築したビジネスモデルが世界でどう受け入れられるのか。楽天経済圏の完成形が気になるところだ。

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三木谷VS.堀江

11月3日、東北楽天ゴールデンイーグルスが球団初の日本一に輝いた。創設9年目での歓喜の瞬間は、関東で45.3%、仙台に至っては60.4%の超高視聴率で、いかに注目の高い優勝だったかがわかる。しかも優勝した「11・3」は東日本大震災が起こった「3・11」をひっくり返した数字。「悲しみ」から「喜び」に変える運命的な数字と、ネットユーザーの間では大いに話題になった。

楽天がプロ野球経営に参入したのは2004年11月。オリックスと近鉄の合併などで球界再編論議が持ち上がった年だ。一時は11球団でのシーズン開催が決まりかけたが、選手会が12球団存続をストライキで訴え、その声に呼応するかのように、堀江貴文氏率いるライブドアと、三木谷浩史氏率いる楽天の、ネットベンチャー企業2社が参入を表明。1つの席を巡って新規球団参入審査が行われた。

結果的に楽天が球界参入を果たしたわけだが、この時の一連の動きが三木谷氏の用意周到さを印象付けることになった。

24勝0敗の田中将大投手。13年優勝の象徴的な存在に。

楽天がプロ野球参入表明をした際に発表されたのが、楽天球団の経営諮問委員会のメンバーである。ローソン社長の新浪剛史氏やフューチャーシステムコンサルティング(現フューチャーアーキテクト)社長の金丸恭文氏等の、三木谷氏と同世代の経営者に加え、トヨタ自動車会長で経団連会長の奥田碩氏、ウシオ電機会長で経済同友会代表幹事だった牛尾治朗氏、全日本空輸社長の大橋洋治氏、三井住友銀行頭取の西川善文氏等々、当時の錚々たる顔ぶれが並んだ。対するライブドアの堀江氏は一匹狼。両者のギャップはあまりにも大きかった。

だからと言って球団経営がうまくいくわけではないが、経営諮問会議の面々は口を揃えて「三木谷ならうまくやるだろうという安心感のようなものがあった」と語っている。参入審査をする側にもそれが伝わったのか、先に手を挙げたライブドアではなく、後出しだった楽天の新規参入が認められることになった。しかし、当時の印象としては「少なくとも数年間保有するなら楽天のほうが期待できる」という程度。それだけインターネット企業の位置づけは、まだ低かったと言えるだろう。

三木谷氏はプロ野球参入1年目から黒字化を目指す経営を命じている。ビジネスとして球団経営にかかわる以上、黒字経営を目指すのは当然のことなのだが、当時のプロ野球界は年間30億~40億円の赤字は当たり前、黒字経営など、人気球団の巨人か阪神しか考えていないような状況だった。

「楽天が参入した際、初年度は70億~80億円の赤字になると言われていました。しかし楽天は初年度を20億円の赤字と見積もって事業計画書を提出したわけです。大方の予想はそんなものでは済まないというものでしたが、1年間を終えると、初年度で売り上げ73億円、経常利益1500万円の黒字を達成しました。他球団の人たちは、なぜ黒字化できるのかと驚いたわけです」(井上智治オーナー代行)

楽天野球団は「親会社からの補填なしで球団ビジネスとして黒字にする」というスローガンのもと参入してきた。それは1年目から現在まで変わりない。それにしてもなぜ1年目から黒字にできたのか。楽天は球界の活性化のために、経営構造をオープンにしている。

「もっとも重要だったのは、球団と球場の一体経営です。例えば、東京ドームと読売巨人軍は資本関係もなく別々の経営のため、東京ドームの看板など100億円とも言われる広告収入は、読売巨人軍に一切入ってきません。東京ドームという上場会社に入るだけです。楽天野球団は球場の経営も行っているから、宮城県営球場に入る広告宣伝の看板の収入は、すべて楽天野球団に入ってきます。球団経営だけでは儲からないが、球場との一体経営なら儲かるビジネスになります」(同)

パ・リーグ各球団は楽天に倣い、千葉ロッテは球場の指定管理者、オリックスは大阪ドームを買い、埼玉西武はすでに経営が一本化している。北海道日本ハムだけが、現在も球団と球場が分かれた状態だ。リーマン・ショックや東日本大震災など、景気後退要因もあったために、簡単に黒字化とはいかないが、パ・リーグ各球団はそれぞれ「経営」を考え始めている。

ちなみにセ・リーグでは、横浜ベイスターズが売りに出された11年に、横浜スタジアムとTBSとの「不平等契約」が話題になった。

「しかし、よい選手を集めようとすると人件費はかかります。楽天も2年目以降はずっと赤字で、13年にやっと黒字です」(同)

球団社長の活躍

9年目の初優勝、8年ぶりの黒字化の陰の立役者となったのは、12年から球団社長に就いた立花陽三氏だ。前任の島田亨氏は、その手腕を三木谷氏に買われ、楽天グループ本体の仕事も任されていた。球団経営に専念できる状況ではなく、以前から球団社長の交代を打診されており、球団に対する愛着は強かったようだが、島田氏は立花氏に後を任せ、本体の海外事業に移った。

2004年設立会見。初年度の05年は38勝97敗だった。

立花氏はラグビーで高校日本代表にも選ばれたスポーツマンだが、野球については素人だった。数字的根拠を基にチームの弱点を洗い出し、右打者のアンドリュー・ジョーンズ選手とケーシー・マギー選手を獲得。しかも十分実績を積んだヤンキースの現役メジャーリーガーだった。チームの核が生まれ、脇を固めた日本人選手も引っ張られるように活躍した。田中将大投手の24勝0敗という神がかり的な活躍もあって、見事リーグ制覇を果たし、その勢いで日本一にまで駆け上がった。

しかし、立花氏は、必要以上にカネをかけてチームを強くしたわけではない。13年の選手総年俸は約23億円で、実は12年のそれとほとんど変わっていない。にもかかわらず優勝したことで観客動員数はアップし、球団の収入は増えた。必要なところに必要な人員を揃えれば、最低限のコストで結果が出せる証左と言えるだろう。

立花氏は日本一が決まった後、東北6県の自治体を行脚し、優勝報告を行った。特に宮城県では市町村レベルの自治体まで訪問したという。そして渡米してMLBのウインターミーティングに参加。目的は新外国人獲得と本拠地改修準備のための展示会の視察だった。時期が時期だったために田中投手のポスティングがらみで米国でも注目を集めたが、すでに球団社長として来季を見据えて動き始めている。

田中投手の結論は本稿の締切には間に合わなかったが、12月18日には三木谷氏と立花氏が話し合いをもつとされている。三木谷氏は当初から田中投手のポスティングについて否定的だったという。

「もともと、三木谷さんはポスティングに反対でした。リーグ優勝して、日本一になるなかで、田中投手をメジャーに行かせてあげようと周囲が三木谷さんを説得して、渋々ながら容認する姿勢を見せていました。ところが、新ポスティング制度で入札の上限が20億円に決められた。いくらなんでも安すぎる。最終的にどうなるかはわかりませんが、三木谷さんとしては残留させたいと思っているようです」(楽天球団関係者)

どういう結論が出るのか、ファンならずとも気になるところだ。

東北のファンに捧ぐ

参入時は存続すら危ぶまれた球団だが、日本一になった今となっては大成功と言えるだろう。

副社長の國重惇史氏も「プロ野球ってすげえなと思った」と感じたそうだ。楽天優勝の経済効果がダイレクトに楽天市場に波及してきたのだから、笑いは止まらない。

リーグ優勝を決めた9月、優勝セールの効果もあって、取扱高は前年比40%増という空前の伸びを見せた。同時に、新規の楽天会員も大幅に増加、11月の日本一を記念した大感謝祭は、それ以上の数字になった可能性もある。

楽天にとって、「楽天球団の宣伝効果は数百億円規模に換算される」(楽天関係者)とのことだが、球団自体も利益を出しているだけに、広告宣伝費を使わずに世に名を知らしめたようなものだ。何より、本拠地を宮城県に置いたことが、最大の成功だったのかもしれない。東北の球団でなくては13年シーズンの盛り上がりはなかった。

「本拠地は、都市の人口や球場の位置など、きちんと集客の予測などをしてからいくつか候補を挙げました。データ上、実は第1候補は愛知県でしたが、中日新聞の牙城を崩せるかという問題があった。2番目は神戸市だったんですが、オリックスの宮内さん(義彦氏・会長)から『来るな』と(笑)。既存の球団がないところで、もっとも人を集められそうだったのが仙台だったのです」(楽天球団関係者)

設立当初の05年は38勝97敗で、勝率は3割にも届かなかった。2年目からは人気監督の野村克也氏が就任し、徐々に力をつけていったが、09年の2位が最高。おらが町のチームとして人気は高まったが、Bクラスの常連になってしまっていた。そんな時、監督に就いたのが闘将と呼ばれる星野仙一氏だった。戦う集団としての変貌を期待された就任1年目、3・11の東日本大震災が起きてしまう。

11年4月29日、本拠地の開幕戦での嶋基宏選手のスピーチは、いまや伝説になっている。

震災時、楽天ナインは兵庫県にいた。東北に戻れなかった選手たちは、不安な気持ちを抱きながら全国各地を転戦していた。ようやく仙台に戻ったのは、開幕5日前だった。

「震災後、選手みんなで『自分たちに何ができるか』『自分たちは何をすべきか』を議論して、考え抜き、東北の地に戻れる日を待ち続けました。そして開幕5日前、選手みんなで初めて仙台に戻ってきました。変わり果てたこの東北の地を『目』と『心』にしっかりと刻み 『遅れて申し訳ない』と言う気持ちで避難所を訪問したところ、皆さんから『おかえりなさい』『私たちも負けないから頑張ってね』と声を掛けていただき、涙を流しました。

その時に何のために僕たちは闘うのか、ハッキリしました。この1カ月半で分かった事があります。それは、『誰かのために闘う人間は強い』と言う事です。

東北の皆さん、絶対に乗り越えましょう。今、この時を。絶対に勝ち抜きましょう、この時を。今、この時を乗り越えた向こう側には強くなった自分と明るい未来が待っているはずです。絶対に見せましょう、東北の底力を!」(嶋選手のスピーチ)

この日を境に楽天イーグルスは仙台だけでなく、東北の代表として応援されるようになる。順位こそBクラスだったが、勝率は11年.482、12年.500と、強くなる礎は出来上がっていった。そして13年、東北全県の後押しを受けた楽天イーグルスは初の日本一へと邁進する。13年の日本シリーズは、巨人には悪いが圧倒的に東北楽天を応援する雰囲気が出来上がってしまっていた。

「東北の子どもたち、全国の子どもたち、被災者の皆さんに勇気を与えてくれた選手をほめてあげてください」(星野監督の優勝インタビュー)

来季は楽天にとって、初めて追われる立場を経験することになる。単なる勢いだったのか、真価を問われるシーズンになる。

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0.2%に本質が宿る

他稿でも触れたように、楽天子会社のケンコーコムは、処方箋が必要な医薬品のインターネット販売が認められないのは憲法違反にあたるとして、国を提訴した。

なぜこのような事態に至ったのか、簡単に整理してみる。

もともとこの問題は、楽天やケンコーコムなどが、医薬品のインターネット販売を認めるように訴えを起こし、2013年1月に最高裁で訴えが全面的に認められたことが原点にある。

処方箋なしで買うことのできる一般用医薬品は、効き目や副作用リスクなどに応じて第1類から第3類までに分類されている。第1類はスイッチOTC薬(胃腸薬等)など、特に注意が必要なもの。第2類は風邪薬や水虫薬など、服用に注意が必要なもの。第3類がそれ以外で、販売にあたって特に商品説明が不必要な医薬品だ。この3種類の医薬品のうち、インターネットで販売できるのは第3類だけと、厚労省は省令で定めていた。インターネット販売を全面解禁すると健康被害につながりかねない、というのがその理由だった。

しかしケンコーコムなどは、インターネット販売でも注意喚起はできることや、ネット販売と健康被害の間になんの関連性もないと主張。販売を認めないのは職業選択の自由を認めた憲法に違反していると、09年に裁判を起こした。この裁判は一審の東京地裁でこそ国の主張が認められたが、二審の東京高裁、そして最高裁では国が敗訴した。

この最高裁判決を受けてネット医薬品販売サイトは、処方箋なしで買えるすべての医薬品販売に踏み切った。

安倍首相誕生後、三木谷氏と政権の距離は格段に縮まった。(撮影・堀田喬)

6月に発表されたアベノミクスの3番目の矢である成長戦略の中でも、医薬品のインターネット販売は盛り込まれている。これは安倍首相が議長を務める産業競争力会議の委員に三木谷浩史・楽天社長が選ばれていたことも大きく影響しているのだが、それはともかく、最高裁からも、安倍内閣からも、薬のインターネット販売はお墨付きを得たことになる。

ところが医薬品業界や厚労省は巻き返しをはかる。最高裁判決が出たにもかかわらず、判決文の中に新しいルールを確立する必要があるとの記述があるのを受け、新たに定める薬事法改定案において、例外規定を設けようと動きだしたのだ。

その結果、劇薬や発売から3年以内の新薬の28品目についてはインターネット販売を認めないこと、さらには処方箋薬についてもインターネット販売を禁止することなどを盛り込んだ改定薬事法が11月に閣議決定され、12月に成立した。

この一連の動きを見て、三木谷氏は新たな規制に対して反対する姿勢を鮮明にし、もし一部でもネット販売が禁止されたら、訴訟を起こすことにした。冒頭で述べた裁判は、それを受けてケンコーコムが起こしたものだ。さらには産業競争力会議委員も辞任する方針であることも明らかにした(辞意はその後撤回)。

三木谷氏にしてみれば、「日本が競争力を取り戻すためには、インターネットなどの規制を取り除かなければならず、そのためには例外を設けてはならない」という思いが強い。そのための反対意見表明であり、訴訟だったのだが、社会の反応は期待したものではなかった。

たとえば薬事法改定案の内容が固まった時、多くの新聞は「医薬品の99.8%のネット販売認める」という見出しをつけている。一般用医薬品の中で28品目は0.2%の割合に過ぎないところからつけられたものだ。ここから読み取れるのは、「少し前までは第1類、第2類ともに全面的に禁止されてきたのだから、大きく前進した」というスタンスだ。

ところ三木谷氏にとっては、医薬品のネット販売の全面解禁こそ規制緩和の1丁目1番地であり、絶対譲れないところである。言うなれば認められなかった残りの0.2%にこそ、この問題の本質がある、と考えている。

そこに三木谷氏の不満がある。しかし世間はそうは見ない。99.8%の販売が認められたのに何を文句を言っているのか、と感じたのだ。その挙げ句、「三木谷氏は自らのビジネスに直結しているから医薬品のネット販売の全面解禁に積極的になっている」という見方までメディアにおいて紹介されるようになる。つまり三木谷氏は利益誘導型経営者、すなわち「政商」であると言われたのだ。

「三木谷さんにすれば心外だったと思いますよ。日本が再び成長路線に乗るためには何が必要なのか。三木谷さんは真剣に考えている。そのひとつが医薬品のネット販売だったにすぎません。それさえできなくて、規制緩和なんてできるわけもないと。それなのに政商呼ばわりされるとは思わなかったでしょうね。何よりケンコーコムの売上高は前3月で180億円、楽天の連結売上高4000億円(12年12月期)の5%にもなりません。楽天の業績に与える影響などほとんどない。どこが利益誘導なんでしょうね」(楽天関係者)

出る杭を打つのは日本社会の常である。特にこの1年間、安倍政権誕生以降、三木谷氏の行動は非常に目立った。たとえば安倍首相が就任直後、最初に訪問した経済団体は、経団連ではなく、三木谷氏が率いる新経済連盟だった。そしてそのことを三木谷氏は会見などでも吹聴している。また前述のように産業競争力会議に名を連ね、安倍首相に直接具申できる立場にもなった。また、法人税減税などで、安倍政権の施策に自らの意見が反映されていることも、三木谷氏は隠そうとはしなかった。

9月には、経済学者だった父・良一氏との共著で『競争力』(講談社)という本も出している。過去に本を出版した経営者はいくらでもいるが、父親と一緒に出した例は寡聞にして知らない。これは闘病中だった父親を元気づけたいという息子としての思いが込められたものだったが(良一氏は11月に逝去)、経営とは違うところで注目を集めたことは事実である。

政権との近さ、目立つ行動、そして金額は小さいとはいえ、自らのビジネスの利益につながる主張、こうしたものが相まって、三木谷氏は政商と呼ばれるようになってしまったのだ。

昭和の大物政商たち

「政商」を辞書で引くと、「政治家と結託して大もうけをたくらむ商人」(新明解国語辞典)とある。

かつては、政商の名を欲しいままにした経済人はいくらでもいた。

戦後の政商としてもっとも有名だったのは、国際興業社主だった小佐野賢治だろう。

山梨県出身で戦地で負傷し送還されていた小佐野は、戦後すぐにホテル事業に進出、さらにはバス事業にも乗り出し、一代で国際興業グループを築き上げた。しかしその名を一躍有名にしたのは、田中角栄元首相が逮捕されたロッキード事件だった。ロッキード社のトライスターを全日空が導入する際に田中元首相が便宜を図り、5億円を受け取ったとされるこの事件で、ロッキード社と田中元首相の橋渡しをしたのが、田中元首相の刎頸の友だった小佐野だった。

余談だが、この事件で国会の証人喚問された際、小佐野は「記憶にございません」を連発した。証人喚問では偽証をすると罪に問われるため、それを避けるための言葉だったが、以来、「記憶にございません」は、いま問題となっている猪瀬都知事の議会答弁にいたるまで引き継がれている。

国際興業は、日本各地やハワイに多くのホテルを所有、同時に関東や東北でバス会社を次々と買収していくが、その際には小佐野と政治家との密接な関係が、大きな役割を果たしたと言われている。

もう1人、地方にあって、政商の名を欲しいままにしたのが、福島交通の小針暦二だった。小針は1960年代から故郷の福島県で次々と事業を行う。その原点となったのが、那須高原の国有地の払い下げだったが、この過程において政治家との関係が大きくものを言った。またその後福島交通の経営を引き受けることになるが、この際も自民党運輸族とのつながりが役に立った。さらに小針は福島民報などの地元マスメディアの経営権も握り、福島県内で絶大な力を持つようになっていく。いつしか小針は「東北の小佐野」と呼ばれるようになっていた。

西武鉄道グループの総帥だった堤義明氏も、政商と言われたことがある。その父で西武グループの創業者、堤康次郎もまた、衆議院議長を務めるなど、政治の力を最大限利用した経営者だったが、義明氏は、康次郎の手法を学び、政治家との親密な関係を築いていった。

義明氏は日本オリンピック委員会会長を務めるなどし、1994年の長野オリンピック開催に尽力した。この時にも、軽井沢でホテル、ゴルフ場、スキー場などを運営する西武鉄道グループに利益誘導するためにオリンピックを誘致したと言われた。非常にスケールの大きな話である。

以上見てきたような、戦後の政商に共通するのは、政治の力を利用して事業を拡大し、その資金を利用して政治家とさらなる密接な関係を築いていく手法である。政商と政治家の間には、必ずお金が媒体として存在していた。

だからこそ政商たちには、金にまつわる後ろ暗い噂が絶えなかった。その結果として、小佐野は前述のようにロッキード事件で逮捕され、小針も佐川急便事件などに関与したとして家宅捜索を受けている。死後には、金丸信元自民党副総裁の脱税事件やゼネコン汚職などにも関与したことが明らかになっている。

堤義明氏も証券取引法違反によって逮捕され、西武鉄道グループを放逐されたことは記憶に新しい。いずれも経済事件によって晩節を汚している。政商ならではの末路ということも言えるかもしれない。

政商をめぐる公開討論

このように、過去の「本当の政商」を見てくると、三木谷氏が政商の要件を満たしていないことがよくわかる。

確かに時の権力者と近く影響力を持っている。しかし権力者と三木谷氏を結びつけているのは、お金ではなく、「将来に対する思い」である。結果的に自らのビジネスにつながることもあるかもしれないが、それはほんの些細なことかもしれない。

ソフトバンクの孫正義社長は、グロービスの堀義人社長と「政商論争」を繰り広げた。

平成の時代に入り、政商と呼ばれるのは三木谷氏が初めてではない。しかし、そのいずれもが、三木谷氏と同様、国の将来を考えた言動が、なぜか政商呼ばわりされることにつながっている。

三木谷氏の前に政商と呼ばれたのは、ベンチャー経営者として三木谷氏の先輩であり、事業の多くの部分で競合しているソフトバンクの孫正義氏だった。

孫氏が政商呼ばわりされたのは11年のこと。震災から1カ月後、孫氏は日本の電力エネルギー供給は、原発依存をやめ、太陽光などの再生可能エネルギーの比率を高めていくべきだと主張、自然エネルギー財団を設立すると発表した。

そこからの行動力は、さすが孫正義氏だった。全国の知事を巻き込んで、「メガソーラー」と呼ばれる大規模太陽光発電施設を建設する計画を打ち出す一方で、当時の菅直人首相と会談、自説を吹き込んだ。その結果、首相は突如、太陽光発電などによって生じた電力の買い取りを電力会社に義務付ける再生エネルギー法案に執念を燃やし始めた。そしてソフトバンクは太陽光発電事業に1000億円を投資することを決め、6月の株主総会ではそのために定款変更まで行った。実際にその後の2年あまりで、日本各地にソフトバンクが主導したメガソーラー発電所が何カ所もできている。

ところがこうした行動が批判を受けた。「脱原発の政商になる 『孫正義』ソフトバンク社長の果てなき商魂」(週刊新潮)、「『強欲経営』の正体 太陽光発電の危うさを知りながらヒタ走る邪な商法」(週刊文春)といった記事が週刊誌を飾った。

再生可能エネルギーを普及させるには、太陽光発電などによって発電された電気を、高値で買い取る必要がある。孫氏が太陽光発電に熱心だったのは、それによる利益を狙ったのだと見られたのだ。孫氏の側近に元民主党議員がいる。そのパイプを使って菅首相に近づき、目的を達成しようとしていると批判されたのだ。

公然と孫氏を政商呼ばわりするベンチャー経営者も現われた。グロービスの堀義人氏がその人で、ツイッター上で「孫氏は政商だ」とつぶやいたことから話題となり、最後は孫氏と堀氏が公開討論会で対決するまで騒ぎは大きくなった。

この討論会の席上、孫氏は「太陽光発電事業によって得られる利益の配当は少なくとも40年間1円もいらない。欲しくない。1円でももらったが故に批判されることのほうが嫌だ」と発言、太陽光発電によって自らが利益を得る可能性を断ち切った。これ以降、政商騒動は収束に向かうのだが、逆に言えばそこまでしなければ政商騒ぎは収まらなかったということなのだろう。

白紙になったかんぽの宿売却

少し前に政商とされたオリックス会長の宮内義彦氏も、大きな犠牲を払わなければならなかった。

郵政民営化に伴い、全国にある「かんぽの宿」を売却することになり、そのの売却先にオリックス不動産に決定した。ところが郵政公社が民営化される過程で、宮内氏は総合規制改革会議議長として、民営化を推進したことから、「立場を利用してオリックスに利益誘導した」と騒がれた。今回の三木谷氏と同じ構図である。

冷静に考えれば、まったく筋違いいの話であることはわかるのだが、当時の鳩山邦夫総務相と日本郵政の西川善文社長が対立したこともあって、その政争の具にかんぽの宿が利用されたのだ。

結局いったん売却が決まったかんぽの宿だが、西川社長が売却を断念、白紙に戻った。

改革論者、オリックスの宮内義彦会長もかんぽの宿問題で政商と言われた。

宮内氏といえば、20年前から、日本の規制改革の旗を振り続けた根っからの規制緩和論者である。その背景にあるのは、三木谷氏同様、日本の将来に対する危惧である。バブル経済破裂以降の日本を立て直すには規制緩和しかないと、宮内氏は一貫して主張し続けてきた。それなのに、かんぽの宿買収に手を挙げたばかりに、政商と呼ばれた時の悔しさたるや、想像に難くない。そしてそれは三木谷氏も同様だ。

政治と金に透明性が求められるようになったいま、昭和の時代のような政商など存在しようもない。また存在するとしても、そういう人たちはフィクサーとして表舞台には出てこない。その意味で、現代において三木谷氏たちが政商のわけがない。

しかしそれをわかったうえで、既得権益にしがみつく人たちは、改革者をその座から引きずり下ろすためにあえて政商という言葉を持ち出す。日本社会の宿痾なのかもしれないが、なんともみっともない姿ではないか。

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インタビュー

 

鳥井信宏
サントリー食品インターナショナル社長

とりい・のぶひろ 1966年3月10日生まれ。大阪府出身。89年慶應義塾大学経済学部卒。91年日本興業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)に入行。97年サントリー入社、2002年大阪支社長、03年東海北陸営業本部長、05年営業統括本部部長、、06年同本部長兼ビール事業部プレミアム戦略部長、07年に取締役入り。国際戦略本部長などを経て、11年1月より現職。

強いブランドをなお強く

2013年、最大の大型上場だったのが、7月3日に株式公開したサントリー食品インターナショナル(以下サントリーBF)。親会社のサントリーホールディングスは非上場のままだが、傘下のグループで最も規模が大きいのがサントリーBF(13年12月期の売上高見通しは1兆1200億円)だ。利益面からいってもグループの牽引役の同社は炭酸飲料ビジネスこそ3位だが、缶コーヒーと茶飲料では2位、そして国産ミネラルウォーターでは断トツの首位と、4ジャンルすべて上位。

このサントリーBFを率いるのが鳥井信宏社長(47)で、サントリー創業者の鳥井信治郎のひ孫、佐治信忠・サントリーHD社長の甥にあたる。信宏氏は慶應大学を卒業後、米国の大学に留学し、91年に一旦、日本興業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)に入行、サントリーには97年に入社している。

サントリーBFは上場間もない9月、英国の大手製薬会社、グラクソ・スミスクラインの清涼飲料事業を2106億円で買収すると発表し、創業家社長ならではの“スピード経営”も印象付けた。

さらに遡ると4年前の09年11月、フランスの飲料大手、オランジーナ・シュウェップス・グループを3000億円で買収した際はサントリー本体でM&Aを担当し、海外のタフネゴシエーターと渡り合っている。身長が186センチと、欧米のビジネスマンにも気圧されない堂々たる体躯の鳥井氏に、サントリーBFが目指すものや課題、これまでの転機などを聞いた。

―― サントリーBFは12月決算なので、間もなく決算の締めになります。まず、2013年はどう総括しますか。
鳥井 本当に、まだまだ道半ばですね。国内市場ではおそらくトータルのシェアは上がると思うんですけど、我々がやろうと考えていたことは、全部はやり切れなかった。海外も、特に欧州は市場環境が悪いということもありましたが、悪いなりにもっとスピードを上げて開拓しなければいけない。アジアはトップライン(=売上高)こそ伸びていますけど、商品単価が低いので、こちらもまだ途上です。

―― 上場会見の際、国内市場で飲料メーカー首位のコカ・コーラを抜くのは、悲願ではなく「必達目標」だと宣言しました。
鳥井 今年も、(コカ・コーラとの)差は縮まりますよ。国内メーカーが国内マーケットでトップになっていないのは、外食と飲料メーカーだけらしい(笑)。つまりマクドナルドさんとコカ・コーラさんですが、せっかくのマザー・マーケットですから、日本の会社がトップになりたいですよね。

―― その必達目標に向けて、課題は何でしょう。
鳥井 一つ一つのブランドを、まだまだもっと強くしていく必要があると思っていますし、今年、当社の「天然水」にしても、ようやくブランドとしての力がついてきたなという感じです。私自身、自社製品の中でも気に入ってよく飲んでいるのが「天然水スパークリング」なんですが、これは水と炭酸のどちらのカテゴリーか微妙でしょう。正確に言えば水なんですけどね。緑茶の「伊右衛門」もトクホバージョンで「特茶」を出しましたし、これからもっと伸びると思います。

―― 商品展開として、これからはやはり「健康」というキーワードは外せないですか。
鳥井 そうだと思います。ただ、健康を意識する半面、当社では「ユニーク&プレミアムブランド」と言っているのですが、お客様に飲みたいと思っていただくことが何より大事です。

―― 商品化の過程では、鳥井さんが自ら試飲してGOかどうか決めることもあるのでしょうか。
鳥井 正直言いまして、特にジュース類は私が試飲してもまったく役に立たんですね(笑)。たまには試飲させてもらうこともありますけど、若者をターゲットにした甘い飲み物は、ただただ甘いと思うだけで(笑)。でも、缶コーヒー(=「BOSS」)は一応、全種類試飲しているかな。試飲はともかく、研究開発部門には顔を出して話をするし、また聞くようにもしています。

―― 特にのびしろありと考えているジャンルは。
鳥井 お茶関連でしょうか。まだまだ急須やティーポットにお茶葉を入れて飲んでいらっしゃる方が多いようなので、そういう意味では市場の拡大余地は大きいのかなと。そこで当社が13年11月から売り出したのが、魔法瓶製造のサーモスさんと共同開発した「ドロップ」という商品です。これは専用の魔法瓶ボトルに濃縮タイプの液体を入れ、水やお湯で薄めて飲む商品。首都圏の1都3県のセブン-イレブンさんと、セブンネットショッピングさんのネット通販で販売を開始し、評価も上々です。

―― 商品ラインナップ的に足りないものがあるとすれば、あとはどういうものでしょう。
鳥井 13年は数量的には少し伸びたかとは思いますが、「ペプシ」はあまりマーケティングがうまくいかなかったのでやり直す必要があります。

とはいえ、コアブランドはそれなりにどの商品も育ってきているので、もっとラインナップを広げるというよりも、既存のブランドを、より一層強くしていくことが大事です。お客様に喜んでいただける商品に、しっかりとヒト、モノ、カネをかけて愚直にやる以外ない。缶コーヒー市場全体がやや苦戦している中で、BOSSも健闘していますし、13年の後半戦は幸い、特茶がそれなりにご評価いただいているので、そういう商品をきちんとタイムリーに出していくことです。

海外市場では大型買収

―― さて、地道な国内マーケットの掘り起こしに対し、海外飲料メーカーの買収は華やかですね。4年前に3000億円で買収したオランジーナの案件は当時、鳥井さんがM&Aの担当だったわけですが。
鳥井 一貫して、いいブランドを手に入れたいという思いがありました。M&Aの部署が立ち上がったのは08年の4月なんですけど、海外市場をもっと伸ばさなければいかんので、時間を買う意味でのM&A。佐治(サントリーHD社長)は常に、「買収に際しては(市場価値よりも)高く買うことは許さない」という姿勢で、オーバー・ペイはしないというのがポリシーですから。

―― オランジーナは日本でもかなりのヒット商品になりましたが、今回の、グラクソ・スミスクラインの清涼飲料事業買収で、主要ブランド(機能性飲料の「ルコゼード」と果汁飲料の「ライビーナ」)は日本でも浸透させたいという考えですか。
鳥井 (日本でもヒットする)可能性はあるかなとは思ってますが、こればっかりはやってみないとわからない。オランジーナの場合、味の評価は日本でも非常に良かったですし、意外に幅広い年齢層のお客様に受け入れられたと思います。

―― 親会社が非上場のまま子会社が上場した変則的な形だったため、上場会見の際、鳥井さんは「独立性はきちんと担保することをお約束します。そのために社外役員も入れました」と言われました。その社外役員が、リクルート前社長の柏木斉さん(現・取締役相談役)ですが、柏木さんとの接点、招聘した理由は。
鳥井 柏木さんは過去、当社の幹部候補者研修などで講師をしていただいたり、お付き合いは以前からあったらしいんですね。私は直接の面識はなかったんですけど、柏木さんは年齢も比較的若い(現在56歳)ですし、「柏木さんみたいな人が社外役員としてふさわしい」という声が社内で多かったので、お会いしてお話をし、ご快諾いただいたということです。

―― 柏木さんが取締役会に出席して、具体的にはどんなやりとりがあるのでしょう。
鳥井 ご自身もおっしゃっていますが、「製造業(の社外役員就任)は初めて」だと。ただ、彼の経営者としての視点でいろいろ的確なアドバイスもいただきますし、非常にオープンに、興味を持って我々に質問していただけるので、本当に良かったと思います。たとえば、当社では欧州の事業がこれまではやや苦戦していますが、欧州の飲料市場をどのくらいと見積もっていて、それがいま実際はどのくらいなのかといった、規模感について聞かれました。

―― 上場前と後とで、何が大きく変わりましたか。
鳥井 いや、何も変わっていません。強いて言えばオフィスを台場(東京・港区)からここ(同・中央区京橋の東京スクエアガーデン)に移転したことが一番大きいでしょう。

―― 確かに、親会社の不動産に入居してはいけないというのも上場要件の1つだったわけですが。
鳥井 家賃負担は軽くないので、余計に頑張って稼がなアカンですね(笑)。でも移転によって、社員の士気はさらに上がっています。

社名に意外な舞台裏

―― サントリーBFは、上場によって自己資本比率が目に見えて上がりました(12年12月期で22.5%、13年の第3四半期時点で41.6%)。
鳥井 昔は、たとえば無借金会社っていい会社だと言われていたんですけど、この頃は必ずしもそうではないですよね。特に投資家の皆さんはむしろ、「借金をしてもっと事業を伸ばせ。無駄に資金を寝かせておくな」というスタンスの方も少なくないですから。当社で言えば、今回1つ大型買収はありましたけど、そんなに借金が増えるレベルではないですし、当面はお金を借りる予定もないですね。

―― 社名の略称はサントリーBFですが、正式社名はサントリー食品インターナショナル。ワールドワイド、グローバルにという狙いはわかりますが、ちょっと長過ぎる気もします(笑)。
鳥井 いやいやまったく逆で、私はインターナショナルはつけたくなかったんです。インターナショナルとついている会社にインターナショナルな会社はないから嫌やと(笑)。でも社内外へのメッセージとして、インターナショナルを目指すという思いが通じないぞと佐治に言われて。そこで妥協点として、私の名刺を裏返してもらうとわかりますが、英文表記ではインターナショナルとはつけていないんです。「サントリー・ビバレッジ&フード・リミテッド」ですから。日本語表記でインターナショナルとつけるのは、しゃあないです(笑)。

2013年7月3日、サントリーBFは東証1部に株式上場。20年に2兆円という売上高目標を改めて宣言した。

―― サントリーグループは事業範囲が広いので、グループシナジーも大きいかと思いますが。
鳥井 調達やバックヤードなどの部分では、グループで協力しながらやっていくことはもちろんですが、数値でグループシナジーというのはなかなか言い表わしにくいですね。ただ、サントリーHDがいろいろなCSR活動をやっていることで、たとえば環境に優しい企業で1位になったりすると、有形無形の形で、我々のブランドには間違いなく効果が大きいですよね。

基本はオーガニック成長

―― さて、14年の商戦はどう考えていますか。
鳥井 国内市場では、やることはそんなに変わりません。ただ、残念ながら円安という為替の影響で原価が上がり、かつ消費税も上がるということで、相当いろいろなことを工夫して、やると決めたことはやり切らないと、なかなか厳しい環境になるだろうと思っています。

海外では、さきほどのルコゼードとライビーナという2ブランドが入ってきますので、特に欧州ではビジネスそのものが大きくなりますけど、ただ大きくするだけではうま味がないというか、オランジーナとインテグレートしてどうやっていくかという点が、すごく大事な仕事になってきますね。

―― 東京五輪開催イヤーの2020年、売上高で2兆円の目標を掲げています。そこへ到達するまでの過程で、まだこれからM&Aはいくつか出てくると思いますが、大きな目標に向けたロードマップはどう描いていますか。
鳥井 どこまでがオーガニック(自立的)な成長といえるのか非常に難しいところですけど、新規事業なども考えなければいけないかもしれませんし、まずは、いまある商売を伸ばしていくというのが大前提です。

で、それでも足りない部分が出てくるのでM&Aという順序でしょう。M&Aばかりは出会いや運でどうなるかわからないですね。(大型のM&Aは)出てくるかもしれないし、出てこないかもしれない(笑)。

(聞き手・本誌編集委員・河野圭祐)

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経営戦記

市川俊英 三井ホーム社長

いちかわ・としひで 1954年9月27日生まれ。熊本県出身。77年一橋大学商学部卒。同年三井不動産に入社。2003年六本木プロジェクト推進部長。05年執行役員で東京ミッドタウン事業部長、08年常務執行役員となり、09年からアコモデーション事業部長、11年常務取締役、13年6月から現職。趣味は旅行とゴルフ。

分譲マンション同様、戸建て住宅の販売も活況を呈している中、ハウスメーカー大手の一角である三井ホームも攻勢をかけている。2×4住宅で首位の同社は、さらにどう、差別化や成長戦略を進めるのか――。

デザイン提案力に強み

〔あと3カ月あまりに迫った消費税増税。駆け込み需要やその後の反動減は、前回増税時の1997年とは時代背景が違うだけに、単純な比較はできない。ただし、住宅は人生で最も大きな買い物だけにやはり今回、駆け込みは見られた。2013年9月末までに戸建て建築契約を結べば、引き渡しが14年4月以降でも現行の消費税率が適用されるからだ。その効果で大手ハウスメーカーの9月の受注は、10月分まで先食いする形で大きく底上げされた。では、これから先の動向を、三井ホームの市川俊英社長はどう読むのだろう〕

消費税が3%から5%に上がった時のような、山高ければ谷深しという感じの駆け込みと反動減までは至らないと考えています。政府のローン減税などの施策効果もあるとは思いますが、何より、皆さんそんなに焦っておらず、じっくり選ばれる方が増えている印象ですね。むしろ、これから金利が上がるかもしれないというほうを警戒されているし、住宅や家電製品は、増税後のほうが意外と買い場になるケースもありますから。

今後については、景気動向や政府の具体的な成長戦略、あるいは昇給や賞与の多寡といった要因に拠るところが大きいと思いますので、需要をよく見極めていきたい。ただ、一般論で言えばこれ以上金利が下がることは考えにくいし、建築資材も高騰しています。

ですから、東京五輪商戦や震災復興が本格化していく前に、いまのうちに住宅購入をと考えるお客様がいらっしゃってもおかしくないでしょう。土地を買って建てられる場合と、すでに土地はお持ちで建物だけというケースとで考えますと、後者の方は増税前に決断されたほうがローン控除でお得な場合が多いですが、いずれにしても住宅購入の潜在的なニーズは大きいと思います。

〔駆け込みという点では、15年から実施される相続税増税対策もある。古い戸建て住宅を取り壊し、新たに3階建ての集合住宅を建てて1階に家主が住み、2階、3階を賃貸に回すといったケースが明らかに増えてきた。そうすることで土地の評価額が下がるため、負担が大きくなる相続税を軽減できるからだ〕

そういう需要ももちろんあります。ただ、当社の場合は集合住宅的なものよりも、戸建て賃貸の受注が多いですね。ご自身のアセット・マネジメントを考えた時、住宅を切り売りできるかどうかとか、いろいろなことを考えていらっしゃいます。相続税増税に併せて、やっぱり年金不安というのもあると思いますね。家賃収入で年金不安部分を賄おうと考える方も少なくないですから。

〔三井ホームは三井不動産系の上場住宅メーカーで、ツーバイフォー(以下2×4)工法の住宅で首位。設計やデザイン提案力に強みがあり、高品質をセールスポイントにしていることもあって、販売価格帯は同業他社よりもやや高い〕

当社の特徴はフリーのオーダーメード設計ですし、ファンも大勢いらっしゃるので、ここの部分の強化は欠かせないと思っています。同時に、「バーリオ」という商品もありまして、こちらは間取りがある程度決まっている企画型商品で、お値段も比較的リーズナブルなので、特に地方の方のニーズが高い。こうした分野にも引き続き力を入れていきます。

多彩なグループシナジー

〔三井不動産グループとのシナジーも小さくない。三井不動産リフォームや、マンション分譲を中心に手がける三井不動産レジデンシャルとの相互送客などがその代表事例だ〕

「ブランド力に磨きをかける」と市川俊英・三井ホーム社長。

レジデンシャルが手がける建て売り住宅を当社で請け負うとか、狙っている場所に土地があれば買って建てたいといったお客様にはリハウス(=三井のリハウス。運営は三井不動産リアルティ)をご紹介しており、そうした紹介や取次シェアというのは、ハウスメーカーの中では結構、高いほうだと思います。

また、当社のグループに三井デザインテックという会社があります。ここはかつて、当社のインテリア関係や家具販売を手がけていたのですが、いまではオフィスの内装も手がけるほか、最近では三井ガーデンホテル(運営は三井不動産ホテルマネジメント)やリゾートのリフォーム、内装などにもビジネスを広げています。そういう関連性はすごくありますね。ほかにも三井ホームコンポーネントという会社があって、カナダからキッチン設備などの部材を輸入していて、住宅資材や物流といった点でレジデンシャルと一緒に協力、連携してやっています。

当社の主力層はもちろん個人ですが、法人営業の部隊もあって、ほかの三井グループ、たとえば東レさんや三井物産さんなどでもイントラネットにご紹介いただいたりして、そこから興味を持ったと言われる方も多いです。ですから、広く三井グループ全体でご利用、ご購入いただいている。逆に言うと、もしかしたらその分、三菱さんや住友さんのグループ企業にお勤めの方を取り逃しているのかもしれませんが(笑)。

〔三井不動産では、かねてからエコや省エネの観点から「スマートシティ」の開発に注力してきたが、当然、それはグループ企業全体にまたがる。では、三井ホームとしてはほかに、差別化の力点をどこに置いているのだろうか〕

当社固有の性能面で言えば、「スマートブリーズ」、日本語で言うと全館空調があります。要は廊下からお風呂からトイレから、冷暖房、除湿、換気、空気清浄、脱臭、加湿など全てを1台で空調していこうと。これからシニア世代が一層増えてくると、冬の夜中に起きた時にトイレが寒いとか、お風呂上がりの、いわゆる「ヒートショック」を気にされる方も多いでしょう。そこを全館空調システムで防ぎ、快適にお過ごしいただこうというものです。

〔前述したように、三井ホームの最大の特徴は2×4住宅で首位ということ。2×4工法をおさらいしておくと、主に2インチ×4インチの木材を中心に作られた枠組みに、構造用合板を貼りつけたパネルで床・壁・屋根を構成。在来工法では柱や梁などを点で結合するのに対し、2×4では線と面による6面体のモノコック構造で、耐震性や耐火性に優れていることで知られる〕

ロングライフ住宅としての2×4はすごくいい。自分で言うのも何ですが、新築はもちろん、中古住宅を買う場合でも三井ホームの住宅はお値打ちだと思いますよ。阪神淡路大震災(1995年1月17日)の時、当社の住宅は全壊はもちろん、半壊もゼロでしたから。もちろん、東日本大震災の時もそうです。2×4工法が地震に強いということは、かなり認知されてきていると思います。

〔最近、この2×4工法で建てられた、東京・銀座にある三井ホームの「木造ビル」が話題を集めた。都内では初めてとなる“5階建て”の木造ビルだったからだ。2×4の本場といえるカナダでは、ホテルや商業施設などの中層建築ですでに木造建築が日常風景となっている〕

木造建築は柔らかみがあるでしょう。我々も、すでに木造の福祉施設や幼稚園を手がけていますし、木に対する関心は、社会全般に高まっているような気がします。ニューヨークではいま、40階建ての木造高層ビルの計画があるほどなんですよ。

海外では、当社のカナダにある現地法人が、プロダクションビルダーという考え方で、現地のディベロッパーから請け負って、5階建てか6階建てぐらいの、木造のコンドミニアムを建てるお手伝いをしています。木の集合住宅というのも、なかなか味があっていいですよね。カナダですから木材が安いということもあるかもしれませんが、工期が短いのも受けています。

成熟化社会になると、木のやすらぎなどは、なかなかコンクリートの建物では得られませんから。当社ではカナダからの輸入材が多いのですが、それは価格、品質、安定供給という3つの要素がそろっているからです。国産材もその域に達してくれば、もっと使うメーカーが出てくると思いますが、まだ政策的に国産材の活用に光が当たっていませんね。

ミッドタウン開発の目利き

〔ここからは、市川氏の軌跡を辿ってみよう。同氏が三井不動産に入社したのは77年のこと。当時はオイルショック後ということもあり、日本航空が採用をストップするなど、就活環境としては厳しい時代だった〕

大学も小さいところ(一橋大学)でしたから何となく、組織的に仕事をするよりも、個人に任せる裁量が大きいところがいいなと思っていたんですが、たまたま先輩が三井不動産に行っていたのが頭に残っていましてね。当時は、三井不動産の本社はここ(東京・西新宿の三井ビル)だったんです。周囲を眺めると、あの頃はまだ、ほかに高層ビルというと新宿住友ビルと京王プラザホテルぐらいしかありませんでした。

最初の配属は宅地事業部。要は、山を削って宅地開発するので地主さんにハンコをもらったり役所と折衝したりといった仕事です。その後、人事部やビル管理などの仕事に関わり、千葉支店では住宅関係にも携わりましたし、資産マネジメント本部での経験もあります。

主力商品の1つ「オークリー2」(上)、グッドデザイン賞を受賞した「G-WALL構法」(中)、柏の葉実証実験住宅(下)。

〔市川氏にとって一大転機が訪れたのは、三井不動産が1800億円を投じて01年9月に落札した、六本木の防衛庁跡地開発を任せられた時だった。03年には六本木プロジェクト推進部長を務め、07年3月に東京ミッドタウンとしてグランドオープンした後も2年間、ミッドタウン事業を担当している〕

このプロジェクトは、何が何でも成功させないといけないと、社内ではそういう空気だったですね。そこから先は、できない理由を考える暇もなくて、どうしたらできるかだけを考えるのみ。時間との勝負でもありました。1つ幸いだったのは、当時の規制緩和の波に乗れて、ビルの容積をずいぶん増やすことができたことです。

そして一番大きな仕事が、限られた予算の中で、三井不動産らしい街作りをどう実現するかということ。予算の枠ばかり気にしてシャビーなものを作るわけにはいかないですし、美術館といった施設も持たないと、街としての魅力が出ません。さらに魅力を増すためには、いいホテルの誘致も必要です。

そこを考えていく上で、三井不動産本体が、すでに大崎(東京・品川区)での再開発を手がけ、日本橋三井タワーの建設やマンダリンオリエンタルホテルの誘致など、複合再開発の経験値がたまっていく、あるいは醸成されていく過程で生まれた六本木のプロジェクトでしたから、ヒントがもらえました。

最も腐心した点は、無機質ではない心地よい空間作りということで、そこは強く意識しました。どこにお金をかけるか、どう見せるか、どうブランドを作りこんでいくかを、同時並行的にやっていったのです。三井ホームの場合は個人がお客様ですが、住宅展示場に来られた時の見せ方という点では、ミッドタウンの経験が役に立っていると思います。

〔市川氏のそうした“目利き”は、ミッドタウン事業担当から離れ、09年から4年間担当した、アコモデーション事業部でさらに培われたといえる。同事業部は、主にホテルやリゾートビジネスを手がけているのだが、ミッドタウンが開業した07年は、この事業分野でも大きな転機だった。同年、帝国ホテルに出資して三井不動産が筆頭株主になる一方で、ヤマハが持っていたキロロ、国際鳥羽ホテル、合歓の郷、はいむるぶしといったリゾートを買収したからだ〕

アコモデーション事業を担当した4年間で、海外の高級ホテル、高級リゾートもずいぶん見させてもらいましたし、体感させてももらいました。三井ホームも「高級」という点をセールスポイントにしていますから、たとえば住宅展示場のモデルハウスで、エクステリア面で手を抜いてはダメだよと、しつらえなどもうるさく言っています。お客様には、モデルハウスで三井ホームを体感していただき、具体的に住まいをイメージしていただくので、ここでの時間をどうお過ごしいただくかが生命線ですから。

慣れてくると、営業マンはだんだん、モデルハウスを接客場所のように考えてしまうんですね。もちろん営業の場でもあるんですが、三井ホームの家をどう体感していただくかが腕の見せどころなわけです。

当社は70年代後半に、それまでとは違った本物の洋風住宅ということでデザインも評価され、一世を風靡してそれなりのポジションを取りました。三井ホームのそうした輝きを、もう一度取り戻していくのが私のミッションだと思っています。

〔三井ホームにとって、14年は創業40周年という節目の年になる。同業者との差別化という点で、高級路線というのは何度か触れたが、逆に言えば、同社の主力顧客層はそれだけ目が肥えたシビアな層ともいえる〕

家づくりにおいても、時計や洋服のようにご自分のライフスタイルを体現したいという方が増えてきています。そういうこだわりを持ったお客様は、海外で過ごされた方、あるいは駐在経験なども豊富な方が多くて、確実に目が肥えていらっしゃる。そうした方のニーズはこれからもっと増えるでしょうから、我々も勉強しないとどんどんお客様に追い越されてしまいますね。

たとえば、海外の何とかホテルのロビー風、あるいはあのホテルのあの部屋のインテリアをとご相談いただいた時に、担当者がそこでさっと答えられるかどうか。そこで、三井ホームの真価が問われるのです。

(構成=本誌編集委員・河野圭祐)

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企業の匠

誕生5年で日本一に

毎年、夏から秋にかけて、必ずワイドショーなどで報じられるのが、蜂の駆除だ。家の軒先や住宅近くの木のウロなどにスズメバチが大きな巣をつくり、それを駆除するプロとの間で熾烈な「戦い」が繰り広げられている。

この蜂との戦いにおいて、年間1000件という、日本でもっとも多い駆除数を誇るのが、さいたま市に本部を持つアイディーサービスだ。多い時には1日に25もの蜂の巣を駆除したことがあるという。しかもサービスを開始してわずか5年で、ここまで成長したというのだから驚かされる。

右が篠崎社長、左が古満氏。誕生まもない会社だが、社内は活気に溢れている。

社長の篠崎治氏(43)は、かつて生保会社に営業マンとして勤務したのち、家業の住宅設備業に携わっていたが、そこから害虫駆除へと転身した。その経緯が面白い。

「小さい頃の夏の夕方、宇宙服のような格好の人を見かけたことがあります。一目見た瞬間、かっこいいと思いました。それがスズメバチの駆除でした。やってみたいと素直に思いました。だけど、まさか本当にやるとは、自分でも想像もしていなかったし、サラリーマン時代には、自分で会社を立ち上げようなんて思ってもいなかった」(篠崎氏)

住宅設備の仕事をしていると、厨房などでゴキブリなどの被害に苦しんでいるケースに出会うことがある。最初はそこから害虫駆除に取り組んでいたのだが、その仕事が面白くなり、会社を立ち上げ専門に取り組むことにした。2008年に会社を設立、09年から本格的サービスを開始した。

「蜂の駆除に関しては完全に独学です。最初の仕事はアシナガバチの巣の駆除だったのですが、初めてということで、市の職員が6人も来て、仕事ぶりを見守っていました。巣を駆除したあと、地面に落ちていた幼虫を拾って片付けていたら、『そこまでやってくれるところはなかなかないですよ』と言われたことを覚えています。自分としては当たり前のことをやっただけなんですけどね」(同)

それにしても、わずかな年月の間に、これだけの件数をこなすようになったのはなぜか。

「特別なことは何もやっていないですよ。蜂の駆除の多くは、悩んでいる人が市役所に駆除を依頼し、そこから私ども業者に連絡がきます。そこで当社では、すぐに電話に出る、電話を受けたらその日のうちに駆除にいく、ということを徹底しました。13年からは蜂駆除の専門チームをつくり、体制をさらに整えました。蜂の被害に困っている人は、できるだけ早く駆除にきてもらいたいと思っているはずです。その要望に応えていたら、仕事がどんどんくるようになりました」(同)

蜂の駆除サービスを行っている業者は全国に数えられないほどある。しかしほとんどが個人事業者であるため、仕事が重なった場合、即日対応することはむずかしい。そうなると、依頼する側としても確実に即日駆除してくれるアイディーサービスに頼みたくなるというものだ。2年前の駆除件数が70件、1年前が100件、それが一気に1000件に跳ね上がったということが、アイディーサービスの評価を物語っている。

しかも、14年はこれがさらに増えることになりそうだという。

「年によって蜂の数は増えたり減ったりします。13年はここ数年では非常に少ない年でした。ですから14年は間違いなくそれ以上の駆除件数になると思います。それに備えて、体制をさらに拡充する必要があると考えています」(同)

アイディーサービスが駆除するのは蜂だけではない。蜂は夏の間の半年間に仕事が集中するが、1年を通して依頼があるのがゴキブリやネズミの駆除である。ホテルやレストラン、食品工場などでは衛生管理上、駆除が求められる。さらに、アライグマやハクビシンなどの小動物の駆除も手掛けている。

「特に最近増えているのがアライグマですね」(同)

ペットとして輸入されたアライグマだが、いまではすっかり野生化し、旺盛な繁殖力によって数が増えたために、日本各地で問題になっている。農作物を荒らすほか、家の中に住み着いて、屋根裏を走り回る。その騒音はネズミなどの比ではなく、住人は安眠できないという。また同じ場所で糞尿をする癖があるため、天井板が腐食して穴が開いてしまうこともあるという。

動物好きだから生態がわかる

同社で、ゴキブリや小動物駆除などでリーダー的役割を果たしているのが古満健氏(26)だ。古満氏は大学の畜産学部を卒業したあと、別の駆除会社に就職、2年前に転じてきた。「もともと生物に携わる仕事がしたかった」そうだ。

害虫駆除のためには生物の生態を知る必要がある。

篠崎社長に言わせると、害虫・小動物駆除に携わる人は、動物好きな人が多いという。動物が好きで、動物の生態に関心があるから、より効果的な駆除ができるのだ。古満氏はその代表格で、非常に研究熱心なのだという。

「大量のゴキブリやネズミがいる現場を見ると、どうやって駆除したらいいのか、ワクワクします。こうしたケースは、単に消毒した退治しただけでは問題は解決しません。そこに大量発生する理由があるはずです。住みやすい環境だったり、外から入りやすくなっていたり、理由はさまざまです。その原因を突き止め、対処する。ですから、ある程度の時間もかかります。でもそうやって完全に駆除に成功したあと、お客さまに『本当にありがとう』と言っていただいた時、この仕事をしていてよかったと思いますね」(古満氏)

より効果的な駆除をするためには、依頼主側の協力も欠かせないという。依頼主の中には、駆除は業者に任せた、という人もいるというが、併せて厨房の改善など行うことで、駆除がしやすいだけでなく、将来的にゴキブリやネズミが住み着かないようにもなるという。

「われわれの仕事というのは、虫や小動物を単に殺せばいいというものではありません。家の中や近くまで入りこまなければなんら問題はないわけです。ですので、いちばん大事なのは、そういう生物をどうやってコントロールしていくかということです」(同)

前述のように、アイディーサービスはまだ誕生して間もない会社である。社員数にしてもまだ20人に満たず、サービスを提供する地区も埼玉県を中心に関東にとどまっている。

しかし、篠崎社長の夢は、はるかに大きい。

「これまでは、ただひたすらに頑張ってきました。いただいた仕事はすべてやる。同時に技術を磨いていく。このことに集中して、プランも何もなく、とにかく必死になって走ってきました。でもようやくここにきて土台ができた。信用もいただけるようになりました。そこで最近は、将来を考えるようになったし、もっともっと大きくなりたいと思うようになりました」(篠崎氏)

海外進出も視野に

害虫駆除の世界では、大手と言われる会社が3社あるという。その売り上げは70億円から150億円ほど。いまのアイディーサービスでは足元にも及ばない。しかし、いずれはそれに匹敵する、あるいはそれを凌ぐほどの規模を目指すという。そして社名を聞いたら誰もがわかる会社にするのが夢だという。

2014年はもっと多くの蜂駆除を行う可能性も。

「よく背伸びをするとか言うじゃないですか。目標を少し高く設定して、それに向かって進んでいく。でもそれでは面白くない。どうせならジャンプしなければ届かないものを目指していく。それを繰り返していけば、いつかは大手に追いつくかもしれません。でもそのためには、大手と同じことをやっていたのでは絶対に追いつかない。そうではなく、自分たちしかできないことを増やしていきたい」(同)

進めようと考えているのは「駆除をしない駆除」だという。禅問答のような言葉だが、一例をあげれば、害虫駆除の用具を開発し、自分たちで使うだけでなく、これを同業者に販売することで、売り上げを拡大していこうというのだ。あるいは、駆除した小動物の焼却施設を建設することも検討中だ。こうした施設を同業者に開放すれば、感謝もされるし収益にも寄与することになる。

東南アジアなどの海外進出も視野に入れているという。

「国内市場で大手と勝負しようとしても、拠点数からしてかないません。それだったら、海外で勝負したほうが面白い。害虫駆除が仕事になるにはある程度、衛生観念が発達しなければならないかもしれません。でも、発展のスピードを考えると、そう遠くない将来、そういう時代がくると思います。だからそうなる前に準備しておく。たとえば東南アジアの人たちを研修生として受け入れて、時期が来たら彼らに帰国してもらって、事業を展開してもらうなど、やり方はいくらでもあると思います」(篠崎氏)

経営者がこれだけ気宇壮大だと、ついていく社員も大変だと思うのだが、前出の古満氏なども「面白いと思いますね」と言う。

「国や地域によって生息する生物はさまざまです。海外に進出するということは、その地域の生物の生態系を調べ、それに対応した駆除の方法を考えるということですから、ぜひともやってみたいですね」(古満氏)

篠崎社長や、古満氏の言葉に繰り返し出てくるのが「面白い」というフレーズだ。この言葉は、篠崎社長が何か始める時のキーワードでもある。

「いろんなことをやるのもそれが面白いからです。実は害虫駆除の中でも、シロアリ駆除を当社はやっていません。依頼があれば他の業者を紹介しますが、直接はやらない。というのも、私にしてみればあまり面白いと思えないからです。だったらもっと面白いことをやろうよ、と考えてしまいます」(篠崎氏)

この考え方が、もしかしたら誕生まもないアイディーサービスが急激に成長し、社員数も増えてきた理由かもしれない。元は同業他社にいた古満氏も「よそにいる頃から篠崎のことは知っていましたし、そのビジョンや将来の夢を聞くにつれ、一緒に働きたいという気持ちが強くなったし、今後、この会社は伸びるだろうなと思いました。以来2年たちますが、この直感は間違っていませんね」と語っている。

「人間の生活の中で、仕事の比重がいちばん大きい。だとしたら、ここで面白くしなかったら意味がないじゃないですか。だから、面白いことを追求する。安定なんてまったく考えていませんね」(篠崎氏)

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月刊BOSS×WizBizトップインタビュー

オフィス・ゴトウ社長 後藤 専

ごとう・たかし 1966年東大阪市生まれ。90年滋賀大学経済学部を卒業し三和銀行入社。モルガン・スタンレー証券、ABNアムロ証券を経て、リーマン・ショック後、本格的に不動産ビジネスに取り組み、現在はビル7棟を所有する。著書『お金は行列に並ばない人のところにやってくる!』が刊行されたばかり。

モルスタのトップ営業マン

―― 後藤さんは三和銀行からモルガン・スタンレーなど外資系証券会社を経て、現在はオフィスビルやマンションなど7棟を持つビルオーナーということですが、まずはその経緯を教えてください。
後藤 志賀大学経済学部を卒業して三和銀行(現三菱UFJ銀行)に入ったのが、バブルのピークの1990年です。そこに9年間勤めた後、モルガン・スタンレー証券に転職し、債券営業に配属されました。

―― その頃はすでに、銀行から外資系証券へという流れは一般化していたのですか。
後藤 まだ多くはなかったですし、だからこそ、私はその道を選んだようなものです。当時は銀行と証券会社ではまだまだ違いがあって、たとえば当時のモルガン・スタンレーの社員には英語はできるけれど敬語が使えないなんて人がいっぱいいた。その中で私は、敬語はきちんと使えるし、調べ物はきちんとする。銀行では当たり前のことですが、証券会社の中では少なかった。まだそういう時代でした。

―― 当然、成績もよかったんでしょう。
後藤 2000年から04年まで、東京のトップセールスマンでした。ただしこれは、実力というより運が良かったと思っています。

入ったばかりの私に、優良取引先が回ってくるはずもない。担当したのは、当時経営が悪化していた生保会社が中心でした。こうした会社はリスクが高いため、取引することはできません。それでも私は、毎日、連絡を入れて債券市況などを伝えていました。しかも生保危機が強まるにつれ、連絡を取る証券会社が減っていき、最後は私1人になったのです。

ところが、こうした生保を外資が買収していった。これにより、昨日まで要注意先だった相手が、健全な会社に生まれ変わっため、再び証券会社が営業するようになったのです。でも生保の担当者にしてみれば、どうせ付き合うなら、苦しい時も連絡を欠かさなかったところを選びたいというのが心情です。それで僕の指名が相次いだわけです。僕自身、将来的にそうなることを考えて連絡を入れていたわけではありませんでしたが、結果としてトップセールスマンになることができました。

その後、05年にはABNアムロ証券にヘッドハントされて08年まで勤め、09年から12年までは日本駐車場開発でタイの現地法人の立ち上げに関わっています。

―― いつから不動産を取得するようになったのですか。
後藤 不動産には前から興味がありました。価格の動きが株などに比べはるかに遅いから検討する時間があるし、収益を確実に計算することができる。投資するにはいい対象です。

そこで03年に渋谷のビルの1階部分の店舗を購入し、様子を見ることにしたところ、毎月、きちんきちんと家賃が入ってくるし、不測の事態も起きない。その時以降、買い場を探すようになりました。

そのチャンスが08年にやってきました。リーマン・ショックでビル価格は一気に半分近くまで下落したのです。私はその直前にABNアムロ証券を辞めていたこともあり、これを機に本格的に不動産を取得しようと考え、09年に入ってすぐに4棟のビルを買いました。

―― 地価は落ち続けていた時期です。ずいぶんリスクを取りましたね。
後藤 むしろ逆ですよ。ビルの価格が半分になったからといって家賃が半分になるわけではなく、ほとんど変わりません。ということは、エントリーコストが半分ですむのにリターンは変わらないということです。絶好の投資のタイミングでした。

―― 資金はどうしたんですか。いくら外資系証券会社にいて高給を取っていたといっても、それで足りるわけがない。銀行だって、融資には慎重になっていたのではないですか。
後藤 銀行出身ですから、資金調達はお手の物です。この時も、全額借金で購入しています。というのも銀行が不動産融資の審査をする時は公示価格を基準にします。ところが地価下落局面では、実勢価格のほうが公示価格よりはるかに早く下がっています。これを利用することで、自己資金を一切使わずにビルを購入することができました。

自己資金ゼロで事業開始

―― ところで後藤さんは、テナントの経営相談にも乗っているそうですね。コンサルをする大家なんて聞いたことがありません。
後藤 コンサルなんてものじゃありません。ただ僕は資金調達は得意ですので、それで困った人がいれば相談に乗ったりしていますし、それ以外にも何か手伝えることがあれば協力しましょうというだけです。

ビルオーナーにとって、最重要顧客はテナントです。大事にしない手はありません。それに下心もあります(笑)。ビルオーナーにとっていちばんありがたいのは、同じテナントがずっと居続けてくれることです。だからテナントと仲良くなっておけば、出て行くとは言えないでしょうし、2年に1度の家賃交渉の時も、家賃を下げずにすむかもしれない。だから計算ずくなんです。

もちろん、すべてのテナントと仲良くなっているわけではありません。全体からみれば3分の1にも満たないでしょう。でも、すべてのテナントに対し、有益な情報を送るようにはしています。無視されてもかまわない。でも常に気にかけているということがわかってもらえれば、それでいいわけです。

―― 保有するビルの数は今後も増やしていくつもりですか。
後藤 そのつもりです。でもいまは買うタイミングではないですね。いずれ地価が下がる時がくる。その時を狙っています。

―― ところで現在、茨城県で接骨院の開業準備を進めているそうですが、これは不動産業と関係があるんですか。
後藤 まったく関係ありません。これまで僕は金融業に携わり、現在は不動産業を営んでいます。でもこれだと、たまたまビルを買ったら儲かったと思われてしまうかもしれません。そこで何かひとつ事業をやろうと考えたのです。

僕が提供できるのは資金調達とマネジメントです。それで事業を始めるにはフライチャイズ・チェーン(FC)を利用するしかないと考え、いくつものFCの説明会に参加した結果、接骨院をやろうと決めたのです。

―― 決め手はなんだったのですか。
後藤 高齢化が進んでいますが、いまの団塊世代の人たちは健康志向が強く、スポーツジムで鍛えたりジョギングをする人も多い。でもそういう人が増えれば増えるほど、筋肉痛になったり腰を痛める人もいる。その意味で需要はこれから伸びていくと考えたのがまずひとつ。

同時に参入障壁が高いことも魅力でした。開業後しばらくの運転資金を含めると、6000万円の資金が必要です。これだと競合が現われにくいわけです。

―― 普通の人はそれだけの資金を用意できませんからね。
後藤 でも、この資金も全額借金です。ですからその気になれば誰でもやることができる。

なぜ僕が、不動産以外もやろうと考えたかというと、こういうチャンスは誰にだってあるということを知ってほしかったんです。資金がないから新しいことを始められないという人は多いですが、そんなことはありません。僕の持論ですが、すべての人にツキがある。好きなことをやって生きることができるはずなんです。

ですから、元手なんかなくても新しいことにチャレンジできる。僕はそれを、自分が新規ビジネスで成功することによって証明したいと思います。

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