PickUp(2013年9月号より)
バックナンバー

友だち追加数

© 2013 WizBiz inc.

 

特集記事

Home
   

東大発ベンチャーの底力

アントレプレナー不毛の大学―かつて東京大学は、そう揶揄されたものだ。輩出するのは高級官僚や大企業の役員ばかり。新鮮で活きのいい起業家など生む土壌がない…はずだった。それがここにきて変わってきた。東大出身者が次々とベンチャー企業を立ち上げ始めた。その理由は何か。彼らの強みはどこにあるのか。

2年続けて上場企業が誕生

6月11日、東証マザーズにペプチドリームという会社が上場した。独自の創薬開発プラットフォームを駆使し、国内外の製薬企業と共同で新薬の開発を行っている会社で、取引先には第一三共、田辺製薬、ファイザー、ノバルティス、グラクソスミスクラインなど錚々たる顔ぶれが並ぶ。今年1月には「日本バイオベンチャー大賞」も受賞している注目企業だ。

ペプチドリームの本社所在地は、東京都目黒区駒場4-6-1 東京大学駒場リサーチキャンパスKOL4階。つまり東大駒場キャンパスの中にある。

駒場リサーチキャンパスには先端科学技術研究センターがある。当然、ここは東大の施設である。

ユーグレナの本社は東大キャンパス内のアントレプレナープラザにある

ペプチドリームは、同社の社外取締役を務める菅裕明氏の技術がベースとなっており、菅氏は東京大学大学院理学系研究科教授を務めている。そこで本社を駒場キャンパス内に置くことになったのだが、東大は同社に対して場所を提供しているだけでなく、東大がつくったベンチャーキャピタル(VC)を通じて出資も行っている。まさに東大発ベンチャーである。

ユーグレナも東大キャンパス内に本社を置く企業である。同社はミドリムシの大量培養に成功、その技術をもとに、栄養価の高い食品を製造・販売する。また将来的にはジェット燃料の国産化を目指す。自給率の低い食糧やエネルギーを、日本国内でつくろうと取り組んでいる。同社も昨年12月に上場を果たした。

ユーグレナの本社所在地は、駒場キャンパスではなく本郷キャンパス。春日通りにつながる龍岡門のすぐ近くにある東京大学アントレプレナープラザというビルの中に、本社と研究室を置いてある(実際の本社機能は飯田橋のオフィスにある)。社長の出雲充氏は東大農学部の卒業生。東大発ベンチャーと聞かれて真っ先に名前が挙がるのが同社である。

1990年代まで、東京大学出身者は起業家になれないと言われていた。実際、リクルート創業者の江副浩正氏(別稿参照)を除くと、成功した起業家はほとんどいなかった。戦後の日本をつくったソニーもホンダも、最近ではソフトバンクも楽天も、創業者はみな非東大出身者だ。

理由は簡単だ。以前の東大生は、自分で起業することなどまったく考えていなかった。

「もっとも優秀な学生は霞が関で官僚になって国を動かす。そうでなくても大企業に入ってその会社を動かす立場になる。それが当たり前でした。起業するのは落ちこぼれか、よほどの変わり者です」(60代の東大OB)

これでは東大生の中から起業家が育つはずもない。

ところがここにきて、東大出身起業家が話題になるようになった。下の表は、主な出身者を列挙したものだが、ここに掲載した以外にも数多くの起業家が生まれている。この20年ほどで、東大生のメンタリティは大きく変わってきたようだ。

「もちろん官僚を目指す人はいるけれど、別にどうしてもという感じではなくなってきていますね。大企業にしても、安定感は魅力ですけど、日本航空だってつぶれる時代です。いくらいまの業績がいいからといって、それが絶対ではないことはみんな知っています。だったら、可能性を感じるところなら小さくても構わないという友人は珍しくはありませんし、いつかは自分で会社を立ち上げたいという人もけっこういますよ」(現役東大生)

バブル経済崩壊前と後では、日本の姿は大きく違っている。崩壊前までの土地神話は、いまでは言葉としてさえ聞くことがなくなった。「寄らば大樹の陰」という言葉はいまでもよく聞くが、この言葉を発した人間も、大樹の根が腐っているかもしれないことを常に意識するようになった。少なくとも大樹だからといって盲信してはいない。

かつて、官僚や大企業へ進む道はローリスク・ミドルリターンだった。仮にたとえ出世はできなくても、定年まで安心して勤めることができるし、年金も中小企業よりははるかに条件がよかった。大成功とはいえなくても、満足できる人生が約束されていた。しかし、いまやその保証はない。

それが東大生の意識を変えた。

「リスクを取りたくないというメンタリティはいまも昔もそう変わらないと思います。でもリスクとリターンのバランスを考えたら、大企業に勤め続けるばかりが正解ではないという気はしてきますね」(同)

しかも90年代と比べると、資金調達もIPOもはるかにたやすくできるようになった。かつてのベンチャーといえば、創業期は運転資金の調達にひと苦労、株式を公開するまでには20年近くが必要だった。それがVCも充実し、新興市場の誕生でIPOまでの時間も大幅に縮小された。金銭面での苦労は、昔に比べればはるかに少なくてすむようになっている。リスク嫌いが多い東大生にとって、起業のハードルはどんどん低くなった。

このようなさまざまな要因が積み重なったことで、東大出身起業家が増えてきたと言えるだろう。

大学側も積極支援

もう1つ重要なのは、学生の側だけでなく、大学側もまた、ベンチャー育成に本腰を入れるようになったことである。

ユーグレナの本社が入っているアントレプレナープラザ。その隣に産学連携プラザという建物がある。ここに入っている産学連携本部が、東大のベンチャー支援の総本山だ。

かつての東大生が、国を動かすことを目標にしていたのと同様、東大そのものも、国家を支える人材の養成をその使命と任じていた。しかしいまでは、新産業を創出し、社会を変える起爆剤となる大学発ベンチャーを育成することも、大学の重要な役割だと認識するようになってきた。

もともと大学発のベンチャー起業を育てようという動きは、欧米から始まった。その結果、学生の側も大学卒業後、社会の歯車となるよりは、リスクをとってでも自ら会社を立ち上げようとする動きが加速していった。彼らにしてみれば、安定しているからという理由で公務員や大企業に勤める人間は、人生を半分捨てているように見えるようだ。

その流れが、2000年代に入って東大を動かした。

東大のベンチャー育成は、前述の産学連携プラザと、VC機能を持つ東京大学エッジキャピタル、知的財産のライセンス業務などを手がける東京大学TLOの3者が連携して行っている。冒頭のペプチドリームに出資したのも、エッジキャピタルだった。

弱点は貧弱なネットワーク

ベンチャーが立ち上がるまでにはビジネスプランの設定から始まって、事業資金や人材の獲得、マーケティングなど、数多くの課題がある。それを、3者が連携することで、支援していこうというわけだ。またユーグレナのような研究開発型のベンチャーには、そのための機材やスペースも必要になる。そのために、アントレプレナープラザを開設した。まさに至れり尽くせりといっていいほどの充実ぶりだ。

またそれだけではなく、さまざまな場で起業家精神を養おうというカリキュラムが組まれている。

たとえば今年で9期生を迎えた「アントレプレナー道場」もそのひとつだ。これは初級、中級、上級、海外の4コースにわかれていて、初級の場合、「起業・事業化とは何か」をテーマに、5回にわたって講義が行われる。中級なら「起業・事業化を構想する」となる。

上級となると「起業・事業化プランを策定し社会に問う」となり、社会人メンターがアドバイザーとなって、最後はチームごとに事業化プランを発表し、優秀なプランを表彰する。そして海外コースでは、北京大学の学生起業家と交流するプログラムが組まれている。

初級から上級までを受講するのに要するのは半年だが、これを学ぶことで、起業に必要なほとんどのノウハウを身に付けることができる(ただし初級から中級、中級から上級へ進めるかは提出したビジネスプランの評価による)。

過去8回の道場には、1400人が受講登録し、192人が修了。修了生の中からは約20人、受講生からは約50人が実際に起業したというからかなりの確率だ。

このような取り組みは、受講者だけにとどまらず、東大生の意識そのものを変える効果がある。

「少なくとも身の回りに起業しようという友人がいるだけで、自分の進路を改めて考えるきっかけになる。かつてのように起業しようと言ったとたん、白い目で見られることも、いまはなくなりましたからね」(前出・東大生)

惜しむらくは、そうした意識の変化が現役東大生の間でしか起きていないことだ。

次頁からのインタビューでも何人かが指摘しているが、東大生はOB同士のつながりが薄い。それもあって、東大出身者が起業したところで、同窓だからという理由で助けてくれることは、あまり期待できないという。

これが慶応OBで組織する三田会だと、あらゆるところにネットワークが張られ、同窓生のベンチャーを支援してくれる。この差は無視できないほど大きい。

それでも、東大発ベンチャーが少しずつだが増え続けていることは間違いない。冒頭に紹介したペプチドリームやユーグレナは、東大発ベンチャーが上場したというだけで話題になった。裏を返せば、いまだに東大発ベンチャーに奇異の目が寄せられていることの証である。これが騒がれなくなった時に始めて、東京大学の起業家育成が本物になったということだろう。

特集一覧

このページのTOPへ

© 2013 WizBiz inc.

 
 

特集記事

Home
   

本社所在地は東大キャンパス
ミドリムシが世界を救う

東京大学のベンチャー支援制度を最大限活用したのが、昨年上場を果たしたユーグレナだ。ユーグレナとは水田や水たまりなどで普通に見ることのできるミドリムシの学名。同社はこのミドリムシを使って、栄養価の高い食品を製造している。最近では、バイオ燃料への応用研究も進められており、世界の食糧問題とエネルギー問題を解決できるのではと期待されている。出雲充社長(33)に、ベンチャー企業にとっての東大のメリットを聞いた。

大学内で24時間研究開発

ミドリムシ色のネクタイを愛用する出雲充・ユーグレナ社長。

―― ユーグレナは東大発ベンチャーの代表として知られていて、いまでも、東大キャンパス内にあるアントレプレナープラザに本店と研究所を置いています。
出雲 あの施設がなければ、いまのユーグレナはなかったでしょうね。アントレプレナープラザは、東京大学の130周年記念事業の一環として、研究所が必要なベンチャー企業を大学として応援してあげようということで誕生した施設でした。

IT系のベンチャー企業はパソコンとインターネットさえあればすごいものがつくれるかもしれません。でもわれわれのような研究開発型ベンチャーは、研究所がなくては何もできません。ですから、この施設は本当にありがたかった。施設誕生と同時に入居して研究開発を行い、1年後には商品の販売にこぎつけました。

―― それまではどこで研究していたんですか。
出雲 農学部の研究室の中に間借りするような形で、ミドリムシの培養の研究を行ってきました。当然のことですが、研究室では先生の研究が最優先されます。われわれは、先生が使ってない時に機械を使わせてもらいながら研究を続けてきましたから、時間的にも制約がありました。

でもアントレプレナープラザができたことで、24時間、いつでも使えるようになりました。こんな幸運なことはなかったですね。誰に気兼ねをすることなく、昼夜を問わず研究開発ができる。実際、入居してしばらくはずっと泊まり込んで研究していましたし、いまでも基礎研究などは、そこで行っています。

―― 昨年には株式を上場、さらにはつい最近、全国に「麻布茶房」など全38店を展開する「甘や」の寒天とところてんのすべてにミドリムシが入ることになりました。業績も順調なようですね。
出雲 おかげさまで上場して以来、多くの企業が話を聞きたいと言ってくれています。麻布茶房さんの話も、その1つです。何より、期間限定ではなく恒常的にミドリムシ入りの商品を提供していただけるのがありがたいですね。

―― 出雲さんは昔から起業しようと考えていたんですか。
出雲 まったく考えていませんでした。私は(東京郊外の)多摩ニュータウン育ちですし、父はサラリーマン、母は専業主婦という家庭で育ちました。将来の仕事は公務員かサラリーマンしかないと思っていました。そのうち公務員なら、多摩市役所か、霞が関か、国連本部などに勤める国際公務員の3つのうち、国際公務員がいいな、というくらいの思いでした。

オフィス入り口にはミドリムシの入ったフラスコが。

東大教養学部から国連に勤めている人がいるらしいと聞いて、私もそのルートを進もうと考えていましたし、大学1年の時にバングラデシュに行ったのも、どういう現場で働くのかわかっていたほうがいいと考えたためです。

ところが、バングラデシュで栄養失調に苦しむ人を見てからというもの、栄養価の高いものを贈れば、バングラデシュの人たちは喜ぶに違いない、そういう仕事をしたいと考えるようになったのです。

栄養価の高い食べ物を知るには教養学部より農学部のほうがいいと考えて転部し、何がいいか聞いたところ、ミドリムシがいいと教えてくれたのが、その後、ユーグレナを一緒に立ち上げることになる鈴木健吾(取締役研究開発担当)でした。

ミドリムシには成人の必須アミノ酸すべてを含む59種類の栄養素が含まれています。これを大量培養することができれば、世界から栄養失調をなくせると考えました。

ただ当時は、培養技術が確立していなかった。そのため、鈴木は研究室に残って研究を続け、私は東京三菱銀行(当時)に入り経営の仕組みや資金調達の手段を学ぶことにしました(2002年入行)。大量培養に成功したのは05年。そこで私は銀行を辞め、ユーグレナを設立したのです。

弱い人的ネットワーク

―― 東大を卒業し、日本一の銀行に入ったのに、うまくいくかどうかもわからないミドリムシのためにそこを辞めるというのだから、周りは反対したのではないですか。
出雲 賛成した人は誰一人としていませんでした。正直いうと、これほどまでに応援してくれないということは、無謀なことなのではないかとも思いました。でも20歳の時からずっとミドリムシの食品をつくりたいと思っていたのだから、やってから考えようと。

―― ずいぶんとリスキーな生き方ですね。
出雲 とんでもない。リスクを取りたいなんて考えたこともないし、もともと起業家になりたいとも思っていませんでした。

その時の私にしてみれば、ミドリムシをやらないことが最大のリスクだったのです。

だって目の前にミドリムシがあるんですよ。その大量培養技術を確立した。これを使えば世界を救うことができる。世界中から栄養失調で苦しむ人をなくすことができるんです。こんなに面白いことはないじゃないですか。やらないほうがおかしいですよ。

―― しかもそのタイミングで東大がベンチャー支援に力を入れることにしたのも、運命論的に言えば必然だったのかもしれませんね。
出雲 そうかもしれないですね。アントレプレナープラザができるというので、東大の産学連携本部に連絡、審査のうえ、入居できたのですから。

―― 出雲さんは東大発ベンチャーの代表です。起業家としての立場から、東大のメリット、デメリットを教えてください。
出雲 率直にいえば、いろんなファシリティが充実しているのは事実です。他の大学にはなく、東大にしかない機械もたくさんあります。夏休みになると、地方の大学の先生が、東大の設備を使いにくる。東大生はそういうものを、ふつうの空き時間に使えるわけですから、その点では恵まれています。アントレプレナープラザにしても、非常に有意義な施設だと思います。

ただ、ベンチャーが生まれやすい大学かというと、そうでもないかもしれません。というのも、ベンチャーを積極的に応援してくれるようなカルチャーが、東大にはあまりありません。人的なネットワークにしても、慶応大学の三田会のほうがはるかに強い。その点はデメリットなのかもしれません。

(聞き手=本誌編集長・関慎夫)

特集一覧

このページのTOPへ

© 2013 WizBiz inc.

 
 

特集記事

Home
   

同期の起業家は「ゼロ」
価値観を共有できない東大生

マネックスグループ社長・松本大氏の経歴は異色だ。開成高校から東京大学法学部を経て、1987年当時、新卒としては珍しい米投資銀行のソロモン・ブラザーズへと進んだ。90年にゴールドマン・サックス証券に転じると、94年30歳の時に最年少でゼネラル・パートナー(共同経営者)に就任している。

99年にマネックス証券を起業した際には、「10億円を捨てた男」として話題になった。ゴールドマン・サックスのストックオプションを有しながら、その株式公開を待たず、99年の株式売買委託手数料自由化に合わせて退職、起業したからだった。いまやオンライン証券としてグローバル展開するようになったマネックスグループだが、松本氏は「東大卒が自らのキャリアにおいて影響を及ぼしたことはない」と言い切る。外資系金融を経験したからこそ感じる松本氏の東大観とはどんなものなのだろうか。

外資系金融に就職

―― 東大法学部生の進路と言えば、官僚や弁護士、または超大手企業などが浮かびます。松本社長はなぜ異なる道を選んだのでしょうか。
松本 もともと私は、断崖絶壁の脇を通るような狭い峠道をクルマで行くならば、他人の運転では行きたくないタイプなんですよ。他人の運転では嫌で、自分でハンドルを握り、運転します。

東大からの協力要請には「できる範囲で何でもする」と語る松本氏だが、道の険しさも指摘する。

大学を出る時に、私は官僚や大企業が自分に向かないと思いました。なぜなら官僚や大企業は、上司に恵まれなければ何ともならない、個人としての自分をなかなか見てもらえない、コネであったり上司との関係であったり、自分の努力や実力以外のところでキャリアが決まっていく。そういう部分が多いのではないかと思い、それは自分に取れる選択肢ではなかった。

当時、噂によると外資系の金融というのは、実力の世界らしいと。うまくいかないかもしれないけれど、自分が原因だったらあきらめもつきます。自分以外の要因で物事が決まっていくのは嫌だ。そんなリスクは取れない、という理由でした。いまでこそ、外資系証券などは有名になりましたが、当時は完全にドロップアウトのイメージ。私がソロモン・ブラザーズに行った時は、実質新卒第1期生でした。他人は「リスクを取るね」と言いますが、自分としては違う。リスクを排除した結果の選択だったんです。

私自身、外資系企業に行くことは、もともとは考えていなかったんです。ゴールドマン・サックスを辞めて起業する時も、起業しようと考えていたわけではありません。どう考えてもオンライン証券はこれからの時代に重要になってくると思い、会社に提言してきたわけですが、インターネットやリテールはゴールドマンでは関係ないと言われまして、やむにやまれず、仕方がないから会社を作ろうかと(笑)。

―― 同級生の進路はどうでしたか。松本社長のほかに起業した人はいるんでしょうか。
松本 いないですねえ。私は法学部だったんですが、官僚とメガバンクが多い。あとは弁護士とか。
小さい時からディファレントな子供で、変わっていたんですよ(笑)。東大に行けば「俺が日本を背負って立つんだ」みたいな、尖った考え方を持った奴がいっぱいいるのかと思い、それが楽しみで学校に行ったんですが、全然そうではなかった。長いものには巻かれよう的な人が多くて、それが自分としてはすごく残念でした。

逆に言えば、そういう人たちが官僚や大企業に行っているので、自分には合わないと思ったんです。自分の持ち味が出せないのであれば、そんなところに入っても仕方がない。官僚や大企業はまったく考えなかったですね。

―― 外資系金融ではいかがでしたか。東大というブランド力はあったんでしょうか。
松本 まったく関係ない。裸ですよね(笑)。ソロモンに行った時はトーキョー・ユニバーシティなんて言っても、「は?」ですよ。周りはハーバードとかばっかりですから、大学なんて関係ない。ソロモン、ゴールドマンと進んで、学歴が何かしら自分のキャリアに影響を与えたと思ったことは、1回も、微塵もない。完全にゼロです。

―― 日本でも起業家という括りでは東大卒を意識することは少ないように思います。
松本 いいか悪いかは別として、東大という大学は、卒業生のコミュニティビルディングができていない学校ですよね。同窓だから誰かに聞きに行けるとか、そういうネットワークはゼロに等しい。その点、慶應や早稲田のような私立は強い。

少なくとも、ビジネスの世界ではゼロですが、官僚の世界では、たまに、ごくまれに同窓という意識がありますね。ビジネスの世界で感じたことは1回だってありません。

共通価値観がない東大

―― ビジネスの世界に進もうと思えば、東大を卒業する必要がないと言う人もいます。
松本 そうでしょうね。あまり役に立たない。ただ、東大に入るための勉強は役に立つかもしれない。科目数が多いので、苦手なこともやる。ビジネスって、苦手なことがいっぱいあるんですよ。苦手を我慢してこなす姿勢を身につける意味はあるかもしれない(笑)。

研究をするためには役に立つものはあるんでしょうけど、ネットワークもないし、ビジネスをするにはほとんど役に立たないですよね。

―― 最近は東大にも産学連携本部ができて、「アントレプレナープラザ」も整備しているようです。
松本 周りを見て始めていると思うんですけど、根本的に難しいと思います。京都大学などは、「アンチ東大」で芯ができる。ノーベル賞は俺たちだ、みたいに。東大はそれがないから、ベンチャー支援と言っても、体を成さない。大きなムーブにはならないでしょうね。探せば東大出身の起業家はいるはずですから、そこを軸に小さいネットワークはでき得る。ですが、1つの共通価値観がある学校ではないので、先輩が後輩を助けようという動きになるかどうか。ハードルは高い。

―― 共通価値観ですか?
松本 そもそも国立の大学というのは、あまり「色」がないんです。経営基盤も教育方針も、何もかも「国立」が拠り所。創業者のいる学校は福沢諭吉や大隈重信など求心力がありますが、国立にはそれがない。私立は経営基盤に拠り所がないので、寄付金を集めるなど、自分たちで拠り所をつくらなければいけません。

私は開成高校から東大なんですが、開成のほうがすごく仲間意識が強いんです、タテもヨコも。開成は創業者もいていないようなものですし、経営基盤もない。何もないから人間たちが繋がらないと崩壊してしまいます。だからOBたちの結びつきが強くなる。私立は価値観の共有ができています。東大は成績がよければ行けるだけで、価値観の共有を求めていない。京大や一橋大には、「アンチ東大」がありますが、東大には何もない。だって校歌がない学校ですからね。応援歌だけです。そのくらい共通圏意識がない。辛口になりましたが、そういう気がしますね。

(聞き手=本誌・児玉智浩)

特集一覧

このページのTOPへ

© 2013 WizBiz inc.

 
 

特集記事

Home
   

起業=社長でなくてもいい
スペシャリストであればいい

有機野菜や青果物のネット通販、宅配を手がけるオイシックス(今年3月に東証マザーズに株式上場)。同社を創業した髙島宏平社長(39)は、横浜にある私立の中高一貫校、聖光学院から東大工学部、さらに同大大学院に進み、1998年に外資系コンサルティング会社のマッキンゼーに入社。2年後の2000年にオイシックスを立ち上げた。なぜ、大卒で就職を選択しなかったのか。キャリア観、人生観などを高島氏に聞いた。

大学院時代に「プチ起業」

―― 東大の学部時代、就職活動はしなかったのでしょうか。
髙島 いわゆるエリートのレールに乗っている自分に対する、恐怖心みたいなものがすごく強かったんです。このまま、東大卒業生によくある人生になっちゃうことへの恐怖ですね。プラス、あまり就職観というものがなくて、就活にも出遅れてしまった。インターネットに最初に触れたのは4年の頃でしたが、正直、やりたいことも定まらない感じで、気がついたらもう、就活は終盤戦。そこで大学院でも行くかと(笑)。

―― 学部時代は物理専攻、大学院では情報工学が専門でしたね。
髙島 結局、大学院時代もあまり学校には行ってなくて、代わりに仲間と立ち上げたのが「Co.HEY!」という会社で、いわば会社ごっこを始めました。とはいえ事業計画も何もなし。インターネットを使ったイベントの生中継、たとえば「世界鉱山サミット」というのがあって、これは秋田県で行われたんですが、それを全世界に配信してみたり。

ともかく、最初は遊びで始めたビジネスが面白くて、仲間と一緒に何かを達成することが非常に性に合うなと思ったんです。あとは企業のホームページづくりなども手がけていました。ただ、サークルみたいな乗りでしたから、当時は偶然うまくいっていたものの、計画性も何もないので今後、学生の延長線では大きな成功は望めないだろうなと。

―― そこでいったん、会社勤めすることになるわけですが。
髙島 マッキンゼー以外にも商社など5、6社受けましたが、商社では5年ぐらいは修業の身で下積みでしょう。そんなに時間はかけられない。マッキンゼーが、一番早く内定を出してくれたということもありますが、3年間、こき使われて密度の濃い時間を送れそうだと考えた結果、マッキンゼーに決めました。

結局、在籍期間は2年でしたが、入社後の直属の上司が南場智子さん(ディー・エヌ・エー創業者)で、一緒にIT関連企業のコンサルの仕事をさせていただきました。当時、マッキンゼーでもIT系の仕事が急増していた時期でしたので、とてもいい経験になりましたね。

大学院時代の仲間とも、「一度、ビジネスの世界で勉強してこよう」と言ってましたので、僕は僕でマネジメントを学びに行くし、システムを担当していた人間は、勉強のために日本IBMに行きました。メーカーや金融関係に行った者もいます。それぞれが、違う専門知識を身につけた上で、再び集まろうと約束したんです。

「食」にこだわった理由

―― マッキンゼーを辞める時、両親には反対されませんでしたか。
髙島 事後報告で、辞めて1カ月経ってから伝えました。ウチの両親はもともと放任主義で、「どんな選択をしてもいいけど自分で責任を取りなさい」というタイプでしたし、僕自身、他人と人生を比較しないという人生観がありましたから。

―― マッキンゼー入り後、どんな事業で起業するのかは、かなり早い段階で決めていたのでしょうか。
髙島 インターネットを使って世の中を変える仕事、というのはいろんな人が考えると思います。僕はその中で、衣食住に関わる、いわば生活に密着したビジネス、それも、あったらいいとか便利なではなく、なくてはいけないものでチャレンジしたかったんです。

ネットとの親和性で真っ先に挙がるのは旅行や金融ですが、それだけ競争も多い。その点、食分野はサプライチェーンが複雑で、生産者と消費者の距離も遠いでしょう。そこに有機や無農薬の商品で勝負すればマッチングの相性もいいと考えました。

―― 母校の東大で講演する機会もあると思いますが、後輩たちにはどんなメッセージを送っていますか。
髙島 学生の選択肢は、就職か起業かの二者択一で、起業となるとイコール社長とばかり考える人が多いんですね。中には、「起業も考えたいけど、自分は社長に向いてないから」と言って諦める人もいます。「でも、本当にそれでいいのか」と。

「早い時期に売り上げを4桁(1000億円)にしたい」と、事業拡大に貪欲な髙島宏平・オイシックス社長。

僕の場合は、最初から社長ということが念頭にありましたけど、そうじゃない選択肢もあるはずです。たとえば、起業の立ち上げメンバーになって、ファイナンスでもいいしマーケティングでもいい、何らかの部門のスペシャリストになればいいんです。

会社は社長1人では回っていきません。ほかに、大事な役回りを担う人は何十人と必要なはずです。そこで、会社がいい組織、いいチームになっているかどうかが問われるわけですから。


―― 髙島さんが起業したのは20代半ばですが、最近の若手起業家の中にも東大出身者がいます。当時と比べて、何か相違点は感じますか。
髙島 ソーシャルゲーム系を例にすれば、善し悪しではなく、昔に比べて起業が手軽になった気はしますね。起業というよりは趣味の延長からスタートみたいな。いまの若い人はネットのプログラミングができるという武器がありますから、楽しく軽やかな印象といってもいいですね。僕らの世代だと、もっと歯を食いしばってやる感じがありました。その分、事業大きくをしたい、成長したいという欲求は、僕らのほうが強いかもしれません。

(聞き手=本誌編集委員・河野圭祐)

特集一覧

このページのTOPへ

© 2013 WizBiz inc.

 
 

特集記事

Home
   

自立できない東大生に
起業ができるはずがない

エルテスは「レピュテーション対策」で評価の高い会社だ。レピュテーション対策とは、インターネット上で誹謗・中傷された時、そうした書き込みのあるサイトが検索で上位にこないようにするサービスのこと。この会社を率いるのが、菅原貴弘氏(33)。岩手県出身で東大在学中の2004年にエルテスを創業、翌年には事業に専念するために大学を中退した。思い残すことは「まったくない」という。

信用されるけど儲からない

―― 菅原さんはエルテス創業前にも、もう1社、ハードウェアの会社を立ち上げています。最初から起業家になろうと考えて東大に入ったんですか。
菅原 必ずしもそうではありませんが、大物になりたいという思いは、ずっと持っていました。

それと、地方にいる頃は、東大とはとてもいいところなのだろうという期待ばかりが膨らんでいました。ところが実際に入ってみると、それほどたいしたことはないことがわかった。でも優秀な人たちはたくさんいる。そうすると私としては、彼らを逆転してやろうという思いが湧いてくる。そのためには、彼らのやらないことをしなければならない。それが、リスクを取るという生き方です。

つまり起業であり、大学を中退して退路を断つということでした。

―― 昔に比べ、東大出身の起業家が増えているように思います。
菅原 いま東大出身の社長たち5、6人で「東大創業者の会」というのをつくって、2カ月に1度、集まっては飲んでいます。でも増えたかというとそうも思えませんね。はっきりとはわかりませんが、私の同期で起業したのは恐らく3、4人。1学年5000人ですから、けっして多くない。ただ毎年、それだけの人数が積み上がっていけば、10年もたてば増えたなということになるんじゃないですか。

―― 東大出身起業家の長所、短所というのはありますか。
菅原 長所といえるかわからないけれど、つまらないコンプレックスは持たずにすみますね。それと、東大ということで尊敬してくれる人がいることは確かです。こいつはバカではない、と思ってもらえる。

リスクを選んだ菅原貴弘・エルテス社長。

それと、金を持っている人が多い。私は一時、借金が5000万円、現金が25円しかないという時がありましたが、ゴールドマンサックスに勤める先輩に相談したところ、ポーンと1000万円貸してくれたことがありました。

デメリットとしては、東大出身の起業家の中には営業できる人が少ない。営業というのは上からガツンと言われないとできないんですね。そういう経験があまりない。

それともう1つの欠点が、マクロから入りがちなことです。たとえば世界平和の役に立ちたいなんてことを平気で言う。立派なことですが、実際にはいいクルマに乗りたいといったような、次元の低い欲求に基づいたほうがビジネスの現場では強いんです。あるいは、自分がきちんとやっているところを見せたいという気持ちが強い。だから周りからは信用されるかもしれないけれど、儲かっているかというとそうでもない。そういう傾向があるように思います。


―― アメリカでは、優秀な学生ほど就職しないでベンチャーを立ち上げる傾向があるようです。日本で言えば、東大出身者こそ起業家にならなければいけないのに、そうはなっていません。
菅原 文化の違いと言えばそれまでですが、アメリカの場合、当たった時はものすごくでかいということがあると思います。一発当たれば世界に広がる。そのぶんリターンも大きい。日本の場合、成功してもアメリカとは比較にならない。ハリウッド映画と日本映画のようなものです。ということは、起業はハイリスク・ミドルリターン、サラリーマンとしてそれなりに出世すればローリスク・ミドルリターンです。だったらどっちを選ぶのか、ということではないですか。

何より、自立できている学生が少ない。自立できないから親の価値観に縛られてしまう。リスクを取れるわけがありません。

特集一覧

このページのTOPへ

© 2013 WizBiz inc.

 
 

特集記事

Home
   

江副浩正、村上世彰、堀江貴文…
挫折した東大ベンチャーの系譜

リクルートは1兆円企業

東大史上最大の起業家は誰か――。
もしこんな質問をしたら、おそらく圧倒的支持を集めると思われるのが、今年2月8日に亡くなった江副浩正氏だ。

東大一の起業家、江副浩正氏。

1936年生まれ、東京大学教育学部に進学し、東京大学新聞社で営業の仕事を覚えた江副氏は、在学中にリクルートの前身であり、大学新聞の広告代理店である、大学広告社を設立した。60年のことである。その後、社名は日本リクルートメントセンター、日本リクルートセンターと変わり、84年に現在のリクルートとなった。

いまやリクルートの売上高は1兆492億円、営業利益は1249億円にのぼる(前3月期)。戦後、東大出身者が興した会社で、売上高が1兆円を超えたのはリクルートが初めてだ。

江副氏は88年に発覚したリクルート事件の責任を取って経営を離れるが、翌年、贈賄容疑で逮捕される。

その後、江副氏は保有株も売却、リクルートとの縁は切れた。

それでも江副氏の作った礎がしっかりしていたからこそ、事件後の一時は低迷したものの、その後再び成長路線に乗ったのだ。現に人材の採用・教育システムは、江副氏時代とほとんど変わっていない。資産を持たないリクルートにとっては人材が命。その根幹部分は江副氏がつくっている。媒体が紙からウェブに移ったものの、基本はそれほど変わっていない。

江副氏が東大史上最高の起業家というのは、規模の大きさだけではない。求人広告ビジネスという新ジャンルのビジネスを興したことに加え、リクルートを巣立った元社員たちがそれぞれ独立、各界で活躍するなど、独特の企業風土をつくりあげたこともポイントだ。

日本中にブームを起こした堀江貴文氏。

これに対し、知名度に関しては江副氏の上をいくのがホリエモンこと堀江貴文氏だ。

1972年生まれ。東京大学文科3類に合格するが、「入学したことで東大の看板は手に入れた」と中退している。在学中にホームページ制作会社のオン・ザ・エッヂを創業。これがのちのライブドアである。ライブドアはインターネットの普及とともに業容を拡大していき、同時に堀江氏の名も徐々に知られていくようになる。

全国区になったのは2004年。この年、プロ野球オリックスと近鉄が合併を発表。堀江氏は球団数減少はファンのためにならないと近鉄買収に名乗りを上げた。この行動が若者を中心に圧倒的に支持される。結果的に球団は楽天に取られるが、その過程で堀江氏の「金で買えないものはない」等の独特の発言が人気を呼び、その一挙手一投足が注目されるようになった。

95年はじめには当時フジテレビの親会社だったニッポン放送株の35%を取得。同年夏の郵政選挙では、亀井静香氏の刺客として広島6区で出馬するなど(結果は落選)、常に話題の中心に堀江氏はいた。

ところが06年1月、証券取引法違反容疑で堀江氏は逮捕される。堀江氏以外の経営幹部も4人逮捕されたことからライブドアの経営は危機に瀕する。結局、子会社を売却、ライブドア自体は韓国企業に買収され、2年前には解散した。いまでもポータルサイトにはライブドアの名前が残っているが、堀江氏が起業したライブドアは完全に消滅した。

通産官僚を経て起業した村上世彰氏。

堀江氏に続いて注目を集めたのが、村上世彰氏だ。

1959年生まれ。灘中、灘高から東大法学部へと進学した。

江副、堀江両氏が東大在学中に起業しているのに対し、村上氏の場合は通産省に入省、エリート東大生の道を歩む。通産省時代にはM&Aの法制化になどに取り組み、6年後に「ルールをつくるよりプレイヤーになりたい」と退官、村上ファンドを立ち上げる。この時から村上氏はモノ言う株主として数々の物議を醸していく。

東京スタイルの株主総会では会社側とプロキシーファイト(委任状争い)を繰り広げ、西武鉄道グループが窮地に陥った時には独自の再建案を掲げて傘下に収めようと動いた。阪神電鉄株買収を目指したこともあった。多くの会社が村上ファンドに目をつけられないことを願ったが、村上氏にしてみれば、「正当な株主還元をやっていないから正すだけ」と会社側に問題があるという認識だった。

しかし堀江氏のニッポン放送株買い占めに絡み、事前に情報を得ていながら株を購入したとして、06年6月、逮捕された。その直前、村上氏は、証券業に今後関わらないことを明かすなど、情状酌量により逮捕を避けようとしたが、叶わなかった。

それから約半年後、村上ファンドは保有するほぼすべての株式を売却し、消滅した。

以上、見てきた3人は、いずれも異彩を放ち、時代の寵児になりながらも不祥事で逮捕され、一線を退いた東大出身の起業家だ。

89年に逮捕された江副氏は、14年間にわたって一審で争い続けた。

結局、有罪判決が下るのだが、懲役3年、執行猶予5年と、猶予付きだったために控訴せず、判決は確定した。

いちばん厳しい判決が下ったのは堀江氏だ。一審、二審ともに懲役2年6月の実刑判決。堀江氏は上告するが棄却され、11年4月、判決は確定した。同年6月に収監、今年3月に仮釈放となり、2年ぶりに社会復帰をはたしている。

逮捕前、一時はインサイダー取引を認めていた村上氏は、裁判になると全面否認に転じるも、一審、二審ともに有罪判決。村上氏は上告したが、11年6月、最高裁は上告を棄却、懲役2年、執行猶予3年、罰金300万円、追徴金11億4900万円の判決が確定した。

しかし3人が3人とも、有罪判決を受けた程度で大人しくしているようなタイプではなかった。江副氏の場合は、仕手筋話が出ると、すぐにその金主として名前があがるなど、亡くなる直前まで生臭さが消えることはなかった。堀江氏は3月に仮釈放されるや、たちまちメディアで引っ張りだこだ。その一方でロケット事業にも関心を示すなど、事業欲は衰えていない。村上氏はメディアに登場することはなくなったが、拠点をシンガポールに移し、いまでも投資家として存在感を示している。

3人のビジネスセンス、我の強さ、したたかさは、いずれも「リスクを取らない」と評価されがちな東大生のイメージとは相いれないものだ。しかしだからこそ彼らは異彩を放っている。他稿でも触れているように、東大生気質も少しずつだが変わってきた。第2、第3の江副、堀江が出てくる可能性もあるはずだ。そうすれば、日本経済ももう少し活気づくような気がしてならない。

特集一覧

このページのTOPへ

© 2013 WizBiz inc.

 
 

特集記事

Home
  

東大に負けていられない
京、早、慶のベンチャー支援

大学発の電気自動車

「トミーカイラZZ」という国産スポーツカーがある。1995年に開発され、200台強が生産された。モノコック製の軽いボディに2000ccを積んだ車体のシャープな走りはいまでもファンが多い。

この外装はそのままに、エンジンの代わりにモーターを積んだトミーカイラZZ・EVが今年、発売された。製造・販売するのはグリーンロードモーターズという企業で、京都大学キャンパス内に本社を持つ、京大発ベンチャーだ。

この特集の冒頭で、東京大学のベンチャー支援制度を紹介したが、そのような取り組みは東大の専売特許ではない。グリーンロードモーターズも、京大のベンチャー支援を受けた1社である。

京大のベンチャー支援システムは東大とよく似ている。産官学連携本部を軸として、イノベーション・マネジメント・サイエンス研究部門という組織が、教育プログラムやコンサルティングを行う。また京大の持つ技術を、民間企業によって事業化することにも積極的に取り組んでいる。

さらには京大ベンチャーファンドを立ち上げ、京大教員や大学院生、卒業生などが設立したベンチャー企業、京都大学と関連のあるベンチャー企業などに投資している。今年1月現在で、投資先は18社。メガソーラー事業を行うリサイクルワン、創薬のファルマエイトなどがその対象だ。

京都大学に負けじとベンチャー支援を行っているのが大阪大学だ。阪大では、産学連携本部総合企画推進部が、その任にあたる。阪大発ベンチャーの数は、国立大学の中では東大に次ぐほどの実績がある。

このほか、筑波大学、東北大学、九州大学、東京工業大学、北海道大学なども、ベンチャー支援に積極的に取り組んでいる。

慶応大学は湘南藤沢キャンパスを中心にベンチャー支援を行っている。

私学でも変わりはない。

たとえば慶応大学の場合、湘南藤沢キャンパス(SFC)内に起業家育成施設として「慶應藤沢イノベーションビレッジ」を開設している。これは、大学発のシーズの事業化を支援する施設であり、学生、大学研究者による起業、大学連携により起業を目指す中小企業や、第2創業を目指す中小企業を支援する。

その特徴は、大学だけにとどまらず、中小企業基盤整備機構、神奈川県、藤沢市、経済産業省までもがサポートしていることだ。大学、支援機関、地域が一体となって連携することで、ベンチャー支援がそのまま地域支援にもつながっている。キャッチフレーズが「革新的起業家を輩出する場の創造 クリエイターズ梁山泊」というところからも、その意気込みがわかるだろう。

実際イノベーションビレッジには、数多くのベンチャー企業が入居し、研究・開発を続けている。

慶応大学は、知的資産を元にしたベンチャー創造にも積極的だ。その代表例が、シム・ドライブ。この会社は、電気自動車(EV)開発を手がける会社で、慶応大学の清水浩教授が開発した、「コンポーネントビルトイン式フレーム」(シャーシ部分にバッテリーを配置)と「インホイールモーター」(各タイヤの内側にそれぞれモーターを設置して制御する)を装備したEVを開発している。これまですでに3台のEVを試作したが、毎回、この事業に数10のメーカーが参加するほどの盛況ぶりだ。ここでのノウハウを元に、全く新しいタイプのEVが誕生するのもそう遠い先のことではないだろう。

最年少社長は早大発ベンチャー

早稲田大学のベンチャー支援でリブセンスが生まれた。

早稲田大学も負けてはいない。

昨年10月1日、リブセンスという求人情報サイトを運営する会社が東証1部に上場した。その時、リブセンスの村上太一社長は25最。史上最年少での1部上場となった。このリブセンス、早稲田大学インキュベーションセンターに入居していた。

同センターは、ベンチャー企業を支援のために2001年に誕生した早稲田大学インキュベーション推進室が運営するもの。施設は早大キャンパス内に設置されており、オフィススペースや会議室を備える。ここに入居したベンチャー企業は、施設を利用できるとともに、専門家の経営相談サービスも受けることができる。リブセンスはすでに退去したが、現在も7社のベンチャー企業が入居している。

さらにこのセンターを利用した、インキュベーションコミュニティという制度もある。会員になると、同センターの共用スペースや会議室、プリンタや無線LANなどを無料で利用できる。さらには郵便の受け取りや個別のロッカーでの書類保管も可能だという。しかも会費は月額1万円。レンタルオフィスを借りるのさえ負担な創業間もないベンチャーにとって使い勝手は非常にいいようだ。

このほか早大には、有志が結成した起業研究会などもあり、セミナーやビジネスモデルコンテストなどを開いてバックアップをしている。

以上見てきたように、各大学はそれぞれベンチャー支援に力を入れるようになった。そこには経産省が01年に「大学発ベンチャー1000社計画」を発表したことも影響している。これは02年から04年までの3年間で大学発ベンチャーを1000社設立しようという計画だったが、実際には1099社のベンチャー企業が誕生している。この頃が大学発ベンチャーのひとつのピークだった。

ちなみに大学別にベンチャー設立累積数を比べると(09年度末現在)、1位は151社の東京大学だった。2位以下は早稲田大学(111)、京都大学(81)、大阪大学(81)、筑波大学(80)、東北大学(68)、九州大学(60)、東京工業大学(56)、慶応大学(52)、北海道大学(47)で、以上がベスト10である。(「産学官連携データ集」より)

気になるのは、各大学ともここ数年、設立件数が減っていることだ。年度別設立件数をみると、04年度、05年度は252件。しかしこれをピークに減り始め、06年度210、07年度166、08年度90、09年度74と急落している。

また設立はしたものの、清算、廃業、解散、倒産、休業するところも増えており、これまでに設立された累計2000社のうち、約1割が現在は活動していない。

リーマン・ショックに伴う世界不況がこういうところにも影を落としていることがわかる。不況は学生をより保守的にする。

しかし日本経済の活性化には、若い起業家の活躍が不可欠だ。それだけに大学のベンチャー支援に対する期待は強まるばかりである。また大学発ベンチャーでなくても、アントレプレナーシップを持った学生を輩出することは、これからの大学にますます求められるようになってくるはずだ。

特集一覧

このページのTOPへ

© 2013 WizBiz inc.

 
 

インタビュー

辻 慎吾 森ビル社長に聞く

東京の新ランドマークになる「虎ノ門ヒルズ」の狙い

辻 慎吾 森ビル社長

つじ・しんご 1960年9月9日生まれ。広島県出身。85年横浜国立大学大学院工学研究科修了。同年森ビル入社。2001年タウンマネジメント準備室担当部長、06年取締役、08年常務、09年副社長、11年6月から現職。趣味は温泉巡り。最近も箱根・仙石原へ出かけた。ドライブ帰りに御殿場のプレミアムアウトレットに立ち寄ることが多いという。写真正面奥の左手が虎ノ門ヒルズ。

今年4月、森ビルが手がけた六本木ヒルズが10周年の節目を迎えた。前後して、三井不動産も近隣の東京ミッドタウン(2007年開業)内の商業テナントを大幅入れ替えし、六本木エリア周辺が再び賑わっている。そして、今後の目玉は来夏にも竣工予定の「虎ノ門ヒルズ」(森ビル)。ビルの高さもワンフロアの広さも六本木ヒルズに並ぶものとなり、東京都心部の新しいランドマークになりそうだ。そこで、森ビルの辻慎吾社長に、虎ノ門ヒルズへの思いから他エリアの複合再開発、シンガポールや上海など海外との都市間競争、などを聞いた。

故・森稔の思い入れ案件

―― 虎ノ門ヒルズは森稔さん(森ビル元社長、故人)の著書(『ヒルズ 挑戦する都市』朝日新書)の最終章でも触れていて、「これまでたくさんのヒルズを創ってきたが、ひとつとして同じものはないし創らない。新たなヒルズの都市モデルが出現するだろう」と述べており、思い入れも強いプロジェクトです。ビルの真下を、整備中で道路幅の広い環状2号線が通るという意味でも注目を集めています。

 もともと、虎ノ門ヒルズ周辺が森ビルのスタートの地ですからね。環状2号線、通称マッカーサー道路も1946年に都市計画されながら、ずっと実現しないままでした。言われるように、この道路と建物を一体にして作っていくのがものすごくチャレンジングです。

森稔も、すでに体調が良くない状態だったにもかかわらず、「どうしても行くんだ」と言って、虎ノ門ヒルズの地鎮祭に出席したほどですから。残念ながら竣工を見届けることができずに亡くなりましたけど、このプロジェクトは、今後の再開発の中でも相当重要なもので、都市開発のモデルケースになるでしょう。

元来、虎ノ門エリアは、官庁街の霞が関に隣接したオフィスゾーンとして、非常にいいポジションだったわけです。昔はまず丸の内と大手町、次いで、その近くということで虎ノ門、霞が関が注目エリアでした。でも、いまはどうかというと、虎ノ門界隈に点在する個々のビルも小さいし、どんどん老朽化しているんですね。力のあるテナント企業なら、いまでは六本木エリアのオフィスビルに入居されています。このエリアにはヒルズにミッドタウン、住友不動産さんの泉ガーデンタワーもあり、少し離れて我々のアークヒルズもありますし。

ですから、虎ノ門ヒルズの開発を核に再び虎ノ門エリアのポテンシャルが上がっていけば、該当エリアのみならず、東京全体にとってもいい。単なる1棟の大型ビルプロジェクトではなく、もっと大きな意味合いを持つと思います。とはいえ、虎ノ門ヒルズが1棟だけ、ポツンと建っているのではどうしようもない。そこで、隣接する、我々が持つ(第○△森ビルなどの)ナンバービルも再々開発していきます。そうすることで、虎ノ門エリアがもう一度、面展開として復活していくのです。

―― 森稔さんは「バーティカル・ガーデン・シティ」(垂直の庭園都市)という開発コンセプトを軸にして、不動産業界では異能ぶりが際立っていました。

 森は亡くなる前の1年間ぐらい、「世界の都市間競争に勝つためには、都市のグランドデザインが必要だ」と言い、六本木ヒルズから新橋、虎ノ門、神谷町あたりを含めた500ヘクタールのグランドデザインを描こうとしていました。都市とはこうあるべきで、こう創るべきだという思想を強く持っていたし、亡くなるまで365日、そればかり考えている人でした。いま、ようやく「都市間競争」という言葉が定着してきましたが、彼はもう、20年前からその言葉を使っていたのです。

そういう森ビルのDNAが好きで入ってきた社員が多いので、森ビルイズムの継承では、社員を信じています。「何々不動産らしくやろうぜ」というのはなかなか言えないことですが、そこはやはり森ビルらしくありたい。もちろん、ビジネスですからいいものを創りたいし、されど資金は要るしで難しいところもあります。森の個性を薄めたほうがいい部分もあるかもしれないですけど、とがった部分は絶対になくしてはいけないと思います。

―― ナンバービルの再々開発は、構想としてはどのあたりまで具体化していますか。

 その前に、虎ノ門ヒルズに隣接する南側と北側の敷地も、すでにプロジェクト化しています。ナンバービルの再々開発はたぶん、その後にやることになるでしょう。ともあれ、虎ノ門は大事な戦略エリアですし、大きなポテンシャルもあるということです。社員にも言っているのは、これから東京が国際新都心としてのポジションをつかみ、世界中からヒト、モノ、カネが集まるようにしなければいけないと。

また、そうならない限り、東京は世界の都市間競争に敗れてしまうんです。国際新都心になっていくには、もっと海外の企業を呼び込み、外国人向けの病院や教育機関、文化、芸術などのインフラももっと整備しなければいけません。そこを担うのは、虎ノ門や六本木などのエリアだろうと思うのです。

大使館だってほとんど港区内にありますし、このエリアが国際新都心としての中心軸になりえるんじゃないかと。現時点では夢のような話ですが、10年あるいは20年後に、そうなれる可能性はあるし、その結果として東京がもう一度、アジアのヘッドクオーターの役割を担えるようになる。そういう意味でも虎ノ門ヒルズのエリアは重要ですね。

「国際新都心」に脱皮を

―― 外国企業を呼び込む条件として、為替は円安で追い風になっています。あとは、海外と比較して高い法人税が下がれば、もっと日本に入ってくるのでしょうけど。

 森記念財団というシンクタンクで毎年、都市ランキングというものを出していますが、東京は、ロンドン、ニューヨーク、パリに次いで4位、シンガポールが5位です。2008年から調査していて、5年間東京はずっと4位なんです。

虎ノ門ヒルズの上棟式で(中央が辻氏。今年3月1日)。

1位は、過去4年がニューヨークで、昨年ロンドンが初めてトップになりました。これは間違いなくオリンピック効果。東京は経済力では1位ですが、法人税を含む法規制や国際空港から都心までの距離、5つ星ホテルの数などで全体の評点を下げています。各項目の評点が上がるということは、その都市の魅力、磁力が上がっているということなので、人も海外から入ってきやすくなる要因になりえます。

いま、アベノミクスの中で「特区制」の推進が議論されていますが、特区なんかはわかりやすいですよね。まず特区で何かをやってみて、結果を見て、いいなら広げればいい。そういう時期に来ている気はします。いきなり全部、規制緩和していこうでは難しいのもわかりますし、まずは特定のエリアの中で規制緩和をやってみて、それでも実効がなければやめたらいいじゃないか、そう思います。

―― 東京が世界の中で都市ランクを上げる上で、2020年のオリンピック開催都市の決定(9月7日)は、1つの分岐点になりそうです。

 オリンピックをもってくれば日本の雰囲気も変わるし、いろんなインフラも整備されてきます。ロンドンも、05年にオリンピック開催が決まってから、スタジアムやホテルといったインフラを整備し、国際会議や国際イベント、文化イベントをいろいろ招致してきました。都市にはやっぱり活気が必要です。開催地が東京に決まれば、20年までの7年間でいろんなことができますし、需要も生まれてくるでしょう。

―― 六本木ヒルズの運営では、周辺の街を陳腐化させない、いわゆるタウンマネジメントのノウハウを蓄積してきました。それを、虎ノ門ヒルズでも活かしていくことになるわけですが。

 街作りは、複合ビルを作ってテナントが埋まればそれでいいということではありません。当社のコンセプトは街を創り、街を育てることにあります。これから、六本木ヒルズも50年、100年と生き続けていくわけで、10年は1つの通過点にしか過ぎません。こういう街がもっともっとできてほしいし、たとえそれがライバル企業が創ったものだとしても、相乗効果のほうが大きい。

虎ノ門ヒルズにはアンダースという、六本木ヒルズにあるグランドハイアットと同じ、ハイアットグループのホテルが入る予定です。ひょっとしたら、グランドハイアットのお客さんが取られるかもしれない。でも、都市が強くなっていく過程では、顧客争奪より相乗効果のほうが大きいのです。

六本木ヒルズではタウンマネジメントという概念でやってきましたが、虎ノ門ヒルズでは「エリアマネジメント」として、エリアで仕掛けていくつもりです。そういう意味では六本木ヒルズの1つの進化形となるプロジェクトです。

―― 六本木ヒルズ周辺では、いわば「第2六本木ヒルズ」ともいうべき計画もあります。地元地権者との交渉を含め、こちらの方向性は。

 六本木ヒルズもアークヒルズも、20年近くかかって手がけたプロジェクトですが、世界の都市間競争はもっと開発スピードが速いんです。なので、それでは勝負になりませんから、ちゃんとスケジュール感をもってやっていくということを、社員にも地権者の方々にも伝えているところです。

アジアのヘッドクオーターとして、グローバル企業が集まってくるという場をちゃんと作れる素地が六本木を含むエリアにはあるので、早く仕上げていくべきですね。再開発というのは、いろんな人を巻き込んで地権者とも共同でやっていく事業ですから当然、いろんな合意形成に時間はかかります。でも、再開発で街を“更新”していくことは、都市間競争では必要不可欠なのです。海外の競合都市に勝っていくには、香港や上海、シンガポールのように、ランドマークが必要ですから。

銀座松坂屋跡地も注目

―― ここ半年余り、アベノミクスによって、不動産市場が俄然盛り上がってきていますが。

 外国人が住むようなプレミアムな高級住宅は、円安効果もあって昨年比で2割も安く、問い合わせが増えています。基本的に日本は人口が減っていくわけですから、国策的にも、こうして外国人をどんどん受け入れていかないと。(昨年8月に竣工した)アークヒルズ仙石山森タワーも、決まったテナントは大半が外資系です。

外資系金融はリストラでオフィスのスペースを減らすところが多かったので引き合いはやや弱いですが、代わりにIT系企業などの引き合いが強くなっています。外国人は、当社が持つオフィスビルやレジデンス棟などを相当、気に入ってくれますね。六本木ヒルズはいい住環境でセキュリティも高く、買い物も便利、文化施設もエンタメもあって、ここに住んだら何もかも完結できる。

六本木ヒルズ誕生から10年が経過した。

―― 森ビルのホームグラウンドである東京・港区以外に目を転じると、今年6月30日をもって閉店した、銀座松坂屋ビルの跡地再開発が注目です。このプロジェクトには森ビルも参画しています。

 銀座については、商業地の中では独特のいい地位を得ている場所ですし、銀座エリアでは、もう今後そうないくらいの大型再開発になります。これまで、デパートの建て替えはあっても、道路を隔てた裏の敷地も含めて、一体でエリア全体を再開発するプロジェクトはほとんどありません。もっと言えば、これからの東京の商業施設はどのようなものがいいのかという時に、新しい提案ができる資格のあるプロジェクトだと思います。

我々が再開発のコーディネーターをやらせていただいてますけど、松坂屋さんや大丸さんとこれからの商業施設のあるべき姿の議論をして、計画の詰めをしていくということですね。銀座でもう一度、商業の楽しさを創造していく、絶好のプロジェクトになるでしょう。

もともと、六本木ヒルズの商業施設も試行錯誤があったんです。敷地内も広いし、商業施設専用ビルを建てることもできました。でも、敢えて街中の路面に店を散りばめたのです。回遊しながら買い物をしたほうが面白いという発想でした。大きな考え方の中で、将来はどうなっていくのかを読んでいかないといけません。当初、場所柄、六本木では夜の飲食以外成り立つわけがないと言われましたが、仕掛けによって全然変わることを我々は証明しました。

―― 同じ虎ノ門を拠点とする、森トラストとの協業の可能性は。

 まさにアジアのヘッドクオーターにしようとしているエリアに、お互い拠点があるわけですから、うまく連携して都市作りをしていくべきだと思っています。

森トラストが手がける、虎ノ門パストラルの跡地開発も、いい形で街が変わってくればエリア全体が良くなりますし、近隣のホテルオークラさんも開業から50年以上が経過して、そろそろ建て替えの話もあるかもしれません。それこそ、このエリア全体が特区として生まれ変わっていければ一番いいですね。

(聞き手・本誌編集委員・河野圭祐)

このページのTOPへ

© 2013 WizBiz inc.

 

経営戦記

企業売買を手がけて30年 日本でM&Dを始めた男

安田育生 ピナクル社長

やすだ・いくお 1953年京都府生まれ、77年一橋大学経済学部を卒業し日本長期信用銀行入行。ニューヨーク支店時代にM&Aと出会う。90年に帰国後、M&A部に配属され、数々の案件を手がける。97年GEインターナショナルマネージングディレクター事業開発本部長、99年リーマン・ブラザーズ在日代表就任。04年にピナクルを設立、会長兼社長兼CEOに就任した。

いまやM&Aは日常茶飯に行われるようになった。しかしその言葉が広く知られるようになったのは、バブル経済華やかなりし頃。その頃からM&Aに携わっていた、日本における草分けとも言えるのが、ピナクル社長の安田育生氏。M&A歴30年の安田氏に、M&A哲学を聞いた。

一番手より二番手

〔ピナクル社長の安田育生氏は、日本のM&Aの草分けとして知られている。具体的な社名を記すわけにはいかないが、数多くのM&Aの仲介を行ってきた。安田氏のM&A人生の原点は、一橋大学を卒業して入行した日本長期信用銀行にある〕

昔から、エスタブリッシュメントが嫌いなところがあって、ナンバー2のところへ行って、ナンバー1を目指すというのに関心があって、長銀を選びました。入行は1977年ですが、当時の興長銀というのは人気があった。安定もしていた。その程度の軽い動機で選んだのですが、トップの興銀(日本興業銀行)には興味がなく、二番手の長銀がいいと思ったんですね。

実は大学を決める時も同じで、東京大学ではなく、二番手校に行こうと考えました。京都出身ですから、普通なら京都大学ということになるのですが、東京に行きたいという思いもあって、それで一橋を選んだわけです。

〔長銀に入った安田氏は、上野支店、大阪支店、バーレーン支店を経て85年にニューヨーク支店勤務となる。ここで安田氏は、M&Aに出会う〕

大阪支店のあと、アメリカに留学するつもりでした。ところが試験当日、体調を崩し、まさかの落第。でも人事の人が気をつかってくれて、バーレーン勤務にしてくれました。バーレーンはワーキングビザが取りやすいため、アメリカに行く前に派遣されたのです。そして1年3カ月後にはニューヨーク支店へと移ったのですが、季節は冬でしたから、バーレーンとニューヨークの気温差は50度もあった。過酷な移動でした。

ニューヨークでの仕事は、非本邦・民間企業に対する営業です。つまり、現地の米国企業に融資をするというもので、日本の銀行にとって新しい分野でした。でも、最初の3カ月はまったく仕事ができないお荷物社員でした。少々の英語力では通用しなかった。

ところがある日、「目から鱗」というか、すべてがわかった瞬間がありました。何がわかったかというと、アメリカのビジネスは徹底したパワーゲームだということです。イエスかノーか、ウィンかルーズか。強いものが勝つ。日本のような曖昧なところがない。それがわかったとたん、英語も含めてすべてが理解できるような感覚を覚えて以来、うまく回り始めました。

安田社長の座右の銘は「Expand your horizon」。

私の座右の銘は、「Expand your horizon」というものですが、ここでいう地平線とは、自分の器や経験値です。ニューヨークに行ったことで、私の地平線は間違いなく広くなったと思います。

M&Aを知ったのも、この時代です。当時はまだM&Aの仲介ではなく、M&Aに対するファイナンスでした。MBOという大変高度なM&Aファイナンスを日本人として極めて初期に手がけました。ここから私とM&Aの関わりが始まりました。

長銀からGEに

〔ニューヨークに4年半勤務した安田氏は、1990年、帰国する。ここからいよいよ、M&A人生が始まった〕

当時はバブルのピークです。ソニーがコロンビア映画を、三菱地所がロックフェラーセンターを、セゾングループがインターコンチネンタルを買うといった具合に、多くの日本企業が海外の会社や資産を買収していました。長銀でも、このニーズに対応するために、クロスボーダーを中心とするM&Aを担当する部署を立ち上げました。帰国した私はここに配属になったのです。

この頃はまだ、日本の金融機関でM&Aの仲介を行っていたのは、長銀と山一証券ぐらいのもので、外資系金融機関にしても、それほどプレゼンスは大きくありませんでした。おかげでM&A部隊は、長銀の看板部隊となり、リクルート用冊子に私の写真が使われたこともありますし、NHKや民放がM&Aを特集した番組で、私の部署の案件を特集されたこともありました。当時はM&Aが目新しかったのでしょう。

〔こうして安田氏は、日本のM&Aの草分けとして、その名を知られていく。外資系金融機関からヘッドハンティングの連絡もひっきりなしに入った。しかしこの頃は長銀にいることに満足していたので全ての誘いを断わっていた〕

90年代半ばになるとバブル崩壊の影響で、M&Aの案件が極端に少なくなりました。売りも買いもない、まるで凪のような状態でした。人事部もM&A以外のキャリアを積ませようという思いもあり、私は日本橋支店で次長となったのです。

M&Aは楽しかったけれども、もともと私は後を振り返ることがないし、新しいところへ行けば行ったで、その環境を楽しむことができる。日本橋支店では飛び込み営業もやって、ずいぶん新規顧客を獲得しました。

〔しかしバブルの後遺症は、長銀本体を蝕んでいった。安田氏も、日本橋支店以後、短いサイクルで異動していく。この間も数多くのスカウト話が安田氏に来ていたが、それでも応じようとは思わなかったという〕

私は長銀が大好きだったんです。だからいくらいい条件のヘッドハンティングの話が来ても、断わり続けていました。ところが状況が変わりました。長銀がSBCウォーバーグ証券と合弁で設立した長銀ウォーバーグ証券に行くことになったのです。ところがこの異動は、出向ではなく転籍です。いわゆる片道切符で、戻ることを前提としない異動命令でした。だったら、そこではなく、きちんと自分のヴァリューを評価してくれるところに転職したほうがいい。そう考えて入社したのがGEインターナショナルでした。

数あるヘッドハンティングの話の中で、GEのオファーはいちばん少なかった。でも私は、給料よりもGEの、ジャック・ウェルチの経営哲学を勉強したかった。そして実際、ここでの経験はその後の私に大きく役立っています。これも「Expand my horizon」でした。

GEの哲学のすごいところは、きわめて実践的で実行が必ず伴うところです。シックスシグマやワークアウトなどが数十万人の末端にまで浸透し、あの規模で業容を拡大し続けました。だからこそジャックは20世紀最高の経営者と評価されるのです。

ジャックにも何度か会いました。彼が来日した時、私は末席で行動を共にさせてもらいました。1年後、ジャックが再来日した時に、たまたまホテルですれ違いました。私は、どうせ覚えていないだろうと思って、会釈して通り過ぎようとしたのですが、いきなりジャックが、「ハイ、ヤスダサン」と声をかけてきた。この時は、もうこの人に命を預けようという気持ちになりました(笑)。

GEに入ってもう1つよかったことは、買収側として主体的買収を決定する側(それに対してピナクルなどアドバイス会社は仲介役)の経験ができたことです。その頃のGEは日本企業をどんどん買っていましたから、その時期に遭遇できてやりがいはありましたね。

〔レイクや東邦生命、日本リースはいずれも90年代後半にGEが買収した日本の金融機関である。そのすべてに安田氏が関与したわけではないというが、当時のGEは日本でも最も進出に成功した企業としての評価を受けている〕

なぜ、GEが日本で成功を収めることができたのか。それを米国商工会議所で話せというのでスピーチをしたのですが、ここには100社を超える米国企業の日本支社長が集まっていた。そうしたら何社からかお前を雇いたいと、アプローチがありました。

私はGEでの仕事に満足していましたから、すべて断わったのですが、諦めずに何度もアプローチしてきた会社が1社だけありました。当初は投資銀行本部長というポジションにスカウトしたいとのことでしたが、最後には投資銀行本部長兼務の社長としてきてくれないかと言ってきた。その瞬間、私は落ちました(笑)。やはり一度は社長をやってみたかった。その会社がリーマン・ブラザーズです。

世界一の倒産会社

〔リーマン入社は99年。安田氏は日本代表の座に2年ほど在籍したが、その後の2008年、リーマンは経営破綻、リーマン・ショックが起き、世界経済が大混乱に陥ったのはご承知のとおり〕

講演を頼まれると、こう始めることが多いんですよ。「みなさんは不吉な人間に会っている。目の前にいるのは、日本最大の倒産会社(長銀)と、世界最大の倒産会社(リーマン)にいた人間です。ただしその間に、20世紀最良の会社(GE)にいたから中和されていると思います」と。

リーマンの経営破綻はショックでした。おそらくリーマン社員も含めて誰ひとりとして、前日までつぶれるとは思っていなかったと思います。本当にボタンの掛け違いのようなことが起こり、一瞬にして破綻してしまった。結局、リーマン破綻のインパクトが大きすぎて、AIUなどそれに続く金融機関が救われることになったのです。

長銀だって、日本版ビッグバンの、シンボリックでインパクトのある出来事として選ばれてしまったと思っています。

リーマンと長銀は割の合わない理不尽な結果になったと思います。でも、こうした経験も、私にとってマイナスにはなっていないと考えるようにしています。そうした経験が必ずプラスになる。これも「Expand my horizon」だと考えています。

〔安田氏は、04年にピナクルを設立し、自らの手でM&Aアドバイス業務に乗り出したが、創業時ならではの苦労もあったという〕

リーマンを辞めた後は、50歳までに独立しよう、さらには社会のためになることをしようと以前から考えていたことを実践するために動き始めました。

ピナクルの初年度の売り上げは、リーマン時代の私の個人の年収より低かった。私の初年度年収は300万円で、社員の給料より少なかった。それでも楽しかった。海外に行く時、リーマン時代はファーストクラスに乗っていたけれど、その頃はエコノミー。でもそういう意識の中でのスケールダウンは簡単にできました。オフィスの備品も、私自身がネットオークションで落札しています。でも2年目からは軌道に乗り、最初4人だった社員は、現在20人にまで増え、設立当初のオフィスが手狭になりいまの場所に移転しました。

「急がば回れ」

〔M&Aの仲介は、多くの金融機関が手がけている。その中でピナクルは、どうやって業容を伸ばしてきたのだろうか〕

日本の大手証券や銀行、外資と勝負する必要はありません。医療機関と同じで、大病院でないクリニックでも名医を集めれば患者が来るのに似ています。ピナクルはそれなりに存在感を示すことができていると思います。

その理由の1つに、「急がば回れ」という当社の方針があると思います。M&Aの仲介というと、多くの人はマッチングサービスだと考えます。片方に売り物があって、片方に買いたい会社がある。それを結びつけてフィーをいただく。でも私は、少し違うアプローチをします。

M&Aは、どんな大会社でもビッグイベントです。デシジョンメーカーにしかできない重大決定事項です。多くはボトムアップではなく、トップダウンで決まります。そこで、私は企業のトップに会う努力をします。そしてトップと会う時は、その会社の経営戦略室長になったつもりでいろいろと差し障りのあることまで進言します。トップの方々は度量が大きいので、多少耳障りなことまで面白がって聞いてくれます。面白いことを言う奴だと思ってもらえば、次にまた会いたいと思っていただけます。

その提案が実らなくても、何かの時に私を思い出してくれるかもしれない。この案件を任せてみようかと思うかもしれない。企業のデシジョンメーカーとそういう関係を築くことが肝心です。そうなれば、ちょっとした立ち話から物事が動き始めることもある。M&A案件を持って、これを買いませんか、あれを買いませんかと言っているだけでは、そういう関係を築くことはできません。

よく若い社員から、この仕事のどこが面白いのかと聞かれることがあります。「アドバイザーだと自分で決められないから、顧客である企業側に転職して自らM&Aを決定したほうがやりがいがありませんか?」と問われることがよくあります。そういう時に私は、こう答えることにしています。

「我々は、日本を動かしている人たちを動かしているんだ」

実際、日本経済を牽引しているようなリーダーたちに多数お目にかかります。こうしたトップリーダーたちと公私にわたって触れ合うことがどれだけ楽しくて、自分の為になるか分かりません。こういうリーダーたちは間違いなく魅力的で私のホライゾンを広げてくれます。これがM&Aを業とするものの生きがいです。

どんな会社にとってもM&Aはスペシャルイベントです。そんな大事なことを、日本を代表する経営者が、私に相談してくれるとしたら、これほど男冥利につきる話はありません。偶然の結果ですが私の天職だと思っています。

(構成=本誌編集長・関慎夫)

このページのTOPへ

© 2013 WizBiz inc.

 

企業の匠

賃貸と思えぬ仕様を連発「女性目線」の商品を徹底

大和ハウス工業 取締役常務執行役員 堀 福次郎

4つのテーマを設定

レンタカーやカーシェアリング市場の拡大で、所有から利用へのシフトが指摘されて久しい。それは住宅にもいえることで、持ち家派と賃貸派の比較でも、収入や家族構成の増減によって住まいを替えやすい賃貸派が、ジワジワ増えているのだ。

賃貸住宅事業担当が長い、堀福次郎氏。

この稿で取り上げる大和ハウス工業も含め、住宅メーカーの事業には、顧客の注文を受けて建設する戸建て住宅と、地主などが家賃収入を得るための賃貸住宅とに二分される。当然、賃貸派の増勢もあって賃貸事業は各社、拡大傾向にあり、中でも大和ハウスは従来から力を入れてきた。戸建て住宅に比べると地味な存在に映りがちだが、営業利益に占める賃貸住宅事業の割合は高い。

他社との比較で言えば、たとえばへーベルハウスで知られる旭化成の賃貸住宅(へーベルメゾン)は、どちらかと言えば、東京23区内にこぢんまりとした土地を持つ地主が、3階建て住宅を作ることが多いのに対し、大和ハウスはもう少し郊外の土地のオーナーに強い。その分、敷地が広く、建物も大きい物件が多いという。

大和ハウスは近年、他社とは一味違う仕様やサービスに重点的に取り組んできた。集合住宅事業の担当が長い、同社の堀福次郎・取締役常務執行役員はこう語る。

「土地をお持ちで建物を建ててくれる方が我々の契約先だから、いままでは、いわば家主目線の商品作りが多かったんです。でも、土地のオーナーが気に入った住宅を作ったとしても、空室が多ければ家主は心配してしまう。だから、お客様はあくまで入居者なんです。入居率100%なら、当然家主も満足します。

そこで我々が着目したのが、女性目線を重視した商品企画です。女性のほうが男性より部屋をきれいに使ってくれる可能性が高いし、ご夫婦で入居される場合、家具やクルマなどと同様、決定権があるのは奥さまのほうです。ですから、女性を意識した部屋を作っていけば成約率も高くなります」

その取り組みの第1弾が3年前の2010年8月。セコムやALSOKと組んで防犯面を強化、ホームセキュリティを標準搭載した賃貸住宅を発売した。住宅回りでも、1階のベランダに干してある洗濯物が、脇の道路などから見えにくくなるよう、植栽に工夫を凝らしたりもした。こうした点は、分譲マンションでは当然かもしれないが、賃貸マンションやアパートではまだ、スタンダードとは言い難い。

「その住宅が順調で、発売から1年で2万世帯分ぐらい売れました(直近では7万世帯超え)。そこで、次は女性目線の室内にしようと考え、4つのテーマを設定した。1つはウォークインクローゼットの設置による、収納の充実です。収納スペースを、室内面積の10%以上取ることにしました。2つ目が大容量のシューズクロークで、ブーツやゴルフバッグなども、すっきり整頓できます。

3つ目が洗面化粧台を可能な限り広く取ること。女性の化粧品の平均所持数は30個だそうで、化粧台を広く取ると喜ばれます。鏡も分譲仕様に変更。さらに4つ目がバス。女性の平均入浴時間は1時間。となれば、バスタブで足を伸ばしたいでしょう。そこで、当社は供給住宅の6割ぐらいを、業界でも大きい1坪タイプである、16×16サイズのバスにしました」

今年6月からは、エアシャワーと防犯機能を備えた住宅商品を提案。

いやはや、分譲マンションでもこれだけの設備をすべて完備した物件はそんなに多くはないだろう。そうなると気になるのは家賃だが、

「ホームセキュリティを入れても

賃料は上げていません。ただし、共益費で月額2000円ぐらい上がりますが、エレベーターがあるマンションなら、共益費で月に1万円ぐらい取られるじゃないですか。ですから、まったく問題ないレベル」と堀氏。

大和ハウスの女性目線の徹底ぶりは、それだけではない。販促や広告宣伝用のカタログが一切ないのだという。では、営業マンはどうやって家主に提案し、どう消費者に訴求していくのか。

「これも業界で初めてだと思いますが、女性誌の広告誌面をお借りして、それも広告っぽくせずに、読者に抵抗感なくスッと読んでいただけるようにしました。読んでみたら、この賃貸住宅を提供しているのは大和ハウスだったのね、程度でいいのです。ですから、営業マンに持たせているのも、そうした女性誌。いま、4誌の女性誌とコラボレーションしています」

特許も申請中の新設備

そして商品面での第3弾が、今年5月末に発表した、粉塵・花粉などを吹き飛ばすエアシャワールームと防犯機能を兼ね備えた、女性に優しい住宅の集大成の商品だ。

「ヒントは、コンビニが“セーフティステーション”の役割を果たしていたことでした。たとえば暗い夜道でストーカーなどに追われ、怖い思いをした女性がエントランスに駆け込んでボタンを押すとドアにロックがかかり、同時に警備員がかけつけます。また警備会社にリアルタイムの画像が送られ、通報者と通話ができるという仕組みを開発したわけです。それと、分譲マンションではいろんなメーカーがつけている、エントランス脇のエアシャワー(大和は日立産機システム製を採用)を合体させました。

このセット設備はまだないので、特許も申請中です。花粉除去だけでなく、最近はPM2.5とか、海外から飛来してくる粉塵もあって需要は高いはずです」

大和ハウスでは、賃貸住宅の供給戸数は年間で3万戸ぐらいあるのだが、今回のシステムを装備した住宅を、順次増やしていけば社会貢献にもなり、家主にも喜ばれることから積極的に提案していくという。設置されるのは、店舗併用型の3階建て賃貸住宅商品で、付帯設備の販売価格は200万円。建物に付帯として年間500棟を販売目標とする。基本的には住人用サービスだが、防犯システムのほうは非常の際には、一般の人も利用できるという。

さて、大和ハウスの徹底した仕様やサービスの充実はわかったが、住宅ならば肝心要はハードの仕様。が、この点でもぬかりはないようだ。

「昨秋、木造および軽量鉄骨造の賃貸住宅では最高水準の床遮音性を備えた、『サイレントハイブリッドスラブ(SHS)50』を発表しました。軽量鉄骨造りは地震に強いのですが、欠点は軽いために上階の音が伝わりやすかった。賃貸入居者のクレームで一番多いのが、上下左右の音ですから。そこで当社のSHS50。いまはオプションですが、いずれは標準にしていきます」

(本誌編集委員・河野圭祐)

このページのTOPへ

© 2013 WizBiz inc.

 

月刊BOSS×WizBizトップインタビュー

荒木賢一 アーキ・ヴォイス社長に聞く

100の言語に対応する海外進出企業の強い味方

荒木賢一 アーキ・ヴォイス

あらき・けんいち 1973年神戸市生まれ。95年同志社大学文学部哲学科を卒業し、翌年京都大学大学院に入学、哲学を専攻。在学中の2002年10月に京都市内に中国語スクールを開校、翌年アーキ・ヴォイス設立した。06年には大阪事務所、07年に東京事務所を開設した。

哲学の道から一転

―― アーキ・ヴォイスは京都・大阪で外国語スクールを運営するほか、翻訳、通訳、人材派遣など言語を軸にさまざまなサービスを提供しています。でも荒木さんは、もともと京都大学大学院で哲学を学んでいたそうですね。それがどうして、このような事業を立ち上げようと考えたのですか。
荒木
 神戸で生まれて中学時代の3年間をシンガポールで暮らした私は、帰国子女枠で同志社高校に入り、そのまま大学で哲学を学ぶ学生でした。といっても、授業をほとんど受けず、音楽活動ばかりやっていました。ところが卒業を目前に控えた4年生の1月に、阪神大震災が起きたのです。

私の家の周りにも大きな被害が出て、大学に通うどころではなくなりました。それからしばらくは被災者支援に走り回る生活です。そんな生活を送りながら、本当のことは何か、を知りたくなったのです。そのために哲学をしっかり勉強したい。そう考えて翌年、京都大学大学院に入学しました。

大学院では修士課程を2年間、さらには博士課程で2年間学んでいます。1日15時間、哲学書を読む毎日でした。自分としてはそのまま研究者になりたかった。でも先輩から「このままいけば学者か乞食のどちらかだぞ」と言われたのです。博士課程を終えて大学に残ることができればいいけれど、残れなかった場合、就職先などないというのです。そこで、一度、考え直そうと、大学院を休学して、アルバイトを始めました。

―― それが外国語スクールだったのですか。
荒木
 いいえ、コンピュータ会社でした。ただ、このアルバイトをしている時に、上海に遊びに行ったのです。神戸・大阪と上海を結ぶフェリー「新鑑真号」に乗って、2日かけて上海に行き、2日滞在して、また2日かけて帰ってくる。上海には2日しかいませんでしたが、急成長する上海を目の当たりにして、これからは中国語のニーズが高まることを確信しました。

そこで中国語通訳の人材派遣をやりたいと思ったのですが、派遣業は許認可が必要です。しかたないのでまずは京都のホテルで中国語スクールを始めました。大学生活が長いですから中国語に堪能な教員や学生を集めるのはむずかしいことではありませんでした。あとは自分でビラをまいて集客したところ、100人ほどの生徒が集まりました。

これがアーキ・ヴォイスの原点で、創業は2002年のことです。

次にやったのが韓国語スクールです。折から韓流ブームが始まったおかげで、中国語以上の人気となり、生徒数は500人を突破。気が付けば、京阪ではナンバー1の中国語・韓国語スクールとなったのです。

―― 02年頃には、中国語や韓国語を教えるところはそれほどなかったんですか。
荒木
 少なかったですね。その意味で、いいタイミングで開業したことになります。

規模が大きくなると、今度は企業研修をしてくれないかという依頼が舞い込んできます。依頼者が公的な組織だったことから、それが信用となって次の依頼が舞い込んでくる。そんな感じでした。

最初は中国語や韓国語から始めましたが、そのうちほかの言語でもできないかとお客さまに言われて、対応言語を増やしていったら、05年には100言語対応が可能となりました。いまではクライアント数は3500社以上、登録している通訳や翻訳者の数は全世界で7000人以上に達しています。

海外に行く際に当社を利用していただければ、現地のスタッフが通訳やガイドを務めてくれます。いくつもの国を訪問する時も、それぞれの国で対応する。それがワンストップで申し込むことができる。こういうサービスを行っているところはあまりありません。

―― 現地スタッフも含め、どうやって人材を集めるんですか。100言語ともなると、簡単ではないでしょう。
荒木
 先ほども言ったように、その点ではあまり困らなかったですね。大学のネットワークを活用したり、現地で求人をかけたりして採用していきました。ですから創業からそれほど時間をかけずに100言語に達しています。言語の数にしても、サービスの種類にしても、お客さまのニーズに応じていたらそうなったという感じです。

面白いのは、100の言語に対応していると、どの言語の仕事が多いかによって世界情勢が見えてくることです。たとえば、少し前までは中国語のニーズが非常に高かったのですが、10年の尖閣諸島での漁船衝突事件以来、その比重は徐々に小さくなってきています。昨年まではトルコ語の仕事が多かったのですが、最近では減っています。その一方で、右肩上がりで伸びているのが、インドネシア、タイ、ベトナム、ミャンマーなどの東南アジアです。たとえばインドネシアの場合、取り扱う仕事はここ数年間で7倍にまで増えています。いまでは完全に中国を超えました。

東南アジアに商機あり

―― 東南アジアでの拠点設立に力を入れているようですね。09年にはタイのバンコクに、昨年はベトナムに拠点をつくっています。
荒木
 ええ。東南アジアの仕事に対応するため、海外拠点を立ち上げてきました。

タイでは現地の邦字新聞「バンコク週報」に出資、その会社内に当社のオフィスも置かせてもらい、シナジーが出るよう努力しています。またベトナムの拠点は、現地のパートナーとの合弁で設立したのですが、信頼できる相手を探すために、いくつかの小さい仕事を一緒にしながら、ここなら大丈夫、という相手に巡り合うことができました。

東南アジアに興味を持つ日本企業からは「現地のパートナーを探したい」という依頼をよく受けます。そういう時は、自分たちの経験をもとに、納得いく相手を見つけられるようサポートしていきます。

―― これからも拠点は増やしていく計画ですか。
荒木
 増やしていきたいですね。東南アジア各国に置けるようになれば、言うことはありません。

グローバル化の波は終わることはありません。その一方で少子高齢化により日本のマーケットはどんどん小さくなる。ですから日本企業が海外に出ていく流れはこれからも続きます。われわれはそのお手伝いをしていきたいと思います。

そのためにも、もっと使いやすいサービスを提供することが必要です。通訳とか翻訳というとなんとなく敷居が高いようなところがある。その敷居を低くして、海外に興味を持った人が、気軽に私たちのサービスを利用する。そういう会社になっていきたいと考えています。

―― それにしても哲学ばかり勉強していて、社会にあまりもまれてこなかった荒木さんが、なぜこのような経営手腕を持つことができたのでしょう。
荒木
 1つには、変な知識がないのがむしろよかったのかもしれませんね。たとえば、最初、ホテルでスクールを開いた時は、自分がそのホテルの夜勤をする代わりに、スペースをタダで貸してもらいました。何も知らないから、そういうことができたのかもしれません。

さらに、何もわかりませんから、わからないことがあったら人に聞くようにしていました。語学スクールの生徒にもよく聞きました。彼らは社会人ですから、私よりいろんな知識も経験もある。こういう時はどうしたらいいいか、その人たちに教えを請いながら、ここまできたという感じです。

哲学はいまでも好きですし、本を読んだりしますが、どうもこちらの仕事のほうが向いていたようですね。

このページのTOPへ

© 2013 WizBiz inc.