ビジネス誌「月刊BOSS」。記事やインタビューなど厳選してお届けします! 運営会社

経営戦記

「企業は人なり」――。大企業から中小企業まで、どんな企業であってもそれを動かしているのは人であり、意思決定するのは経営トップである。言葉を変えれば、どんな優良企業でも社長が変われば倒産するし、低迷企業も不死鳥のように蘇る。すなわち経営とは日々の戦いであり、経営者に求められるのは不断の努力と決断力だ。話題の企業の経営者はいったいどのような戦いを勝ち抜いてきたのか――

2013年9月号より

企業売買を手がけて30年 日本でM&Aを始めた男
安田育生 ピナクル社長

安田育生 ピナクル社長

やすだ・いくお 1953年京都府生まれ、77年一橋大学経済学部を卒業し日本長期信用銀行入行。ニューヨーク支店時代にM&Aと出会う。90年に帰国後、M&A部に配属され、数々の案件を手がける。97年GEインターナショナルマネージングディレクター事業開発本部長、99年リーマン・ブラザーズ在日代表就任。04年にピナクルを設立、会長兼社長兼CEOに就任した。

いまやM&Aは日常茶飯に行われるようになった。しかしその言葉が広く知られるようになったのは、バブル経済華やかなりし頃。その頃からM&Aに携わっていた、日本における草分けとも言えるのが、ピナクル社長の安田育生氏。M&A歴30年の安田氏に、M&A哲学を聞いた。

一番手より二番手

〔ピナクル社長の安田育生氏は、日本のM&Aの草分けとして知られている。具体的な社名を記すわけにはいかないが、数多くのM&Aの仲介を行ってきた。安田氏のM&A人生の原点は、一橋大学を卒業して入行した日本長期信用銀行にある〕

昔から、エスタブリッシュメントが嫌いなところがあって、ナンバー2のところへ行って、ナンバー1を目指すというのに関心があって、長銀を選びました。入行は1977年ですが、当時の興長銀というのは人気があった。安定もしていた。その程度の軽い動機で選んだのですが、トップの興銀(日本興業銀行)には興味がなく、二番手の長銀がいいと思ったんですね。

実は大学を決める時も同じで、東京大学ではなく、二番手校に行こうと考えました。京都出身ですから、普通なら京都大学ということになるのですが、東京に行きたいという思いもあって、それで一橋を選んだわけです。

〔長銀に入った安田氏は、上野支店、大阪支店、バーレーン支店を経て85年にニューヨーク支店勤務となる。ここで安田氏は、M&Aに出会う〕

大阪支店のあと、アメリカに留学するつもりでした。ところが試験当日、体調を崩し、まさかの落第。でも人事の人が気をつかってくれて、バーレーン勤務にしてくれました。バーレーンはワーキングビザが取りやすいため、アメリカに行く前に派遣されたのです。そして1年3カ月後にはニューヨーク支店へと移ったのですが、季節は冬でしたから、バーレーンとニューヨークの気温差は50度もあった。過酷な移動でした。

ニューヨークでの仕事は、非本邦・民間企業に対する営業です。つまり、現地の米国企業に融資をするというもので、日本の銀行にとって新しい分野でした。でも、最初の3カ月はまったく仕事ができないお荷物社員でした。少々の英語力では通用しなかった。

ところがある日、「目から鱗」というか、すべてがわかった瞬間がありました。何がわかったかというと、アメリカのビジネスは徹底したパワーゲームだということです。イエスかノーか、ウィンかルーズか。強いものが勝つ。日本のような曖昧なところがない。それがわかったとたん、英語も含めてすべてが理解できるような感覚を覚えて以来、うまく回り始めました。

私の座右の銘は、「Expand your horizon」というものですが、ここでいう地平線とは、自分の器や経験値です。ニューヨークに行ったことで、私の地平線は間違いなく広くなったと思います。

M&Aを知ったのも、この時代です。当時はまだM&Aの仲介ではなく、M&Aに対するファイナンスでした。MBOという大変高度なM&Aファイナンスを日本人として極めて初期に手がけました。ここから私とM&Aの関わりが始まりました。

長銀からGEに

〔ニューヨークに4年半勤務した安田氏は、1990年、帰国する。ここからいよいよ、M&A人生が始まった〕

当時はバブルのピークです。ソニーがコロンビア映画を、三菱地所がロックフェラーセンターを、セゾングループがインターコンチネンタルを買うといった具合に、多くの日本企業が海外の会社や資産を買収していました。長銀でも、このニーズに対応するために、クロスボーダーを中心とするM&Aを担当する部署を立ち上げました。帰国した私はここに配属になったのです。

この頃はまだ、日本の金融機関でM&Aの仲介を行っていたのは、長銀と山一証券ぐらいのもので、外資系金融機関にしても、それほどプレゼンスは大きくありませんでした。おかげでM&A部隊は、長銀の看板部隊となり、リクルート用冊子に私の写真が使われたこともありますし、NHKや民放がM&Aを特集した番組で、私の部署の案件を特集されたこともありました。当時はM&Aが目新しかったのでしょう。

〔こうして安田氏は、日本のM&Aの草分けとして、その名を知られていく。外資系金融機関からヘッドハンティングの連絡もひっきりなしに入った。しかしこの頃は長銀にいることに満足していたので全ての誘いを断わっていた〕

90年代半ばになるとバブル崩壊の影響で、M&Aの案件が極端に少なくなりました。売りも買いもない、まるで凪のような状態でした。人事部もM&A以外のキャリアを積ませようという思いもあり、私は日本橋支店で次長となったのです。

M&Aは楽しかったけれども、もともと私は後を振り返ることがないし、新しいところへ行けば行ったで、その環境を楽しむことができる。日本橋支店では飛び込み営業もやって、ずいぶん新規顧客を獲得しました。

〔しかしバブルの後遺症は、長銀本体を蝕んでいった。安田氏も、日本橋支店以後、短いサイクルで異動していく。この間も数多くのスカウト話が安田氏に来ていたが、それでも応じようとは思わなかったという〕

私は長銀が大好きだったんです。だからいくらいい条件のヘッドハンティングの話が来ても、断わり続けていました。ところが状況が変わりました。長銀がSBCウォーバーグ証券と合弁で設立した長銀ウォーバーグ証券に行くことになったのです。ところがこの異動は、出向ではなく転籍です。いわゆる片道切符で、戻ることを前提としない異動命令でした。だったら、そこではなく、きちんと自分のヴァリューを評価してくれるところに転職したほうがいい。そう考えて入社したのがGEインターナショナルでした。

数あるヘッドハンティングの話の中で、GEのオファーはいちばん少なかった。でも私は、給料よりもGEの、ジャック・ウェルチの経営哲学を勉強したかった。そして実際、ここでの経験はその後の私に大きく役立っています。これも「Expand my horizon」でした。

GEの哲学のすごいところは、きわめて実践的で実行が必ず伴うところです。シックスシグマやワークアウトなどが数十万人の末端にまで浸透し、あの規模で業容を拡大し続けました。だからこそジャックは20世紀最高の経営者と評価されるのです。

ジャックにも何度か会いました。彼が来日した時、私は末席で行動を共にさせてもらいました。1年後、ジャックが再来日した時に、たまたまホテルですれ違いました。私は、どうせ覚えていないだろうと思って、会釈して通り過ぎようとしたのですが、いきなりジャックが、「ハイ、ヤスダサン」と声をかけてきた。この時は、もうこの人に命を預けようという気持ちになりました(笑)。

GEに入ってもう1つよかったことは、買収側として主体的買収を決定する側(それに対してピナクルなどアドバイス会社は仲介役)の経験ができたことです。その頃のGEは日本企業をどんどん買っていましたから、その時期に遭遇できてやりがいはありましたね。

〔レイクや東邦生命、日本リースはいずれも90年代後半にGEが買収した日本の金融機関である。そのすべてに安田氏が関与したわけではないというが、当時のGEは日本でも最も進出に成功した企業としての評価を受けている〕

なぜ、GEが日本で成功を収めることができたのか。それを米国商工会議所で話せというのでスピーチをしたのですが、ここには100社を超える米国企業の日本支社長が集まっていた。そうしたら何社からかお前を雇いたいと、アプローチがありました。

私はGEでの仕事に満足していましたから、すべて断わったのですが、諦めずに何度もアプローチしてきた会社が1社だけありました。当初は投資銀行本部長というポジションにスカウトしたいとのことでしたが、最後には投資銀行本部長兼務の社長としてきてくれないかと言ってきた。その瞬間、私は落ちました(笑)。やはり一度は社長をやってみたかった。その会社がリーマン・ブラザーズです。

世界一の倒産会社

〔リーマン入社は99年。安田氏は日本代表の座に2年ほど在籍したが、その後の2008年、リーマンは経営破綻、リーマン・ショックが起き、世界経済が大混乱に陥ったのはご承知のとおり〕

安田社長の座右の銘は「Expand your horizon」。

講演を頼まれると、こう始めることが多いんですよ。「みなさんは不吉な人間に会っている。目の前にいるのは、日本最大の倒産会社(長銀)と、世界最大の倒産会社(リーマン)にいた人間です。ただしその間に、20世紀最良の会社(GE)にいたから中和されていると思います」と。

リーマンの経営破綻はショックでした。おそらくリーマン社員も含めて誰ひとりとして、前日までつぶれるとは思っていなかったと思います。本当にボタンの掛け違いのようなことが起こり、一瞬にして破綻してしまった。結局、リーマン破綻のインパクトが大きすぎて、AIUなどそれに続く金融機関が救われることになったのです。

長銀だって、日本版ビッグバンの、シンボリックでインパクトのある出来事として選ばれてしまったと思っています。

リーマンと長銀は割の合わない理不尽な結果になったと思います。でも、こうした経験も、私にとってマイナスにはなっていないと考えるようにしています。そうした経験が必ずプラスになる。これも「Expand my horizon」だと考えています。

〔安田氏は、04年にピナクルを設立し、自らの手でM&Aアドバイス業務に乗り出したが、創業時ならではの苦労もあったという〕

リーマンを辞めた後は、50歳までに独立しよう、さらには社会のためになることをしようと以前から考えていたことを実践するために動き始めました。

ピナクルの初年度の売り上げは、リーマン時代の私の個人の年収より低かった。私の初年度年収は300万円で、社員の給料より少なかった。それでも楽しかった。海外に行く時、リーマン時代はファーストクラスに乗っていたけれど、その頃はエコノミー。でもそういう意識の中でのスケールダウンは簡単にできました。オフィスの備品も、私自身がネットオークションで落札しています。でも2年目からは軌道に乗り、最初4人だった社員は、現在20人にまで増え、設立当初のオフィスが手狭になりいまの場所に移転しました。

「急がば回れ」

〔M&Aの仲介は、多くの金融機関が手がけている。その中でピナクルは、どうやって業容を伸ばしてきたのだろうか〕

日本の大手証券や銀行、外資と勝負する必要はありません。医療機関と同じで、大病院でないクリニックでも名医を集めれば患者が来るのに似ています。ピナクルはそれなりに存在感を示すことができていると思います。

その理由の1つに、「急がば回れ」という当社の方針があると思います。M&Aの仲介というと、多くの人はマッチングサービスだと考えます。片方に売り物があって、片方に買いたい会社がある。それを結びつけてフィーをいただく。でも私は、少し違うアプローチをします。

M&Aは、どんな大会社でもビッグイベントです。デシジョンメーカーにしかできない重大決定事項です。多くはボトムアップではなく、トップダウンで決まります。そこで、私は企業のトップに会う努力をします。そしてトップと会う時は、その会社の経営戦略室長になったつもりでいろいろと差し障りのあることまで進言します。トップの方々は度量が大きいので、多少耳障りなことまで面白がって聞いてくれます。面白いことを言う奴だと思ってもらえば、次にまた会いたいと思っていただけます。

その提案が実らなくても、何かの時に私を思い出してくれるかもしれない。この案件を任せてみようかと思うかもしれない。企業のデシジョンメーカーとそういう関係を築くことが肝心です。そうなれば、ちょっとした立ち話から物事が動き始めることもある。M&A案件を持って、これを買いませんか、あれを買いませんかと言っているだけでは、そういう関係を築くことはできません。

よく若い社員から、この仕事のどこが面白いのかと聞かれることがあります。「アドバイザーだと自分で決められないから、顧客である企業側に転職して自らM&Aを決定したほうがやりがいがありませんか?」と問われることがよくあります。そういう時に私は、こう答えることにしています。

「我々は、日本を動かしている人たちを動かしているんだ」

実際、日本経済を牽引しているようなリーダーたちに多数お目にかかります。こうしたトップリーダーたちと公私にわたって触れ合うことがどれだけ楽しくて、自分の為になるか分かりません。こういうリーダーたちは間違いなく魅力的で私のホライゾンを広げてくれます。これがM&Aを業とするものの生きがいです。

どんな会社にとってもM&Aはスペシャルイベントです。そんな大事なことを、日本を代表する経営者が、私に相談してくれるとしたら、これほど男冥利につきる話はありません。偶然の結果ですが私の天職だと思っています。

(構成=本誌編集長・関慎夫)

経営ノート | 社長・経営者・起業家の経営課題解決メディア

WizBiz代表・新谷哲の著書「社長の孤独力」(日本経済新聞出版社)

WizBiz代表・新谷哲の著書「社長の孤独力」(日本経済新聞出版社)

 

0円(無料)でビジネスマッチングができる!|WizBiz

WizBizセミナー/イベント情報

経営者占い