製造業、サービスを問わず、企業には「◯△の生みの親」、「△◯の達人」と呼ばれる人がいる。
そうした、いわば「匠の技」の数々がこれまで日本経済の強さを支えてきたのだ。日本の競争力低下とともに、そこがいま揺らいでいるという指摘が多いからこそ、各界の匠にスポットを当ててみたいー。
2012年11月号より
応接室のないオフィス
東京・港区、東京メトロ虎ノ門駅から桜田通りを神谷町駅に向かって歩いて5分ほどすると左手に見えてくるのが、日総第23ビル。地上11階建てのよくある中規模オフィスビルなのだが、このビルが、この6月にリニューアルして以来、さまざまなメディアで取り上げられるなど、不動産業界で話題を集めているという。
このビルの1階は、3分の1が飲食ができるスペース(カフェテリアスペース)になっており、もう3分の1がミーティングができるスペース(ミーティングエリア)、そして残り3分の1にはソファを置き、ゆったりとした雰囲気でコミュニケーションが図れるスペース(ブレイクエリア)になっている。このスペースを、このビルの入居者は使うことができる。
その代わり、2階以上に入っている各オフィスには、原則として応接スペースなどがない。つまり、オフィスはデスクワークを行うことに特化し、接客や打ち合わせなどは1階の共用部分で行うという思想でこのオフィスビルは出来ており、「エキスパートオフィス」という名称がつけられている。
このビルを企画したのが、今回の「匠」である、日総ビルディング常務の大西隆之氏(33)だ。
日総ビルディングは1973年にビル・倉庫事業を目的に横浜で創業した。バブル崩壊後は苦労もしたが、なんとか立ち直り、現在では東京・横浜を中心に約20棟のオフィスビルの開発・運営を行っている。
大西常務の父は、日総ビルディング社長の大西紀男氏。大西常務は慶応大学経済学部を卒業後、三井不動産販売を経て2003年に入社した。
大西常務がエキスパートオフィスを企画したのには2つの理由がある。
1つは入居者側からのニーズである。このビルの入居者は、当初から弁護士や公認会計士などの士業(さむらいぎょう)など、少数精鋭の知的生産性の高い企業を想定していた。
「このような企業がオフィスを探そうとするとなかなか制約が多いんです。セキュリティがしっかりしたビルに入居しようとしても、ほとんどの場合、2、3人の社員で使うには広すぎる。しかも家賃は下手をすると100万円以上かかってしまう。これでは経済合理性に欠けてしまいます。かといって小さなオフィスを探そうとすると、雑居のペンシルビルになってしまう。これだとセキュリティも含めビルのクォリティが低くなってしまう」
一方、貸し手の側にも大きな問題があった。
「リーマン・ショック後、都心のオフィス賃料は下がり続けています。最近は、下げ止まってきたと報じられたりしますが、それは一部にとどまります」
オフィスビルには、S、A、B、Cの区分があるという。Sは、丸ビルなど、1等地にある大型オフィスビルで賃料も高い。Aは、Sに準ずる大型オフィスビルで、賃料もSに次ぐ。Bは、日総ビルディングなどが手がける中型オフィスビルで、Cはペンシルビルなどの小型ビルを指す。
このうち賃料が下げ止まったのはS、Aクラスのみで、B、Cはいまでも下がり続けているのだという。
「いくら質のいいオフィスビルでも、それが価格に反映されないのが現状です。結局、価格だけが競争条件になってしまっています。でもこれでは消耗戦に陥るだけです。もう一度、オフィスビルの価値を再確認する必要がある。そのためには、これまでメインの入居者だった上場企業などの大企業や中規模事業者ではなく、少数精鋭の企業にターゲットを絞り、彼らの発展に力を貸せるオフィスビルを目指しました。それがエキスパートオフィスです」
坪単価は周辺の2倍
冒頭に記したように、エキスパートオフィスはそれぞれのオフィスに応接室など、利用頻度の低いスペースを持たない。そのため借りる面積を相当に小さくすることができる。また、執務空間に特化したオフィスのため、入居時の工事費用もほとんどかからない。また一般的に賃料の10~12カ月分必要な保証金(敷金)も4カ月分に抑えている。
「ですから、入居にあたってのイニシャルコストは、従来のオフィスよりも6割から7割安くなっています。また家賃に当たる月々の会費には電気料金やプロバイダ料金も含まれていますが、それを含めると従来オフィスより3割ほど安い。それでいてセキュリティも万全ですし、1階の共用スペースには無線LAN環境が整っています」
こう書くと、ビル側はどうやって儲けるのか不思議に思うかもしれない。しかし坪単価で考えると、このエキスパートオフィスは1坪3万円近い。周辺の中規模オフィスビルに比べると2倍近くになっている。そのため、1階に共用スペースを置いたことを差し引いても、従来のオフィスビルよりはるかに高い収益を上げることができる。
しかも入居者からは「出社するのが楽しくなった」という声が寄せられるほど満足してもらっているという。特に1階の共用スペースに対する評価が高いそうだ。
前述のように、基本的に入居者は、接客や会議を1階で行う。それだけに、このスペースをいかに居心地良くするかに、大西常務は工夫を凝らした。
「テーブルについて会議をするだけでなく、ソファーでくつろぐこともできるようになっています。これは、私の実体験に基づいています。アメリカに滞在した時のことですが、ホテルのミーティングルームで会議をしていたものの、煮詰まってしまった。そこでいったん場所を変えコーヒーブレークにしたところ、お互いの距離が一気に縮まりました。ビジネスというのは人対人です。いかに信頼関係を築くかが重要です。そのためには、ちょっとリラックスできる時間と空間があったほうがいい。そこで、エキスパートオフィスにブレークエリアをつくったのです」
また、この共用スペースで知的生産性の高い入居者同士が交流することで、新たなる発想が生まれることも期待できる。
日総ビルディングでは、この虎ノ門を皮切りに、都内で何ヵ所か、エキスパートオフィスを誕生させる方針だ。
長引くオフィスビル不況の中、新しい発想で、ビル側と入居者のウィン-ウィンの関係を築こうという試みが始まった。